引用聖句:ホセア書2章16節-20節
今日の話のテーマは、「驚くべき愛の申し出」であります。 ダビデという王さまは次のように告白しました。 詩篇18:36
元気よく歩かせます。 詩篇18:36
そして、 詩篇18:46
ドイツの訳とは次のようなものです。 「あなたは私の前の道を備えてくださったから、私は喜んで前向き生活をすることができる。」という意味です。 どうしてであるかと言いますともちろん、主は生きておられるからです。 まことの救いとは、死んだ、冷たい形だけの信仰ではありません。また決まった形式でも、儀式でもありません。 聖書は法律の本でもないし、たくさんの戒めでもありません。まことの救いは人間の心の中に住む主なる神のいのちそのものです。 このいのちとはいうまでもなく、主イエス様です。 イエス様はあなたのわがままのために、私のわがままのために十字架につけられました。すなわち主イエス様は葬られ、すべての罪人のために死の刑罰を受けたのです。 けどもイエス様は死んだままではありませんでした。よみがえられたのです。 主は生きておられます。また今日も支配しておられるのです。そしてこの生きておられる主は、みことばをもって語りたいと望んでおられます。 今読んでもらいました個所は本当にすばらしい個所です。もう一回19節と20節をお読みいたします。 ホセア書2:19-20
とあります。イエス様はひとりひとりに契りを結びたく願っておられます。イエス様は心からこのように願っておられますが、私たちはそれに対し、どのような答えをするのでしょうか。 このホセア書という本は、本当にすばらしいものです。今日、全部読むことができないけれどお帰りになってから是非お読みになってください。 なぜならばこのホセア書とは、ひとつの愛の物語です。3つの愛について書き記されている本です。 一つは、拒まれた愛。 二番目、どこまでも追い求めていく愛。 三番目は、勝利の愛です。 初めに、拒まれた愛についてちょっとだけ考えたいと思います。 まことの主なる神は、全人類を救うために全世界の国民の中からひとつの民を選んでくださったのです。 そしてこの民に、救いの道を示した聖書を与えました。この民はみなさんご存知のように、ユダヤの民であり、イスラエルと呼ばれている民であります。 そして主なる神は特に選ばれた、このイスラエルの民と深い心の交わりをもちたく願っておられたのです。 それで主はこの民に、「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となる。」と言われたのです。 このように、主はイスラエルの民と深い交わりをもち、この民を通してご自分の力と栄光を現わされたのです。 ところで、あとでどういうふうになったのでしょうか。間もなくこの民は偶像を拝する民になってしまったのです。まことの神と親しい交わりを持っていたこの民は、偶像礼拝者になってしまったのです。 この主なる神からの堕落、主の愛を退ける心、これをホセアは姦淫と名付けています。 限りない深い愛を拒み、退けるのは罪の名のつくものの中で一番大きな罪と言わなければなりません。 しかし自分から離れ、堕落し、そむいていたイスラエルの民に対する主の態度はどうだったのでしょうか。 主はそむきの民を見捨てないで、なお関心をもっておられ、預言者ホセアをこの民に遣わしたのです。この預言者ホセアは、口先で語るばかりでなく、身をもって民の罪を示すべく主の遣わされた人でした。 主はホセアに言われたのです。 ホセア書3:1
おそらくこのホセアの奥さんは、家出して、愛人を作って、別の人と一緒に住むようになったのです。彼にとって考えられない悩み、またショックだったのです。 主はそれを一度赦してくださったのです。ホセアが主を理解するためです。 あなたの奥さんは逃げてしまって、別の人と住むようになったように、イスラエルの民もわたしを捨てて、偶像礼拝者になってしまった。 ホセアは自分の子どもに喜びの名を付けて、その誕生を祝うことを許されませんでした。 預言者ホセアは自分の子どもに恐ろしい名前を付けたのです。すなわち、「滅び」、「あわれみなき者」、「神の民でない者」などという名前を付けなければならなかったのです。 そのときイスラエルのある人々はホセアをあざ笑い、ある者は無関心に聞き過ごし、まことに自分が悪かったことを主に悔い改め、主に立ち返った人はほとんどいなかったのです。 主なる神はホセアの子どもの名前を通して、「イスラエルの民はまことの神を離れ、偶像礼拝に走ったがゆえに、わたしはイスラエルの国を滅ぼし、イスラエルの家をあわれまず、イスラエルの民をもはやわが民と呼ばない。」 このようにそむきの民、イスラエルの民に語りかけたのです。 ちょっとだけ私たちのことについて考えましょうか。私たちひとりひとりは主の御前にどのような状態、どのようなところに立っているのでしょうか。 聖書は生きるまことの造り主なるまことの神に立ち返っていない人は、いのちの泉である主から遠く離れている。聖なる主の前に罪がある。だから怒りのもとにいる。 