引用聖句:列王記第II、5章1節-14節
今度の日曜日は五旬節です。日本のカレンダーに出てこないけどね。ドイツで非常に大切にされる日です。あちこちで大きな集会があり、アイドリンゲンでも少なくても、四、五千人が集まります。八千人集まるところもあります。 けど、みな若者です。たぶん三十歳まで。そしてご存知、いろんなことがあり、準備はもちろん大変です。そういう大きな部屋がないから、やっぱり大きな、何千人も入る天幕のようになるんですね。立つ子どもも入るんだし、聖書の中でももちろん五旬節は非常に大切です。 もちろん聖書の言ってることと、普通の宗教の違いとはどういうものであるかと言いますと、宗教的な考え方とは人間が大切です、人間が何を信ずるべきか、何をやるべきか。結局人間が頑張れば何とかなる。これが宗教的な考えなんです。 聖書の考え方とは違う。人間の考えてること、もってることとはもう主は受け入れられない。主ご自身が働くことができなければ、実にならない。全部的外れです。人間もある意味でそれを感じているから、やっぱりすべてはちょっとおもしろくない。けども、イエス様のこの世に来られたひとつの目的とは、人間はまことの喜びに浸るることです。 イエス様は、ヨハネの福音書の中ですけども、次のように言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」 主の提供してくださる喜びとは、もちろんいうまでもなく、嬉しくって嬉しくってしょうがないという気持ちなんです。そういう気持ちがあっても長くは続かない。 夕べも、あるぺっちゃんこになった奥さんと会いまして、ご主人は最近亡くなったんです。彼は、死ぬ前に正直に色々なこと言ったそうです。莫大な借金のこと。何とかして、払ってくれと。それからずっと長い間愛人をもっていた。ごめんね。、危篤状態となった主人と、いくら攻撃しても何もならないし、彼は安心し、死ぬことができるなのに、借金全部払っちゃったんです。それで今は違う。もう絶対許さない。もう気持ちの塊になっています。 ひどい過ぎ。もう何があっても許さない。みんなわかるでしょう。そんな気持ち。けども、それも解決にならないでしょう。もうまことの喜びから遠く離れて、許したくなければもうおしまい。喜びもない。平安もない。希望もない。 許したほうがいいけど、許しても忘れられない。問題はそれなんです。もうずっと裏切られていた。 イエス様は、色々なことを話されたのは、頭の知識を与えるためではなく、まことの喜びを与えるためです。そしてまことの喜びとは、人間は何を経験していてもどういう状況に置かれていても、悩みながら、苦しみながら、喜ぶことができる者です。 イエス様は、もちろんこの世に来られたなのは、罪滅ぼしのためです。宗教つくるためではない。悩んでる人間はやっぱり、重荷から解放され、本当の意味で喜ぶことができなければ、もうおしまいだからです。 十字架の上で、イエス様は一回お祈りをした。すべてが終わったと叫ばれたのです。宗教の呼びかけとは、勉強して、悟らないとダメ。努力して、立派にならないとダメ。財布忘れないで、献金してください。これは宗教の呼びかけです。 聖書の呼びかけとは、救いのみわざは成し遂げられた!終わった。万歳。イエス様は、私たちのわがままのゆえに犠牲になられた。救いの道をいただいた。けどもイエス様は、死んだままではなかった。復活なさいました。イエス様は生きておられます。生きておらるるイエス様に、復活なさったイエス様に出会った弟子たちとは、喜んだと聖書は言っています。 けども、それで良かったなのではなかった。イエス様がはっきり言われたのは、あなたがたは、今ありのままでわたしのことを紹介しても上手くいかない。「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。聞く御霊を贈ります。あなたがたはいと高き所から力を着せられるまでは、都に、エルサレムにとどまっていなさい。」 自分勝手に伝道してはいかん。ゆっくり待ちなさい。 使徒の働き1:8
