名古屋喜びの集い


ベック兄

(名古屋喜びの集い、2005/02/20)

引用聖句:列王記第II、4章1節-7節
1預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」
2エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
3すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。
4家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
5そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。
6器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。
7彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

今、読んでもらいました個所は確かによく知られてる個所です。からっぽの器が満たされるようになりました。
ダビデもからっぽの器だったけど満たされるようになりましたから、次のように告白できたのです。

詩篇23:1
1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

詩篇23:5
5私の杯は、あふれています。

意味は、私は喜びで満たされています。結局大切なのは、良い牧者である主イエス様を知ることなのではないでしょうか。

われわれの主イエス様とは比類なきお方です。嘘を知らないお方ですから、信頼できるお方です。
この主イエス様は私たちひとりひとりを理解できるお方であるだけではなく、私たちのような者を心から愛していてくださるお方です。
この主イエス様ご自身を知ることこそがもっとも大切なのではないでしょうか。

いうまでもなく、多くの人々はイエス様について色々なことを知っている。けど、あまり意味のないことです。イエス様ご自身を知らなければ力にもならないし、喜びも湧いてきません。
例えばサウロ、あとのパウロはイエス様について色々なことを聞いたし、知っていた。もちろんこの彼の知識とは間違った知識でした。
彼はどうして主イエス様を知るようになったかと言いますと、上からの光に照らされたからです。聖書は言ってます。

使徒の働き9:3-5
3ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
5彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

彼の受けたショックとはちょっと想像できない。
光に照らされたとき初めて彼は、自分のやってることはとんでもないことであり、まったく悪魔的であり、的外れな行ないであると瞬間的にわかったのです。

イエス様の呼びかけとは、「わたしのもとに来なさい。わたしは世の光です。」、結局、「唯一のまことの光であるわたしのもとに来なさい。」
光のもとに来たくない人は、自分のわがまま、過ち、罪を隠すことであり、正直になりたくないことです。不幸への道なのではないでしょうか。
生まれつきの人間は決して光のもとに行こうとしない。

ある夜、ひと家族はうちまで来られ、そしてご主人は挨拶としてなかなかいいことを言ったんです。
「私は悔い改めるために来た。私は間違っていた。家族の者たちを大いに悩ませた。」
それを聞いてひとりの娘は驚きと喜びのあまり、泣いてしまったんです。

確かに人間はみな悩んでる者で、目くらにされている者です。そして人間の最大の敵はいうまでもなく自分なんです。
自分の考え、また自分の思い、そして感情を支配され動かされると、もうおしまいです。少なくとも主は知らん顔をする。祝福することができない。

十字架とはいったい何を意味してるなのでしょうか。「私の思いではなく、あなたのみこころだけがなるように。」、「自分の思いははたして正しいなのでしょうか?」と絶えず疑うべきなのではないでしょうか。
自分が正しいと思う人はかわいそう。結局毎日毎日、「主よ。どうしたらいいの。わかりません。お教えになってください。」とい態度を取る人はやっぱり本当の意味で満たされるようになります。

主はいつ働くことができるなのでしょうか。いつ祝福することができるなのでしょうか。
イエス様にのみすべての栄光を帰していきたいという願いが、われわれの心を満たすならば、そのとき溢れるばかりの祝福が与えられるようになります。

いうまでもなく、そのために必要なのはいわゆる十字架の働きです。なぜならば十字架の働きなくしては、イエス様だけに栄光を帰していくことはできないからです。
われわれの自我が砕かれなければ、主のいのち、主のご臨在、また主のご栄光は外に現われてこないからです。

パウロは、「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」と告白することができたのです。
パウロにとってすべてのすべてなのは、自分を愛し、自分のために犠牲になった主イエス様でした。
十字架の働きによって霊的に発散するようになれば、どうしても必要な一致も与えられます。本当の一致とは人間が作られるものではない。聖霊の働きの結果です。

自分のために何か欲しいと思えば、少しだけでもね、役割を演じたいと思えば、主は働くことができません。
たしかに兄弟姉妹を見ると、大したもんじゃない。がっかりするのは当然かもしれない。けども兄弟姉妹を批判するように確かになりやすいけど、パウロは何をわかったかと言いますと、兄弟姉妹を批判するのは、迫害することとは、イエス様を批判することであり、イエス様を迫害することである。

