引用聖句:ヨハネの福音書4章20節-24節
このヨハネの福音書4章は非常にすばらしい書であります。「無知であってはいかん」、というテーマを付けることができるかもしれない。 『知る』という言葉よくでてきます。パウロも当時のイエス様に出会って、救われた人々のために必死になって祈ったんです。「真の知識に満たされますように。」、真の知識もあり、まったく役に立たない知識もある。 知るという言葉はまず、10節にでてきますね。イエス様は答えて言われた。 ヨハネの福音書4:10
もちろん彼女は頼むようになったんです。「先生、お願いします。」、ここまで来なくても良いように、生ける水を与えて〜。彼女は生ける水を永遠の命を、変わらぬ喜びを持つようになったのです。 もし知るならば、知ることとは体験的に知ることです。頭の知識とまったく関係ないものです。そして2番目の知るという言葉は、22節に出てきますね。 ヨハネの福音書4:22
それはまったく無意味です。そして知らせてもらえなければ、もちろんだめ!、と25節に書かれています。 ヨハネの福音書4:25
もちろん彼女は、体験的にそれを知るようになったのです。イエス様の弟子たちも、ちょっと無知だった。イエス様の言うことをなかなかわからなかったから、32節に書かれています。 ヨハネの福音書4:32
結局、イエス様にとって、すべてのすべてなのは、父の御心を行うことでした。「普通の食べ物があってもなくても、もういいよ、父の御心が実現されれば、わたしは満足しきっています。」と、イエス様は言われたのです。弟子たちにとって考えられない世界でした。 そしてこのサマリヤ人だけではなく、サマリヤ人たちの他の人々も結局、知るようになった。39節。 ヨハネの福音書4:39-42
これも、まことの真の知識だったのであります。 そしてもう一人の人、、王国の役人も結局知るようになったと書いてあります。49節から。 ヨハネの福音書4:49-53
と、あります。知ることとは本当に大切です。 真の知識に満たされるようにと、パウロは信じる者のために毎日毎日祈りました。おそらくパウロは、未信者に対する重荷をもちろん感じましたし、彼らの救いのために祈りましたし、けども彼らを納得させようという気持ちがなかったようです。イエス様を紹介すれば、早く手を引いた方が早道じゃあないかと、思ったようです。 私たちはよくね、いろいろなことを教えなければ、大変なのだと思っているのではないでしょうか? 結局、「私たちでなければ人々は救われない。」、大変な傲慢の表れなのではないのでしょうか。おかしいよ。イエス様を紹介すれば、そしてイエス様よろしく、私のできることはもう終わった。今度はあなたさまの番です、という態度を取った方が良いでしょう。 パウロはこの態度を取り続けたから、そんなに重荷ではなかったんです。けど、信じる者がなかなか成長しなかったから、いやぁ〜大変だ! パウロは涙ながらに祈ったし、手紙を書いたのです。結局、真の知識に満たされなければ大変。けども、真の知識を与えることができるのは、もちろんパウロではない、ペテロでもない、ヨハネでもない、真理の御霊と呼ばれている聖霊だけです。 聖霊の働きによってのみ、真の知識が与えられます。これは勉強した結果ではない、努力した報いでもない!ですから、注意すべきなのは、違った霊も働いている。真理の霊だけではない! 真理の御霊が働くと、本物のイエス様の御栄光を拝するようになります。イエス様ははっきりと、真理の御霊についてなんと言ったかと言いますと、御霊は人間の思い通りに動くとは言わなかったんです。 多くの教会は一緒になって、大きな集会を造ろう。計画を立てて、計画を建てるのはもちろん金も必要なんです。それからは教会は、こじきのように献金しなさい、献金しなさい、献金しなさい、と言うようになるんです。これは決して証しにならない。お金が必要ならば、イエス様は必ず与えてくださる。 けども、みんなリバイバルが起こらなければ大変だ、もちろんその通りです、けどリバイバルとは人間の造るものじゃない。いくら自分勝手に祈っても、自分勝手に断食しても意味のないことです。違った霊の働きの結果です。 御霊はイエス様の栄光を現します。それだけなんです! イエス様の栄光が現されると人間は本当に喜びに満たされるようになります。結局違う霊もあるし、別のイエス様もあると、聖書は言ってます。従って、異なった福音もあります!福音、福音といっても、決して喜ばしい教えではない。 コリント人への手紙第II、1章11節にパウロは自分の時代について次のように言ったのであります。 コリント人への手紙第II、11:4
