なお深く主を知らん


ベック兄

(少し初期の時代のテープです)

引用聖句:列王記第II、4章32節-37節
32エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。
33エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。
34それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。
35それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。
36彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい。」と言いつけた。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこで、エリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい。」と言った。
37彼女ははいって来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをした。そして、子どもを抱き上げて出て行った。

きょうは、なお深く主を知らんと言うテーマについて、一緒に考えましょう。

ペテロの手紙第II、3:18
18私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

きょうで、預言者エリシャについて話すのが、7回目になります。この預言者の生活は、いよいよ偉大になります。この預言者は、霊的に堕落していた時代に生きていました。すべての預言者たちは、形式的な集まりはあっても、内面的な力を失った時代に、主なる神から召され立たされています。この特に、召された人々が預言者です。すなわち預言者は神のみこころを知っており、それを実行しほかの人々にそれを告げ知らせた人々です。預言者が語るなら、それは、神が語るのです。預言者が行うなら、それは神が行うのです。このような預言者であるエリシャが、ある日シュネムにやって参りました。そしてそこにいた一人の婦人に招かれました。その女はエリシャを預言者であると認めました。

この女は信者であり、以前に、主にあったことのある人である事がわかります。
しかし、この女は、エリシャを通し、主なる神をよりよく知りたいと言う願いを持っていました。みなさん、もし、あなたが、キリスト者なら、主イエス様を、もっとよく知りたいと言う心からの願いを持っているはずです。主イエス様を、もっともっと知りたいと思うことは、キリスト者である事のしるしです。

ところで、この婦人は、いかにして、主を学んだのでしょう。また、私達は、どうしたら主イエスをもっとよく知ることができるのでありましょう。列王記第II、4章4節

列王記第II、4:9-10
9女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。
10ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。」

エリシャは、しばしばお客様として、この女の家にはいったことがありました。
この女は預言者の言葉、神のみことばを聞きたかった。彼女は、自分の家を預言者のために開けたばかりではなく、自分の心を神に向かって開いたのです、ほかの言葉で言えば、この女は、主イエス様、すなわち神の言葉を、受け入れたことになります。

ヨハネの福音書1:12
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

もし、あなたがイエス様を受け入れているならば、あなたは、神の子です。
そう感じないかもしれません。あるいは、理解する事ができないかもしれません。
でも、みことばである聖書はそう言っています。イエス・キリストを救い主として受け入れた人は、みな例外なく、永遠に神の子です。しかし、新しく生まれた子供に食べ物が必要なのと同じように、あなたの内面的な命も、栄養を必要としています。新しく生まれた子供は栄養を取らなければ死んでしまいます。新しく生まれ変わった人も、栄養を取らなければ痩せてしまいます。私達は、いかにして、何によって、新しい栄養を取ることができるのでありましょうか。いかにしたら、私達は、イエス様をよりよく知ることができるのでありましょうか。 勝利に満ちた生活の秘訣は、いったいどこにあるのでしょうか。静思の時(せいしのとき=ひとり静かにイエス様を思うとき)を持つ事によって、私達は心の栄養をとることができ、私達は、主イエス様をよりよく知る事が出来、静思の時間によって勝利の生活を獲得することができるのです。

詩篇 90:14
14どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。

あなたは、朝、早く起きて、主イエス様と一緒にいる静かな時を持ちますか。
あなたは、ご自分の救い主に1日の最初の時を捧げているのでありましょうか。
主は、朝の静思の時を通して、その日、1日の心の糧を与えたいのです。朝、聖書を読み祈り静思の時を持たなかった1日は、敗北の1日です。もし、主が静思の時間を通して、あなたに力を与えることができななら、あなたは悪魔に立ち向かう事はできません。もし、その状態になれば、戦車に泥を投げて立ち向かうようなものです。なんと言う哀れな状態でしょう。そして、あなたは、聖書の教えはすばらしいが、実際の生活には当てはまらないと不平をこぼすのでしょう。しかしもし、朝ごとに、主があなたに会い、主があなたに力をお与えになったとしたら、あなたは、悪魔のいかなる軍勢も逃げると言う経験をする事ができるのであります。

旧約聖書を見ると、イスラエルの民が神に近づくとき、いつも祭壇のそばを通り過ぎてから聖所にはいっています。この祭壇は、イエスさまの十字架を象徴しています。あなたも、朝ごとに、主の御前に歩み寄る時、必ず主の十字架を通ってから行かねばなりません。これは、何を意味しているのでありましょうか。

