初めに二箇所、お読み致したいと思います。 出エジプト記32:32
というふうに、モーセはイスラエルの民のために祈ったのであります。次の箇所は、 ローマ人への手紙9:3
というふうに、パウロはイスラエルの民のために祈りました。今日は、「ご奉仕の精神」というテーマについて一緒に考えてみたいと思います。 先ほど読みましたみことばを通して、モーセとパウロがどのような精神でご奉仕していたかがよく分かります。モーセとパウロは、おのおのの旧約と新約時代を代表する偉大な信仰の人でした。 ですから、この二人がご奉仕に対してどんな態度を取っていたか学んでみることは、非常に興味深いことであり、また意味深いことであると思います。 私たちは、ひとり残らず主なる神に仕え、神に用いられたいと願ってるのではないでしょうか。ですから、正しいご奉仕の精神を、心の目を開き、知ることが必要だと思います。 先ほど読みましたみことばは、モーセとパウロの言葉ですが、二つとも聖書では祈りの言葉となっています。この言葉を通し主の御心にかなったご奉仕の精神がどんなものであるか知ることができます。 このみことばを読んでいきますと、直感的にピンとくることは、モーセもパウロもまったく自分に死にきっているということです。モーセは、同胞のためなら、いのちの書から私の名が消されても構わないと祈っています。 パウロは、あなたがたのためなら、自分はのろわれても構わないと祈っています。この二人のように、おのれに死にきった人が、ほかにいるのでありましょうか。 この二人の神のしもべは、まったく自分を忘れていました。自分の目的も、自分の願いも、自分の利益も全然、頭の中にありませんでした。神に選ばれた信者、すなわちまことの教会が、モーセとパウロのすべてだったのであります。 自分の祝福、自分の義、自分の誉れ、それらは全然二人にとっては問題ではなかったんです。別の言葉で言いますならば、主の教会は、主にある兄弟姉妹は、モーセとパウロのいのちであり、すべてであったのであります。 この二人は、自分の持ち物、自分の時、力、いのちは、神の教会のためにあるのだ、主にある兄弟姉妹のためにあるのだと、堅く信じていました。 もし信ずる兄弟姉妹が、霊的に成長せず、悩みをもちながら、その前に立ち、戦って、とりなし、守ることができないなら、自分の生き甲斐はないと、この神のしもべ、モーセとパウロは信じていたのであります。 これこそ、まことの神のしもべの心のあり方であり、また、主が私たちに与え給もうとしておられるご奉仕の精神です。今から、四つの点について簡単に考えてみたいと思います。
出エジプト記32:32
ローマ人への手紙9:3
初めに読みました二箇所を見ても、はっきり分かりますね。この、モーセとパウロの祈りを読みますと、二人には色々な点で共通しているところがあります。 二人が祈りに導かれた原因は、信者の罪でした。イスラエルの民、神の選民は、エジプトの国から救い出されました。これはもちろん、旧約聖書では神に選ばれて罪赦され、救いの確信をいただいた主イエス様を信ずる信者を表わしています。 主なる神のあわれみにより、エジプトから救い出されたイスラエルの民は、神の恵みをまもなく忘れてしまい、モーセが、シナイの山に入ってる間に、とんでもないことをしてしまいました。 モーセの来るのが遅いと言って、荒野の導きにより、金で子牛の偶像を作り、これは私たちをエジプトの国から導き登った神であると言って、子牛を礼拝するといったことをしました。 モーセは罪を犯したこの民のために祈っています。 出エジプト記32:31-32
と祈っています。 ローマ人への手紙9章を読みますと、同じようなことが書かれています。イスラエルの民は、神から離れ、神に背き、ついに神のひとり子であられる主イエス様を十字架につけてしまい、大きな罪を犯してしまいました。 この恐るべき罪を犯した民のために、パウロは祈っています。すなわち ローマ人への手紙9:2-3
とパウロは祈っています。 この祈りを読んでいきますと、モーセとパウロは、愛するに価する者のためにとりなしてはいません。悪魔との結び付き、罪を犯して、愛そうにも愛することのできないような民のために祈ってるのです。これを考えるとき、私たちの心に何か教えられるものがないでしょうか。 私たちが愛して、その愛に応えてくれる人々のためにご奉仕することは簡単です。モーセとパウロの場合は少し違いました。モーセとパウロの愛に全然応えてくれない民を愛して、愛して、愛し抜いた二人でした。 私たちも、神のもとから離れていった兄弟姉妹に対して、同じ心の態度をもちたいものです。 モーセとパウロには、そのほかにも共通してる点があります。それは、モーセもパウロも心からその人々を愛して、すべてをささげた民に誤解され、いじめられたという点です。 