引用聖句:使徒の働き5章1節-11節
ヘブル人への手紙12:14
パウロの生活を観察すると、主の御心をはっきりと悟ることができるんじゃないかと思います。 パウロはいつも宣教師、伝道者として歩き回りましたが、けれども彼は、ただ一つの目的をもっていました。すなわちイエス様のからだである教会を建てようと努めていました。 どうしてであるかと言いますと、イエス様の御目的も同じです。「わたしは、わたしの教会を建てよう。」と。この時代における主なる神の主な目的というのは、イエス様のからだ、すなわち「からだなる教会」です。 パウロは、この御旨の奥義を啓示によって見ることができました。そして誤解があっても迫害があっても、パウロは心を全うして、イエス様のからだである教会のために働いたのです。 我々は何の目的をもっているのでしょうか。御存知のようにイエス様もからだなる教会も、いわゆる宗教と関係のないものです。いのちです。 聖書は、他の宗教と違って上からの神からの啓示です。一つの教えではありません。一つの教えではないから、学ぶことはできません。 聖書は、主なる神のみことばであり、そしてイエス様も神のことばと呼ばれています。したがって、私達は一つの教えを学ぶ代わりに一つの人格、すなわちイエス様ご自身を知ることです。 私達は、イエス様について色々な知識を得るかわりに、イエス様ご自身を知るべきです。 救われた人々とは、どういう人々をいうのでしょうか。イエス様を体験的に知るようになった人々です。もし、生ける唯一の神が罪人の内に、御子主イエス様を啓示された時、その罪人は救われます。 同じように、イエス様のからだなる教会は何であるかが、頭で理解することができません。 もしパウロが啓示を必要としていたなら、我々も啓示を必要とするのではないでしょうか。必要なのは、決まった必要条件を満たすのでしょうか。 あらゆる時代においても、主なる神の完全な御心を実現することだけに主の祝福があったということが、聖書にはっきり記されています。ちょっと旧約聖書のイザヤ書から一箇所読みます。 イザヤ書59:1-2
だから、悪口を言う人と陰口をききたい人がいます。 不信仰と人間的な考え方は、兄弟姉妹の中であるのではないでしょうか。霊的に浮浪者の生活をする人は少ないのではないでしょうか。 絶えず覚えるべきなのは、兄弟姉妹に対して抱いている思いは、結局イエス様を敵としてこれに向くことなのです。 兄弟姉妹の不一致は弱さだけじゃなくて、イエス様を否定することも含まれています。 一致はイエス様の栄光を現し、不一致は人間の人間たるゆえんを現します。一致は兄弟姉妹のお互いの愛を現します。 離れること、分裂の霊は、イエス様のからだなる教会の一致を壊してしまいます。 すべての信者に対する愛の欠乏は、主イエス様を否定することを意味します。イエス様は、からだの一致を通して栄光を現されなければいけません。 悪魔は、あらゆる統一が大嫌いです。ですから悪魔は、人間を通してあらゆる時代においても、この教会の統一を破壊しようと努力しました。 この悪魔の攻撃によって、初代教会のアナニヤとサッピラは、悪魔の道具となって大きな罪を犯したのです。ですから、教会は制限されたのです。 信者たち皆が生きている神の宮です。聖霊の宿であると書いてあります。 よく知られている箇所ですけれど、もう一回読みます。 コリント人への手紙第I、3:16-17
イエス様のからだである教会は、主なる神の目的、また御心であるから主の宮を破壊する者は、破壊する者に対する裁きは本当に厳しいのであります。神はその人を滅ぼすとあります。 悪魔はアナニヤとサッピラを通して神の宮、すなわち教会の統一を迫害しましたから、主から恐ろしく裁かれました。 主なる神は、御自分の宮を破壊する人を滅ぼします。絶えず覚えるべき真理なのではないでしょうか。私達は、このみことばの厳しさを感じているのでしょうか。神はその人を滅ぼすとあります。 けれども同じく罪を認めた人は、一番恵まれている人という事実も経験したでしょう。認めれば、へりくだれば、主はあふれるばかりの恵みを与えてくださるのです。 もし一人ひとりが陰口の罪を告白しなければ、隠されているすべての罪を告白しなければ、主は祝福することはないし、導くこともないし、守ることもできません。 集会にきても、ひたすら祈っても、けれども一つにならなければ全部無駄です。罪を告白したら初めて聖霊の自由があり、イエス様の喜びと平安を経験することができます。 私達のイエス様は生きておられますが、けれども無力なのではないでしょうか。無力な主イエス様について話すと、話すのは一体どういうことなのでしょうか。 間違いなく私達は、主なる神の全能について話しますけれども、イエス様の有限についてあまり話しません。一方はイエス様は全能なる神であり、他方はイエス様が限りを持っているのです。 解かるためにちょっと2、3箇所見てみましょうか。 マタイの福音書13:23
多くの信者の悩みとは、実がないということです。けれども、みことばは力強いものであることを聖書ははっきりと教えています。 たとえば、イザヤ書55章11節を見ると次のように書かれています。 イザヤ書55:11