かしらであるイエス様と、このかしらとつながってる兄弟姉妹は別々じゃない。だからイエス様は、「どうしてわたしを迫害するの。」、彼はびっくりしたと思う。
キリストだってもう死んじゃったでしょ?キリストを迫害することができない。もう死んじゃったから。けども本当はそうだったのです。
結局あらゆる束縛から解放される道とは、自分を見ないで、兄弟姉妹を見ないで、イエス様から目を離さないことです。

ダビデは、「主を仰ぎ見る者は輝く。喜びに満たされるようになる。」と言ったのです。
イエス様を仰ぎ見ること。すなわち、「自分の思いではなく、父よ。みこころだけがなるように。」と祈り続けた主イエス様を仰ぎ見ることこそが、われわれにとっても、もっとも大切なのではないでしょうか。
パウロは信ずる者に書いたのです。

コリント人への手紙第I、3:16
16あなたがたは神の神殿であり、

神の住まいであり、

コリント人への手紙第I、3:16
16神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

結局どなたかね、本当の意味で救われてるかどうか私たちはわからない。主しかわかりません。
けど私たちは自分自身の心を吟味して、自分は本当に新しく生まれることを体験してるかどうか。あるいは、信仰は単なる付焼刃にすぎないのかどうかを考えてみる必要があります。
大切なのは、私たちが色々な信仰的な内容を信じているということではなくて、実際に、主イエス様との交わりをもってるかどうかなのであります。

当時のラオデキヤの教会に、主は厳しいことばを言ったんです。われわれにも当てはまるかもしれない。

ヨハネの黙示録3:17
17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

結局人間は何もわからない。けどそれでさえもわからないのは、悲劇的なのではないでしょうか。人間の傲慢、高ぶりの現われなのではないでしょうか。
主はからっぽの器を満たしたいと聖書は言っています。そのためにパウロは信ずる者のために絶えず祈り続けました。
あるときまた、ローマの刑務所に入るようになっちゃったんです。刑務所の中で彼は何を書いたかと言いますと、

ピリピ人への手紙4:19
19私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

「私は早くこの刑務所から出してもらいたいから、私のことを忘れないで。」とパウロは考えようとしなかった。
自分は別にどうでもいい。けども信ずるものはやっぱりすべての必要が必ず満たされるという確信をもっててもらいたい。

エゼキエルという預言者は書いたのです。「主の給仕として。私は以前よりも栄えさせる。」、以前よりも主は祝福しようと心から望んでおられます。
人間は管になれば、用いられる器になれば、結局満たされた者になれば、主は働くことができる。イエスは大声で言われた。

ヨハネの福音書7:37-38
37「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

結局、私たちがイエス様だけを仰ぎ見ると周りの人々は祝福されます。主の恵みによって備えられた人々は次々と導かれるようになります。

今、兄弟のお読みになりました個所は、確かによく知られてる個所です。だいたい二千五、六百年前に起こった出来事です。
ひとりの女性、非常に困ったやもめは、預言者エリシャのところに行き、助けを求めました。するとエリシャは、「からっぽの器を借りなさい。からの器を借りるように。」と言ったのです。
人間的に考えるとおかしい。からっぽの器を借りても、意味のないことなのではないでしょうか。

彼女は理解できなかった。けども従いました。結果として、満ちあふれるばかりの祝福を得ることができるようになったのです。
この女性こそがわれわれの模範となり得ます。なぜならば、彼女は何一つ包み隠さず、ありのままの状態を、自分の困ったことをあらわに示したからです。

だいたいの人々は隠すんです。「恥ずかしい。話しても何もならないなのではないか。」と考えるのです。
彼女はマルコの福音書に出て来る女性と似ています。親戚らしいものです。彼女はイエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けたとマルコの福音書5章33節に書かれています。
イエスに真実を余すところなく打ち明ける人は解放されます。元気になります。

私たちも同じように、どんな困ったことがあっても、そのときこそ主のみもとにゆき、そのことを包み隠さずイエス様に打ち明けると、罪咎を赦され、束縛から解放され用いらる器となります。
すなわち、かつてからっぽであった器は用いられる器となります。

たまに聞くことなんですけど、色々な困った問題があると、集会に行くことが少なくなり、その、「敷居が高くなった。」、測れないのに。
けどもそのときにこそね、そういう人々こそ来るべきです。問題解決されたくなくてもいいの。解決するために来るべきです。
結局そういう人々は、やっぱり自分自身のことを同情して、やっぱり、「私のような悩んでる者はいない。どうして。なぜ。」

