引用聖句:ヘブル人への手紙4章14節-16節
ヘブル人への手紙7:25
ヘブル人への手紙12:1-3
今の読んでくださったへブル人への手紙、7章の25節は本当にすばらしい約束です。イエス様は、完全に救うことができるお方です。いつもとりなしていて下さるのです。この事実について考えると、結局何があっても悩みながら喜ぶことができる前向き生活をすることができるのです。 「イエスから目を離さないでいなさい」これこそが信じる者にとって、最も大切な命令じゃないでしょうか。イエス様は救うことができるお方です。実際生活において、何か困難な問題に直面すると、「私はそれをしたいけれど、できない」という場合がよくあるのではないでしょうか。 けれど、それとは反対にイエス様にとっては不可能なことはない。イエス様にとっては何でもできることであり、イエス様は、したいと思うことをすべて完全に成すことができるからです。今日も完全に救いを、解放を与えることができるお方です。 聖書を見ると、イエス様によって、あらゆる絶望、疑い、失望、苦しみが解決されるのです。聖書を通して、私たちは、どうしようもない者として生まれたこと、そして罪の恐ろしさのことを知ることができます。また聖書を通して、主なる神の神聖さ、また厳しさを知ることができます。 罪を犯した魂は、死ぬべしと聖書の中で何回も書いてあります。すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていると。けれど、主なる神は、そのひとり子を賜わったほどにこの世、我々を愛してくださいました。すなわち私たち罪人の代わりにイエス様が尊い犠牲を払ってくださったのです。 イエス様は、代わりに死んでくださった、これこそ聖書の中心なる福音そのものです。もし私たちがこの事実を信じ受け入れるならば、もはやいのちを失うのではなく、永遠のいのちを得るのです。完全な、現在のそして永遠の救いは、イエス様だけが我々に与えることができるのです。 イエス様は、御許に来る者をお救いになる。決して捨てないと約束しておられます。けれど、なぜ今イエス様の御許に来ないのか。主なる神の右に座しておられるイエス様だけが、唯一の救いの道であるからです。 「誰もわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできません。」イエス様は、私たちがイエス様の御許に来て、信じ受け入れることを、もちろん2、3週間、何ヶ月か後じゃなくて、今も待っておられます。 主イエス様は、真理、正義、平和を真剣に求める者を完全に満たしてくださいます。私たちは、イエス様がどれほど自分を愛しておられ、待っておられるか想像することができません。 ルカの福音書15章を見ると、いわゆる放蕩息子の父親が、毎日息子が帰るのを待って、地平線のかなたを見ていたことがわかります。そして、ぼろぼろに汚れ果てた放蕩息子を、やつれ果て息もたえだえに戻ってきた姿をはるかかなたに認めた時、父親は、急いで走り寄って息子をしっかりと抱きしめたのです。 私たちは罪の贖いを受け入れようと思わないのでしょうか。主を拒むことをやめましょう。主なる神に対する先入観念を捨てましょう。もうしっかりと根を下ろしてしまっている間違った考えを、捨てた方がいいのではないでしょうか。 人間は、完全に信頼することができない不完全な者です。けれど主なる神は、100%信頼することのできる完全なお方です。 イエス様は、今日も誰にでも完全に救うことができ、解放することができるお方です。多くの模範的な偉い人々が死んで灰になりましたけれど、彼らといえども私たちを助けることができません。イエス様は、よみがえられて今もここに生きておられるのです。これこそが私たちの最も必要としているものではないでしょうか。 イエス様は、今も生きておられ、我々のために父なる神にとりなしてくださるのです。イエス様は、私たちを押さえつけているものをすべてご存知です。イエス様は、私たちが心の奥深くにひそかに思っているとしても、過去の私たちの罪を全部ご存知です。けれど、私たちを訴えるかわりに、釘つけられた手を私たちに差し伸べておられるのです。 今日もイエス様は、私たちの前に立っておられます。ただイエス様だけが、自分の心を変えることができるのです。ただイエス様だけが、自分の生活を満たしてくださるのです。ただイエス様だけが、自分の困難な問題を解決してくださるのです。 箴言28:13