イエス様の生きておらるる間、弟子たちの使命とは、ユダヤ人にだけ福音を宣べ伝えなさい。外国行ってはいかん。けども復活なさったイエス様は、地の果てにまでわたしの証人となりなさい。全世界にいて、わたしを紹介しなさい。 待ちなさい。彼らは十日間だけ待てたんです。昇天記念日から、五旬節までちょうど十日間だったんです。そのとき約束された御霊が注がるるようになったのでしょうけど、使徒の働き2章1節に、五旬節の日になってみなが一つ所に集まっていた、そして、みなが聖霊に満たされた。 聖霊に満たされた者とは、間違いなく喜びに満たされてる。まことの平安に満たされてる。それから希望に満たされてる者であります。人間は確かにみな、変わらない喜びを欲しいし、心配から、不安から解放されてもらいたいし、前向き生活したい気持ちでいっぱいですけど、五旬節の前に、十字架がなければ五旬節はありえない。 十字架のことで、確かに多くの人々はつまずくんです。宗教は山ほどあります。日本だけでも登録されてる宗教は17,649です。色々な教えを読むとなかなか良いことよ。けども、十字架がなければ無意味です。 良い教えがあっても、守ることができなければ、守る力がなければ、無意味なのではないでしょうか。結局十字架こそが、聖書の中心テーマです。 今読んできてくださった箇所の中心に出てくる男も、それを経験しなければならなかったのです。あんまりおもしろくなかった。列王記第IIの5章、1節から14節までは本当はまだ終わってないけど、ずっと読むとナアマンという男が出てきます。1節だけもう一回読みましょうか。 列王記第II、5:1
アラムの代わりにシリヤ。今のシリヤと言ったほうがわかりやすい。シリヤの王の 列王記第II、5:1
尊敬さるるといい気持ちになる。みな大切にされたいのではないでしょうか。無視されるの嫌だよ。もう彼は、有名人になった。よく頑張ったからじゃないよ。主のおかげで彼は勝利を得たとして。主のおかげで、主は勝利を与えたからですね。 列王記第II、5:1
アラム。シリアに勝利を得させられたからである。結局主は、勝利を与えたから、彼は有名になって、尊敬された者となった。勇士でしたがらい病にかかっていた。そうすれば全部パーだよ。あの子はね、東大に入ったけど実は白血病です。長くもたないということになると、ちょっと大変じゃないですか。 彼は有名人になって、欲しいもの全部手に入れることができたのですけども、全部、結局役に立たないものだったんです。 らい病にかかっていたからです。彼は名誉のある、しかも立場の良い、権力もあり、功績も多いといった幸せな人。恵まれた人でした。けどもらい病にかかったから、もう時間の問題だけですと、彼はもちろん認めざるを得なかったんです。ナアマンのいのちには、もうすでに死が働き始めていました。そして死は労働的でしたから、働きかけます。死は環境を支配します。もう廃墟になっちゃったから、もう本当の喜びもないよ。安心することもできません。 このナアマンという男は、結局聖書の言われている生まれながらの人を意味するものです。あらゆる力、権威をもっていたにも関わらず、死が働いたのです。そしてらい病は、聖書の中で、いつも罪を象徴するものであります。そしてこの罪は、聖なる神と罪人の間を、大きく分け隔てるものです。 確かに人間は、罪に対して、色んな考えをもっています。 あるお婆ちゃんは、「罪とはなに?」と聞いたんです。九十何歳だったからしょうがない。罪という言葉も、昔そんなに使わなかったかもしれない。今の現代人は、罪とはやっぱり犯罪だそうです。多い行ないなのではないでしょうか。もちろん聖書の言ってることは違う。 前のお婆ちゃんの、罪とはなにと聞いたとき、お婆ちゃんに、「わがままだよ。」と言ったとき、「あーそうか。分かった。」 人間はやっぱりわがままなんです。自分、自分、自分のこと考えるのは、人間の特徴なのではないでしょうか。けどもある人は、罪を見逃しにしてしまいます。大したもんじゃない。