だからこそ、このコリントの兄弟姉妹は全然成長しなかったのです。結局惑わされてしまったんです。彼らは困った時、確かに祈ったと思います。 「困ったから助けて。」、けども、みんなそう思うのではないのでしょうか?主はそういう祈りを一度聞くでしょうけど、聞きうけない場合は多い。本人にとって、一時的な解決だけを求めているにしか過ぎないからです。 「私の問題を早く解決して〜。」、そうではなく、「私は惨めなんです、どうしようもない者です。あわれんでくださ〜い、導いてください。」、こういう祈りはすぐ応えられます。 パウロはガラテヤ人への手紙1章に、次のように書いたのです。彼らはやっぱり惑わされやすい人々だったんですね。 ガラテヤ人への手紙1:6-8
聖書ははっきり、異なった霊、別のイエス様、異なった福音についていっているのであります。 アメリカで一番テレビに出る、テレビ牧師が宣べ伝えている福音は、どういうものであるかと言いますと、イエス.キリストを信じると問題はなくなる、間違いなく金持ちになる、病気はいっぺんに癒される、興味が沸くでしょう?非常に魅力的です。 けども、聖書の言っていることは違う!結局、異なった福音です。本物ではない。主は人間のほしいものを与えようとはしません。もっと、わがままになっちゃうから。主は人間の必要なものだけを与えてくださるのです。 イエス様によって受け入れた人々とは、みんな救われています。救いとはなんでしょうかね、? 救いとは聖霊の宮になることです。神さまの住まいになることです。けどももし、御霊さまが一度、半分ぐらい無視されているお客さまであれば、大変な問題なのではないでしょうか。 御霊さまは導くことができなければ、教えることができなければ、その信者の生活とはみっじめなものになります。従って信じる者に、もっとも大切なのは聞く耳を持つことです。 「主よ語ってください、僕は聞いております。」、聞く耳があれば、真の知識が与えられ、真の知識が与えられれば、人間はこころから主を礼拝するようになります。 ヨハネの黙示録の中で、一つの初代教会の気持ちを表す言葉が書き記されています。ヨハネの黙示録1章5節の後半から、 ヨハネの黙示録1:5-6
イエス様にだけ栄光あれ!これこそ前に言われました、ヨハン.セバスチャン.バッハの切なる願いだったのです。 自分はのけものにされても、無視されても、人気者にならなくてそんなこともうどうでもいい!イエス様が中心になれば、私は喜ぶ!これこそが、初代教会の告白であり、またこころからの願いでした。 私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。そういう心構えがあれば、人間を恐れる恐れから開放されます。あらゆる心配、不安から、恐怖から開放されるようになります。 ここで、イエス様が私たちを祭司としてくださったと書かれています。祭司の代わりに、牧会する者と言っても良いでしょう。牧師と言っても良いでしょう、でも牧師とは決して単数形じゃなくて複数形でなくてはならない、主に出会った兄弟姉妹は、みっんな牧会しないとうまく行きません。 ですから多くの教会は、非常に悩んでいます。牧師さんたちは熱心ですよ、一生懸命ですけど全部自分でしなければだめ、自分は専門家だから、他みんな平信徒です。 そういう態度であれば、主は祝福しない。みんなみことばを語らなければ、何もならない。 旧約聖書のなかでは一体どういうことだったのでしょうか?民数記の8章を見ると次のように書かれています。 民数記8:14
民数記8:16
民数記8:24
