引用聖句:列王記第II、5章1節-14節
今読んで来てくださった個所こそが喜びの知らせではないでしょうか。 このすばらしい救いにあずかるようになったのは、今読みました、ナアマンという男です。 もちろんこれはみなさんが何回も読んだ個所ですから、元来未信者のために適当な書なのではないかと思うのですけれど、信ずる者のためにも有益な教えが含まれています。 私たちはずっとエリシャについて学んできましたけれど、エリシャを学ぶだけではなく、主のよみがえりの力も同時に学び取りたいものです。 エリシャはよみがえりのいのちの力を持っていたから、エリシャの生活は非常にわれわれにとっても大切です。この書で、まずナアマンという名前の人を覚えましょう。 三つの点をちょっとだけいっしょに考えてみたいと思います。 第一番目。ナアマンが試みたむなしい救いの努力。 第二番目。救いの本質とは何でしょうか。 第三番目。ナアマンが味わった偉大な体験についてです。 まず、ナアマンが試みたむなしい救いの努力について考えてみたいと思います。 列王記第II、5:1
結局イスラエルの民は主に対して聞く耳を持っていなかったから、イスラエルは負けてしまった。このナアマンは結局主の道具になってしまった。もちろん未信者として。偶像礼拝する者として彼は主に用いられたのです。 彼は名誉のある、しかも立場の良い、権力もあり、功績も多いといった、恵まれた男でした。彼は人望、立場、権力、功績、これらすべてを兼ね備えていましたが、ナアマンの命にはもうすでに死が働き始めていました。 死は能動的です。働きかけます。死はその環境を支配します。したがってナアマンの立場、功績などは何の役にも立ちませんでした。ナアマンが今持っているものは、なるほど今だけはそこにあるけれど間もなく消え失せてしまうのです。 このナアマンとはいわゆる生まれながらの人の証拠なるものです。あらゆる力、手柄を持っていたにもかかわらず、死が働いていました。 らい病は聖書のどこを見ても罪を象徴しています。そしてこの罪は聖なる神と罪人の間を大きく分け隔てていると言っています。人間は罪を見逃しにしてしまいます。大したものではない、と言います。 罪が無いなどと馬鹿らしいことも人間は言います。けれど罪が存在し、この罪が人間を神から隔てているという事実は、あくまで事実です。認めても認めなくても。 ナアマンはらい病の最初の兆候が表われたとき、それをだれにも言わず、きれいな着物の下に隠しておいたことでしょう。彼はその小さな斑点を見て、これは小さい。こんな問題は大したことはない、と考えたことでしょう。 けれども彼は、自分はらい病人であることを知っていました。また彼はこの病気のゆえに自分の持っている地位、名誉、功績などは全然価値がないものであることをも知っていたのです。 このナアマンが心からの幸福を得たいと思うならば、彼は自分のらい病を治さねばなりませんでした。新しい、解放されたいのちを持ちたいならば、この病が治されなければなりません。 私たちの場合もこれと同じです。主なる神との交わりを持とうとするならば、まず罪の問題を解決しなければいけません。その第一歩は、自分が罪人であることを認めることです。 もし私たちが国々の間で起こっている出来事、また、東京だけで起こっている色々な出来事。家族で見られる種々なる出来事、また、個人個人の生活をよく観察するならば、だれでもが罪人であることは明らかです。 もしこれらの事実に面と向かうならば、私たちは救われるためにどうしたらいいのでしょうか、と叫ばざるを得ないでしょう。 立場、名誉、功績を兼ね備えているこのナアマンは、自分の病をいやすためにあらゆる試みを試みたに違いありません。薬もあったでしょうし、もちろん医者もいました。偶像もあり、あらゆる宗教もありました。 いずれを試みてもむなしかったのです。それは絶望的な状態でした。らい病を治そうとする努力は、全くむなしいものでした。 けれど、奴隷としてひとりの少女がナアマンの元で働いていました。彼女はイスラエルの生きるまことの神を信じ、恐れる者で、外国でも自分の信ずる主なる神を証ししたのです。自分の信仰を隠そうとしなかったのです。 アラムすなわちシリアは、神の国であるイスラエルにとっては敵国でした。今日までそうなのです。けれどもそれと関係なし、彼女はナアマンに対して同情の心を寄せていました。 