神のいのちから遠く離れているから、神とともにいない者、未来においても神のない者、望みのない者であると言っています。 私たちがどんなに高い道徳生活を送っても、もし生きるまことの神を心に受け入れていなければ、主の怒りのもとにあります。これは私たちが認めても認めなくても動かすことのできない事実です。 唯一のまことの神を自分の救い主として受け入れたくない者、主イエス様を自分の罪やわがままを赦し、永遠のいのちを与えてくださったという確信をもたない者、主イエス様の血潮はすべての罪から自分を聖めてくださると信じたくない人は、永遠の滅びに向かって歩んでいる人であると聖書ははっきり言っているのです。 この主のみことばに対して、私たちはどのような態度を取るのでしょうか。このみことばを私たちは、あのイスラエルの民のようにあざ笑い、無関心に聞き過ごし、またはこのみことばに逆らうのでしょうか。 それとも、「主イエス様。聖書はあなただけが私を救うことができ、私の罪を赦し、永遠のいのちを与えられるお方であることを感謝します。どうか私のわがままを赦してください。導いてください。」と主に祈るのでしょうか。 もしこの信仰に立つならば心は喜びに満たされ、詩篇の作者がうたったように、 詩篇32:1-2
ホセアは今話したように、一番目に、拒まれた愛について語ったのです。 けどそれだけではなく、第二番目、ホセアはどこまでもたずね求める愛についても語ったのです。 イスラエルの民は前にエジプトの国に捕われ、奴隷としてひどい生活を送っていたことがありました。主はこの民をあわれみをもってエジプトの国から救い出してくださったのです。 ところがどうでしょうか。主の恵みをすぐに忘れてしまった民は荒野で偶像を作り、これに拝むといった恐ろしいことをいたしました。 主はこのイスラエルの民に対して、「わたしはあわれみの綱。すなわち愛の紐で彼らを導いた。わたしは限りなく愛をもってあなたを愛している。それゆえわたしは絶えずあなたに真実を尽くしてきた。」、と深い愛を示してくださったのです。 この計り知れない主の愛に対するイスラエルの民の態度は、不真実と堕落でした。一番深い罪は、愛にそむく罪でしょう。 母親がその子を力の限り愛しているのに、その子が母をあざ笑うなら、それはどんなにお母さんの胸を痛めるでしょう。 妻が夫を心から愛しているのに、夫は妻を顧みずほかの女に走っていくなら、それは妻に対する計り知れない打撃であり、罪であると言わなければならない。 イスラエルの民はこれに似たことをしてしまったのです。自分を愛してくださる救い主なる神を足げにしたのです。 主は愛したけども、そむかれました。しかし主の愛はそれでとどまることをせず、そむいた民を追い求めてやまない愛に変わっていたのです。 人間の愛は愛する価値のある者しか愛することができません。しかし主の愛は堕落し、主の愛を受ける価値のなくなった者を愛し抜いています。 人間の愛は愛の応えをくれる者に向かっていますが、主の愛は愛してもそれをなお拒む者に向かって働きます。 堕落し、そむき去ったイスラエルの民に向かって主は、ホセア書の2章の驚くべき愛のみことばを述べておられます。 ホセア書2:19-20
と。 裏切り、そむき去る民に対して主は何という愛を示されるのでしょうか。この計り知れない愛をもって主は、私たちをも愛しておられます。主は私たちをみこころに留めておられます。 創造主なる神、また支配しておられる唯一のまことの神は、私たちにご自身の愛を示されるために、ひとり子であられるイエス様をこの世に遣わしてくださったのです。 主なる神は御子なる主イエス様をわれわれに遣わし、ご自分とわれわれを和解させ、契りを結びたく願っておられます。この驚くべき愛の申し入れを心から感謝して受け入れようではないでしょうか。 またこの主の恵みの誘いを受け入れないままでいるのでしょうか。あなたは、苦痛、心配、不安、動揺のうちにいるのでしょうか。 イエス様は、「われに来たれ。われ汝らを休ません。」と言っておられます。 「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしにところに来なさい。わたしがあなたがを休ませてあげます。」 あなたは不幸、不満、不自由なのでしょうか。またあなたの心には喜びがないのでしょうか。 イエス様は、「わたしのもとに来なさい。あなたがたはこの世には悩みがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」と言われるのです。 あなたは、試みがあなたの弱い点、あなたが逆らうことのできない点をいつもつかんでいるので、元気がないのでしょうか。 主イエス様は、「わたしのもとに来なさい。わたしの呼び求めをあなたはわたしのうちにおいて、すべてのことにおいて勝ち得て余りがある。」と約束しておられるのです。 あなたの心の中には今までだれも満たすことのできなかったいやしがたい空腹があるのでしょうか。 イエス様は、「わたしはいのちのパンです。わたしのもとに来る者は、もはや飢えることがない。」