会見の天幕の奉仕とは、祭司として務めることであります。 はじめにはどうであったかと言いますと、最初に生まれた初子、長男は、家族の祭司として選ばれたのです。長男は結局、家族の代表として主に近づくべきものでした。家族の者を主のご臨在の中に導く者だったのです。 長男によって違うようになっちゃったから、途中で代わったんです。たとえば、初めての長男は誰であったかみなさんご存知でしょう?カインだったんです。 結局、彼は主の前に立つ者であったし、家族の永遠の幸せのためにとりなすべき者だったのです。けど、彼はそういう気持ちを知らなかったんです。 ヨハネの手紙第Iの3章を見ると、彼について次のように書かれています。 ヨハネの手紙第I、3:12
イエス様はアベル、弟についてなんと言ったかと言いますと、「彼は義人だった」、が生まれつきの義人はいない。 正しい人はいない、一人もいない、善を行う人はいない一人もいない。彼はどうして、義人と呼ばれ、主によって受け入れられたかといいますと、もちろんへりくだったからです。 私のために犠牲になるお方がいなければ、私の味方になってくださるお方がいなければ、もうおしまいと、彼ははっきりと分かったのです。 もちろん長男であるカインは、自分は祭司であるべきだと分かったし、だから宗教的な男でした。彼はもちろん、主の臨在を一秒も疑ったことがない! ですから、自分の信じている主にまあ、ささげものをしたのです。ささげものをしなければ、ちょっとうまくない。ご利益がない? そのような動機から、ささげものをしてしまったのです。喜んで自発的にささげよう、そういう気持ちではなかったのです。そのような者では、もうおしまい。 人間は自発的にできなければ、主は、「もうやめて!いやです。」、という態度をお取りになります。 カインについて聖書はなんと言っているかと言いますと、彼は主に近づくべき者でした。これが祭司の務めでした。けども彼は、主の顔を避けて出た。主の御顔から離れてしまったと聖書は言っています。 回復されたかどうか、わかりません!、聖書はなにも言っていない。彼は結局、主を恐れなかった男でした。罪の自覚もなかったのです。 彼は自らを正しいとし、自らに満足していました。だから彼は、自分の身代わりとなってくださる救い主を、必要としなかったのです。 彼が、弟を殺す前に、誰かが彼のところへ行き、あんた近い内に弟を殺す、あなたは人殺しであるといった罪人であると言ったとしても、彼は絶対に受け入れなかったのです。ありえないと言ったでしょう。 結局、罪の自覚がなかった、自分の内にどういうものが入っているかわかろうとしなかった。カインだけでなく、ほかの多くの長男たちも同じ態度取ったのではないでしょうか。 ですから主は、今度は長男ではなく、レビ人たち、レビという部族を選ばれるようになりました。 彼らはやっぱり祭司の務めをするようになったのです。祭司の使命とは、何であったかといいますと、まず主に近づくことだったのです。祈ること、とりなすこと、そして主を礼拝することだったのです。 これこそすばらしい特権であります。 新約聖書の中で、イエス様によって導かれた人々は、みな例外なく祭司である。直接主に近づくことができる、特権に預かるようになったのです。 ホセア書4章の6節、主は次のように言われたのです。ここでレビ人だけではなく、イスラエルの国民全体問題になったのです。 ホセア書4:6
そうするとおしまい。主が忘れたらもう終わりです。希望がない。 知識を退けることとは、もちろん主ご自身を退けるでしょう。イエス様についてコロサイ人への手紙、2章3節に次のように言ってます。 コロサイ人への手紙2:3
真の知識とはイエス様ご自身であると言えます。 コリント人への手紙第I、1:30