彼女は偉大な主なる神のみわざを告げ知らせました。彼女は主の預言者であるエリシャが行なった数々の奇蹟も告げ知らせたでしょう。エリシャの助けを乞いなさい、と彼女は言ったのです。 そして彼女の忠告は主人であるナアマンに取り上げられたのです。どうしてでしょうか。彼女の証しが立派だったからです。 少女は言いました。「ああ、ご主人さまがサマリヤにいる預言者とともにおられたら良かったでしょうに。彼はそのらい病をいやしたことでしょう。」、違うことばで言えば、ご主人は主なる神に用いられている人に、すなわちエリシャに会えばよいのですが、という意味です。 それまでナアマンは色々な薬、医者、また人から出た宗教などに頼っていました。彼は、いったいどうしたらこの病がいやされるのだろうと、そればかり考え、願っていましたので、大きな贈り物を持ってエリシャを捜しに出掛けました。 ナアマンは自分の病気が容易ならぬものであることをはっきりと知っていました。けれど彼は主を知らない異邦人であり、生まれながらの人でした。ですから彼は自分の身分、自分の手柄の高さ、大きさをエリシャに知らせたかったのです。 ナアマンは名誉、地位を持っていました。彼はそれをエリシャの前で見せびらかせたかったのです。 彼は高価な贈り物とともにエリシャの元にやってまいりました。そして召し使いを遣わして、自分が訪れることをまずもって知らせました。礼儀正しく。 そのときエリシャはどうしたでしょう。エリシャはこの名誉と地位のある男はいったいどのような人かと見に行くことをしなかったのです。このナアマンに会おうとしなかったのです。9節からかかります。 列王記第II、5:9-12
結局自分の国の川 列王記第II、5:12
当然です。けれどもこれこそいわゆる十字架のつまずきです。 多くの人は、もし教会で名誉を自分のものにすることができるならば、教会へ来るでしょう。けれど主なる神の備えられた救いの道は十字架です。 聖書ははっきり言っています。すなわち人間が十字架からほんの少し外れても、救いは絶対にない、と。 ですからパウロはあるときから決心したのです。私は十字架につけられたキリストよりほかのことを宣べ伝えない。もし私たちが十字架のみもとに行くならば、私たちの持っているあらゆる名誉、地位、財産を捨てなければいけない。 生まれながらの人は十字架のみもとにおる余地を持ち合わせていません。ヨルダン川はみなさんご存知のように、イエス様の十字架の象徴です。 ナアマン将軍がヨルダン川へ行くということは、将軍が自分の持っているあらゆる名誉、地位を捨て去ることを意味していました。 ヨルダン川の水は生まれながらの人に対する主なる神のさばきを象徴しています。エリシャのナアマンに対する態度は、結局主なる神の人間ひとりひとりに対する態度です。 主なる神の御前では、名誉、地位、成功、これらは何の役にも立たない。ナアマンはそれを聞いたとき、非常に立腹しました。一度社会人として成功して年配になった人があまり集会に訪れることがないのは、確かにこのこともひとつの理由です。 もし老人が集会に来て、主に出会いますと、それまでの生活が全く無意味であり、的外れのものであったことを認めざるを得ない。 ナアマンはいやされるために何をしようとしたのでしょうか。私たちは救われるために何をしたら良いのでしょうか。これらの質問に答えるためにほかの疑問をもうけましょう。 第二番目の点です。救いの本質はいったい何なのでしょうか。答えは使徒の働きの16章に書かれています。 みなさんよくご存知の個所ですけれども、一回お読みいたします。 使徒の働きの16:19-34
このピリピの獄吏は、救われるために、いい人になるためではない、救われるために何をしなければなりませんか、と叫んだのです。 この疑問の叫びからひとつのことばを取り出して、観察してみたいと思います。「私は」、ということばです。私は、救われるために、何をすべきでしょうか。 ここで言っている、私は、とは、だれでしょう。この私は、失われている人であり、罪、悪魔、自己の奴隷です。 彼は主なる神を見ることのできない目くらでした。霊的に死んだ者でした。主なる神から出るいのちから遠く離れていた者でした。私たちがナアマンを見れば、霊的な死とは何かがひと目で分かります。 霊的な死とは何でしょう。