無知であってはいけません


ベック兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:ヨハネの福音書4章20節-24節
20私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
21イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
22救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

このヨハネの福音書4章は非常にすばらしい書であります。「無知であってはいかん」、というテーマを付けることができるかもしれない。
『知る』という言葉よくでてきます。パウロも当時のイエス様に出会って、救われた人々のために必死になって祈ったんです。「真の知識に満たされますように。」、真の知識もあり、まったく役に立たない知識もある。
知るという言葉はまず、10節にでてきますね。イエス様は答えて言われた。

ヨハネの福音書4:10
10「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。

もちろん彼女は頼むようになったんです。「先生、お願いします。」、ここまで来なくても良いように、生ける水を与えて〜。彼女は生ける水を永遠の命を、変わらぬ喜びを持つようになったのです。
もし知るならば、知ることとは体験的に知ることです。頭の知識とまったく関係ないものです。そして2番目の知るという言葉は、22節に出てきますね。

ヨハネの福音書4:22
22救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

それはまったく無意味です。そして知らせてもらえなければ、もちろんだめ!、と25節に書かれています。

ヨハネの福音書4:25
25私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。

もちろん彼女は、体験的にそれを知るようになったのです。イエス様の弟子たちも、ちょっと無知だった。イエス様の言うことをなかなかわからなかったから、32節に書かれています。

ヨハネの福音書4:32
32イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」

結局、イエス様にとって、すべてのすべてなのは、父の御心を行うことでした。「普通の食べ物があってもなくても、もういいよ、父の御心が実現されれば、わたしは満足しきっています。」と、イエス様は言われたのです。弟子たちにとって考えられない世界でした。

そしてこのサマリヤ人だけではなく、サマリヤ人たちの他の人々も結局、知るようになった。39節。

ヨハネの福音書4:39-42
39
40さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
41そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
42そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
43そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

これも、まことの真の知識だったのであります。
そしてもう一人の人、、王国の役人も結局知るようになったと書いてあります。49節から。

ヨハネの福音書4:49-53
49その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
50イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
51彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。
52そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。
53それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。

と、あります。知ることとは本当に大切です。
真の知識に満たされるようにと、パウロは信じる者のために毎日毎日祈りました。おそらくパウロは、未信者に対する重荷をもちろん感じましたし、彼らの救いのために祈りましたし、けども彼らを納得させようという気持ちがなかったようです。イエス様を紹介すれば、早く手を引いた方が早道じゃあないかと、思ったようです。
私たちはよくね、いろいろなことを教えなければ、大変なのだと思っているのではないでしょうか?

結局、「私たちでなければ人々は救われない。」、大変な傲慢の表れなのではないのでしょうか。おかしいよ。イエス様を紹介すれば、そしてイエス様よろしく、私のできることはもう終わった。今度はあなたさまの番です、という態度を取った方が良いでしょう。
パウロはこの態度を取り続けたから、そんなに重荷ではなかったんです。けど、信じる者がなかなか成長しなかったから、いやぁ〜大変だ!

パウロは涙ながらに祈ったし、手紙を書いたのです。結局、真の知識に満たされなければ大変。けども、真の知識を与えることができるのは、もちろんパウロではない、ペテロでもない、ヨハネでもない、真理の御霊と呼ばれている聖霊だけです。
聖霊の働きによってのみ、真の知識が与えられます。これは勉強した結果ではない、努力した報いでもない!ですから、注意すべきなのは、違った霊も働いている。真理の霊だけではない!

真理の御霊が働くと、本物のイエス様の御栄光を拝するようになります。イエス様ははっきりと、真理の御霊についてなんと言ったかと言いますと、御霊は人間の思い通りに動くとは言わなかったんです。
多くの教会は一緒になって、大きな集会を造ろう。計画を立てて、計画を建てるのはもちろん金も必要なんです。それからは教会は、こじきのように献金しなさい、献金しなさい、献金しなさい、と言うようになるんです。これは決して証しにならない。お金が必要ならば、イエス様は必ず与えてくださる。
けども、みんなリバイバルが起こらなければ大変だ、もちろんその通りです、けどリバイバルとは人間の造るものじゃない。いくら自分勝手に祈っても、自分勝手に断食しても意味のないことです。違った霊の働きの結果です。