また、イエス様は弟子たちに言われました。 ヨハネの福音書15:16
解かるように、父なる神のみことばは力強い。実を結ぶみことばです。けれども、罪がみことばをふさぐので、実を結ばなくなる人のことであると聖書は言っています。 何という多くの信者は、奇跡を行う力強いみことばを制限するのでしょう。私達は聖霊に満たされているか、空っぽの樽のような者であるかのどちらかです。 どうしてですか。主のせいですか。みことばは、あまりにも役に立たないものなのでしょうか。聖書の答えは、このイザヤ書59章1節、2節なのではないかと思います。 イザヤ書59:1-2
マタイの福音書23:37
何という大きな主のあこがれでしょう。イエス様は民との親しい交わりを欲しかったんです。「あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」 めんどりが翼の下にそのひなを集めるように主が我々を全能の下に集めようと愛の努力をしました。 けれども多くの信者は応じようとしなかったのですから、イエス様の全能と富と満たしを経験しなかったのです。これは主のせいでしょうか。 「あなたの救い主の声を聞いてください。わたしはあなたとの親しい交わりを欲しいのです。」、この主イエス様のあこがれに対する答えはどうでしょうか。 私達は、かたくなな傲慢な心を持って、自分の選んだ道を続けようと思いますか。それとも自分の罪を新しく悔い改めて、尊い流された血に感謝し、自分を新たに主イエス様に明け渡そうと思いませんか。 天と地獄が、私達がこれからイエス様に答える答えを聞き耳を立てて待っています。 もしイエス様が、「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。」と言えば災いです。もし人が神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすのです。 「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。」、何という厳しいことばでしょう。 旧約聖書の民数記を見ると、主の悩みについて書き記されています。 民数記14:22-23
主なる神は、イスラエルの民にカナンという国を確かに約束されました。イスラエルの民にとってカナンの地は食料、喜び、満たし、実、勝利を意味していましたけれども、民は不信仰であり、不従順でしたので、約束された国へ入らなかったばかりじゃなくて、200万人の人々が途中で死んでしまいました。 全能の神は、不信仰の罪によって制限されたのです。罪によって無力になった主は、ご自分の約束を実現することができませんでした。 また、イザヤ書59章1節、2節を見ると、結局同じ事実について書かれています。 イザヤ書59:1-2
主はどうして私達の多くの祈りを聞くことができなかったのでしょうか。 信者たちはしばしば、喜びのない空っぽの樽のようなものです。どうしてでしょうか。これは主のせいでしょうか。いえ絶対にそうではない。 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。 全能なる神が何もできない。罪によって、主の全能が有限にされています。 批評的な考え方によって、隠された罪によって、悪口を言う人によって、主の御手が短くて救えないのであり、その耳が鈍くて聞きえないのであるとこの箇所を通してはっきり知ることができます。 私達は決して主を助けることができません。できることは、主を妨げることです。 自分の罪を新しく、半分だけじゃなくて徹底的に悔い改め、尊い血潮に感謝し、自分を新たにイエス様に明け渡そうと思いませんか。 マラキ書3章10節もよく引用される箇所です。主は祝福したいけれども、条件付きです。 マラキ書3:10
何ということばでしょう。万軍の主はイスラエルのために、あふれる恵みを注ごうと思われたんです。けれども主はこれをやることが出来なかった。何でも出来る方が出来なかった。なぜなら、信者たちは十分の一を主に捧げませんでしたから。 わたしたちは十分の一、また自分自身を大喜びで主に捧げますか。十分の一全部わたしの倉に携えて来なさい。これをもって、わたしを試み、わたしが天の窓を開いてあふれるばかりの祝福をあなた方に注ぐか否か見なさい。万軍の主が言われる。 もし私達が必要条件を満たしたら、あふれる恵みを経験します。 マルコの福音書1:40-45