みんな犯してるじゃないか。 罪がないなどと、バカらしいこと言える人もいます。もしなければ、今の世界は違うように見えます。どうしてすべてはめっちゃくちゃになってるかといいますと、結局罪のゆえです。人間は創造主から離れているからです。だから上手くいくはずがない。 ナアマンはらい病は存在しないと言わなかったよ。自分でかかってると認めざるを得なかったからです。もちろん最初の兆候が現われたとき、誰にも言わないほうがいい。きれいな着物の下で隠しましょ。けどもそれも解決にならないと彼もわかったはずです。 だからやっぱりどうしましょうか。このらい病を直さなくちゃならないと、彼はもう毎日、何回も何回も思ったに違いない。 欲しいものはあったけど、いつまでもつかわからない。恐ろしいらい病にかかったということとは、彼は忘れられなかったんです。現在はらい病は大した問題じゃない。たぶん日本のお医者さんだったと思います。その効く薬をできるようになったんです。早めにこの薬を飲めば大丈夫。らい病そのものは治らないけども、もう大きくならない。そうすれば別に問題ない。 昔に、何年前だったかわかりませんでしたけども、あるらい病人の村に行きました。草津。群馬県の草津あるんです。今ちょっとわからないけども、そのとき千人以上住んでいたし、もう色んな店もあったし、ちいちゃい教会もあったし、そして僕行って、イエス様のこと紹介した。人に頼まれて。 みんなにイエス様のこと話したら、もちろん銘々、千人に会うことができないし、そういう大きな平安もないし、そのみんな、スピーカーで聞くことができるようになったんです。 その後で、一番ひどい人々の所に連れて行かれたのです。ちょっと大変です。らい病がひどくなると、誰も見えない。もう身もないよ。もちろん鼻もない。耳もない。すごい。けども、面白半分でね、私に聞かれたんですね。十二年で、十八年でだったかな。この中でイエス様信じる人だれであるか。ちょっとよく見て判断しなさい。 いっぺんにわかった。あの人。横の人。あそこの人。その通りでした。やっぱり違うよ。ひどい顔だよ。けど輝いてる顔と、もう完全に絶望してる顔があったからです。どういう状況に置かれていても、イエス様を知る人は輝くんです。喜びがあるんです。 つらいよ。けど悩みながら喜ぶことができるのは、イエス様の生きておらるる事実の証拠なのではないでしょうか。 ナアマンのらい病は、まだひどくなかったと思うよ。誰も気が付かなかった。けども彼はいやされたんです。きっかけになったのは、若い女性でした。彼女は戦争後、捕まえられ外国まで連れて行かれたんです。家族から離れて。自分の国から離れて。 結局、異国で生活しなくちゃならなかった。嫌でしょ。そして彼女は、ナアマン将軍の奥さんの仕える者になったんです。けども彼女は、どうして、なぜ、どうして主は外国で住まなくちゃいけないのと考えたなのでしょうか。どうして自分の国を征服した将軍の家で働かなくちゃいけないなのでしょうかと、彼女は考えなかったよ。 主は目的をもっておらるる。一生懸命やったと思うよ。人間を喜ばせるためじゃない。自分の信じてる、生きるまことの神を喜ばせるために、一生懸命に働いた。そしてやっぱり彼女にも耳にしたんです。主人さまはらい病にかかってる。 もし、彼女が主を知らなかったならば、良かった。良かったという気持ちになったんじゃないですかね。天罰でしょうよ。けど彼女はね、悩むようになったんです。将軍は確かに憎まれてる。けども、生きるまことの神を知らなければ何にもならない。やっぱり彼女は直接話すチャンスもなかったでしょう。奥さまにだけ話したんです。「奥さま、奥さま。ご主人はらい病人になったんですね。もしイスラエルにいる預言者と会うようになれば、希望があると思う。あのエリシャという預言者は、多くの奇跡を今まで成したの。死人もよみがえらせた。」 奥さんはもちろんそれを将軍にも話して、将軍は王さまの所に行って、もうそのままで話された。「そうか。よし。俺は手紙を書こう。」 イスラエルの王も手紙もらったとき、もうショック受けたんです。読まれたとおり。ひどい。わたしは人間に過ぎないでしょ。らい病いやせるのは私はできません。けども、エリシャはこのことを聞いたとき、もちろん中に入っちゃったんです。 列王記第II、5:9-12