御霊はイエス様の栄光を現します。それだけなんです!
イエス様の栄光が現されると人間は本当に喜びに満たされるようになります。結局違う霊もあるし、別のイエス様もあると、聖書は言ってます。従って、異なった福音もあります!福音、福音といっても、決して喜ばしい教えではない。
コリント人への手紙第II、1章11節にパウロは自分の時代について次のように言ったのであります。

コリント人への手紙第II、11:4
4というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。

だからこそ、このコリントの兄弟姉妹は全然成長しなかったのです。結局惑わされてしまったんです。彼らは困った時、確かに祈ったと思います。
「困ったから助けて。」、けども、みんなそう思うのではないのでしょうか?主はそういう祈りを一度聞くでしょうけど、聞きうけない場合は多い。本人にとって、一時的な解決だけを求めているにしか過ぎないからです。
「私の問題を早く解決して〜。」、そうではなく、「私は惨めなんです、どうしようもない者です。あわれんでくださ〜い、導いてください。」、こういう祈りはすぐ応えられます。

パウロはガラテヤ人への手紙1章に、次のように書いたのです。彼らはやっぱり惑わされやすい人々だったんですね。

ガラテヤ人への手紙1:6-8
6私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
7ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
8しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

聖書ははっきり、異なった霊、別のイエス様、異なった福音についていっているのであります。
アメリカで一番テレビに出る、テレビ牧師が宣べ伝えている福音は、どういうものであるかと言いますと、イエス.キリストを信じると問題はなくなる、間違いなく金持ちになる、病気はいっぺんに癒される、興味が沸くでしょう?非常に魅力的です。
けども、聖書の言っていることは違う!結局、異なった福音です。本物ではない。主は人間のほしいものを与えようとはしません。もっと、わがままになっちゃうから。主は人間の必要なものだけを与えてくださるのです。

イエス様によって受け入れた人々とは、みんな救われています。救いとはなんでしょうかね、?
救いとは聖霊の宮になることです。神さまの住まいになることです。けどももし、御霊さまが一度、半分ぐらい無視されているお客さまであれば、大変な問題なのではないでしょうか。
御霊さまは導くことができなければ、教えることができなければ、その信者の生活とはみっじめなものになります。従って信じる者に、もっとも大切なのは聞く耳を持つことです。

「主よ語ってください、僕は聞いております。」、聞く耳があれば、真の知識が与えられ、真の知識が与えられれば、人間はこころから主を礼拝するようになります。
ヨハネの黙示録の中で、一つの初代教会の気持ちを表す言葉が書き記されています。ヨハネの黙示録1章5節の後半から、

ヨハネの黙示録1:5-6
5イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
6また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

イエス様にだけ栄光あれ!これこそ前に言われました、ヨハン.セバスチャン.バッハの切なる願いだったのです。
自分はのけものにされても、無視されても、人気者にならなくてそんなこともうどうでもいい!イエス様が中心になれば、私は喜ぶ!これこそが、初代教会の告白であり、またこころからの願いでした。

私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。そういう心構えがあれば、人間を恐れる恐れから開放されます。あらゆる心配、不安から、恐怖から開放されるようになります。
ここで、イエス様が私たちを祭司としてくださったと書かれています。祭司の代わりに、牧会する者と言っても良いでしょう。牧師と言っても良いでしょう、でも牧師とは決して単数形じゃなくて複数形でなくてはならない、主に出会った兄弟姉妹は、みっんな牧会しないとうまく行きません。

ですから多くの教会は、非常に悩んでいます。牧師さんたちは熱心ですよ、一生懸命ですけど全部自分でしなければだめ、自分は専門家だから、他みんな平信徒です。
そういう態度であれば、主は祝福しない。みんなみことばを語らなければ、何もならない。
旧約聖書のなかでは一体どういうことだったのでしょうか?民数記の8章を見ると次のように書かれています。

民数記8:14
14あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。

民数記8:16
16彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。

民数記8:24
24これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。

会見の天幕の奉仕とは、祭司として務めることであります。
はじめにはどうであったかと言いますと、最初に生まれた初子、長男は、家族の祭司として選ばれたのです。長男は結局、家族の代表として主に近づくべきものでした。家族の者を主のご臨在の中に導く者だったのです。