霊的な死とは、生まれながらのいのちを持っていることです。 普通の人間にとっては、ナアマンのいのちは本当に大したものでした。普通の人の目から見ればナアマンは、ほめたたえるに十分価値ある人だったのです。 ナアマンの生活は成功していました。そしてまた彼は力を持っていましたけれど、ナアマンは全てを持っていたにもかかわらず、残念なことに、霊的な死を持っていたのです。霊的に死んでいたのです。 すなわち、らい病人だったからです。ピリピの獄吏が救われたとき、彼は自分が罪人であることを認めました。ナアマンはいやされたとき、自分が非常な病人だったことをはっきり知りました。 もし救われたいと思えば、自分は自分が失われている者であり、目くらであり、奴隷であり、また、霊的に死んでいる者であるという事実を避けてはいけません。 次に観察したいことばは、「救われる」、ということばです。私は、救われるために、何をすべきでしょうか。 獄吏は、自分は良い人間になるために何をすべきなのかと叫んだのではない。自分は救われるために何をすべきなのでしょうか、と。 獄吏は、私はいかにしたら奴隷の身から解放されるだろうか。私は目くらの身から目あけの身になることができるのでしょうか。私は死の様から生きることができるのでしょうか、と。 三番目のことばは、「なす」、ということばです。する、ということばです。 私は救われるために何をなすべきなのでしょうか。鎖で縛られた奴隷が自分の身を自由にするのに、何をできましょう。目くらが見えるようになるために自分で何ができましょう。死人が自分で生きることがどうしてできましょう。絶対に何もできません。 そうすると、救いの本質とはいったい何なのでしょうか。三つのことを言います。 第一番目。まことの救いは主なる神の満足される、十分なる救いでなければならない。人間がいかにして、だれによって救われるかは、主なる神のみが知っておられます。 獄吏は自分の身を救うために、自分の道へ行くことは許されなかったのです。ただ、主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。獄吏はこのことばによって導かれ、救われました。 ナアマンは自分の故郷の川で水を浴びることにより、その病をいやすことを許されませんでした。あなたはヨルダンへ行って、七たび身を洗いなさい。と言われるばかりでした。同様に、私たちも自分の救いのために自分勝手な道を選ぶことはできません。私たちの救いの道は十字架です。 二番目。まことの救いは罪とともに、罪の結果も消滅してしまうような、完全な救いでなければなりません。 救いは人の罪を消し去り、その人に新しいいのちを与えるものでなければならない。獄吏の場合も心の罪が赦され、獄吏のうちに新しい創造が信仰によってなされなければならなかったのです。 ナアマンの病気もヨルダン川で身を洗い、いやされ、ナアマン自身が新しい人間にならねばなりませんでした。私たちの罪も十字架で贖われ、私たちのうちに新しい創造が始められなければいけません。 三番目。救いとは罪に対してなされた死刑の執行でなければなりません。 主なる神は、一度罪を犯したたましいは必ず死ぬ、と言っておられます。罪の刑罰を受けなければいけません。刑罰は執行されなければいけません。 獄吏は、イエス様の身代わりの死を信じました。ナアマンは死の川、ヨルダン川に下りて行きました。もし私たちが主の救いを自分のものにしようと思うならば、十字架のもとに来なければいけません。 最後に第三番目。ナアマンが味わった偉大な体験とはいったいどういうものだったのでしょうか。 「ヨルダンへ行って、七たび身を洗いなさい。」、と。ナアマンは初め、非常に腹を立てましたが、あとでしもべたちと語り、今ある問題は生か死の問題であることを悟り、ヨルダン川へ行ったのです。七という数字は霊的な完全を意味しています。 この物語を読むと、ナアマンはヨルダン川に一度だけ身を浸したと書いていません。また、三たび身を浸して諦めてしまったとも書いてありません。 ナアマンは言いました。「これが私の救いの道であるならば、私は無条件に行きます。」と思ったのです。なぜなら、生きる屍のままで故郷に帰るよりはマシであるからです。 ナアマンはヨルダン川に二度だけ身を浸して、何も起こらない、相変わらずらい病は治らない、初めから考えたとおりだ。などとは言いませんでした。