主イエス様は何をなさったのでしょうか


ベック兄

(御代田喜びの集い、2008/09/14)

引用聖句:ヨハネの福音書11章45節-46節
45そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
46しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

ヨハネの福音書13:15
15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

今日の題名は、「主イエス様は何をなさったなのでしょうか?」
イエス様に出会った人々とは皆、例外なくみこころにかなう生活をしたい、主イエス様をよりよく知りたいという思いを持っているのではないかと思います。
「どうしましょうか?」、答えは、イエス様のなさったことすればいいんじゃないの。
イエス様は愛を示しましたし、人間を解放してくださったし、まことの慰めを与えてくださったし、福音を宣べ伝えました。もし、私たちが、御心にかなう生活をしようと思えば、やっぱりイエス様と同じように、愛を示し、人間を解放し、慰めを与え、福音を宣べ伝えたら、いいなのではないでしょうか。

けれども、努力すれば努力するほど悩むようになり、絶望してしまうのではないでしょうか。
イエス様は何をなさったなのでしょうか。
イエス様の答えは、驚くべきものです。

ヨハネの福音書5:19
19そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。

ヨハネの福音書5:30
30わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

ヨハネの福音書6:38
38わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。

ヨハネの福音書7:16
16そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。

イエス様は何をなさったなのでしょうか。イエス様は、自分自身から何をなさったなのでしょうか。何もしなかったのです。
そしてこのイエス様は、「わたしは、あなたがた信じる者に模範を示したのです。」と言われたのです。
私たちは、主のみこころにかなう生活をするために、いったい何をしたらいいのでしょうか。何もしないことです。

人間は、何のために造られたのでしょうか。自分自身から何もしないためなのではないでしょうか。
今の読んでもらいました箇所の中で、二回も同じ表現が出てきます。11章45節の中で、「イエスのなさったこと」とあり、46節でも「イエスのなさったこと」というみことばが出てきます。
私たちは、イエス様が、地上の生活を行っている間になさったことを知りたいと思えば、4つの福音書を読むべきなのではないでしょうか。

ルカは、彼の書いた福音書の中で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書いたと述べています。マタイ、マルコ、ヨハネも全く同じことを行ったのであります。
そうですから、私たちは4つの福音書の中に、主イエス様の素晴らしい姿を見ることができるのです。
福音書はいうまでもなく、それぞれお互いに矛盾しあっているという考えを持っている方がいますが、決してそうではありません。

私たちの主イエス様はただ、ひとつひとつの福音書の中で、いろいろな違った側面から考察されています。
すなわちマタイにおいてはイエス様は、王として、イスラエルの王として、私たちの目の前に紹介されています。
次のマルコの福音書においては、イエス様は遣わされた主の僕として、主に仕えるお方として、紹介されています。
ルカにおいては、人の子として、人間として、しかも完全な人間として紹介されています。
そして、ヨハネの福音書においては、イエス様は永遠なる神、主なる神の御子として、主の神性が紹介されています。

それですから、私たちは4つの福音書を一緒にあわせてみると、一方において、イエス様の偉大さ、他方において、イエス様の奉仕の本質を見ることができるのです。すなわちイエス様の人格と、御業が、私たちに明らかにされるのです。
けど今日、私たちが読む聖書の箇所においては、私たちの主イエス様がラザロの復活との関連において何をなさったのか、ちょっとだけ考えたいと思います。
イエス様は何を行ったのでしょうか。

この質問に十分に答えるために、もちろん本当はヨハネの福音書11章全体を読むべきです。
この11章を通して、私たちはイエス様のご愛、イエス様の素晴らしい力、恵み、ならびにイエス様ご自身をよりよく知ることができるのです。
それですから、私たちは、次の問いに取り組みたいと思います。その当時、イエス様は何をなさったのでしょうか。

手短に考えれば、2つの答えが上げられます。
第1番目、イエス様は確かに助けを求められたのですけど、意識的に遅れて行きました。けど、その遅すぎて行くという時は、最も最善の時でした。
第2番目、イエス様は、マルタとマリヤと苦しみを共にしてくださったということです。

第1番目、イエス様は緊急に救助に来るように求められましたけれども、早速赴く替わりに、イエス様は意識して遅らせ、瞬間的に助けようとしなかったということです。
その状態を想像してみましょうか。イエス様は、3人の全く特別な友達、マルタ、ラザロ、マリヤを持っていました。これらの3人の友達と、イエス様は再三にわたって泊ったり、交わったりしたのです。
けれどもラザロは病気になりましたが、その状態は早く悪化しましたので、マルタとマリヤが救助を求め人を遣わしました。

