神のしもべとともにある神のご臨在


ベック兄

(テープ聞き取り、わがしもべモーセシリーズ)

今日も、モーセの生涯について一緒に考えてみたいと思います。神のしもべとともにある、神のご臨在というテーマでお話致したいと思います。
ちょっと三箇所お読み致したいと思います。

コリント人への手紙第II、2:15-16
15私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
16ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。

ここでパウロは、私たちはキリストのかおりなのですと証ししています。これこそが、キリスト者の責任であり、また使命であり、また特権であります。
けども、この使命について考えると、パウロはこの16節の後半に、このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょうかと叫んだのであります。それから同じく、

コリント人への手紙第II、3:5
5何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。

私たち自身ではない、神ですと、パウロはここではっきりと言っています。それから、

コリント人への手紙第II、4:7
7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは器にすぎないのであると、パウロはここで告白しています。それから、

出エジプト記3:10-12
10今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
11モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
12神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

パウロは、このような務めにふさわしい者はいったいだれでしょうと言い、またモーセは、私はいったい何者なのでしょうと叫んだのであります。
この叫びに対する神の備え、神の答えは、わたしはあなたとともにいるという約束です。したがって今日は、おもに、出エジプト記第4章1節から9節までを見ながら、「神のしもべとともにある神のご臨在」について一緒に考えてみたいと思います。

この学びの初めから言いましたように、モーセは主イエス様の雛形です。モーセが、イスラエルの民を死の苦しみのエジプトから導き出し、蜜と乳のしたるカナンの地に導き入れたと同じように、イエス様は私たちをサタンの支配の中から救い出し、ご自分の御国へ引き上げてくださいました。

コロサイ人への手紙1:13
13神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と、書き記されています。キリスト者の経験はこれであります。すなわち、神は私を暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださったと。
今の時代に、主イエス様が心に願っておられるのは、あらゆる国、民の中からご自分につく民を選び出し、キリストの満たしにまでそれらの人々が成長することです。
主なる神はモーセに、「わたしは必ずあなたとともにいる。」と約束してくださいました。また神はモーセに、「見よ。わたしはあなたをパロに対して神のごとき者とする。」と言われたのであります。

主なる神は、親しくモーセに臨在なさいました。モーセがパロに会うとき、パロはモーセのうちに全能なる神を見ないではおれないくらいに、親しくご臨在なさいました。
しかし神は、どうしてそんなに親しく、モーセに結び付かれたのでありましょうか。それはモーセが、神の御心の真中を歩んだからです。私たちもモーセと同じように神の約束を信じ、従うなら、神は私たちに対して私たちに親しくご臨在してくださいます。
主なる神が、ご自分の御心を私たちに示してくださり、私たちがその御心に沿って歩むなら、私たちもモーセと同じように主なる神を体験することができるはずです。

モーセは、主の御心だけを行なっていきましたから、モーセのする責任は全部、主なる神ご自身が取ってくださいました。主はいったいなぜモーセに、「わたしは必ずあなたとともにいる。」と約束されたのでありましょうか。
それは、モーセはおのれを主にまったくささげ、ただ主なる神の御心だけを行なおうと務めたからです。

前に学びましたが、主がモーセとまったく一つになる前に、モーセはまず空の器となり、裸とならなければなりませんでした。モーセの生活の中には、自分を思う心、自らの力に頼る傾向が非常にたくさんありました。しかし主は、このモーセを導き、モーセは、自分はダメな人間であるということを知るときがやって来ました。
虚しくなったモーセはあるとき、全能なる神、よみがえりの神、聖めの神に出会い、一つになり、前とはまったく変わって、権威ある者と変えられたのです。