集会に来るとすぐわかる。集会に来る人はみんな大したもんじゃない。みーんな悩んでるじゃないか。
その意味でやっぱり励まされるようになります。悩みながら喜ぶことができることこそがやっぱりもっともすばらしい証しなのではないでしょ
ある姉妹はご主人を亡くした。やっぱりあまり面白くない。けど今日も棺の中の彼の顔を見たときね、笑ってるんですよ。
結局私は先です。みんな追い越された者。結局死んでからいつまでもイエス様といっしょになること考えるともう、羨ましいとしか考えられないなのではないでしょうか。
結局姉妹は、もうずっと悩んだんです。ご主人は知らん顔をして、彼女よりも先に会社と結婚したから。そうするとやーっぱり大変だよ。けど祈り続けると、主は必ず働いてくださいます。

結局このやもめも結局何を経験したかと言いますと、イエス様のところに行くと元気になる。
主イエス様こそがわれわれの天のエリシャです。私たちはからの器であり、イエス様はそのからの器を満たしたいと望んでおられます。

イエス様の弟子たちとは三年半イエス様といっしょにいたとき、半分以上目くらでした。イエス様が何を喋ってるのかちょっとピンと来ない。
それにしても、「主よ。私たちはあなたから離れられません。行くところがない。あなたはいのちのことばをもってる。」
けども一番大切なこと、全然ピンと来なかったのです。イエス様が十字架の上で殺されるのはありえない。とんでもない。これこそ悪魔の目的、みこころではないと彼らは思ったんです。

けどもあとで振り返ってみたとき、結局聖霊の宮になったときから、彼らは根本的に変わった。そして彼らの証しとはすばらしい証しです。

ヨハネの福音書1:16
16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

結局私たちは主の栄光を見た。彼らは満たされる者となった。
聖書の言われてる満たしとはもちろん物じゃないよ。イエス様なんです。
このイエス様はわれわれを満たしたいと切に望んでおられます。このイエス様こそが、「おいで、あなたの口を大きくあけよ。わたしはそれを満たそう。」と呼んでおられます。イエス様は満たしたいと望んでおられます。

預言者エリシャは、やもめが自分の持ってる器だけを満たしてもらうだけではなく、ほかの人々の器をも借りて来て、満たしてもらうように言いました。
同じように私たちも場合も自分だけが満たされるだけではない。色々な問題で苦しみ悩んでいる人々もまた満たしていただく。根本問題を解決していただくことです。

よく言われるように、ちょうど私たちが救われるために救われたなのではない。
ほかの人々もまた救われるように用いられなければならないとまったく同じように、私たちだけが満たされればそれでいいなのではない。
ほかの人々もまた、満たされるように私たちは主によって用いられるべき者です。詩篇81篇10節ですね。今の引用した個所はすばらしい。

詩篇81:10
10わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

主は満たしたくて満たしたくてしょうがない。主はほんの少しだけのものをあげたいなのではない。完全に満たしたいと願っておられます。
残念ながら多くの人々は祈りのため、また祈りを通して口を大きくあけようとはしませんし、また主が私たちを豊かに満たしてくださるまで、辛抱強く待とうとしない。

イエス様の初めて行なわれた奇蹟とは、ある結婚式のときでした。ヨハネの福音書2章の中で、この出来事について色々なこと書いてあります。
結論を見ると、弟子たちはイエスを信じたということなんです。

ヨハネの福音書2:1-4
1それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
3ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
4すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。

お母さんと言わないよ。「女の方。」

ヨハネの福音書2:4
4わたしの時はまだ来ていません。」

母はそれを聞いて怒ったと書いてないんです。

ヨハネの福音書2:5
5母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

理解できても、できなくても関係ない。従いなさい。

ヨハネの福音書2:6
6さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。

随分入るね。

ヨハネの福音書2:7
7イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁まで

結局百二十リットルまで

ヨハネの福音書2:7-10
7いっぱいにした。
8イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、

半分くらい何もわからなくなってから、

ヨハネの福音書2:10-11
10悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
11イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