長男によって違うようになっちゃったから、途中で代わったんです。たとえば、初めての長男は誰であったかみなさんご存知でしょう?カインだったんです。
結局、彼は主の前に立つ者であったし、家族の永遠の幸せのためにとりなすべき者だったのです。けど、彼はそういう気持ちを知らなかったんです。
ヨハネの手紙第Iの3章を見ると、彼について次のように書かれています。

ヨハネの手紙第I、3:12
12カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。

イエス様はアベル、弟についてなんと言ったかと言いますと、「彼は義人だった」、が生まれつきの義人はいない。
正しい人はいない、一人もいない、善を行う人はいない一人もいない。彼はどうして、義人と呼ばれ、主によって受け入れられたかといいますと、もちろんへりくだったからです。

私のために犠牲になるお方がいなければ、私の味方になってくださるお方がいなければ、もうおしまいと、彼ははっきりと分かったのです。
もちろん長男であるカインは、自分は祭司であるべきだと分かったし、だから宗教的な男でした。彼はもちろん、主の臨在を一秒も疑ったことがない!
ですから、自分の信じている主にまあ、ささげものをしたのです。ささげものをしなければ、ちょっとうまくない。ご利益がない?
そのような動機から、ささげものをしてしまったのです。喜んで自発的にささげよう、そういう気持ちではなかったのです。そのような者では、もうおしまい。

人間は自発的にできなければ、主は、「もうやめて!いやです。」、という態度をお取りになります。
カインについて聖書はなんと言っているかと言いますと、彼は主に近づくべき者でした。これが祭司の務めでした。けども彼は、主の顔を避けて出た。主の御顔から離れてしまったと聖書は言っています。
回復されたかどうか、わかりません!、聖書はなにも言っていない。彼は結局、主を恐れなかった男でした。罪の自覚もなかったのです。

彼は自らを正しいとし、自らに満足していました。だから彼は、自分の身代わりとなってくださる救い主を、必要としなかったのです。
彼が、弟を殺す前に、誰かが彼のところへ行き、あんた近い内に弟を殺す、あなたは人殺しであるといった罪人であると言ったとしても、彼は絶対に受け入れなかったのです。ありえないと言ったでしょう。
結局、罪の自覚がなかった、自分の内にどういうものが入っているかわかろうとしなかった。カインだけでなく、ほかの多くの長男たちも同じ態度取ったのではないでしょうか。

ですから主は、今度は長男ではなく、レビ人たち、レビという部族を選ばれるようになりました。
彼らはやっぱり祭司の務めをするようになったのです。祭司の使命とは、何であったかといいますと、まず主に近づくことだったのです。祈ること、とりなすこと、そして主を礼拝することだったのです。
これこそすばらしい特権であります。

新約聖書の中で、イエス様によって導かれた人々は、みな例外なく祭司である。直接主に近づくことができる、特権に預かるようになったのです。
ホセア書4章の6節、主は次のように言われたのです。ここでレビ人だけではなく、イスラエルの国民全体問題になったのです。

ホセア書4:6
6わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。

そうするとおしまい。主が忘れたらもう終わりです。希望がない。
知識を退けることとは、もちろん主ご自身を退けるでしょう。イエス様についてコロサイ人への手紙、2章3節に次のように言ってます。

コロサイ人への手紙2:3
3このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

真の知識とはイエス様ご自身であると言えます。

コリント人への手紙第I、1:30
30しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

キリストはわたしたちにとって神さまの知恵となった。この知恵を退けると大変なことになります。
もちろんイスラエルの民は意識して退けたんです。光の内に歩みたくない、裸になりたくない、正直になりたくない。光を与えてくださいそういう気持ちが全然なかったのです。主よ話してください僕は聞いております。そういう気持ちもなかったのです。

知識を退ける結果とは、当たり前ですけど知識がないということです。知識がなければ人間はもちろん用いられなくなります。わたしの祭司となることができない。もう用いられ得ない。これこそが悲劇的なのではないでしょうか。
イエス様の生きておられる当時のパリサイ人や、律法学者たちに向かって、イエス様は言われたのです。「そんな思い違いをしているのは聖書も神さまの力も知らないからです。」 知らないこと、すなわち無知であることは恐ろしい結果をもたらすことです。その結果は、思い違いをして間違った方向に言ってしまう。結局信者として的外れな生活をするということです。