モーセが救い出され、選ばれたのは、自分の力ではない。全能なる神のなし給もうた業であることを、モーセ自身よく知っていましたが、準備を固めて、これからパロの所へ行こうとするとき、喋ることの上手くないモーセに、すべての準備を整えさせてくださったのも、全能なる神のなし給もうた業にほかならないことを、モーセは心の深くに感じていました。
モーセがイスラエルの民を救い出すために、神から色々な準備を与えられました。これはまったく、神から与えられたものでした。
エジプトの王子として、モーセはあらゆる学問を積み、言葉にも業にも力がありましたが、この世の教育、自らの力は、何の役にも立ちません。ただ一つなのは、上からの権威と力だったんです。

モーセが、不安に思ったことが三つありました。その一つは、私には名前がありません、肩書きがありません、私には権威がありません、地位がありませんと、自分に何も力の無いことを不安に思っていました。
出エジプト記3章の11節には、モーセは主に、私はいったい何者でしょう。私がパロの所へ行って、イスラエルの人たちをエジプトから導き出すのでしょうかと、モーセは自分の不安を主に訴えました。

二番目に、モーセが不安に思ったことは、イスラエルの民が、モーセを解放者として認めないのではないかということです。

出エジプト記4:1
1モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」

このようにモーセは主に、自分の不安を打ち明けています。
三番目に、モーセが不安に思ったことは、自分が喋れないということです。モーセはミデアンの地で過ごした四十年の間、自分の国の言葉をあまり話しませんでした。言葉も忘れてしまっていたことでしょう。

出エジプト記4:10、
10モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

と、自分の不安を主に訴えています。
主なる神がモーセに、「エジプトの王パロの所に行き、イスラエルの民を解放しなさい。」と、モーセにお語りになったのに、モーセは、「主よ。それは何かの間違いではないでしょうか。見当違いです。私には何の力も能力もありません。私にはできません。」と尻込みしています。
私たちも、同じような経験を持ってると思うんですね。心の中に二つの思いがいつも相逆らって動いています。一面では、私はこの仕事とこの仕事をする器ではない。私はできないという気持ちがあり、もう一面では、主が与えてくださったしなければならない仕事だ。これは自分の責任だと思う心があります。

このように、主なる神が導いてくださってるのは感謝です。しかしこれとは反対に、自分はできる、主のご奉仕をするに足りる器だと自ら高ぶる者は、それはわざわいです。
その人の心には、謙遜がなく、神の前に砕けて、神を礼拝する心が決して湧いてこないから、わざわいです。
しかしモーセは、あんなにエジプトの学問を積んだすばらしい教養のある人ではなかったでしょうか。あるいはパウロは、ガマリエルの門下で学び、当時のユダヤの国では、最高の学問を積んだ学者だったではないかと言う人がいるかもしれません。

しかし、パウロ自身に聞いてみましょう。このような務めにふさわしい者はいったいだれでしょうと、パウロはコリント人への手紙第II、2章の16節の後半に言っています。
このような務めにふさわしい者はいったいだれでしょう。パウロは自分自身のうちに何も力の無いことをよく知っていました。

コリント人への手紙第II、3:5
5何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。

とあります。
私たちは、自らのうちには何の力もありません。もし私たちの心の目が開かれて、主なる神に対するご奉仕がどんなものであることか分かったならば、私たちの持ってるどんなすばらしい力でも、それが自ら出る力なら、ご奉仕には何の役にも立たないことが分かるはずです。

私たちはいったいどうしたら、神のしもべになることができるのでありましょうか。苦しみや失敗を通して自分がいかに力なき者であるか、深く認めることによって初めて、神のしもべとなることができるのです。
そのように打ち砕かれたときに、神が、欠けだらけの、失敗だらけの器を通して、ご自分の働きをなさるのです。
主なる神は、モーセに逆に尋ねておられます。

出エジプト記4:11
11主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。

と。主は、私たちがどのようにして造られているか、私たちが何者であるか一番よくご存知です。主は私たちをご自分の御心のままにお造りになります。私たちが自分ですることなく、神が私たちのうちに、また私たちを通してことをなさることにより、すべての栄光がご自身に帰せられるように、神はなさいます。
主なる神は、見栄えのない荒野の柴を取り出し、それに神の火を点けます。パウロも言ってます。私たちはこの宝を、土の器の中に持ってる。その測り知れない力は神のものであって、私たちから出たものでないことが表われるためであるとパウロは、自分はただ器にすぎない、神は私たちを通して外に現われるその器にすぎない。と告白しています。