と呼びかけておられます。 あなたのたましいはどんな医者に診せても治らないような、カラカラに渇いた土地のような渇きをもっているのでしょうか。 イエス様は、「だれでも渇く者は、わたしのところに来て飲むがよい。」と呼んでおられるのです。 あなたの一日は失望と誘惑と試練に満ちていて、あなたの目の前に真っ暗なのでしょうか。 イエス様は、「わたしは、この世の光です。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、いのちの光をもつ。」と約束しておられます。 あなたのたましいが罪で汚れているのに驚き、このたましいが聖められるかどうかと疑っているのでしょうか。 イエス様は、「わたしのところに来なさい。わたしの呼び求めを。たとえあなたの罪は火のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」と約束しておられます。 人が滅びに至る近道は、殺人を犯したり、姦淫を犯すことではありません。この主の愛の申し出を断ることこそ、永遠の滅びに至る一番の近道です。 ホセア書はこのように拒まれた愛、それから追い求める愛について語っているだけではなく、最後に、第三番目になりますけれども、勝利の愛についても語ったのです。 イスラエルの民が不真実であり、堕落していたにも関わらず、この民を愛する主の愛は、とどまるところを知りませんでした。ご自分の愛を拒み通すイスラエルの民に対して主は何と言ったのでしょうか。 ホセア書14:4
と。そむき、つまずいたイスラエルの民は、この計り知れない愛のことばを耳にしたとき、主の愛に砕かれ、打ち負かされ、私の不義をことごとく赦してくださいと答えずにはおられなかったのです。 人間の想像を絶する計り知れない主の愛は、人のすべての罪を押し流し、そむきをいやし、つまずきを取り除かれました。 「わたしはあなたと永遠の契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。」 いつも複数形じゃなくて単数形になっているのです。ありがたいのではないでしょうか。 ここで、「あなたは主を知ろう。」とあります。主を知るとはいったい何でしょうか。 それは、主イエス様と私たちとの深い交わりを意味しているのです。よみがえられた主イエス様との交わりのあるところには、まことの喜び、平和と平安があります。 また、主との交わりがあるところ、私たちの貧しさは主の富によっておおわれ、どこかへ行ってしまいます。 主イエス様が地上に来ておられたとき、そこにひとりのらい病人がやって来て、「主よ。みこころならばいやしていただけるのですが。」と願ったとき、イエス様は、「わが心なり。聖くなれ。」と御声をお掛けになり、その男のかしらに手を置いて言われたとき、らい病は直ちにいやされたと聖書は言っているのです。 今日でも、この主のみもとに来て、「主イエス様よ。みこころならば契りを結ばせ給え。」と申し上げるならば、イエス様は「わが心なり。汝はわがものなり。」と言われるに違いない。 イエス様が私たちを限りなく愛しておられるという、動かすことのできない証拠があります。 それはイエス様が私たちひとりひとりの身代わりに、私たちの罪、過ち、わがままを全部背負って、ゴルゴタの丘の上でご自分のいのちを捨ててくださったという事実です。 イエス様はご自分のいのちをかけて私たちを買い取り、契りを結ぼうと言われます。何という驚くべき恵みの、また愛の申し出なのでしょうか。 これはあたかも王さまが見捨てられたご自分の娘に求婚するようなものです。 イエス様は私たちが申し入れを受け入れることを心から願っておられます。もし、自分の悩みや罪をもって主の御前にそのままで出て行くなら、主はご自分をあなたにお与えになります。 あなたは罪の赦しと永遠のいのちを受けます。そして主は呼びかけておられます。すなわち、「わたしはあなたの罪を二度と思い出さない。あなたの過ちを決して心に留めない。」と。 イエス様を知りたい。イエス様を深く自分のものにしたい。イエス様の愛を知りたいと願わない人がいるのでしょうか。私たちは主イエス様なしに永遠に滅んでいかなければならない。これは私たちの深く知るところです。 私たち全部が驚くべき救いの喜びにあずかるために、ホセア書2章19節、20節のみことばに本当に耳を傾けたいものではないでしょうか。 ホセア書2:19-20
イエス様に心を許し、すべてをおゆだねした人で、あとで後悔した人は今までひとりもいません。何というご真実な主でありましょうか。 主のご愛は決して私たちを裏切り、そむかない愛です。ですからパウロは、テモテへの手紙第IIの2章13節に次のように書くことができたのです。 テモテへの手紙第II、2:13
すなわち主イエス様 テモテへの手紙第II、2:13
イザヤも2,600年前に次のように書いたのであります。 イザヤ書54:10
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