ヨハネの福音書11:3
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

「私たちは本当に困っています。どうしたらいいかわからないけど、よろしくお願いします。」、イエス様はこの知らせを聞いた時、何をなさったのでしょうか。
イエス様は、すぐ親しい友達を助けるために急いで出かけたのでしょうか。そうすることを、私たちは期待するのではないでしょうか。そのことは、マルタもマリヤも期待したのではないでしょうか。
それは、実際当然のことでしょう。けれども、イエス様は、全く理解できないようなことをなさいました。

すぐには出発しようとはしなかった。どうしてであるかと言うと、イエス様は私たちと違うからです。
イエス様は、一回も自分で考えて行動したことのないお方です。ですから私たちは、イエス様のことをいくら考えても、考えられない。
イエス様は、ラザロが病気の知らせを聞いた時、何をなさったかと言うと、祈ったのです。

「おとうさま、いいですか?行ってもいい?」「だめ、行ってはいかん。」「どうして?」
「この病気は、死で終わるだけのものではなく、結局、あなたの友達であるラサロは、死にます。けど、それは、十分ではなく、私の栄光のためのものです。そして、あなたが、それによって栄光を受けるのです。」
ですから、イエス様は、はじめからどういう風になるか全部知らせてもらったのです。

ヨハネの福音書11:6
6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

身の毛もよだつような、全く理解できない態度でしょう。あまりにもひどいと考えることもできるのではないでしょうか。
イエス様は全く、意識的に出かけようとしなかった。みこころではないと、わかったからです。
イエス様は何をさったのでしょうか。

ヨハネの福音書11:7
7その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。

私たちはこうしたイエス様の行いを考えたり、イエス様が何もなされなかったことを考えると、やっぱり、ひとつの謎の前に立たされます。
私たちは、みなすでに同じようなことを経験したのではないでしょうか。私たちは祈りました。助け求めました。私たちは、主が手を貸して下さるように切に祈り求めた、祈り続けたのですけど、私たちの祈りは聞かれなかった。少なくとも私たちが期待したようにならなかったのです。
私たちの家族の誰かが死んでも、主は働こう、助けようとはなさいませんでした。ちょうど同じことが、1,900年以上も前に、ベタニヤで、マルタとマリヤが経験しました。

当時、イエス様は何をなさったのでしょうかね。主は、関与なさいませんでした。
一見したところ、イエス様は寸分の耳を持っていたのです。イエス様は、彼らを助けるために急ぐことをしないで、全く意識的に遅れてやって来ました。そして、まさしくそのことは、今日もなさるのです。
私たちは、なぜ、主はそうなさったのと問わざるを得ない。けど、私たちはここで述べられている7つのことに注目することは、この問いに答える助けになるはずです。

まず第1番目、イエス様は、愛してくださいました。

ヨハネの福音書11:5
5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

主なる神の愛は、もちろん人間の愛とは全く違った性質を持っています。主なる神の愛は、理解したり把握したりできませんが、経験することはできます。
マルタもマリヤも、この愛を経験し、体験し、認識しました。そして彼女たちの生活は、それによって非常に豊かにされました。
イエス様に愛されている。これこそが、この3人の兄弟達のすべてでした。

第2番目に、イエス様は彼らの苦しみを知っておられました。
マルタとマリヤは、主のみもとに使者を使わしました。したがって、イエス様にその情報は伝わったのです。イエス様は助けを求める叫びを聞き取りました。イエス様は、絶望的に重大な状態をご存知でした。イエス様には、知られていない情報は何一つありません。
イエス様は、しばしば私たちに対して無関心であると思いがちです。私たちは主によって愛されているということを、そして私たちのことを主がよくご存知であるということを忘れてしまいます。

第3番目に、イエス様はラザロの死を予防しようとなさいませんでした。

ヨハネの福音書11:32
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

いのちそのものであるイエス様にとって、死を予防することはたいしたことではなかったでしょう。
ラザロが癒されるためには、遠くから主が一言おっしゃってくだされば十分なのです。

第4番目、イエス様はご自分の大好きな友達であるラザロの死を望んだのです。

ヨハネの福音書11:37
37しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。

もしろんその通り。すなわち、イエス様はラザロを死なせないでおきたいとは、思わなかったのです。
目先だけを見れば、ちょっとひどい友だ。それが愛なのでしょうか。
ほかの人々を、全く知らない人々でさえ助けたイエス様は、なぜ、今まで長い間、親しい交わりを持ち、その住まいに何度も行かれた友達のラザロを、助けなかったのでしょうか。

第5番目に、イエス様は出発する前、二日間、同じ所に留まっておられました。

ヨハネの福音書11:6-7
6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
7その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。