モーセは、イスラエルの民をエジプトから解放しようと思い立ったとき、民に誤解され、自分の身に危険を覚えて、逃げなければなりませんでした。 また、民を導いて荒野の上をさまよった四十年の間、モーセは、どれほど民に誤解され、民から苦しみを受け、民のために悩んだか分かりません。 パウロの場合もモーセと同じでした。信仰を同じくするイスラエルの民によっていじめられ、迫害され、誤解され、悪者のように取り扱われました。 しかし、この二人の神のしもべは、自分を理解してくれない人々のために、自らの生涯を与え尽くし、ささげ尽くしました。モーセは、自分をいじめぬいた民であることをよく知りながら、今、神の前でとりなしています。 出エジプト記32:32
今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものならー。しかし、もしも、かないませんなら、どうか。あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。 彼らの罪を赦してやってください、と祈るモーセの心のうちには、民に対する苦々しい思いはひとつもありません。 パウロも、主の御前にひれ伏し、 ローマ人への手紙9:3
と、パウロは祈ってます。これこそ、まことのご奉仕の精神ではないでしょうか。 私たちの主イエス様がそうでした。主イエス様は、われわれの罪の代わりにのろわれた者となられたのであります。 イエス様のご奉仕はいったいどういうものだったのでありましょうか。イエス様は本当に私たちの罪のために、父なる神や、肉を捨て、御顔を背けられました。主イエス様は、一番辛いそのことにも耐えてくださいました。 また主イエス様は、ご奉仕の間、多くの人々にいじめられ、責められ、誤解されどうしでした。 ご自分を誤解し続けた人々のために、十字架上の断末魔の苦しみの中で、神に向かって、「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てたのか。」と切ない祈りをなさいました。 しかし主イエス様は、自分を見捨て、自分を否んだ人々に対して、「兄弟」と呼びかけるのを恥とされませんでした。これが主イエス様の精神だったんですね。 イエス様は愛され、価値の無い私たちのためにのろいとなってくださいました。このイエス様の霊は、パウロのうちにも生きてました。パウロはやはり、民のためなら、この身はのろわれても構わないと祈ってます。 私たちはこの主なる神の標準からなんと遠く離れてることでありましょうか。 第二番目の点について、すなわち神のご目的を実現するための戦いという点について、学び続けたいと思います。 ここまで、出エジプト記32章とローマ人への手紙9章から、モーセとパウロの祈りを考えてきましたが、ここで出エジプト記32章とローマ人への手紙9章の前に、どのようなことが起こっていたのか、少し見てみましょう。 出エジプト記の31章は、すばらしい章です。モーセはシナイ山に入り、そこで神と親しい交わりをもち、主なる神から、幕屋の雛形を見せられました。シナイ山は、啓示の山です。啓示された幕屋は、主イエス様を象徴するものです。 主なる神は、ご自分の住もうとされる幕屋の模範を、モーセに示されました。主なる神は、モーセに示された幕屋に住み、ご自分の栄光を現わしたかったんです。モーセにとって、幕屋が上から示されたということは、すばらしい体験でした。 しかし、示された幕屋の建設は、すぐにはできませんでした。32章を見ますと、民が罪を犯して、堕落したことが書かれています。モーセにとっては、これは非常な悩みであり、苦しみであり、また、戦いでした。神のご目的を実現するには、いつも戦いが伴います。 同じく、ローマ人への手紙8章を見ますと、これまた、出エジプト記31章に劣らず、すばらしい書です。 ローマ人への手紙8:1-2
ローマ人への手紙8:17-18
ローマ人への手紙8:28-39
本当にこのローマ人への手紙8章を読んでいきますと、私たちは高いところを思わず、知らず、引き上げられていくような気がします。この章を読んでいきますと、神の永遠からのご目的が明らかになります。すなわち、29節ですね。 ローマ人への手紙8:29
と、あります。これが主なる神のご目的であります。さらに続いてローマ人への手紙12章4節ですね。ご目的の実現について書かれています。 ローマ人への手紙12:4-5