この個所によるとイエス様は、召し使いたちに水がめに水を満たしなさいと言われたので、彼らは水がめを縁までいっぱいにしたと記されています。マリヤの通りに、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
そのとき彼らが必要なのは、もちろんぶどう酒だったよ。水じゃない。水をいっぱいにしても何もならないと思ったならば、それはまったく意味のないことになってしまったでしょう。

彼らは人間的にはイエス様の命令を理解することができなかった。けども主の命令ですから、馬鹿らしいと思われるようなことであっても従ったのです。
この従順を通して彼らは奇蹟を経験し、豊かな満たしを受けたのです。
要求されていたのは、結局今日もそうなんですけど、素直に信じ、主の要求に従順に従うことです。これこそ自分が満たされ、さらにまたほかの人々のために用いられる秘訣です。

少しだけの満たしで満足せず、縁まで満たしていただくことを主は望んでおられます。
私たちも、「主よ。どうか豊かに満たしてください。」と、こういうふうに口を大きくあけて叫ぼうではないでしょうか。

使徒の働き2章。いわゆる、まことの教会の誕生日について書かれています。2章の4節を見ると、

使徒の働き2:4
4みなが

みなとは、そのとき集まった三千人のユダヤ人でした。いわゆるユダヤ人ではない人はおそらくひとりもいなかったのです。
ユダヤ人だけの祭りだったのです。けどもそのときみなが、

使徒の働き2:4
4聖霊に満たされ、

聖霊でいっぱいになっちゃったとあります。そのとき初めて集まった人々はまず120人です。
そのあとで結局知らないうちに3,000人になったのです。結局主は奇蹟をなしてくださったのです。

(テープ A面 → B面)

・・・満たしたいと望んでおられたのです。
主はいつも最善のものしか与えられないお方です。ルカの福音書15章の中で、みなさんご存知のいわゆる放蕩息子の話が出てるんです。

ルカの福音書15:22
22父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。

この放蕩息子はやっぱり束縛されたくない、自由になりたい、金があれば必ず幸せになると思い込んでしまったのです。馬鹿みたいね。
隣の町じゃないよ。隣の国じゃない。遠い国まで行っちゃったんです。もう親と関係を持ちたくない。

彼のために大飢饉が起こったんです。多くの人々は悩むようになったのです。けども間違いなく彼のためにだけ大飢饉が起こったのです。
もう食べ物がなくて、やっぱり恥を忍んで帰ろうか、ここで餓死して死ぬか。そしたら帰ったほうがいい。

息子として受け入れられるのはまず無理。あんまりひどかったから。けども、「お父さん。わがままでした。ごめんなさい。召し使いとして受け入れてもらえませんか?」と言えば、もしかするといいかもしれないと彼は思ったんです。

けどもここで、「急いで!早く、早く!一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。」、いやー、彼はまいっちゃったと思う。
父親の愛に圧倒されてしまったのです。
相変わらず息子として受け入れられる資格がないんです。あんまりひどかったから。主は一番良いものしか与えられない。大切な真理です。

人間は色々なことで悩むよ。「どうして。」、「なぜ。」と考えます。
けど、ドイツの親しい友だちはいつも言ったんです。「人間は自分にとって必要なものを持ってる。」

難しい奥さん、難しい主人をもつと・・・必要だから。
病気になると、「どうして。」、・・・必要だから。
経済的に悩むようになれば、「いったいどうして。」・・・必要だから。
子どもはなかなか聞く耳を貸さない、「いったいどうしてそんなことが。」・・必要だから。

友だちはそういうふうに言っただけじゃなくて、本当に彼の生活そのものがそれを証明したのです。
彼はデパート、日本のようなデパート、五つ、六つ持っていたんです。考えてくださいよ。大金持ちで、けど別に贅沢しなかった。

もちろん自分のうちで、いつも入るスイミングプール、うちの中でもちろんあったし、云々と・・けども非常にへりくだっていたんです。
そして結局色々な人に騙されて、全部失くしてしまったんです。考えられない。
その中に自分の親戚も自分の子どももはいっていたのです。

けども彼はそのときも、「ふん、あってもなくても主は全部知ってるでしょ。主は必要なものを与えてくださる。」、結局こういう態度取ることができれば、どういうことがあってもやっぱり喜びに満たされてる。主はそういうふうに働いておられるなのではないでしょうか。
マタイの福音書25章の中で次のような個所があります。主の祝福される人々について。