祭壇の上では、毎日、いけにえの全部が捧げられるのです。十字架は、同じように、すべてを捧げた場所です。毎朝、イエス様に言ってください。わたしの両手、両足、耳、舌、意思、感情、理解力、これらすべてを、主よ、あなたに捧げますと言ってください。あなたを束縛から解放してくださったイエス様に対してあなたは、毎朝、感謝するのでありましょうか。あなたは、きょうも、イエス様が自分のあらゆる罪を洗い清め、救ってくださる事を感謝するのでありましょうか。もし、あなたが、この血を感謝するなら、あなたの信仰のようになります。
あなたの信じた通りになると、イエス様は約束してくださいます。イエス様は、あなたの古い衣を取り去り、新しい救いの着物を着せます。もし、そうなったらあなたは聖所にはいる事ができ、聖なる神の前で礼拝する事ができ、また、人のためにとりなす事もできるのです。 神のご臨在のうちに神のご栄光を見て、神を礼拝せざるを得なくなります。

あなたが、毎朝、この静まった時を過ごさなければ、あなたの悩みと苦しみが見えて、神のご栄光は小さなものに見えてしまいます。イエス様だけを見るかわりに、人間と、あなたの環境だけが目に入ります。兄弟姉妹よ、私達は、どうしたら、もっと良くイエス様を知ることができるのでしょう。それは、朝、静かな時によってです。多くのクリスチャンは、静思の時に、良心のやましい点を知ります。なぜなら、静思の時間は、聖書を読むのと祈りのために用いられるのですから、静思の時間に、私達は神の御声を、聞くために聖書を読みます。神の御声を聞いたら、それに対する答えとして、私達は祈ります。多くのクリスチャン達は、ほんの少しだけしか聖書を読まず、神の御声を聞くことをしません。少ししか祈りません。やましい心があるのです。聖書を何回もできるだけ読まなければキリスト者として損なことです。聖書は、神のみことばです。もし、みことばを読まないなら祈りが止まり、神の御心を深く知る事ができません。私達のたましいは、みことばに飢え乾いているでしょうか。

イエス様は、「わたしは命のパンです。」とおっしゃいました。パンは、博物館の中に展示されているべきものではありません。食べなければ、なんの価値もないものです。私達の霊的な命は、この命のパンを食べるに従って成長していきます。命のパンである主イエス様ご自身が、わたしたちの食べ物にならなければなりませんし、イエス様は、そうなり、私達の心の奥底に入ることを願っておられます。

どうしたら、イエス様をもっとよく知り、理解することができるのでしょう。
みことばによってできるのです。どこで、いかにして、私達は、主を見出し、主をよりよく理解できるのでしょうか。主のみ言葉によってのみ、主を知り、主をよりよく知ることができるのです。聖書は、学問のために書かれたのではありません。真理を打ちたてるために書かれたものでもありません。聖書は、神の呼吸です。息です。主は、ご自身を、み言葉によって、み言葉につつんで、み言葉にご自身を包んで現されているのです。ですから、そのみ言葉を、イエス様を命のパンとして食べなければなりません。もし、食べるなら、味がするはずです。
食べたら消化して、その結果、力が与えられるでしょう。食べるなら、それは、あなたの体の一部分となり、そうすることによって、栄光から栄光へ、主と同じ姿に変えられてまいります。1日の始まりの時を、この命のパンを食べるために用いましょう。私達が、主ご自身により、生ける命のパンによって生きる者となりたいものです。主イエス様は、私達との交わりを求めておられます。これを、よく心にとめてください。イエス様は、あなたを求めておられます。イエス様はあなたに聖霊をお与えになりました。そして、いまや、あなたを愛し、あなたに会うことを心から願っておられるのです。これを意識していつもイエス様の御前に出ましょう。そうしたならば、あなたは、イエス様を自分の主として、友として、また花婿として、よりよく知ることができます。