キリストはわたしたちにとって神さまの知恵となった。この知恵を退けると大変なことになります。 もちろんイスラエルの民は意識して退けたんです。光の内に歩みたくない、裸になりたくない、正直になりたくない。光を与えてくださいそういう気持ちが全然なかったのです。主よ話してください僕は聞いております。そういう気持ちもなかったのです。 知識を退ける結果とは、当たり前ですけど知識がないということです。知識がなければ人間はもちろん用いられなくなります。わたしの祭司となることができない。もう用いられ得ない。これこそが悲劇的なのではないでしょうか。 イエス様の生きておられる当時のパリサイ人や、律法学者たちに向かって、イエス様は言われたのです。「そんな思い違いをしているのは聖書も神さまの力も知らないからです。」 知らないこと、すなわち無知であることは恐ろしい結果をもたらすことです。その結果は、思い違いをして間違った方向に言ってしまう。結局信者として的外れな生活をするということです。 主はまことの真の礼拝者を求めておられます。 聖書を見ると、真の礼拝者についていろいろなこと書かれています。大体4,000年前に生きた男、ヨブについて聖書は次のように言っています。 このヨブ記とは、悩んでいる人々が非常に好んで読むのです。ヨブは短期間の内にすべてを失いました。病気を全く知らないほどだった彼は、重病人になりました。いままで楽しい家族の交わりを持っていた人は急に独りぼっちになったんです。なぜかは10人の子供がいっぺんに死んでしまったからです。 けど、子供が居なくても奥さんと楽しく過ごせればそれも良いけど、それもだめになったんです。彼女は一度主を信じたでしょうけども、ヨブの悩みの状態のときに、「もう結構です。十分です。あなたの神さまをのろいなさいよ。」、と言うんです。 自分の神さまじゃなかったらしい、「あなたの神さまをのろいなさい。そして自殺しなさい。どうせだめだから。」 助け手で在るべき彼女は、のろう者になったんです。友達もみんな彼を攻撃しました。みんな宗教的な男だったからです。こんな不幸を経験する者はやっぱり罪を犯したからです。 天罰として、この不幸がやって来た。悔い改めなければだめ!もちろん全財産も失いました。彼はどういう態度を取ったのでしょうか?ヨブ記1章の20節ですね。 ヨブ記1:20-21
ヨブはこのようになっても罪を犯さず神さまに愚痴をこぼさなかった。結局考えられない、理解しがたいことを経験した後で彼は礼拝した。 アモス書の中で、主のいやな礼拝について、厳しい言葉を書き記したのであります。アモス書の5章。このアモスも一人の主によって選ばれた預言者でした。 あまり教育を深く受けていなかったのでしょう、お百姓さんだったんです。けど、急に主の霊に生かされて、主によって変えられて、用いられるようになったのです。彼は大切なことを宣べたのです。 アモス書5:4
いろいろな賜物ではないよ、わたしを求めて生きよ。現代人の多くは、賜物を求めています。主から何かをほしいと思っているのです。主ご自身と親しい交わりを持ちたくない。 たとえばみなさん買い物に行くとします。これとこれが必要ですから、ほしいから値段を支払って帰ります。別に悪くないよ。けども我々にとって大切なのは、自分のほしい品物だけでしょ? この品物を売る店の主人は、別にどうでも良いよ。もう全く関係ない!自分のものをもらえばそれで良いだろう。多くの信じる者の態度はそういうものなんです。 「主よ与えてください、これほしい、ああしてください、こうしてください。」、ちょっと、イエス様はそういう商売人じゃないよ。大切なのは品物じゃなくて、品物を与える方です。 主を求めなければ結局心は満たされません。ほしいものを与えられたとしても。ですからここで、 アモス書5:4-5
全部礼拝する場所だったのです。彼らにとって大切な場所だったのです。 アモス書5:5-6
初めに読みましたヨハネの福音書の4章の中で、あのサマリヤの女も、「どこで礼拝すべきですか?」、場所を大切としたんです。 場所はどうでもいい。ある人々は、教会、集会場は特別に聖い場所だと考えています。とんでもない話し。主はどっこでも臨在しておられますから、風呂場の中でも礼拝できますよ。主を賛美することができます。O.K.! 結局大切なのは場所ではなく、主ご自身です。主を求めて生きよそうしなければ、人間はなにをやってもだめ! アモス書5:21
