イエス様のなさったこと


ベック兄

(ドイツ喜びの集いC、2008/10/13)

引用聖句:ヨハネの福音書11章45節-46節
45そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
46しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

今読んでもらいました2つの中に同じ表現が出てきます。45節「イエスがなさったこと」そして、46節「イエスのなさったこと」、結局、大切なのはそれだけなのです。
私たちはいつも区別するのです。宗教の中心と、聖書の中心は違う。宗教の中心とはちっぽけな人間です。人間は、何を信ずべきか、何をやるべきか、これは、宗教です。
聖書の中心は、人間は何を信ずべきか、何をやるべきかではなく、イエス様は何をなさったのか。

イエス様についていろいろなことを知ることは、あんまり役に立たないでしょう。もし、イエス様ご自身を知らなければ。
イエス様は、当時何をなさったなのでしょうか。またイエス様は、私たちから何を望んでおられるのでしょうか。
イエス様は、同じくヨハネの福音書13章15節を通して、次のように言われました。

ヨハネの福音書13:15
15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

イエス様は、私たちに模範を示したのであります。
イエス様の特徴とは、いったい何だったのでしょうか。言うまでもなく父を喜ばせることでした。
ある時、一人の弟子のピリポは、ヨハネの福音書14章を見てもわかりますように、次のように言ったのです。このイエス様とピリポの会話は非常に大切です。

ヨハネの福音書14:8-10
8ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
10わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

結局、私があなたがたにした通りに、あなたがたもするように、私はあながたに模範を示した。イエス様は言われました。
イエス様の人生とは、言うまでもなく、父なる神の御心にかなう人生でした。すなわちイエス様のなさったことをすればいいなのではないでしょうかと多くの人々は考えます。
イエス様は、愛を示したし、イエス様は人間を自由にし解放してくださったし、イエス様は、まことの慰めを与えてくださったし、福音を宣べ伝えました。

だいたいの信じる者が出した結論は次のようなものでしょう。もし私たちも、御心にかなう生活をすれば、イエス様と同じように愛を示し、人間を解放し、慰めを与え、福音を宣べ伝えればいいのではないでしょうか。
けど、努力すれば努力するほど、悩むようになるだけじゃなくて、絶望してしまいます。
したいけど、できない。だから、イエス様は何をなさったかと言う質問は、考えられない程大切なのではないでしょうか。イエス様は、私たちの模範であるからです。

この前に読みましたヨハネの福音書11章の中で、イエス様は何をなさったか、正しい答えは、イエス様は自分自身から何もしなかったということです。
ずっとヨハネの福音書を見るとわかります。確かに、うわべだけで福音書を読むと、イエス様は何でもできた。けどもイエス様は、私は何でもできると言わなかったのです。
イエス様は、ある意味で誤解されてしまった。ヨハネの福音書5章19節。

ヨハネの福音書5:19
19そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。

ヨハネの福音書5:30
30わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。

ヨハネの福音書6:38
38わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。

ヨハネの福音書7:16
16そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。

イエス様は、何をなさったなのでしょうか。イエス様は自分自身から何もしなかったと聖書ははっきり言っているのです。
このイエス様は、私はあなたがたに模範を示したのですと言われたのです。
私たちは、主の御心にかなう生活をするためにいったい何をしたら良いのでしょうか。何もしなくても良い。そう、聖書は言っているのではないでしょうか。

人間は、なんのために造られたのでしょうか。自分自身からは何もしないためなのではないでしょうか。
私たちは、自分勝手に動くから主は働くことができないのではないでしょうか。
イエス様は結局、私は、父から離れたら何もできない。もちろん父から、離れられない。離れたくない。イエス様は絶えずこの態度をとったのです。

イエス様は結局、おそらく悲しみながらピリポに聞いたでしょう。どうして、3年間一緒にいるのに、父を見せて下さいと言うのですか。
結局、ピリポは暢気でなんにも知らなかったのです。イエス様は、彼にはっきり言われました。あなたは、父を見たよ。私は、病人を癒したとき、あなたは父を見たのです。私が、福音を宣べ伝えた時、あなたは父を聞いたのですよ。
私は自分自身からは何もしなかったのです。見たことをし、聞いたことを宣べ伝えただけ。私はラザロを癒したのではない、父が私を通してラザロを癒した。私は5,000人の人々に食べ物を与えたのではない。父が私を通して、すべてをなさったのですよ。