マタイの福音書25:34
34王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

世の初めから備えられた御国を継ぎなさい。今の人生だって大したもんじゃない。死んでから始まると聖書全体の言ってることです。
私たち人間を本当の意味で満たしてくれるものは、目に見えるものではない。世の初めから備えられた御国です。

父なる神はわれわれに主イエス様を通して、もっとも良いものを与えてくださいました。
イエス様は私たちひとりひとりのために苦しんでくださり、十字架の上で救いの代価を払ってくださり、尊い血を流していてくださったのです。
イエス様によってわれわれに必要なものはすべて与えられています。

ローマ人への手紙8:32
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

イエス様がわれわれのために犠牲にされてしまったのです。死に渡された方について、また父の愛について考えるともう、もちろん想像できない。
けどもやっぱり希望が湧いてきます。ひと言葉で言いますと、主なる神はわれわれにご自身の満たしを与えようとなさっておられ、完全な満足を与えたいと望んでおられるのです。

そのことを聖書は何度も繰り返して語っているにも関わらず、なぜ多くの信者がみじめな状態にとどまり、主ご自身の満たしにあずかることができないのか不思議なのではないでしょうか。
けども問題は満たされるためにどうしたらいいなのでしょうか。
主の満たしについて色々なことを考えられますけど、主は「いのちの満たしを与えたい。」、いのちによって満たされることこそが主の願っておられることです。

よく病院まで行きますと、重病人に会いますと、その人の名前を呼ぶとき、その人が一度はかすかに目を開けても、またすぐに瞼を閉じてしまいますと、私たちは何を考えるなのでしょうか。「まだいのちがあるけど、いつまでもつかわからない。」
旧約聖書の中で例えばサムソンについて書いてあります。彼はライオンを裂きました。ダビデもライオンと熊を殺した、一人でと書いてあります。
確かにサムソンもダビデはいのちに満たされていたと言えるなのではないでしょうか。多くの人は新しく生まれ変わっていますけど、証しをする備えも意思も持っていない。

パウロは使徒の働きの中の三ヶ所で、使徒の働き9章、22章と26章の中で、公に証しをしたことがわかります。
主はご自分の証し人を求めておられ、私たちがその証し人となること、そしてどのようにしてイエス様のいのちをいただいたかをほかの人々に宣べ伝えてもらいたいと願っておられます。

ヨハネの福音書10:10
10わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

これこそ主がこの地上に来てくださったことの目的であり、その意味において私たちは自分だけが満たしを受けるだけではなく、そのいのちの満たしを一人でも多くの人たちに伝える使命をもっているのです。
この使命にまい進するために祈り、またそのような器として用いられるよいうにと祈ろうではないでしょうか。イザヤ書の60章の22節。次のような約束のことばがあります。すばらしい約束です。

イザヤ書60:22
22最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。

主がしてくださる。自分で無理だからです。
いのちに満たされてる主イエス様だけが私たちをいのちに満たしてくださることがおできになるのであり、それだけでなく、ほかの人々にもいのちの満たしをもつようになることがおできになるのですけど、しかも主はそれをすみやかにしてくださると約束されています。

いのちに満たされることこそが、主の目的です。また、愛に満たすことも主の目的です。
これは私たちがどんな人をもたて、その人が敵であっても、愛することができるということを意味してるのです。

初代教会の初めての殉教者であるステパノは愛に満たされた男でした。彼は石で殺されてしまったんです。
そして息を引き取るとき、彼は大きな声でまた祈ったんです。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」
結局、「あわれんでください。彼らの罪を赦しになってください。彼らを救ってください。」

これこそが愛の満たしです。
自分を殺す人々のために祈ることだって、普通の人間はできるもんじゃない。できてもうわべだけです。心からできるもんじゃない。
ステパノはできたんです。いったいどうしてでしょうか。

彼は急にイエス様が、勝利者なるイエス様が見えるようになったのです。
天が開かれるようになり、イエス様はもう座ったままではなく、もう立ってたんです。
結局彼を迎えるために。

それを見たときやっぱり彼らは、今殺されても行く先は決まってると確信したから、自分を殺す者たちのために心から祈ることができたのです。
愛に満たされることとはそれなんです。もちろん人間だってそういう愛を作るもんじゃない。だから、