私たちも、モーセやパウロと同じように、主の導きのままに歩む用意があるのでありましょうか。
私たちの肉は、自ら虚しくすることを喜びません。私たちが打ちのめされ、失望したときに、最も近く主はご臨在し、私たちが虚しくなったときに、自分で働くことを止めたとき、初めて主がお働きになり、空っぽになったとき初めて、主の栄光が私たちを通して現われるということを信じたがりません。
「わたしは必ずあなたとともにいる。」、これは主なる神ご自身がモーセに与え給もうた約束です。

モーセが行き詰まったとき、主は現われました。しかし、モーセが自分はできると思っていたとき、神は何もなさいませんでした。モーセが虚しくなっていたとき、いつも主のご臨在がささやかに示されました。
だれが人に口を授けたのか。主なるわたしではないか。わたしはいつも変わりなく、造り主である。わたしはおまえに口を、わたしの思うままに使うのだと、神は仰せになっています。

エレミヤも神に言ってます。「ああ、主なる神よ。私はただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません。」と。
これに対して主は、エレミヤの口に手を伸べ、「見よ。わたしのことばをあなたの口に入れた。」と言われました。
私の性格はこうだから、このご奉仕には向かない。私はそのために造られていないなどという言い訳は、神の前には通用しません。主は、私たちがもともと、どのような材料で造られてるか、よくご存知です。私たちはいつ、いかなる場合にも、身をもって主の栄光を現わすように造られてるのです。
「わたしは必ずあなたとともにいる。」、これは主の約束です。

ところで、主なる神はいったいどのようにして、モーセと一緒におられたのでありましょうか。
この質問について今から、ゆっくり考えてみたいと思うのであります。三つのことをはっきり言うことができると思います。
  • 第一番目は、主なる神は、悪魔に対する武器として臨在してくださいました。出エジプト記4章1節から5節までに、この事実について書き記されています。
  • 第二番目には、主なる神は、罪を防ぐ武器として臨在してくださいました。同じく4章の6節と7節に書き記されているのであります。
  • それから第三番目には、主なる神は、この世に立ち向かう武器として臨在してくださったのであります。4章の8節と9節ですね。
「モーセよ。あなたの手にあるそれは何か。」、「杖です。」、「それを地に投げなさい。」、モーセが神の言われたように杖を地に投げると、その杖は、毒蛇となりましたので、モーセはその前から身を避けたとあります。
モーセはそれから、その蛇の尾をつかみますと、それはまた神の杖に変わりました。この神の杖により、神はモーセを通してエジプト人にさばきを与えました。
この杖により、紅海の水は真っ二つに割れました。この杖によりイスラエルの民は、アモリ人を打ち破ることができました。

出エジプト記4:5
5「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」

このようにして主は、モーセに臨在を現しました。しかし、これらはいったい何を意味してるのでありましょうか。
モーセの前に現われた毒蛇には、どういう意味があるのでしょうか。モーセは、蛇を見たときに、その前から身を避けました。蛇は私たちにとっては、反対するもの、敵、苦しみ、わざわい、迫害などを意味してます。
これらのものが襲ってくるとき、私たちもモーセと同じように、その前から身を避けるのは当たり前です。しかし、モーセは蛇の尾をつかんだとき、それは再び神の杖となりました。

「わたしは必ずあなたとともにいる。」、この神の臨在は、わざわいを幸いに変えます。悪魔がどんなに私たちを攻めても、苦しめても、それも神の御手のうちにあり、ご計画のうちにあるのです。悪魔は神の道具にすぎません。
モーセに神が臨在してくださるなら、悪魔が私たちを滅ぼそうとして設けた罠も、神のご計画を助ける道具となるのです。
パウロの場合も同じことが起こりました。パウロは、悪魔の働きにより、捕われの身となりましたが、パウロが捕われたことにより、福音は著しく前進しました。