と書いてあります。ところがこの8章と12章の間には、非常に暗いことが書かれています。 すなわち、イスラエルの民が神を離れ、油注がれた神の御子であられる主イエス様を十字架につけて、殺してしまった。悲しむべき悲惨な出来事が書かれてあります。 モーセとパウロは二人とも、すばらしい神の奥義を上から示されています。すなわちモーセは、神の家、幕屋を教えられ、パウロは、神の宮、すなわちまことの教会を教えられています。 しかし二人とも、この神のご目的を示されて、それを実現するまでの間には、非常な戦いがありました。それは、主のご目的が達成されるための激しい戦いでした。 出エジプト記32章を見ますと、悪魔は荒れに荒れて、神のご目的をダメにしよう、ダメにしてしまおうとしてることがよく分かります。偶像礼拝の霊が民の中に入って来ました。民は金の牛に礼拝をささげました。まことの神から離れてしまいました。 悪魔は今、私たちの生まれながらの性質を用いて、主なる神のご目的を実現させないように働きかけています。もしあなたが弱い点にお気付きなら、そのまま神に、今日新しくすべてをゆだねなさい。自分を尊び、ありのままの姿でいることをしない人は、主を否定することになります。 主なる神の御前では、私たちは貧しい者であり、みじめな者であり、あわれむべき者であり、目の見えない者であり、裸の者です。主なる神にすべてをささげ、私たちのうちに、私たちを通して、主に働いていただきたいものですね。 (テープ A面 → B面) 主の宮は、いったいいつ建てられるようになったのでしょう。恐ろしい戦いのあとでした。すなわち、偶像礼拝者を除くという、恐ろしい戦いのあとでした。 モーセとレビの子たちは、偶像を拝んだ人々を除かなければなりませんでした。 出エジプト記32:25-29
偶像礼拝を除き、偶像礼拝者を除くという恐ろしい戦いのあとで、初めて神の宮が建てられるようになりました。 私たちの場合も同じだと信じます。心の偶像が取り除かれ、自分の利益、自分の考えを主なる神の御前に恥じるようになって初めて、神の宮が建てられていくのです。それまでの間には戦いと、悩みがあります。 パウロはガラテヤ人のために、この戦いを戦いました。ガラテヤ人への手紙を読みますと、パウロがガラテヤ人のために恐るべき戦いをしたことが分かります。 ガラテヤ人は、誤ったユダヤ教に足を踏み入れてしまい、奥手に縛られ、その驚くべき状態は、荒野をさまよったイスラエルの民のように荒れに荒れてしまいました。主なる神のご目的が実現されいくところには、いつも戦いがあります。 神のご目的は、ご自分の住む家である、まことの主イエス様のからだなる教会を建て上げることです。エペソ人への手紙1章23節に、それがはっきりと書かれています。 エペソ人への手紙1:23
とあります。この教会が実現しますと、あらゆる問題はたちどころに解決するようになります。しかし、この教会が建て上げられていくには、多くの悩みや、苦しみや、誤解が伴うでしょう。 しかし、栄光に満ちた神の教会が建て上げられていくことを知っています。 続いて第三番目の点、すなわちすべてをささげることの必要性について考えたいと思います。 すべてをささげることの必要性。主なる神のご目的を、私たちは上から教えられて、知ってるのでありましょうか。主が、モーセとパウロに示されたように、私たちにも、もうすでに示してくださったのでしょうか。 そしてその、神のご目的が達成されるように、私たちのすべてをおささげしてるのでありましょうか。 すべてを主におささげすることは、本当に大切です。すべてをおささげするとき、自らの利益、立場見よ。これらのものはどこかへいってしまいます。 主なる神のご目的が何であるかを、心の目で見て、すべてを主におささげするとき、教会がその人のいのちとなり、すべてとなるはずです。 モーセは、イスラエルの民を思い、神の教会を思うあまり、神の御前に心を注ぎ出して祈りました。 出エジプト記32:32
イスラエルの民が立ち直るか、または自分がダメになるかどちらかを、神に迫ってるモーセの姿が目に映るような気がします。 すべてを主にささげ、神の家を思うとき、二つの道を選び取ることはできません。私たちを通して、神の家が建て上げられるか、または私たちがダメになるかのどちらかです。 主が、私たちを通して思うがままに働くことができるように、自分で何か役割をしようなことは思わないように致しましょう。自らが何の価値もない者です。モーセはこの祈りの中で言っています。自分は価値のない者だ。私の救いは、私のいのちは必要ではない。 またパウロは、もし主の御心が信ずるからだのうちになされていかなければ、私は何のために救われ、何のために生きているのか分からないと言ってます。 主は私に、主の御心の全部を教会に、イエス様のからだなる教会に傾けておられることを示してくださいました。 もし吉祥寺の集会が、主の御心のままに主によって建て上げられなければ、私が日本に来たことも、苦しんだことも、悩んだことも、また、祝福されたことも、何の意味もなさなくなってしまいます。 私たちはなぜ、救われたのでしょうか。何かを得るためでしょうか。天国に入るためでしょうか。それから色々な祝福をいただくために救われたのでしょうか。 残念ながら、多くのクリスチャンは、それらのために救われたのだと考えています。そうではありません。 私たちは、主のご目的を成し遂げる神のしもべとなるために救われたのです。 この神のご目的を成し遂げるには、色々な値を払わなければなりません。神の家を建て上げるという神の目的を成就するには、いのちをもささげなければなりません。 主イエス様は、マタイの福音書16章25節に、次のように言っておられます。 マタイの福音書16:25