もちろんこれは、イエス様にとってなんの驚きでもありませんでした。イエス様は、そのことをもちろん知っておられた。父に知らせもらったからです。
そしてイエス様をすぐに行かせなかったのは、それが最善の時ではなかったからです。

第6番目。イエス様は、関与なさいました。

ヨハネの福音書11:43-44
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

イエス様は、大声で叫ばれました。イエス様が叫ぶと、死者もそれを聞きます。
イエス様が大声で叫ぶと何か起こります。すると、不可能なことが可能になります。すると、存在していないものが存在するようになり、その時、死も力なさを認めざるを得なかった。
死んでいたラザロが甦ったのです。

第7番目、マルタとマリヤが主イエス様から受け取ったことは、彼女たちが祈り求めたことよりも良いものでした。

ヨハネの福音書11:40
40イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

彼女たちは、ただ単に病気の癒しを経験しただけではなく、神の栄光を見たとあります。
今まで学びました、これらの7つの真理は、私たちすべての者にも当てはまるのではないでしょうか。

第1番目、イエス様は私たちをも愛してくださいます。しかもひとりひとりを個人的に愛しておられるのです。イエス様は、誰に対しても決して無関心ではありません。イエス様は、ひとりひとりに心をかけておられます。

第2番目、イエス様は、私たちの状態をも知っておられ、最も正確に、ご存知です。主は、背後の動機をご存知です。すべてのことにおいて、イエス様は一点の目標を目指しておられます。イエス様にとって知られていないことは何もありません。

第3番目、イエス様は、私たちの悩みを変えることを完全におできになります。イエス様は、私たちの助けを求める叫びを聞いておられます。イエス様は、聞くことと、聞き届けてくださることを約束しておられます。

第4番目、イエス様は、私たちが考えるような具合には、必ずしも答えてはくれません。意識的に、イエス様は、私たちが誘惑され、困難に遭うことを許されるでしょう。イエス様は本当に人間の苦しみを通して吟味されることを、省略なさいません。

第5番目、イエス様は、主の時に答えて下さり、その主の時は最善の時です。人間的に見れば遅すぎました。と言うのはね、ある人が4日間も墓の中に置かれれば、もう、お手上げだからです。

第6番目、主はその当時助けてくださいました。イエス様は、今日も、助けてくださいます。イエス様は主の時が来たれば関与なさいます。
悪魔によって惑わされないようにしましょう。

第7番目、主の答えは、私たちが期待するよりも、常にはるかに、良いものです。それですから、期待をもって主を見上げ、主の偉大なることを期待しましょう。

なぜイエス様はマルタとマリヤ、ラザロに対して、そのような行動をなさったのでしょうか。
なぜ、私たちは、こんなに多くの困難、理解できないことを味わわなければならないのでしょうか。
ふたつの理由を挙げることができるのではないでしょうか。

第1に、主は理解できないことをたくさん許しておられます。
私たちはそれによって確かに苦しみに陥ります。私たちはどうしてかという疑問を持つようになり、訳が分からなくなってしまうことがあります。
それは確かに楽しくない、面白くない、厳しい訓練の時です。しかしまさにそれを通して、主のご栄光が明らかにされるようになるのです。

この病気は、死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。
私たちが、悲しみに悲しみを加えるためでもなければ、あきらめたりすべてを投げ出したりするためでもなく、主のご栄光が現われるために私たちは理解しがたいことをいろいろと経験させられるのです。
どういうことがあっても、主は導き手です。私たちの主とは罰するお方ではない。何を経験しても、それは運命でも天罰でもない。愛されている証拠です。マルタ、マリヤ、ラザロは、それを始めは考えられなかったけど、後で分かったのです。

イエスラエルの民も、40年間、荒野を通らなければなりませんでした。その時のども渇く、助けも遠く、太陽は照りつけて、敵にもさらされたのです。
けど主は助け手として、必要な食べ物であるマナも与え、水も与えてくださいました。また雲の柱と火の柱によってイエスラエルの民は導かれました。
イスラエルの民の経験したことは、苦しみと悩みを通して、主の栄光を見たということです。

どうして?なぜ?という質問に対する第2番目の答えは、主は主に属する者の信仰を試し、増し加えるために理解しがたいことをお許しになるということです。
苦しみがなければ成長もありません。私たちは苦しみに陥らなければ真剣に主の方を向くことがありません。
私たちの上になんの重荷も置かれなければ、私たちは主の約束にしがみつくこともしないでしょう。