主はまことの真の礼拝者を求めておられます。
聖書を見ると、真の礼拝者についていろいろなこと書かれています。大体4,000年前に生きた男、ヨブについて聖書は次のように言っています。

このヨブ記とは、悩んでいる人々が非常に好んで読むのです。ヨブは短期間の内にすべてを失いました。病気を全く知らないほどだった彼は、重病人になりました。いままで楽しい家族の交わりを持っていた人は急に独りぼっちになったんです。なぜかは10人の子供がいっぺんに死んでしまったからです。
けど、子供が居なくても奥さんと楽しく過ごせればそれも良いけど、それもだめになったんです。彼女は一度主を信じたでしょうけども、ヨブの悩みの状態のときに、「もう結構です。十分です。あなたの神さまをのろいなさいよ。」、と言うんです。

自分の神さまじゃなかったらしい、「あなたの神さまをのろいなさい。そして自殺しなさい。どうせだめだから。」
助け手で在るべき彼女は、のろう者になったんです。友達もみんな彼を攻撃しました。みんな宗教的な男だったからです。こんな不幸を経験する者はやっぱり罪を犯したからです。
天罰として、この不幸がやって来た。悔い改めなければだめ!もちろん全財産も失いました。彼はどういう態度を取ったのでしょうか?ヨブ記1章の20節ですね。

ヨブ記1:20-21
20このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
21そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

ヨブはこのようになっても罪を犯さず神さまに愚痴をこぼさなかった。結局考えられない、理解しがたいことを経験した後で彼は礼拝した。
アモス書の中で、主のいやな礼拝について、厳しい言葉を書き記したのであります。アモス書の5章。このアモスも一人の主によって選ばれた預言者でした。
あまり教育を深く受けていなかったのでしょう、お百姓さんだったんです。けど、急に主の霊に生かされて、主によって変えられて、用いられるようになったのです。彼は大切なことを宣べたのです。

アモス書5:4
4まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。

いろいろな賜物ではないよ、わたしを求めて生きよ。現代人の多くは、賜物を求めています。主から何かをほしいと思っているのです。主ご自身と親しい交わりを持ちたくない。
たとえばみなさん買い物に行くとします。これとこれが必要ですから、ほしいから値段を支払って帰ります。別に悪くないよ。けども我々にとって大切なのは、自分のほしい品物だけでしょ?
この品物を売る店の主人は、別にどうでも良いよ。もう全く関係ない!自分のものをもらえばそれで良いだろう。多くの信じる者の態度はそういうものなんです。

「主よ与えてください、これほしい、ああしてください、こうしてください。」、ちょっと、イエス様はそういう商売人じゃないよ。大切なのは品物じゃなくて、品物を与える方です。
主を求めなければ結局心は満たされません。ほしいものを与えられたとしても。ですからここで、

アモス書5:4-5
4「わたしを求めて生きよ。
5ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。

全部礼拝する場所だったのです。彼らにとって大切な場所だったのです。

アモス書5:5-6
5ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。」
6主を求めて生きよ。

初めに読みましたヨハネの福音書の4章の中で、あのサマリヤの女も、「どこで礼拝すべきですか?」、場所を大切としたんです。
場所はどうでもいい。ある人々は、教会、集会場は特別に聖い場所だと考えています。とんでもない話し。主はどっこでも臨在しておられますから、風呂場の中でも礼拝できますよ。主を賛美することができます。O.K.!
結局大切なのは場所ではなく、主ご自身です。主を求めて生きよそうしなければ、人間はなにをやってもだめ!