人間にとって大切なのは、あわれみを受けることだけです。主があわれんでくださらなければ、確かにおしまいです。隠す者は危ない。罪の告白なくしては、新しい生活はあり得ません。 けれど、回心というすばらしい生活の第一歩で留まってはいけません。それからさらに成長しなければならないのです。初めは大喜びであった人、初めは悔い改めの涙を流した人の何と多くの人が、信仰の成長を忘れてしまっているのでしょうか。初めの状態に留まってしまって、成長しない信者が何と大勢いるのでしょうか。 彼らは新しいいのちを与えられていながら、成長しない子供みたいな者です。これこそ今日、イエス様のからだなる教会の持つ一番大きな悩みなのではないでしょうか。大部分の信者は、子供のような状態です。 彼らは、もう大人に成長していなければならないにもかかわらず、何十年も一年生に留まっているのです。今日、最も必要なのは、イエス様のため、また滅びゆく魂のために戦う戦人なのです。けれど実際は、残念ながら幼稚園の子供のような状態ではないでしょうか。 何が欠けているのでしょうか。どこに問題があるのでしょうか。それがすなわち成長するための食べ物が欠けているということです。食べ物は成長するためにどうしても必要なものです。これはただ単に肉体のみならず、霊的な成長にも当てはまることです。新しい成虫が育てられ、成長しなければなりません。 新しい人は、みことばに飢え乾いているはずです。けれど多くの信者は、病気でありうみ疲れており、あわれな状態であります。そのような人々の生活は、祝福ではなく失望に満ちています。 なぜもっともっと成長しないのでしょうか。餓死してしまったからです。多くの人は、生存するための最低の食べ物しか食べないのです。たとえば、日曜日の朝だけ集会に来れば充分だと思い込んでいる人が餓死しているのです。 ずいぶん前だったんですけれど、二人の兄弟が毎日一時間聖書を読んでいるということを聞いた時、非常に嬉しかったんです。毎日聖書を読むことはなぜ大切なのでしょうか。なぜならば、人間は動物じゃないから。人間の魂は、肉体と同じように食べ物を必要としているのです。 私たちは、毎日3度の食事をとっているのに、なぜそれと同じだけ霊の糧を必要としないのでしょうか。からだの方が魂よりも大切なのでしょうか。イエス様は言いました。 マタイの福音書4:4
自分はどうしてこんなに信仰がダメになってしまったのかと、疑いあやしむ人がいますが、その理由は霊の糧を食べていないからです。 肉体に対しても同じように食べ物を取っていなかったならば、ずっと前に死んでいたことでしょう。新しい人の正しい食物は、主なる神のことばであり、それこそが霊の糧です。 主なる神は、「みことばこそ、汝のいのちなり」と言っておられます。モーセはそう言ったんです。 申命記32:47
イエス様は、また次のように証しておられます。 ヨハネの福音書6:63
主のみことばを食べ消化することは、私たちを造り変え成長させるのです。イエス様のみことばを毎日食べ、聞き従う者は、イエス様の御姿に似た者となり、次第に性質、思い、歩みも似た者となるのです。 イエス様の御性質とは、死に至るまで献身することです。新しいいのちの特徴は、自己決定ではなく、献身であります。 ヨハネの福音書12章24節を見ると、イエス様は次のように、結局信じる者の成長のために言われたのです。 ヨハネの福音書12:24-25
これこそ新しい生活における祝福の秘訣です。この新しいいのちは、主なる神によって与えられたものであるゆえ、決して自分のものではありません。それですから、私たちは、新しいいのちを与えてくださった方にすべてを捧げなければなりません。献身することによって、私たちの新しいいのちは満ち溢れるのです。 そして主のために命を捧げる者こそ、汲めど尽きせぬいのちの泉に満ち溢れるのです。新しいいのちは、主との結びつきに他ならない。二つのものが一つになるのです。すなわち、新しいいのちは、主と結びついて一つになることです。 いのちの交わりは、主イエス様との交わりです。イエス様は、私たちと共におられるだけじゃなく、聖霊によって私たちの内におられます。信じる者は誰でも、みことばに基づいて聖霊が内に宿っているという確信を持つことができるのです。 エペソ人への手紙1:13
また、実を結ぶ秘訣について、イエス様は有名なヨハネの福音書15章4節に次のように言われました。 ヨハネの福音書15:4