ナアマンは一回、二回、三回、と六回まで身を洗いました。しかし何にも起こりませんでした。 それにもかかわらずナアマンは最後の目標を目指して七回身を浸しました。 ナアマンの信仰は最後まで試みました。ナアマンが七たび身を浸すと、らい病が治ったばかりでなく、ナアマンの肉体は幼子のようにきよくなった、とあります。 この幼子の肉体は、新しい創造、新しいいのちを意味しています。今やナアマンの生活は全く新しいものとなりました。彼の前に新しい世界が広がりました。 彼は主の示された道を歩みましたから、いやされたのです。ナアマンのいやしは、らい病がいやされたばかりでなく、新しいいのちが与えられたのです。 ヨルダン川へ入ることによってナアマンに対する死刑が執行されました。この物語は未信者に対して救いの道を示しているばかりでなく、信ずる者にとっても本当に大切なのではないかと思います。 十字架は罪人に救いを知らせているだけでなく、信者たちに自分の持っているものは全然役に立たないものであることを教えています。すなわち、自分の意思、自己、興味、目的、力、考え、感ずること、これらは信仰生活の重荷であり、妨げです。 エリシャはナアマンが来たとき、ナアマンを窓から覗いて見ようとしなかったのです。これは主なる神の態度です。私たちの肉、すなわち、私たちの志すこと、興味、力は主の憎むところのものです。これがヨルダン川の意味です。これが十字架の意味です。 ナアマンは最初、ヨルダン川に行って身を洗っても仕方がないと思っていました。しかし彼は無条件にヨルダン川に入り、解放された新しい人になったのです。 信ずる者として私たちは主のいのち、すなわち永遠のいのちを持っていますけれど、私たちはますます多く、主の満ち満ちたいのちに支配されなければなりません。 そのために必要なのは、自分の自己を捨てることです。なぜならば、自分の意思と主のみこころとは対立しているものであるからです。 私たちは好きな罪をしっかりと握ったままでいるのでしょうか。自分の立場、地位を捨てて、主とともに前進しようではないでしょうか。 私たちがよみがえりの力を自分のものとするために、自分の感じ、考えを捨て去りましょう。 私たちは信ずれば信ずるほど主の力を多く持つようになります。ナアマンは七たび、ヨルダン川に身を浸しました。信仰によって最後の回まで身を浸しました。 ナアマンと同じく、信仰によって最後まで突き進んで行くことは非常に困難なことかもしれない。今まで、自分は正しいと思い込んでいた意見を全部捨てなければいけないからです。 前進する一歩一歩はますます多くの信仰を必要とします。けれどこれがいのちの道であり、成長の道でもあります。 主とともに一歩前進するならば、ナアマンの場合と同じように、新しい世界が切り開かれます。 ナアマンの生活の三つのことが突然変わりました。 まず、ナアマンのエリシャに対する態度。 二番目。ナアマンの主なる神に対する態度。 第三番目。ナアマンの自分の財産に対する態度が変わったのです。 第一番目。ナアマンの主の用いられた人、エリシャに対する態度が全く変わったのです。 前にナアマンは、エリシャに対して非常に立腹し、そのまま帰ってしまおうとしました。彼は今や主に用いられた人、すなわち、エリシャと交わりを持ちたく思いました。 もはやおのれを高くすることなく、エリシャと交わろうとしたのです。どうしてでしょうか。 なぜならば、ナアマンは新しいいのちをもらい、エリシャがエリヤから得たと同じように、よみがえりのいのちを持ったからです。エリシャもナアマンもともにヨルダン川を渡ったからです。 同じいのちは交わりの基礎です。したがって、信ずる者の間には年齢や職業による差別は全くないはずです。 ですから聖書は信者と未信者の結婚を忠告します。同じいのちのないところには交わりもあり得ないからです。 二番目。ナアマンの態度は主に対する崇拝に変わりました。 ナアマンは主を拝み、言いました。「私は今、イスラエルのほか、全地のどこにも神がおられないことを知りました。」 ナアマンは生ける唯一の主なる神を知りました。だからその神を崇拝したのです。 たとえ人が聖書の教えを受け入れたとしても、その人が主を崇拝するとは限りません。また、たとえ人が集会に来て出席し、洗礼まで導かれたとしても、その人が主を崇拝するとは限りません。 