引用聖句:マルコの福音書10章45節
コリント人への手紙第II、5:15
私と家内にとって最も大切な聖書の箇所は、結婚指輪にも刻まれていることばです。 コロサイ人への手紙1:10
信じる者にとって一番大切なのは、それなのではないでしょうか。 パウロはコリントにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:9
もちろん、主に喜ばれる前に主を知ることは大切です。主を知らなければもちろん、主を喜ばせたい気持ちは絶対に出てきません。そして聖書の言わんとしていることは、誰でもありのままの状態で、イエス様の御許に行くことができる。 大切なことは、とにかくイエス様の御許に行くことです。つまり、イエス様を体験的に知ることです。 イエス様とは、自由にしてくださいます。イエス様は、罪の赦しを提供しておられます。イエス様は、生き生きとした希望を与えてくださいます。考えられないすばらしい宝物なのではないでしょうか。 最も大切なことは、今話したように、主に喜ばれることです。 キリスト者とそうでない人々とのあいだの区別は、いったい何でしょうか。イエス様を知るようになった人は、必ず主に喜ばれたいという願いを持っています。いわゆる未信者は、主に対して盲目の者であり、主の声に対して耳の聞こえない者です。だから、主を喜ばせたい気持ちは一切合切ない。 この間話したように、人間は3つの違った種類に分けることができます。どんな人間もその内の一つに属しています。その内のどれに属したいと思うのでしょうか。次の3つの種類があります。 第1番目、生まれながらの人 第2番目、肉のキリスト者 第3番目、霊によるキリスト者です。 生まれながらの人の写真を鑑賞してみましょうか。パウロは、コリント人への手紙第Iの2章14節に書いたのです。パウロの証しでもあります。 コリント人への手紙第I、2:14
生まれながらの人間は、イエス様を救い主として持っていませんし、もちろんまだ主として考えていません。 だから生まれながらの人は、自分自身の生き方をしていると聖書は言っています。 それから、肉のキリスト者は、もちろん救われています。なぜならば、その人は救い主イエス様を信じることにより、イエス様を意識して受け入れることによって、神の子となっているからです。 肉のキリスト者は、心の中に聖霊を宿していますが、その人はいつも、御霊を悲しませています。 肉のキリスト者は、再び生まれることによって、新しくされました。しかしまだキリストにある小さな子供のような者です。 肉のキリスト者は、イエス様を救い主として認めています。しかし、まだ自分のすべてをイエス様に捧げていません。すなわち、絶えず「主よ。どうしましょうか。語ってください、しもべは聞いております。」そういう気持ちがまだない。 肉のキリスト者は、自分がイエス様を必要とし、イエス様との交わりを持ちたいと思っております。けどもイエス様は、その人の中には小さな場所しか持っていない。その人を支配することができません。 また肉のキリスト者は、悩みに満ちている状態にあります。 肉のキリスト者は、2つの性質があります。すなわち、主の性質と自分の性質があります。ある時はイエス様が支配者であり、またある時は自己、悪魔また罪が支配者となります。 どうして私たちは、愛そのものであられる方に、喜んでいただくことができるのでしょうか。主は光そのものです。しかし、なんと多くの利己的な性質、偽善と二重人格が我々の内にあることでしょう。 主は絶対聖なるお方です。しかし、何と多くの嘘と不純が我々の内にあるでしょうか。主は愛そのものです。しかし、何と多くの自己追求と自己中心が我々の内にあるのでしょうか。この主は、いかに我々を気に入ってくださるのでしょうか。 人間の創造以前に主なる神は、御心にかなう人間を欲しいと計画してくださいました。主ご自身が、ご自分の方から我々と主とのあいだの裂け目を塞ぐ道を用意してくださいました。すなわち、御子イエス様が我々の贖いの代価を支払ってくださいました。その代価は、イエス様が捧げてくださったいのちです。 生ける神が喜んでくださるのは、言うまでもなくイエス様しかない。今イエス様が受け入れてくださる方、イエス様の内にあり、イエス様の義によって御心にかなった人間とされています。しかし、それは自分自身のすばらしさのゆえにではなく、ただイエス様の贖いのゆえに、そうされています。 イエス様の内にある者、すなわちイエス様と結びついている者の生涯は、必ず変えられます。そこには、実を結ぶことが見られるのです。自分の努力ではなく、我々の内におられるイエス様こそ、勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣そのものです。 主に喜ばれることこそ、最も大切なことです。それは実際にはいったい何を意味しているのでしょうか。3つのことが言えます。 第1に、主は我々の愛を心からの愛を望んでいます。