と。主のからだである兄弟姉妹のためなら、死もいとわない。兄弟姉妹は自分のすべてであると思うまでに、イエス様と一つになっているのでありましょうか。 私たちは主の家である教会、主にある兄弟姉妹が一人一人のすべてとなっており、この霊的知識がいのちとなっているのでありましょうか。 この神の家を建て上げたいという願いは、モーセとパウロのすべてでした。この二人は、ご奉仕に対しても、自分の名誉を求めず、ただただ神を思い、エペソ人への手紙5章27節のごとく、神の教会を建て上げるために、いのちをかけていました。 ペソ人への手紙5:27
とあります。コリント人への手紙第IIの11章2節を見ますと、パウロの心がよく分かります。パウロは、コリント人に対し、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。 コリント人への手紙第II、11:2
と言ってます。パウロと同じように、この目的をもってご奉仕しなければ、主は私たちを悲しく思われることでしょう。 主なる神は、モーセやパウロと同じように、私たちを通して、ご自分の目的を達成されるために私たちを救ってくださったのです。 このように、主に仕える準備が整っているのでありましょうか。このまことのご奉仕は、死に至るまで従順に主にお従いしていくご奉仕です。 最後に、第四番目になりますが、まことの奉仕に必ず伴う、火のような試みという点についてちょっとだけ考えて終わりたいと思います。 神のしもべたちは、特別に激しい試みに会ったことがあると告白しています。私たちが救われるためには、苦しみはありません。救われるために私たちは、何の値も払いませんでした。 しかし救われて、神の子として歩み始めたその時から、色々な悩みが、また苦しみが襲ってきました。これはいったいどういうわけでしょうか。それは私たちがただ救われるために救われたのではなく、ご奉仕するために救われたからです。 私たちは、主に用いられるしもべとなるべきです。しかし自分を無にしない限り、神のしもべとなることはできません。自分を無にするには、激しい試みを通されなければなりません。 何と多くの自らを喜ばせ、自らを愛する心が、私たちのうちに残っていることでしょう。ですから主は、ご奉仕を妨げる私たちの自我を取り除くために、色々な悩みや、苦しみの中を通されるのです。 私たちはいったい、どういうふうに主に用いられる器となることができるのでありましょうか。 私たちは、偉大な神の遣い人であられる、主イエス様を見上げましょう。衣を脱ぎ、帯を締め、タオルを手にし、桶をもって回って、弟子たちの足を洗い給もうた、神の御子であられる主イエス様を見上げたいものです。これがしもべのする仕事でした。 主イエス様は、おのれを虚しくされました。自らの名誉も、名前も、利益も、お構いになりませんでした。これこそ、まことのご奉仕の精神です。 マタイの福音書20章の28節に、イエス様は、ご自分のご生涯の目的について、次のように告白しておられるのであります。 マタイの福音書20:28
とイエス様は言われたのであります。主イエス様は、まことの神のしもべであられました。 私たちも、まことの神のしもべとなるためには、すべてを主におささげしなければならないはずですし、いのちさえ、ささげなければなりません。すなわち、自分の自我をささげなければなりません。 自分の意思をささげなければなりません。それがためには、多くの苦しみや、困難を通らなければなりません。この試みを通ったとき、まことの神のしもべとなっていくのです。 民数記12:3
と書いてありますが、モーセが、人殺しであるモーセが、こうまで言われるようになるまでには、想像に絶する試みを通されたのです。 また御霊は、歴代誌第Iの6章49節に、「神のしもべモーセ」とモーセを呼んでおります。同じ御霊は、パウロに対してイエス・キリストのしもべパウロと呼んでいます。 パウロは地にひれ伏し、心から祈って、 ローマ人への手紙9:3
と言ってます。これが主が私たちに与えようとしておられるご奉仕の精神です。 |