けれど人が一旦よみがえりの力を経験すると、その人は主を崇拝し、ただただおのれをささげるようになります。これが本当の証しです。 私たちのする証しは語ることでもなく、一つの教えでもなく、主ご自身です。主のよみがえりの力を知った人は、主を崇拝する崇拝者です。 そして第三番目。ナアマンは態度を変えて、主に贈り物をささげようとしました。 主は今やナアマンの財産に対する権利も持つに至ったのです。もし私たちが本当に主を信じているならば、私たちは心からなる感謝を主にささげるはずです。 もし私たちが新しいいのちを持っていれば、主は私たちの持っているもの、全ての上に権利を持っておられるのです。 しかしエリシャは贈り物を受け取りませんでした。「結構です。」、と。どうしてでしょうか。 エリシャはこの前のやもめのもとでは贈り物を受け取りました。しかしここではナアマンから贈り物を受け取ろうとしなかったのです。 それは、やもめとナアマンの間に霊的な違いがあったからです。もしエリシャがナアマンから贈り物を受け取ったならば、ナアマンは自分の体をいやすために、自分も何か役割を演じたのだ、と思ったかもしれない。主はそのような考えを非常にお嫌いになりますから、エリシャは贈り物を受け取らなかったのです。 次にエリシャのしもべ、ゲハジに関する悲しむべき出来事がやって来ました。 ゲハジというしもべは、ナアマンの身に起こった奇蹟を見聞きし、またナアマンは故郷へ向かったことを知りました。そしてこのゲハジは故郷へ向かうナアマンのあとを追って行き、追いつき、ナアマンに長い偽りの話を話しました。 そしてゲハジは、ナアマンはエリシャに贈るべき携えてきた贈り物を自分のものとしたのです。けれどもこれによりゲハジは恐るべき刑罰を受けました。 列王記第II、5:27
とあります。これはいったい何を言っているのでしょうか。 もう一個所、最後に読んでみましょうか。ルカの福音書4章27節からお読みいたします。 ルカの福音書4:27-30
ゲハジはエリシャより教えを聞き、奇蹟を見ましたが、また知識を持っていましたけれど、経験を持っていなかったのです。 イスラエルの民もイエス様の教えを聞き、イエス様のなされた奇蹟を見ましたが、心を頑なにして、明け渡そうとしなかったのです。 イエス様は当時のユダヤ人たちに、「汝らはわたしのことばを聞いた。また、わたしのわざを見た。汝らは多く知っている。しかし生きた経験を持っていない。したがって汝らに対する刑罰は死であり、らい病である。」と言われました。 これが今日にまで及んでいるイスラエルの民の運命そのものです。 ゲハジは頭の中に知識は蓄えていましたが、本当の力を持っていなかったのです。 やもめの息子が死んだとき、エリシャはゲハジに、「息子の上に杖を置きなさい。そして子どもを生き返らせなさい。」、と命令しました。ゲハジは子どもの顔の上に杖を置きましたが、生き返りませんでした。死人は死んだままでした。 けれど、よみがえりの力を持っていたエリシャがやって来たときに子どもは生き返りました。 ユダヤ人の指導者たちもイエス様を見聞きしましたが、自分の栄光のみを求めましたので、ゲハジと同じようにのろいのもとに置かれたのです。 すべてのことを見聞きし、知ることができますけれど、いくらそうであっても、内側が空っぽの場合もありうるのです。 イエス様はご自分のよみがえりの力をもっとよく知るように私たちに呼びかけておられます。 私たちが自分の興味、自分の考えを捨てるならば、イエス様をもっともっとよく知ることができ、よみがえりの力を自分のものとすることができます。 死なくしていのちはあり得ません。損失なくして得ることができません。パウロは次に祈って、心から願ったのです。すなわち、「私はキリストとその復活の力をよりよく知りたい。」、と。 ナアマンとはみこころにかなう礼拝者になりました。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。しもべは、これからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえやその他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。」と言ったのであります。 これこそすばらしい奇蹟ではないでしょうか。 |