これこそ、成長と実を結ぶことの秘訣です。すなわちイエス様と私という二つの人格が、一つになっているのです。神の御子すなわち、勝利者、いのち、光、力である主イエス様は、あなたと一つになることを望んでおられます。 イエス様は、聖霊によって信じる者の内に宿り、信じる者と共通の生活をしようと望んでおられます。イエス様とあなた、これは現在のためにも将来のためにも充分です。 私たちの内におられるイエス様は、いかなる状態においても長けておられるのです。私たちは、イエス様によって、すべてが満たされており、あらゆる問題が解決されています。 イエス様の知恵と力は、いかなる悩みや苦しみの時にも本当に充分です。イエス様の愛は、完全な満足を与えてくださるのです。私たちは、主にあって完全な満足を見いだすか、または絶対に満たされることがないかのどちらかです。イエス様を持っている者は、すべてを持っている。 人間が与えるものは、いかにすばらしいものであっても、イエス様の提供された贈り物と比べると、全く色あせたものになってしまいます。 イエス様を持っている者は、この世が提供するいかなるものをも必要としないのです。イエス様の中に尊い本物の真珠を見い出した者は、この世の提供する偽の真珠には、目もくれないのです。パウロは、これを確信したから次のように書きました。すばらしい告白です。 ガラテヤ人への手紙6:14
私たちの内におられるイエス様は、決して消極的なお方ではありません。イエス様は、私たちを新しくしてくださると約束されたゆえに、必ずそうしてくださるのです。 イエス様が私たちの心の中に入られた時、私たちの心は決してきれいに掃除された神の宮ではなく、強盗の巣のように荒されていたのです。 私たちは、自分自身の力で清めることはできません。 エレミヤ書13:23
もちろん出来ません。それと同じように、私たちも自分の心を清くすることはできないけれど、イエス様はおできになります。 イエス様が私たちの内におられると、その血によって絶えず私たちを清めてくださるのです。 ヨハネの手紙第I、1章7節は、皆さん暗記したすばらしいことばです。初代教会の喜びの源でもありました。 ヨハネの手紙第I、1:7
イエス様の血によって清められた者は新しい者です。私たちが清められる目的は、主の栄光を褒め称える者となるためです。 エペソ人への手紙1:12
かつては主なる神に敵対する者であり、罪人であり、悪魔の奴隷であった私たちは、イエス様の血によって新しく造り変えられたのです。すなわち主の栄光を褒め称える者とされました。 私たちの人生の目的とは、いったい何でしょうか。いわゆる幸せか、あるいは金か、名誉か、愛情でしょうか。そうだとすると、私たちの人生の目的は、全く低いものとなってしまうでしょう。 主なる神の愛、また知恵は我々のために、はるかに高い目的を配慮してくださっているのです。自分は主なる神を褒め称える者となるべきです。主に似た者となるべきです。ヨハネの手紙第I、3章2節、非常に信じる者にとって大切なことばです。初代教会の兄弟姉妹の告白でもあり確信でした。 ヨハネの手紙第I、3:2
その時初めて、次のように大声で賛美することができるでしょう。 ヨハネの黙示録5:12
私たちも、自分の人生のために自分の人生のための、主なる神の目的を受け入れようと思いませんでしょうか。 我々の人生は、今主に喜ばれているのでしょうか。もしそう望むならば、自分の全生涯を、自分のために釘づけられたイエス様の御手の中に明け渡しましょう。 主が、我々の生涯において主の目的を、必ず達成されることを信じましょう。 私たちの信頼は、イエス様を喜ばせる唯一のものです。我々の信頼は、私たちがイエス様に表すことのできる唯一の栄光と誉れなのです。イエス様は、ご自身を我々に提供しておられるのです。イエス様は、「わたしのもとに来なさい。わたしは、あなたを新しい者とする」と約束しておられます。私たちの答えは何でしょうか。 誰かが電話で、何かを求める時、私たちはそれに答えなければならない。お客様が玄関に来て、何かを話したと思っている時、私たちはそのお客様に挨拶をする義務があります。誰かから依頼の手紙をもらった時、私たちはそれに対する返事を書かなければなりません。そういうことは礼儀作法として当然のことであり、また興味を持っているがゆえに答えるのかもしれない。 聖書も我々のはっきりとした答えを望んでおられます。 マタイの福音書22:22
私たちは、いかなる答えをするのでしょうか。私たちが主なる神と正しい関係に入ることを、主が望んでおられます。金、努力、手柄などは要求されていません。 主なる神が、人間が滅び行く状態について言っておられること、イエス様が我々の救いと解放のためにしてくださったことを、信じなければなりません。 ヨハネの手紙第I、5:10-13
主の御業に対する私たちの答えは、いかなるものでしょうか。 今日、みことばを聞いた人は心をかたくなにしてはなりません。イエス様の招きに素直に応じてください。ためらわずに、今すぐ、主の招きに従いましょう。 喜び立て、主がお前を呼んでおられると聖書は言っておるのです。 |