何という奇跡だったでしょう。イエス様は深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」、するとすぐに、そのらい病が消えてその人はきよくなった。 そしてイエス様は、この癒された人に命じられました。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」 しかし彼は出て行って、自分の身に起こったことをさかんに語りました。ですからイエス様は、もはや表立っては町に入ることができなくなりました。 万軍の主は、「きよくなれ。」と言われた時、その人はきよくなりました。けれども、同じ全能の主は町に入ることが出来なくなりました。 「イエスはもはや出来なくなった。」と書いてあります。不従順は主が制限されます。人間的な考えによって、全能の主は無力になります。主はどうして、続いて福音を述べ伝え、奇跡を行うことが出来ませんでしたか。 主から癒された人、イエス様を経験した人、すなわち信者によってイエス様はもはや出来なくなったとあります。 もし主は、不従順によって、人間的な考えによって、友達、家族、親戚を救うことができなかったら災いです。 イエスはもはや出来なくなった。何という恐るべきことばでしょう。 マルコの福音書6:1-5
もちろんすべての病人を癒そうと思った。けれども全能なる主はできなかった。 ここでイエス様は安息日になった時、会堂で教え始めました。その時、イエス様のテーマとはイザヤ書61章だったのです。 イザヤ書61:1
そしてイエス様も少数の病人に手を置いて癒されました。けれどもイエス様は、万軍の主として力強い業と奇跡を行おうと思ったんですけれども、不信仰によって一つもそれをすることができなかった。 何でもできるお方はできなかった。 イエス様は我々を見ると、私達の不信仰を驚きあやしまれるでしょうか。私達の憎むべき不信仰のために、何と多くの人々は悪魔の奴隷なのでしょうか。イエス様はこの不信仰のために一つもすることができなかった。 昔から私の大好きな大好きなことばは、歴代誌第II、16章9節なんです。 歴代誌第II、16:9
万軍の主は、今日も一生懸命探しておられます。なぜなら、主は奇跡を行う力を現したいのですから。 けれども、主に向かって心を全うしている人がなければ、高く引き上げられた主は、ご自分の全能を現すことができないのです。全能の主は、分かたれた心のために無力な主になりました。 ヨシュアの告白は、皆さんよく知っているのですけれども、 ヨシュア記24:15
主なる神は、全能の主です。けれども罪によってこの全能が制限されます。 私達は、決して主を助けることが出来ないということを、私達は日々信仰の霊によって学ばなければなりません。 他方は、私達は罪の力によって神を妨げることができるのです。天地の創造者である全能の主は、我々によって妨げられてしまいます。私達は主の力を妨げることを全部捨てようと思いませんか。私達は、見えるもの感じるものによりますか、それとも信仰によって前進するのでしょうか。 主は霊的に死んでしまった者を、今日も生きかえすことができるのです。力強い霊的な覚醒を与えることができる主であります。 これを堅く信じるでしょうか。 それとも不信仰、不従順によって悪口によって、主の力を妨げるのでしょうか。 前に教会の大切さについて話ましたが、もう一回言いたいのです。主なる神の目的は、決して個人個人の信者ではなく、イエス様のからだである教会です。 永遠から永遠にわたる主のご計画は、教会です。私達の祝福が問題なのではない、主ご自身の喜びと満足が問題なんです。 そして主の満足とは、個人個人の信者じゃなくて教会、すなわちイエス様のからだであります。エペソ人への手紙を見ると、この事実についてはっきり書かれています。 エペソ人への手紙3:21
教会とは、主の器、用いられる道具であるべきです。 エペソ人への手紙1:23
からだはその人の人格を現します。同じようにイエス様は、からだを通して信じる者を通して現されなければならないのです。 どうですかね、私達はイエス様の最後の権威と栄光を現すのでしょうか。それとも主の力を妨げているのでしょうか。 イエス様の現す手段は、からだだけです。すなわち信者たちだけです。従ってイエス様がご自分の栄光と満たしを現すかどうかが、我々の責任です。 罪によって、主なる神の全能が有限にされています。たとえば悪口を言う人によって、主の手が短くて救いえないのであり、その耳がにぶくて聞きえないのです。 兄弟姉妹に対して抱いている思い、また陰口は、結局神の宮を破壊することを意味するのです。そして、人が神の宮を破壊するならば、神はその人を滅ぼすとあります。 十分の一を主に捧げなければ、意味は自分の意思を主に明け渡さなければ決して約束されたあふれる恵みを経験することができません。不従順は、主が制限されます。人間的な考えによって全能の主が無力になります。 イエス様は、万軍の主として力強い業と奇跡を行おうと思っていますが、不信仰のために一つもすることができなかったとあります。 何と多くの信者は、奇跡を行う力強いみことばを制限するのでしょう。そして多くの信者は、応じようとしたくないのですから、主の全能と主の富、主の満たしを経験することができません。 イスラエルの民の不信仰と不従順の罪によって、全能の神は制限されたのです。罪によって無力になった主は、ご自分の約束を実現することが出来なかったのです。我々の憎むべき不信仰のために、何と多くの人々は悪魔の奴隷なのでしょうか。 イエス様は、この不信仰のために一つも働くことができないのです。 私達は自分の罪を新しく悔い改めて、尊い血潮のために感謝し、自分自身を新たに主に明け渡そうと思いませんでしょうか。 |