この婦人の心は神の言葉に対して開かれていました。彼女は、神の言葉を聞きたいと思い、神を、もっともっとよく知りたいと思ったのです。そうするために彼女は、預言者のために部屋を作りました。神の人のために部屋を設けました。
神のみ言葉が、彼女のうちに入りこむ余地ができたのです。私達の場合を考えると神のみ言葉が私達の心にはいったのです。このシュネムの女は、裕福で非常に良い地位を持っていました。この女は、主なる神をよりよく知りたいと思い預言者を招き、神に奉仕しました。見たところ、彼女には、なんの苦しみも悩みもないようでした。でも実は、彼女の心に、大きな悩みがありました。彼女は、すべてを持っていましたけれど、彼女に意味のあるもの、大切なものを持っていませんでした。子供がなかったのです。

4章16節の「はしためを欺かないでください・・」と言う言葉。この女の願いは、子供が欲しいと言う願いでした。それは、全く不可能な事なので、わたしは、あきらめました。それは、非常に苦しい戦いでした。しかし、仕方ないので今は、もうあきらめています。どうぞ、この事については、もう話さないでください。あなたが、その事を話すとまた以前の苦しみが始まりますから・・・。

ところで、預言者エリシャは「来年の今頃、あなたは男の子を抱くようになるだろう。」と語りました。この預言は、実際に成就されました。女は、ついに身ごもって、エリシャが語ったように次の年に子を産みました。預言者が語るなら、それは神がお語りになり、預言者が約束するなら、それは神が約束されるのです。そして、神の約束は、必ず成就します。兄弟姉妹よ。私達も、この女と同じように静思の時間を持ち、み言葉を受け入れる心の余地を神に与えるならば、不可能を可能とする奇跡を経験するでしょう、そして、ひとりひとりが持っている深い心の傷も癒され、深い悩みも消え去るでしょう。

この女の、子供を得た時の喜びはいかばかりだったでしょう。この子供が女の小さな偶像になったかどうかは、わかりませんし、この女が与えられた子供より与えてくれた神を愛したかどうかわかりません。どちらにしても、この子供は、突然死んでしまったのです。

この出来事は、女にとって、苦しみだったでしょう。母は、この子を預言者の寝台の上に置きました。私達は、どう言うふうに主をよりよく知る事ができるのでありましょうか。私達は、静思の時間によって心の栄養をとることができ、イエス様をより良く知る事ができ、勝利の生活を獲得する事ができるのであります。
しかし、この女は、この苦しみにより、もっと、もっと、主なる神を知ることができたのであります。

私達が困難を通して、主をよりよく知るためには、次の3つの事を知っていなければなりません。 まず、女は神の人の所へ行きました。み言葉を語る預言者の所にすぐに行きました。彼女は、自分の夫のところへ行ってその苦しみを告げませんでした。預言者の所に行きました。家で、泣き続けるような事はせず、できるだけ早く、神の召使エリシャの所にやってきました。みなさん、私達は、悩みを持っている時、どうしますか? すぐに、神のみ言葉に目を向けますか? 罪を犯した時に、その罪の水溜りの中に、いつまでもいるのでしょうか? それとも、起きあがって主の御前に出るのでしょうか?もし、多くの困難が、群がり起こった場合、私達がそれに対して、示されるのは、いったいどんなものでしょうか?

私達が、十字架を見上げるならば、重荷は落ち、新しい命と罪の赦しの確信を自分のものとする事ができます。死んだ子供は、エリシャに触れる事により生き返りました。甦りの命を経験しました。同じように、あなたも、イエス様に触れる事により、新しい命を自分のものにする事ができます。イエス様に、よってだけ、それが可能です。

きょう、主イエス様のみもとに、やって来てください。決して後悔する事はありませんから。もし、あなたがイエス様と出会うなら、あなたは永遠の命を、自分のものとする事ができるのです。エリシャが、死人とひとつになったように、主イエス様はあなたの、罪と、債務とひとつになったのです。イエス様は十字架で、あなたの罪の刑罰をご自身が背負われましたので、永遠の命を持つことができるのです。ところで、大切な事は、イエス様だけが十字架にかかられたのではなく、あなたも十字架にかかったのです。ですから、あなたの生活を通して、イエス様の甦りの力を現す事ができるのです。その召しをあなたは受けているのです。エリシャは、神の言葉を喜んで受入れただけではなく、み言葉と一つとなっていました。ですから、エリシャの語る言葉は、神の言葉だったのです。ですから、朝ごとに、神の言葉に養われるのなら、あなたはだんだん神の言葉、主イエス様とひとつになるのです。エリシャは、死人、すなわち悩みと苦しみと一緒になったのです。あなたは、未信者の人と同じくらいに自分を低くして、その人のために必死にいのるのでしょうか? 私達は、モーセやパウロと同じように、私達を取り巻いている人々と、ひとつにならなければ、なりません。モーセは次のように述べました。いま、もしあなたが、彼らの罪を赦されますならば、しかし、かなわなければ、あなたの書き記された文から私の名を消し去ってください。パウロは祈りました。わたしの兄弟、肉による同族のためなら、私のこの身が呪われ、キリストから離されても厭わない。
自分の利益を少しも求めませんでした。エリシャは、甦りの力が、自分を通して現われた事を知りました。私達はエリシャと同じように、神に用いられる道具とならなければなりません。私達を通して、私達をとりまく霊的に死んでいる人々に、永遠の命をもたらされなければいけないのであります。