ピリピ人への手紙1:12-14
12さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
13私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、
14また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。

と。

(テープ A面 → B面)

悪魔はあらゆる手段をもって、パウロを攻撃しましたが、主のご臨在が絶えずパウロの上にありましたので、サタンの愛の迫害、苦しみ、誤解、それらはみな福音の前進に役に立つだけでした。決してパウロを痛めつけることにはなりませんでした。

「わたしは必ずあなたとともにいる。」という、モーセに対する主なる神の臨在の約束は、実際的には、悪魔の全力に対抗しうる力をもっているという約束にほかなりません。パウロの場合も同じでした。私たちも場合も同じです。
もし主なる神が、実際に私たちに臨在していてくださるなら、私たちは神の御心を知り、神にすべてをささげ、知ってるはずです。
悪魔は、毒蛇のように荒れ狂っています。しかし主の臨在を身に覚えるならば、私たちは毒蛇の尾をつかんでおり、この毒蛇は、神のご計画を成就する道具にすぎないということを知るはずです。

どこに行ってもサタンは生きており、勝ちを占めるかのように思えます。しかし、私たちはこのサタンに対し、いかなる態度を取るのでありましょうか。不安になって、焦るでしょうか。それとも、一番高いところに主なる神のご支配があり、悪魔の働きも、神のご計画の中に入ってることを悟るのでありましょうか。
もし私たちが、主のご臨在を信じてるなら、悪魔の働きは主の計画を実現する手立てにすぎないことを知ります。
ローマ人への手紙8章28節に、同じ真理が書かれています。すなわち、

ローマ人への手紙8:28
28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

と。もし私たち、ひとり子なる主イエス様に、いいなずけされた花嫁である神の教会を心の目で見るならば、いかなる悪魔の働きも、それは神のご計画を成就するひとつの役割を演じてるにすぎないことがよく分かるはずです。
すべてのことが相働いて、益となることを知るに至ります。
毒蛇は神の杖となり、神のご計画を実現する道具となりました。このようにして、主はモーセを臨在をもって助けました。
私たちにも、神がヨシュアに言われた次の言葉が当てはまります。

ヨシュア記1:5
5わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを離さず、あなたを見捨てない。
モーセとともに歩み給もうた主なる神は、その同じ神は、私たちとともに歩んでくださると言われるのです。それを信じ、感謝致しましょう。
もし、信ずるならば、神の栄光を見るであろうとあります。主なる神の臨在を信じ、感謝致しましょう。

「わたしは必ずあなたとともにいる。」、これは主の約束です。しかし、主なる神はいったいどのようにしてモーセと一緒におられたのでありましょうか。今までに一番目として、主なる神は悪魔に対する武器としてモーセを臨在で包んでおられたと一緒に学んだのであります。

第二番目の点は、主なる神は、罪を防ぐ武器として臨在してくださるのである、ということについて6、出エジプト記4章6節と7節から一緒に考えて見たいと思います。
主は、罪を防ぐ武器として臨在してくださいます。主なる神はモーセに、あなたの手をふところに入れなさいと言われました。彼が手をふところに入れると、どうでしょう。手はらい病にかかって雪のように白くなってしまいました。
らい病は、恐ろしい病気です。だれも不安と恐れを感じます。聖書を読んでいきますと、らい病は呪いとされています。らい病人はいつも、ほかの人と別ものにされています。町を通るときには、「私はけがれてる。けがれてる。」と叫んで歩かなければなりませんでした。らい病は聖書によれば、罪を象徴しています。

罪はらい病と同じように、人を孤独にし、けがれさせ、呪いのもとに引き入れてしまいます。らい病は、人の心の罪とけがれを象徴しています。またらい病は、不治の病とされていますし、どうしても癒やすことのできない哀れな人の心を象徴しています。
次に主は、再びモーセに、手をふところに戻しなさいと言われました。モーセは手をふところに戻し、それを出してみると、元通りになって、もとの肉のようになっていたと、聖書に書いてあります。これは、いったい何を意味してるのでありましょうか。