主の望んでおられる愛は、裏表のない愛です。イエス様は、ペテロに3度聞いたんです。すなわち「あなたは、わたしを愛するの。」とお尋ねになりました。もちろん主は、今日も我々に問うておられます。私たちは、本当にイエス様を愛しているのでしょうか。 主を愛するということは、ただイエス様を信じるということだけではない。以上のものです。イエス様を愛する者は、イエス様がどういうことを喜んでくださるかをわきまえています。覚えていただきたいこととは、何かある律法が我々を導くのではなく、主に対する愛が我々を導くべきです。 毎日、「主よ。私は何をしたらいいの。あなたは何を望んでおられるのでしょうか。」と尋ねるべきです。そうすれば、主なる神の祝福が豊かに一人ひとりの上に注がれます。 第2に、主は、我々の喜んで行なう奉仕を望んでおられます。主に喜ばれる奉仕とは、自分自身を無にした奉仕であり、主のために喜んで犠牲を払う備え、そしてまた自分自身を捧げ、自分を否定する備えのできた奉仕です。 すなわち、自我の死、自分自身の願いを捨てること、自分自身の利益を捨てることです。今まで私たちは、二心のない愛と喜んで行なう奉仕を通して、主が喜んでくださることを見てまいりました。 しかし第3に、正直な態度を通しても、主が喜んでくださると聖書は言っています。失敗することは別に大変なことではありません。しかし、曖昧にすること、隠すこと、陰で画策することは悪い。主の働きの妨げとなります。 ただ人前だけ上手につくろい、人間を喜ばせようとする人は、物事を曖昧にしたり、隠したりします。しかし主なる神の前に、光のうちに歩む者は、もはや隠したり、曖昧にしたりすることはできなくなる。 主に喜ばれる生涯これこそ我々の人生の内容であるべきです。その秘訣は、我々の内にイエス様がおられるということです。 私たちは、いつも失敗ばかりする者です。しかし、イエス様は何事でもおできになるお方です。主に拠り頼み、徹頭徹尾、主に信頼する者は勝利から勝利に至ります。私たちが、何のために生きたいと思うかについては、3つの可能性が考えられます。 第1の可能性は、自分自身を喜ばせる生き方です。 第2の可能性は、他の人々だけを喜ばせる生き方です。 第3の可能性は、主のみを喜ばせる生き方であります。 多くの人々の特徴は、自分だけのことを考えるということではないでしょうか。それから、それだから全部うまくいきません。結婚生活も家庭生活も社会生活も、あんまりうまく行かなくなる。だから至る所、恐ろしいほどの競争があり、妬みもあり、憎しみも存在する。 イエス様について、驚くべき文章が書かれています。「キリストは、自分自身を喜ばせようとはなさいませんでした。」とあります。自分自身を喜ばせるとは、いったいどういうことでしょうか。それは自己満足です。 人は簡単な、楽な道を望みます。人は問題に入りたくない。そして自分の利益を追求する者です。イエス様は、本当に自分自身を喜ばせなかったただ一人のお方です。 イエス様は、「わたしは、心からへりくだった者です。わたしは自分の意思を追求しないで、わたしを遣わしたお方の御心だけを求める。」と心から言えたのです。 我々の最大の敵は、自分なのではないでしょうか。自分の考えによって、導かれる者はかわいそう。災いです。主を喜ばせるものは、我々のうちに何一つありません。だからイエス様は、ただ単に我々の債務を贖うために死んでくださっただけじゃなくて、我々のいわゆる古き人と共に死んでくださったのです。 古き人、すなわち自分自身の自我は、イエス様のために全く役に立たないものです。それは死に値するものでした。もし私たちが、自分自身の利益を考え、自分が中心になりたいと思う時、もはや主の喜びは我々の上にはもうありません。ただ悪魔だけがそのことを喜ぶのです。 なぜそんなに実りが少ないのでしょうか。なぜ御霊をそんなにしばしば悲しませるのでしょうか。なぜなら私たちは、自分自身を喜ばせているからでしょう。なぜなら私たちは、何かの役割を演じたいと思っているからでしょう。なぜなら私たちは、自分自身を同情するからなのではないでしょうか。 キリストは、自分自身を喜ばせませんでした。主は、自分自身を忘れ、誤解されたり、そしられたりすることをよしとされました。そればかりではなく、イエス様は、人間の罪に対する聖なる神の怒りの裁きをご自身の上に、引き受けることをよしとしてくださったのです。 イエス様は、のけ者にされ、呪われることをよしとされました。「我が神、我が神、どうしてあなたはわたしをお見捨てになったのですか。」というイエス様の叫びは、我々にこの心の態度と、イエス様ご自身を明け渡してくださった状態を示しているのではないでしょうか。自分自身の名誉欲を満たしたいと思う者、自分の利益を追求する者は災いです。 次に第2番目の可能性、すなわち人間だけを喜ばせる生き方をしたいと願うことは、大部分の人々の特徴なのではないでしょうか。人間だけを喜ばせようとする者は、言うまでもなく人間の奴隷です。