ローマ人への手紙5:5
5私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

人間の愛だって大したもんじゃないよ。愛されればもう「愛します。」、裏切られれば「おしまい。」、愛じゃないよ。
わがままの表われだけなのではないでしょうか。

いのちに満たされること。愛に満たされること。それから、喜びに満たされることも考えられないほど大切です。
3,000年前に、ダビデは喜びに満たされていたと聖書は言ってます。

詩篇16:11
11あなたの御前には喜びが満ち

ていると、彼は告白することができたのです。
「あなたの御前には喜びが満ちている。」、これはダビデの証しですが、けど主の御前で光の中を歩む者はだれでもこの喜びに満たされます。
この喜びを主は私たちひとりひとりにも与えたいと望んでおられます。主の喜びは波のように変わるものではない。絶えざる喜び。変わらざる喜びです。

よく引用される個所なんですけども、ハバククという男は面白くないことを経験したのです。けどもそれと関係なしに彼は喜ぶことができた。
なぜならば、現実はどうであれ、どうして、なぜかとわからなくても、主は最善をなしてくださると確信したからです。

ハバクク書3:17
17そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

結局今までの苦労は無駄でした。「もうがっかり。もう嫌!」と彼は言わなかったのです。

ハバクク書3:18
18しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

この喜びの満たしは、この世の財産やさまざまな事情にかかってるのではない。この喜びは理解することも説明することもできないほどのものです。
初代教会の信者たちは誤解され、迫害され、いじめられましたけど、喜ぶことができたのです。ペテロは彼らの信仰生活について書いたのです。

ペテロの手紙第I、1:8
8ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

けども彼らはいつ殺されるかもちろんわからなかった。今日こそわれわれの最後の日かもしれない。
けどもそれと関係なし、彼らは本当の意味で喜びに満たされたのです。

もうひとつ。平和に満たされることもどうしても必要なのではないでしょうか。
イザヤ書の26章。よく引用される個所ですけども、

イザヤ書26:3
3志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

イエス様は平和の君ですから、このイエス様なしには誰も全き平安をもつことができない。
主イエス様がこの世に来られたのは、ご自身の平安をわれわれに与えるためでした。イエス様に信頼するならば、必ず主は私たちにご自身の平安を与えてくださいます。

イエス様とはどういうお方だったでしょうか。平安に満たされた方であるとはっきり言えます。
イエス様のお別れのことばを読むと、もうびっくりします。すごいことばです。
イエス様はあらゆる不安から、心配から解放され、まことの平和に満たされたのです。マタイの福音書26章。ここで、短い文章なんですけども、イエス様とはどういう心構えの持ち主であったかについての個所です。

マタイの福音書26:30
30賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

もちろん捕まえられるため、殺されるため、出かける前に彼らは賛美した。ほめ歌を歌った。
主に対する信頼の表われとして。まことの平和に満たされた証しとして。

イエス様は間もなく捕らえられ、五、六時間あとには十字架に釘付けられ、われわれ、すべての罪の苦しみを受けてくださり、父なる神に見捨てられるということを知っておられたにも関わらず、イエス様はほめ歌を歌った。

イエス様は十字架の上で考えられないほどの苦しみと悩みを経験なさり、「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫びました。
このような苦しみを前もって知っていながら、どうしてイエス様は賛美の歌を歌うことができたなのでしょうか。イエス様は全き平安に満たされたからです。

主はわれわれにも、同じ平安でもって満たしたいと望んでおられます。そのために必要なのは、結局満たされることです。
主のいのち、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされることこそが、もっとも大切なのでしょうか。けど満たされるために何をしたらいいの?
主の満たしを受ける秘訣とはいったい何なのでしょうか。

まず第一に、私たちは自分がからっぽの者であるということを知る必要があります。
もしも私たちが本当に正直であるならば、自分の内には何にも良きものがないということを認めざるを得ない。

エリシャに助けられたやもめも、自分がまったくからっぽの者であることを認めたときに、またそれを言い表わしたときに初めて、主の満たしを受けることができたのです。
何にも隠さず、ありのままの状態で主のみもとに行くことが大切です。次のようなことばはみな暗記してることばです。よく未信者を導くために使われることばですけど、本当は未信者のためじゃなくて、信者のために書かれてることばです。