手は、奉仕を象徴しています。神はこのことがらを通し、モーセに、おまえの生まれながらの性質は、神のご奉仕に何の役にも立たないと、教えたのです。
らい病は、罪と咎によって死んでしまってる、古き人を表わしています。らい病人は、親戚や肉親や友だちにとっては、いないも同然です。らい病人は、死人と同じ扱いを受けていました。
モーセはこの経験により、自分はまったく何もできない無能力な者である。しかしこの無能力な者に、神が臨在してくださるとき、この者を通して主は、すべてのことをなし給もうということを深く悟ったに違いありません。

主なる神の臨在により、サタンの力はどこへか追いやられ、罪の力は断ち切られました。
私たちは、罪をもっては神に仕えることはできない。自分の力をもってしては、満足なご奉仕ができないことをよく知っています。しかし、もし神が臨在してくださるなら、私たちの欠点は、拭い去られる。ということも知ってるでしょうか。

私たちは本質的にけがれた罪人です。罪によってらい病人のようにけがれています。しかし主なる神は、このようにけがれた者に、新しい立場を与えてくださいました。
もしこの立場に堅く立つなら、神は私たちを通して、お働きになることができます。もしこれをはっきりさせていないと、心の中は混乱してしまいます。

私たちは神の臨在に出会い、罪赦され、神の子とされました。しかし救われるときだけではない。続いて主のためにご奉仕するときも、この神のご臨在はどうしても必要です。
悪魔は、私たちを神の臨在から離そうと試みます。私たちの目を自分の心に向けさせて言います。「おまえはダメな者だ。罪を犯し、失敗だらけだ。おまえの心、見てみろ。そこから出てくる思いは何か。」、そのように言って、私たちを失望させます。
こうやって悪魔は、私たちの喜びと権威を奪い取ってしまいます。そして、悪魔の支配する罪の世界から人々を神の国に導き出し、キリストの満たしに至らせるという、私たちの使命をぼやかしてしまいます。

パウロは、これらの悪魔の策略に堅く立ち向かった人です。もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵視しようかと叫んでいます。
主なる神はモーセにも、「わたしは必ずあなたとともにいる。」と、臨在を約束され、悪魔に勝たしめ給いました。しかしモーセに臨在した神は、どのようにして私たちに臨在しておられるのでありましょうか。
御子イエス・キリストにより、主なる神は、私たちに臨在しておられます。主なる神ご自身が臨在してくださるなら、私たちは、罪のために訴えられることはもはやありません。

もし神が臨在してくださるなら、万能の天の軍勢とともに臨在してくださいます。ですから生まれつきの小さな人間の力などは、まったく問題でなくなります。
モーセは神を信じ、臨在を認めました。ですから数々の奇蹟を経験することができたのです。主は、私たちとともにおられます。主イエス様の別の名は、インマヌエルという名前です。これは、「神われらとともにいます。」という意味です。臨在の主イエス様は、私たちのあらゆる罪を、また問題を解決してくださいます。

また、生まれながらの性質も、臨在をもっておおわれるとき、神のかおりに包まれてしまうのです。神の臨在は私たちの喜びです。また臨在を保ち続け、神の栄光を現わし続けていくことは、私たちの責任でもあるのです。
「わたしは必ずあなたとともにいる。」、これは主の約束です。

ところで、主なる神はいったいどのようにして、モーセと一緒におられたのでありましょうか。今まで学びましたが、すなわち第一番目は、主なる神は、悪魔に対する武器としてモーセを臨在で包んでおられたのです。
第二番目には、主なる神は、罪を防ぐ武器として臨在してくださったのであります。
そして第三番目、最後になりますけれども、主なる神は、この世に立ち向かう武器として臨在してくださったのであります。