その人は、内面的に不自由であり、大変神経を使ったりするのです。その人は、必ず不幸になり、失望します。 人間は失望しますが、生ける神は決して失望させません。主なる神を恐れることのない人間は、心の支えを知らないし、自分のことばかり考え、そして他の人を顧みることをしないで、どうしようもない、もはや押さえることのできない者となってしまいます。 自分のことばっかり考え、自分のために生きる者、自分を喜ばせる人は、本当に不幸です。しかし、ただ人間だけを喜ばせようとする者もまた不幸です。なぜならば、それは誰も成功しないからであり、すべての人間を喜ばせることは全く不可能なことだからです。 第3の可能性について見てみましょうか。私たちは、自分自身を否定し、人間だけを喜ばせる生き方をしようともせず、ただ主お一人だけを喜ばせる生き方をしたいという可能性をも持っています。 それを一人の詩人は、次のように表現したのです。すなわち「人間が私を非難したり、褒めたり、大切にしたり、誤解してもかまいません。主よ。あなたに喜んでいただけることこそ、私にとっては、すべてのすべてです。」と。 この切なる願いを持つ者は、本当に幸いです。主なる神に喜ばれることを求める者は、人間の判断から解放されます。神に喜ばれることを求める者が、隣人に対してとる行動は、正しいものとなります。主に喜ばれることを求める者は、自分自身のために生きるのではなくて、他の人のために生きたいと思うようになります。 アベルの兄カインという男は次のように言いました。「私は弟の番人でなければならないの。」この態度を私たちは、今日も至るところで見いだすことができるのではないでしょうか。 私たちは、我々の周りの多くの魂のために責任を持っています。私たちはただ救われて清められるためだけに、この地上にいるのではなく、主の器となるために用いられるために救われました。我々を通して、主はご自身を啓示なさりたいと思っておられます。私たちを通して、主はご栄光を現したいと願っておられます。 ただイエス様だけが、栄光をお受けになってくださり、我々の周囲の人々が救われるならば、私たち自身のことはどうなろうとかまいませんという心がまえを私たちは持っているのでしょうか。 最後に主に喜ばれる3人の人をちょっと見て終わりたいと思います。 それはまず最初に、多く赦され、したがって2番目にイエス様を非常に愛し、3番目にイエス様に喜ばれる人々です。 1番目の実例は、ダビデ王様です。私たちは、ダビデを知っています。ダビデは、ある忠実な兵隊を殺し、その妻をとって自分の妻とし、そうして主を軽んじたのです。 このダビデ王は、自分の罪を悔い、後悔して主を賛美する者と変えられました。私たちが、詩篇を読むとそれを見ることができます。 詩篇21:1-2
この大きな罪人は、後に神の心にかなう人と、となえられるようになりました。ダビデは後に、神に喜ばれる人間となったのです。 2番目の実例は、すべての人から大きな罪人と呼ばれていた、ある女がいました。今日は読まないけど、ルカの福音書7章36節から40節までこの女について書かれています。 この女は、イエス様の御許にやってまいりました。そしてイエス様の御許で、この女が罪を悔いて激しく泣き、涙をもってイエス様の足をぬらし、それを自分の髪の毛でふきました。この行ないによって、彼女はいかにイエス様を愛していたかが解かります。 イエス様は、それを非常にお喜びになり、救い主の大きな愛をもって「汝の罪赦されたり。」と仰ったのです。「あなたの罪は赦された」、イエス様は、このことばをもうすでに我々一人ひとりに仰ったのでしょうか。私たちは、もうすでに罪の赦しを受け取ったのでしょうか。これは他のものすべてにまさって、最も大切な事柄です。 3番目の実例は、また別の女です。 ルカの福音書8:1-3
私たちは、このマグダラと呼ばれるマリヤについて、ちょっと3枚の写真を撮って見てみましょうか。 第1の写真は、この女が7つの悪霊の奴隷となっている姿が見られます。 第2の写真は、この女がイエス様の御許に行き、解放された姿が見られます。 第3の写真は、彼女がイエス様に従って行く姿が見られます。 この婦人について、聖書は自分の財産をもって仕えていたと言っています。 この女は非常に多く赦され、したがってイエス様を大変愛し、イエス様は彼女を非常に喜ばれたのです。 イエス様は、我々を喜んでおられるのでしょうか。私たちは、イエス様を他の何ものにも勝って愛しているのでしょうか。 イエス様は、私と本当に心からの交わりを持ちたく、待ち焦がれておられます。イエス様を心から愛している人々は、今日、非常にまれなのではないでしょうか。 私たちは、自分のイエス様に愛させようとしませんでしょうか。私たちの我々に対する願いは、私たちがこの集会の終わりには、心からの体験として次のように言うことができれば幸いと思います。もう一箇所読んで終わります。 雅歌7:10
私たちが、心よりこのように叫ぶことができれば、本当に幸いと思います。 |