想像できる。けどね、これはいわゆる十字架のつまずきです。多くの人は教会行って、教会で名誉、自分のものを捨てることができるならば、教会に来るでしょう。けども主なる神の備えられた救いの道は十字架です。 聖書ははっきり言ってます。すなわち人間が、十字架からほんの少しはずれても、救いはありえない。絶対にない。もし私たちは、十字架のみもとに行くならば、私たちのもってるあらゆる名誉、地位、財産をもって行っても役に立たない。生まれながらの人は、十字架のみもとに寄る余地を持ち合わせていません。 ヨルダン川へ行って、七たびあなたの身を洗いなさい。 ヨルダン川は、いつも十字架を象徴するものです。将軍ナアマンが、ヨルダン川へ行くということは、将軍が自分のもってるあらゆる名誉、地位を捨て去ることを意味していたのです。 このヨルダン川の水は、生まれながらの人に対する主なる神のさばきを象徴するものであります。 ちょっと驚くべきなのはエリシャの態度だったなのではないでしょうか。エリシャは家から出て来て、「よく来たね。」と言わないよ。挨拶しようとしないよ。使いを送っただけです。だから彼はこういうふうになったのはわかる。けどこのエリシャのナアマンに対する態度は、主なる神の人間に対する態度です。主なる神の前では、名誉、地位、成功、何の役にも立たない。ナアマンはそれを聞いたとき非常にびっくりしました。 ナアマンは、癒されるために何をしようとしたのでしょうか。私たちは、救わるるために何をしたらいいなのでしょうか。変わらない喜びを、まことの心の平安をいかにして見出すことができるなのでしょうか。 ナアマンは結局、どうすればいいのと長い間思っていたに違いない。使徒の働きの16章の中で、同じように悩むようになった人について色々なこと書かれています。シラスとパウロは、無実の罪でピリピの刑務所に入れらるるようになったのです。 使徒の働き16:22-33
(テープ A面 → B面) 感謝、尊敬された男に過ぎない。ナアマンにように尊敬された者かもしれない。けども彼は、大切な質問をしたのですね。救わるるために何をしなければならないなのか。彼はこの質問を通して何を言ったかと言いますと、私はまだ救われてないよ。本当の喜びを知らない。心の平安もない。生きる希望もない。どうしたらいいなのでしょうか。もちろん、何もできません。 人間は自分の救いのために何かができれば、イエス様はべつにこの世に来なくてもよかったんです。べつに十字架の上で犠牲にならなくてもよかったんです。人間は何にもできないから、だからイエス様が遣わさるるようになりました。 ここでは必ず、イエス様の身代わりの死を信ずるようになったのです。「あっ。そうか。また、ちいちゃくなれば、悔い改めれば、何も隠さなければ赦される。」と、聞いたとき、非常に解放されたのです。 ナアマンは、死の川、ヨルダン川に下りて行きました。私たちが救いを自分のものにしようと思えば、十字架のもとに、すなわち十字架につけられた主イエス様のもとに来なければならない。 ヨルダンに行って、七たび身を洗いなさいとあります。前に話したように、ナアマンは初め、非常に腹を立てましたけど、後でいっしょに来た人々の話を聞いたでしょ。結局いっしょに来た人々とは、問題は生か死の問題であるか。やっぱり行ったほうがいいよ。七たび身を洗いなさい。 七という数字は、完全を意味する数字です。ナアマンは、ヨルダン川に一度だけ身を浸したとは書いてない。三たび身を浸して諦めてしまったとも書いてない。ナアマンはこれが私の救いの道であるならば、私は無条件に行く。なぜならば生きる屍のままで、故郷へ帰るよりはマシと思ったからです。 彼はヨルダン川に、二度だけ身を浸して何も起こらない。相変わらずらい病が直らない。