考えられない。わたしはあなた方の祭りを憎み、退ける。あなた方の聖めの集会の時の香りも、わたしはかぎたくない。たとえあなたがたが、全焼のいけにえや穀物の捧げものをわたしに捧げても、わたしはこれらを喜ばない! あなたがたの肥えた和解のいけにえにも目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしからとうざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。 結局、自発的に、喜んで、礼拝の気持ちを知らなければ全ては無駄です!本物のイエス様はまことの礼拝者を求めておられます。 偽礼拝への主の判断は、「あなたがたの歌の騒ぎをわたしから遠ざけよ。」とあります。 ヨブは、まことの礼拝をささげたのであります。パウロも本当の意味でのまことの礼拝者だったのではないでしょうか。彼の証しを読むとわかります。 私にとって得であったものを、私はキリストのゆえに損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるイエス・キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、一切のことを損と思っています。 私はキリストのために、全てのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 この心構えこそが、まことの礼拝なのではないのでしょうか? 疑いもなく、ダビデも御心にかなう者として、本当の意味での礼拝者だったのではないでしょうか?ダビデの書いた詩篇を読むとわかります。 彼は、もっとも深い苦しみの中にあっても、また非常な絶望に陥っているときも、逃れ道が見えず前途が真っ暗な状態の時も、ひたすらに主を礼拝したのであるとわかります。 神さまの道は、いつも私たちの願いと同じとは限りません。これこそをダビデは経験しました。主はある時彼に何と言ったかと言いますと。「あなたの生まれる子供は必ず死にます。」 大変なのではないのでしょうか?今朝一人の姉妹も、「近い内にある奥さんに会ってもらいたい。子供を産んだのですけど死産でした。もうその奥様は、食事ものどにとうらなくなってしまいました。」 ダビデは、子供が生まれる前に知らされていた。「あなたの生まれる子供は必ず死ぬ。」 もちろん彼は、自分の子供を愛しましたし、主に請い求めましたし祈りましたし.断食しましたし夜中祈りを捧げたと聖書は言っています。本当に地にひれ伏して、小さくなって叫んだのですけど全部無駄でした。主は聞こうとしなかったんです。子供は死にました。 多くの人はかかるたち場に置かれると、「なぜでしょう。どうして?」と考えるでしょう。聖書はなんと言っているかと申しますと。 ダビデは衣を変えて主の家に入って礼拝した。しもべたちは、ダビデの子供が死ぬ前に、王様はあんまり悩んだからもう死んだとわかれば、もうおしまいじゃないかと心配したのです。 けど違うんです。死んだと聞いたとき、衣をかえて主の家にはいって礼拝した。主はそういう人々を捜し求めておられるのです。 詩篇の40篇を見ると、彼はどうして礼拝したのかと、ちょっと書かれています。 詩篇40:1-3
詩篇40:5
これは、もちろん全く彼の個人的な祈りです。誰もいなかったはずです。主の前に、彼は祈って、讃美して主を礼拝したのです。けども一人だけではなく国民の前にも、彼は公に主を礼拝したのです。 彼の公の讃美の言葉が出てきます。結局、私は大切ではない、一度王になった、世界を治める者になったけど、すべてのものが主のものであるべきですと、彼は心から思ったのであり、みんなの前に感謝したのです。 歴代誌第I、29:10-13
ダビデとは、姦淫の罪を犯しましたし、殺人の罪まで犯してしまったんです。どうして彼は、御心にかなう者になったのでしょうか? 彼は本当に自発的に、喜んで、こころから主を礼拝することができたからです。 詩篇66:1-20
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