ヨハネの手紙第I、1:9
9もし、私たち

信ずる者

ヨハネの手紙第I、1:9
9が自分の罪を言い表わすなら、

言い表わさなければおしまい。けども言い表わすなら、

ヨハネの手紙第I、1:9
9神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

すべて。過去の罪だけじゃない。現在の罪も将来の罪も。知ってる罪だけではなく、知られないうちに犯した罪も、すべての罪がきよめられる。
結局主イエス様は、すでにご自身の血潮によって尊い代価を支払ってくださいましたから、罪を赦したいと切に望んでおられます。

ある人は、自分の罪はあまりにも大きすぎる。はたして主はこんな罪をも赦してくれるのだろうかと疑います。
けども主は必ずあらゆる罪を赦すことができるだけじゃなくて、赦したくて、赦したくてしょうがない。
満たされる根拠は、すべての罪は赦されている、忘れられているという確信です。

けど大切なのはただ単にからの器として、ありのままの状態で、主のみもとに行くだけではなく、すなわちただ単に自分の過ち、わがままを認めて言い表わすだけではなく、第二番目に、幼子のような信仰をもつこと。主の約束をつかむことです。
わかることじゃない。何かを感ずるのでもない。

悔い改めたあとで、私たちは主が自分の罪を本当に赦して、洗いきよめてくださったという確信をもつことができるのです。
この確信の土台とは、もちろん人間の感情でもない。人間の理解力でもない。神のことばです。
主は約束したから、嘘を知らないお方が言われたから、私たちは安心して信ずることができる。

イエス様は言われたことがあります。「信ずる者にはどんなことでもできる。」
信仰とは神の贈り物をいただく、からの手のようなものです。信仰とは、提供された主の贈り物を意識的に受け取って、それを自分のものにすることです。

主の目から見ると、もっとも恐ろしい罪とは何でしょうかね。間違いなく不信仰です。
この不信仰の罪のゆえに、救われていない人は滅びるようになります。
この不信仰のゆえに、すでに救われてる人々は成長しなくなってしまい、用いられなくなってしまいます。

信仰のあるところには、悪魔は逃げざるを得ません。
信仰のあるところには、主がご栄光を現わすことがおできになり、奇蹟を行なうことができるのです。
信仰のあるところには、主だけが礼拝され、誉れを受けるようになります。

結局私たちは、信仰生活においていつも、分かれ道に立たされているなのではないでしょうか。
すなわち目に見える現実の世界を見て、それに動かされ、支配されてるか、あるいは、みことばを自分のものとして主に拠り頼むかどうかのどちらかです。
これこそが主の望んでおられる信仰であり、この信仰によって私たちは主を喜ばせることができるのです。

現代人の多くは、自分、自分、自分のことだけしか考えていない。だから不幸になるのは決まりです。
どうすれば幸せになるなのでしょうか。それはイエス様と結び付くことによってのみです。
そのために必要なのは何なのでしょうか。ありのままの状態でイエス様のみもとにゆき、すべてを包み隠さず、イエス様に打ち明け、罪を言い表わすことです。

それから、幼子のように素直に信仰と信頼をもってイエス様を見上げ、イエス様の約束をつかみ、赦しのために感謝することです。
それから、御霊に満たされることによって用いられる器となることです。

信ずる者はだれでも聖霊の宮であると聖書は言っています。聖霊を宿すことによって人間は救われます。
けど多くの信者の場合、聖霊はイエス様の栄光を現わすことができませんが、これは本当に悲しい事実と言わざるを得ない。
もちろん聖霊に満たされるとは、奇蹟を体験したり、異言を語ったりすることではない。従順に主に従うことであり、自分の支配権をイエス様に明け渡すことです。

その結果としてふたつのことが言えます。
ひとつは、イエス様を信ずる者が喜んで主を証しすること。主イエス様の証人となり、そしてほかの人々を主に導くことです。

使徒の働き1:8
8聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

多くの人々は、自分は聖霊に満たされていると思い込んで、傲慢な生活を送ってます。
けど聖霊に満たされたことの特徴は、滅びゆく人々のために最善を尽くすことであり、主イエス様を証しすることです。それは自分を否定すること、また犠牲を払うことなしには決してできません。

もうひとつ。御霊の実が結ばれることも聖霊に満たされたことのもうひとつの特徴であります。ガラテヤ人への手紙5章の22節から。御霊の実とはどういうもんかと書いてあります。

ガラテヤ人への手紙5:22-23
22御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

(最後の数分が収録できませんでした)




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