ヨハネの福音書11:15
15わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。

これもまた、どうしてイエス様がすぐに関与しないで、私たちをひとりぼっちにさせるのかとの理由なのです。
もちろん、私たちは心が混乱して、出たらいいのか入ったらいいのかも分からなくなってしまう。いくら考えても、もう全くわからなくなってしまいます。
けど、私たちは次のことを忘れてはなりません。主のご栄光は明らかにされます。そして、私たちはそのことによって、主によりいっそう信仰が強められるのであります。

最後にもう一つの点についてちょっとだけ触れたいと思います。イエス様はマルタとマリヤとひとつになったのです。苦しみを共にしてくださったということです。
しばしば私たち次のように尋ねられます。家族の者が重病で負傷したり死ぬような時、イエス様は何も面倒を見てくださらないのでしょうか。あるいは、配慮して下さらないのでしょうか。
私たちの祈りは応えられずに、そのままの状態で続いてしまうように思われるときがあります。たとえ私たちが祈ったとしても、主が簡単に防ぐことができたであろう死が生じます。

ひとつのことは、明らかです。
主は、あらゆる人のことを心に掛けておられます。主が関心を向けられない人は、一人もおられません。
ヨハネの福音書11章32−35節は、そのことを明らかにしています。

ヨハネの福音書11:32-35
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35イエスは涙を流された。

この35節は聖書の中で最も短い箇所です。「イエスは涙を流された。」、イエス様は共に泣いたと、マルタとマリヤは言えるようになったのです。
イエス様は、ご自身に属する人々を心に掛けておられます。イエス様は、その人達の苦しみ悩み悲しみと一体になってくださいます。私たちは誘惑や艱難の中にひとりぼっちに見捨てられることはありません。
ヘブル人への手紙の中で、イエス様の勤めについて次のように書かれています。

ヘブル人への手紙4:15
15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

イエス様は私たちのことを理解しておられます。イエス様の地上生活の時に、イエス様も多くの悩みを経験なさいました。
イエス様は全く孤独であること、誰からも理解されないことが何を意味しているか経験しましたし、ご存知でした。イエス様は悩みと苦しみを経験なさったのです。
イエス様は、肉体的な苦痛をご存知でした。イエス様は飢えと渇きにも苦しみ、疲れたこともありました。悪魔に抵抗することや主の御言葉だけに拠り頼むことが何を意味しているのかを知っておられたのです。

あなたの苦しみはなんでしょうか。それをイエス様に言って下さい。
イエス様はあなたと一つになって下さり、あなたと共に涙を流して下さるのです。

テモテへの手紙第I、2:5
5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

ここでイエス様は、人としてのキリストと呼ばれていますが、主は神であり人間であり、そしてまた人間であり神であるのです。
その神性においてイエス様は主権者であり、全能であり栄光に満ちたお方です。
主の人間性においてはイエス様は、恵み深く理解してくださるお方であり、優しいお方です。

イザヤ書63:9
9彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

私たちは苦しみや苦痛によって決してひとりぼっちにはさせられません。
主にとって私たちは考えられないほど大切な存在です。主は、ただ私たちの最善しか考えられないお方です。まさにそれですから主は、私たちの困難を経験させられるのです。
しかし、イエス様は共に悩んで下さいます。私たちが、私たちの苦しみをすべてイエス様に申し上げるならば、イエス様は共に苦しんでくださり、私たちのことを心配して下さり、主の最善の時にめぐみの奇蹟を為してくださることは経験するに違いない。

イエス様は、結局模範を示して下さいました。
クリスチャンらしい生活をすることは、無理だけではなく、不可能だけではなく、必要ないのです。クリスチャンらしい生活を送ることのできるのは、イエス様しかできません。
もし、私たちも徹頭徹尾主にだけ頼り、自分の力に頼らないで主だけを仰ぎ見ると私たちも奇蹟を経験するようになります。

あなたは飛行機に乗ると、飛んでいるのはあなたですかね?飛行機ですかね?
もちろん確かにあなたは飛ぶでしょうけど、一人ではない。あなたは飛行機と共に飛んでいるのです。
パウロはそういうことを経験しました。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

これこそが勝利の秘訣であり、奥義です。私たちは、これとこれをしなくちゃいけないのではない。
聖書の福音とはなんなのでしょうか。父が私を遣わしたように、私はあなたがたを遣わす。自分の力は、努力は必要ない。イエス様とつながっていれば、不可能なことはありません。
イエス様は、あなたを通して働くことができるように、必要なのはそれだけなのです。

イエス様はあなたを通して、人を導くことができます。すべては主の責任であり、私たちの責任ではない。
イエス様だけが、私たちの模範であるべきなのではないでしょうか。
イエス様は、自分自身から、何もしなかったのです。




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