そして、第三番目に、イエス・キリストの甦りの力によりそれが可能です。
かの婦人は、裕福で、すべてを持っていました。それにもかかわらず、よく主なる神を知ろうと思ったのです。みなさん、たぶんあなたは、豊かだ、自分は富んだ、なんの不自由もないと言っているかもしれない。しかし、神は、あなたに、実は、あなた自身がみじめな者であり、憐れむべき者であり、貧しい者であり、目の見えない者であり、裸の者である事に気が着いていないと言っておられます。あなたは多くを持っており、あなたの将来は保証されているかもしれません。しかし、あなたがイエス様を持っていないならば、なんにもなりません。

主イエス様がなければ、すべてのものが無駄です。あなたが、キリスト者で主のためえに熱心に奉仕したとしても、主の力、甦りの力を持っていなければ一番大切なものを持っていない事になります。地位、立場、名誉、知恵、学識、経験、見識、金、、、、それらを持っていても、主イエスキリストの甦りの力を持っていなければ何にもなりません。パウロは、ピリピ人への手紙3章で、彼が、はじめから持っていた、ひとつひとつを数えています。しかし、その後で、次のように言っています。

ピリピ人への手紙3:7-10
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
10私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

パウロは、このように告白したのです。たぶん、あなたは非常に価値があると思っているもの、たとえば、職業、美貌、家族、友達、金、知恵、学識、地位、名誉を持っているかもしれません。しかし、神は、これらのものが、あなたにとって、価値のない者である事と、甦りの力を、あなたが知るために、あなたを困難に導くでしょう。あなたは、命であるイエス様を甦りであるイエス様をもっとよく知らなければなりません。

4章の中に、エリシャのしもべについても、書いてあります。このエリシャのしもべであるゲハジは、エリシャより教えを聞き、奇跡を見ました。また、知識も持っていました。しかし、彼は、経験を持っていなかったのです。イエス様が、この地上に生きておられた時、イスラエルの民も、イエス様の教えを聞き奇跡を見ましたが、心を頑なにして、明け渡そうとしませんでした。私たちも、何回も、何回も、聖書の話しを聞いたり、自分で学んだりしました。しかし、本当に、主をよりよく知る事ができたのでありましょうか。甦りの力を、体験的に知ったのでありましょうか。ゲハジは、頭の中に知識を蓄えていましたが、本当の甦りの力を持っていませんでした。

婦人の息子が死んだとき、エリシャはゲハジに、その息子の上に杖を置きなさい。そして、その子を生きかえらしなさいと言いました。ゲハジは、命令どおりに子供の顔の上に杖を置きましたが、生きかえりませんでした。死んだままでした。しかし、甦りの力を持ったエリシャが、やって来た時、子供は生き返りました。

ユダヤ人の指導者たちもイエス様を見聞きしましたが、自分の栄光を求めましたから、ゲハジと同じように、呪いの中に置かれました。すべての事を見聞きし、知ることができても、空っぽな場合も、あり得るのです。イエス様は、ご自分の甦りの力をもっとよく知るように、私達に呼びかけておられます。

あなたが、自分の興味、自分の考えを捨てるならば、もっともっとよく知ることができ、甦りの力を自分のものとすることができるのです。
もし、あなたが、パウロのように告白することができれば、素晴らしいと思います。 「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのす ばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」ピリピ人への手紙3:8イエスキリストを知る事のすばらしさのゆえです。

ピリピ人への手紙3:7-8
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・・・




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