アモス書5:21
21わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。

考えられない。わたしはあなた方の祭りを憎み、退ける。あなた方の聖めの集会の時の香りも、わたしはかぎたくない。たとえあなたがたが、全焼のいけにえや穀物の捧げものをわたしに捧げても、わたしはこれらを喜ばない!
あなたがたの肥えた和解のいけにえにも目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしからとうざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。

結局、自発的に、喜んで、礼拝の気持ちを知らなければ全ては無駄です!本物のイエス様はまことの礼拝者を求めておられます。
偽礼拝への主の判断は、「あなたがたの歌の騒ぎをわたしから遠ざけよ。」とあります。
ヨブは、まことの礼拝をささげたのであります。パウロも本当の意味でのまことの礼拝者だったのではないでしょうか。彼の証しを読むとわかります。

私にとって得であったものを、私はキリストのゆえに損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるイエス・キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、一切のことを損と思っています。
私はキリストのために、全てのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

この心構えこそが、まことの礼拝なのではないのでしょうか?
疑いもなく、ダビデも御心にかなう者として、本当の意味での礼拝者だったのではないでしょうか?ダビデの書いた詩篇を読むとわかります。
彼は、もっとも深い苦しみの中にあっても、また非常な絶望に陥っているときも、逃れ道が見えず前途が真っ暗な状態の時も、ひたすらに主を礼拝したのであるとわかります。

神さまの道は、いつも私たちの願いと同じとは限りません。これこそをダビデは経験しました。主はある時彼に何と言ったかと言いますと。「あなたの生まれる子供は必ず死にます。」 大変なのではないのでしょうか?今朝一人の姉妹も、「近い内にある奥さんに会ってもらいたい。子供を産んだのですけど死産でした。もうその奥様は、食事ものどにとうらなくなってしまいました。」

ダビデは、子供が生まれる前に知らされていた。「あなたの生まれる子供は必ず死ぬ。」
もちろん彼は、自分の子供を愛しましたし、主に請い求めましたし祈りましたし.断食しましたし夜中祈りを捧げたと聖書は言っています。本当に地にひれ伏して、小さくなって叫んだのですけど全部無駄でした。主は聞こうとしなかったんです。子供は死にました。
多くの人はかかるたち場に置かれると、「なぜでしょう。どうして?」と考えるでしょう。聖書はなんと言っているかと申しますと。

ダビデは衣を変えて主の家に入って礼拝した。しもべたちは、ダビデの子供が死ぬ前に、王様はあんまり悩んだからもう死んだとわかれば、もうおしまいじゃないかと心配したのです。
けど違うんです。死んだと聞いたとき、衣をかえて主の家にはいって礼拝した。主はそういう人々を捜し求めておられるのです。
詩篇の40篇を見ると、彼はどうして礼拝したのかと、ちょっと書かれています。

詩篇40:1-3
1私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
2私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

詩篇40:5
5わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。

これは、もちろん全く彼の個人的な祈りです。誰もいなかったはずです。主の前に、彼は祈って、讃美して主を礼拝したのです。けども一人だけではなく国民の前にも、彼は公に主を礼拝したのです。
彼の公の讃美の言葉が出てきます。結局、私は大切ではない、一度王になった、世界を治める者になったけど、すべてのものが主のものであるべきですと、彼は心から思ったのであり、みんなの前に感謝したのです。

歴代誌第I、29:10-13
10ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。
11主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
12富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
13今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。

ダビデとは、姦淫の罪を犯しましたし、殺人の罪まで犯してしまったんです。どうして彼は、御心にかなう者になったのでしょうか?
彼は本当に自発的に、喜んで、こころから主を礼拝することができたからです。

詩篇66:1-20
1全地よ。神に向かって喜び叫べ。
2御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。
3神に申し上げよ。「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します。
4全地はあなたを伏し拝み、あなたにほめ歌を歌います。あなたの御名をほめ歌います。」セラ
5さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。
6神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。
7神はその権力をもってとこしえに統べ治め、その目は国々を監視される。頑迷な者を、高ぶらせないでください。セラ
8国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ。神への賛美の声を聞こえさせよ。
9神は、私たちを、いのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない。
10神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、私たちを練られました。
11あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷を着けられました。
12あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。
13私は全焼のいけにえを携えて、あなたの家に行き、私の誓いを果たします。
14それは、私の苦しみのときに、私のくちびるが言ったもの、私の口が申し上げた誓いです。
15私はあなたに肥えた獣の全焼のいけにえを、雄羊のいけにえの煙とともにささげます。雄牛を雄やぎといっしょに、ささげます。セラ
16さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。
17私は、この口で神に呼ばわり、この舌であがめた。
18もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。
19しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。
20ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。




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