神の臨在により悪魔の権威は、剥奪されます。神の臨在により、罪は断ち切られます。また神の臨在は、この世に勝たしめる力です。
この世は確かに大きな力をもっています。ヨハネの手紙第Iの5章19節に、全世界は悪い者の支配下にあることを知っていますとあります。この世の君である悪魔は、この世を通して働いています。この世は神の目的を妨げる手立てです。

パウロは、「私はこの世に対して、十字架につけられた。この世は私に対して死んだものである。」と言ってます。パウロが言ったこの世とはいったい何でしょうか。
それは自分の名前、名誉、地位などです。もしこのようなものに追い回され、導かれているなら、神の目的を達成することはできず、この世に打ち勝つ力も決して湧いてきません。

モーセは神に従い、ナイル川の水を取って、地に注ぎますと、それは血潮に変わりました。これはこの世に対するさばきを意味しています。
モーセは、この世に勝つ力を知っていました。血潮こそ、この世に勝たしめる勝利の力であることを知っていました。
私たちのうちになされていく神の御心は大切です。私たちが主のために何をなすかではなく、主が私たちのうちに何をなし給もうかが問題です。

主なる神の奉仕には、しもべが必要です。モーセに言われたように、神が私たちにも、「わがしもべ。」と呼びかけてくださるならば、本当に幸いです。このためには荒野で苦しみ、悩み、空っぽにならなければいけません。
心のエジプトは、どこへ行かなくなり、神が私たちと親しい交わりをもてるように整えなければなりません。モーセの使命は、イスラエルの民をエジプトから導き出すことだけではありませんでした。
導き出した民を引き連れて、荒野の中を前進するのも、モーセの使命でした。私たちも、人々が信者になるだけで満足せず、それらの人々が成長することを、祈り求めなければならないと思います。

エペソ人への手紙4:12-14
12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
13ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
14それは、私たちがもはや、子どもではなくて、

云々と書いてあります。これを読みますと、神の御心が明らかに示されています。
この神のご目的が、私たちの目指すところとならなければなりません。もしこれに気付くならば、教会が何であるかも分かるでしょう。
しかしもしそうなると、それまでにないほど、悪魔の攻撃を身近に感ずることになります。しかし神のご臨在は、悪魔に立ち向かう武器です。ご臨在は、悪魔の権威を滅ぼします。ご臨在は、罪の力を砕きます。

ご臨在によって、この世は十字架につけられます。「わたしは必ずあなたとともにいる。」と、主はモーセに約束されました。
どのようなとき、主なる神は私たちとともにおられるのでありましょうか。私たちが神のご目的に目を留め、神の栄光のために尽くすとき、モーセと同じように、「わたしは必ずあなたとともにいる。」という神のみことばが、自分のものとなるのであります。
主イエス様はかつて、わたしはわたしの教会を建てようと言われましたが、このイエス様のご目的を目の前に見てるのでありましょうか。

もし私たちがモーセと同じく、主のご臨在を自分のものとしたいならば、このことがどうしても必要です。そしてもし、主なる神が私たちに臨在してくださるならば、私たちに敵しうる者は、一人もいなくなります。サタンも罪もこの世も、私たちにふるうことができません。
モーセは、主にまったく自らをゆだねましたので、神はモーセに、「わたしは必ずあなたとともにいる。」と約束されました。

イスラエル人はしばしば、エジプトに帰ろうとしましたが、モーセは決してエジプトへ帰ろうなどとは思いませんでした。モーセは一週間たりとも、この世に帰ろうなどとは思いませんでした。
モーセは神にまったくささげました。ですから、主なる神はモーセを「わがしもべモーセ」と呼ばれたのです。モーセは神にまったくささげましたので、神はモーセに親しく臨在されました。

主は今日も私たち一人一人に呼びかけておられます。

ヨシュア記1:5-6
5わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
6強くあれ。雄々しくあれ。

この約束をしっかりと握り、信仰をもって信仰生活をさらに前進しましょう。
もう一箇所、読みましょうか。

ヘブル人への手紙13:5-6
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

主ご自身がこう言われます。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
何というすばらしい約束でありましょうか。主ご自身が私たちの助け手です。




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