初めから思った通りだなどと思ったならば、何にもならなかったのです。彼は最後まで目標目指して、七回身を浸したのです。 七たび身を浸すと、らい病が直っただけじゃない。みことばは、ナアマンの肉体は幼子のようにきよくなった。結局もうまったく新しい人間になったのです。幼子の肉体とは、結局新しい創造を、新しい命を意味してるのです。 今やナアマンの生活は、まったく新しいものとなったのです。彼の前に今まで知らない世界が広がるようになりました。彼は主の示された道を歩んだからいやされた。彼の癒しは、らい病が癒されただけではなく、結局新しいいのちが与えられた。 この物語は、もちろんイエス様を知らない人々に対して、救いの道を示してるものでありますけど、それだけではなく、信ずる者にとっても非常に大切です。十字架は、罪人に救いを知らされてるだけでなく、信ずる者に自分のもってるものは全然役に立たないものであることを教えておるんです。すなわち、自分の意思、自分の自己、目的、力、考え、感ずること。これらは信仰生活のために役に立たない。単なる妨げにすぎません。 前に話したように、エリシャはナアマンが来たとき、窓から覗いてみようとしなかった。見る必要はない。会う必要はない。結局これは主の御声に傲慢な人間に対する態度です。 われわれの志すこと、力は、主の憎むところのものです。これはいわゆるヨルダン川の意味であり、十字架のゆえです。 ナアマンは最初、ヨルダン川に行って身を洗っても仕方がないと思ったかもしれない。けども彼は、「よし。信じましょう。」と決心して、ヨルダン川に入り、解放された新しい人間になったのです。 信ずる者として私たちは、主の命、すなわち人間の血をもってますけど、私たちはますます主の満ち満ちたいのちに支配されなければならない。そのために必要なのは、自分の自己を捨てること。結局自分の考えてることは、思ってることは、大切ではない。主よ私の願うところではなく、御心だけがなるように。この態度を取るとすべては新しくなります。 ナアマンは、七たびヨルダン川に身を浸しました。信仰によって最後の回まで身を浸したのです。ナアマンと同じく、信仰によって最後まで突き進んで行くこととは、非常に困難なことかもしれない。 前進する一歩一歩はますます多くの信仰を必要とします。けども、これがいのちの道であり、成長の道でもあります。 エレミヤという男は、エレミヤ書の15章の16節、よく知られている箇所なんですけども、次のことを経験しました。ナアマンの経験もまったく同じことでした。 エレミヤ書15:16
みことばは元気の素であり、喜びの源そのものです。ナアマンは、結局、預言者の言われた通りに動いたから、解放され、喜ぶようになり、癒され、救われたのです。 彼はどのように変えられたなのでしょうか。三つのことが突然変わった。 第一番目。ナアマンのエリシャに対する態度です。前にナアマンは、エリシャに対して非常に立腹し、そのまま帰ってしまおうと思った。今や、主によって用いられたエリシャと交わりをもちたいと思ったのです。もはや、己を高くすることなく、エリシャと交わろうとしたのです。 どうしてでしょうか。結局、ナアマンは、新しいいのちをもらい、エリシャがエリヤから得たと同ーじようによみがえりの力をもったからです。エリシャもナアマンもともにヨルダン川を渡ったからです。 同じいのちは、交わりの基礎です。そしてナアマンの主に対する態度も変わった。彼はもちろん主なる神に対してまったく無関心でした。盲目でした。主の声に対してつんぼでした。けども彼は主を拝むようになったのです。私は今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないこと知りました。そして彼は主を拝むようになったのです。主を崇拝するようになったのです。 人が聖書の教えを受け入れたとしても、その人が主を崇拝するとは限りませんし、人が集会に来て出席し、洗礼まで導かれたとしても、それはその人が主を崇拝するとは限りません。けどもこの、シリア人の将軍であるナアマンは、主を崇拝するようになったのです。 もう一つ、ナアマンは態度を変えて主に贈るものをささげようとしたのです。感謝の気持ちで、愛の表われで、持って来た財産、全部ささげたかったのです。けどもエリシャは断ったんです。結構です。もし受け取ったならば、ナアマンは後で自分のからだや、ちなみに、自分の何か自分の役割を演じたのだと思われたかもしれない。主は、そのような考えを受け入れられません。 今の話はここで終われば非常にありがたいけど、まずい最後があります。エリシャの召し使いゲハジの話が出てくるから。ちょっと大変です。彼は何年間エリシャと生活しましたし、エリシャのなした奇跡を自分の目で見ることができたし、けども彼は自分のことしか考えられなかったんです。本当の意味で救われていなかったのです。ちょっと悲劇的です。 このゲハジという男は、ナアマンの身に起こった奇跡を見聞きし、またナアマンが国へ向かったことも知りました。そして彼はどういう気持ちになったのか。もったいない。国へ向かうナアマンの後を追って行き、追いつき、ナアマンに長い偽りの話をしたのです。 そして、ナアマンがエリシャに贈るべき大切だった贈る物を全部自分の物にしたんです。けども、だからと言って金持ちになったか、幸せになったのではない。 列王記第II、6:27
もう離れた。後でもう一回会うチャンスがあったかどうか疑わしい。悲劇的なのではないでしょうか。 イエス様は、このナアマンの話をもちろんご存知であっただけではなく、信じたのです。そして引用してくださったのです。 ルカの福音書4:27-30
とあります。 このエリシャの召し使いであるゲハジは、エリシャより多くのことを聞いたのです。主のみことばを聞いたのです。奇跡を見ました。けども知識があったけど、自分のものにならなかった。イスラエルの民もみことばを聞いたし、イエス様のなさった奇跡も見ましたし、けど心を頑なにして、悔い改めようとしなかった。 結局イエス様は、自分の故郷、ナザレだったんですけども、ずっといっしょに生活した人々に何と言ったかといいますと、「あなたはわたしの言葉を聞いたでしょ。わたしのなした奇跡も見たでしょ。けどもあなたがたは、悔い改めたくないから、あなたがたに対する刑罰は、死であり、らい病である。」 これこそが、今日までおよんでおるイスラエルの民の運命なのではないでしょうか。ゲハジは、頭の中に知識はたくわえていましたけど、本当の力をもっていなかったのです。悔い改めたくなかったからです。 聖霊に満たさるる器とは、どういう器なのでしょうか。いうまでもなく空っぽの器です。すなわち、私はもうダメ。私の内に良いものはひとつもない。そこまでいくと、主は働くことができる。満たすことができるのです。 あるときエリシャはゲハジに頼んだんです。知り合いのやもめの息子が死んじゃった。早く行って子どもを生き返らせなさい。ゲハジは行ったんです。言われたとおりに子どもの顔の上にチューしましたが、ダメでした。死んだ子は死んだままです。力がなかったからです。 後でついて来た主の力をもってたエリシャが、同じことやったとき、子どもは生き返りました。 ユダヤ人の指導者たちも、イエス様を見聞きしましたが、自分の栄光のみを求めたから、ゲハジと同じように呪いのもとに置かれたのです。すべてのことを見聞きし、知ることができますけど、いくらそうであっても、内側が空っぽの場合もありうるのです。 エリヤはエリシャに、天に引き上げらるる前に聞いたのです。「あなたは、何を欲しいの。あなたの願いはなに?」エリシャの答えとは、「あなたは御霊に満たされてるから、私も満たされてもらいたい。けども倍欲しい。倍がなければ、自分はもうどうしようもない者ですが、上手くいかないはずです。」、彼の願いは聞かれたんです。本当に御霊に満たされた者として、主の栄光を表わす者となったのです。 主はもちろん、私たちにも同じように聞いてくださるのです。「あなたは何、欲しいの?」主は、応えたいと望んでおらるるのは、すごいなのではないでしょうか。 |