ラザロを甦る前に、5,000人の人々に食べ物を与えられる前に、イエス様はまず祈ってそれから、もちろん主の御心を知ってから行動なさったのです。
イエス様は、私は去る。私は父の所に帰ると、そのことは、あなたがたには決して損ではない。益です。父は、私を通してなさったわざよりも、私があなたがを通して働かそうと望む。父なる神は、33年間、イエス様を通してなさったことは、高く引き上げられたイエス様は、今度私たちを通してなさろうと望んでおられます。
イエス様とは、何をなさったのでしょうか。すごいことをしたと人は考えるかもしれないけれども、自分からは、何もしなかったのです。

このヨハネの福音書11章に戻りまして、本当はね、11章を全部読むべき何ですけど、今日は時間がないから手短に読みましょう。イエス様は、何をなさったかと言いますと、2つの点について考えてみましょう。
まずイエス様は、助けを求められた。けど意識的に遅れていきました。けど、その遅すぎていると言う時は、最善の時でした。
もうひとつは、イエス様は、マルタとマリヤの苦しみを知っていただけではなく、共に悩んだのであります。このヨハネの福音書を見るとわかります。イエス様は、緊急に来るように求められました。けど早速行こうとしなかったのです。イエス様は、意識して遅らせ助けようとしなかったのです。ちょっと、その状態を想像してみましょうか。

イエス様は、この三人を全く特別な友達、マルタ、マリヤ、ラザロをそう思っていました。
この三人の友達のところに、イエス様は何度も泊まったり、交わったりしたのです。けど、ラザロは病気になっただけではなく、状態は早くに悪化してしまいました。
そして、マルタとマリヤは救助を求め、使いを送りました。

ヨハネの福音書11:3
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

どうして使いを送ったかと言うと、ひとりぼっちで病気のラザロを残すことができないから。
私たちは、本当に困っている。「あなたが愛しおられる者」、非常に良い表現じゃないでしょうか。あなたの大切な者が病気です。イエス様はこの知らせを聞いたときに、何をなさったなのでしょうか。
聖書には書いていないけど、当然です。イエス様は、すぐ祈ったことでしょう。「お父様、行きたいけど、行っていいでしょうか?」「だめ」「そうか、どうしてですか?」「ラザロは死にます。死んでから行ってもいいよ。」「死んでから、甦ります。」「あ、そうか、わかった。」

ヨハネの福音書11:4
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

祈りの結果として、4節のみことばは言われたのです。これは、イエス様のお考えよりも父から聞いた言葉です。
イエス様はすぐ友達を助けるためにでかけなかったのです。そのことをもちろん私たちは期待するでしょうし、そのことを、またマリヤも期待していたはずです。当然であるからです。
イエス様は、全く知らない人々、一回もあったことのない人々をみんな例外なく癒したのです。本人が信仰を持っていても、持っていなくても関係ない。そうすれば、最も親しい友達が危篤状態になったときに、イエス様は飛んで来て下さるはずなのではないでしょうか。

イエス様は、そうしなかったのでしょう。人間的に見れば、暢気だったよ。

ヨハネの福音書11:6
6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

あんまり面白くない二日間だった。もちろん、イエス様は先の先のことわかったけど、三人のことを考えたときに、やっぱり面白くなかった。早く解放したい、喜びに満たしたい。けれども父は、No!と言ったから。私の思いではなく、御心だけがなるように。イエス様の変わらない考え方は、それだったのです。
イエス様は、結局、ラザロの病気を聞いた後も、なお二日そこに留まられました。身の毛もよだつような全く理解できない態度なのではないでしょうか。ちょっと、ひどいじゃないか。
けれども、イエス様は全部わかっていたのです。必ず父に祈られたでしょう。「もう行ってもいいの?」「もうラザロは死んだから、大丈夫よ。もう行ってもいいよ。」

ヨハネの福音書11:7
7その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。

私たちは、こうしたイエス様の行いを考えたり、イエス様が何にもなされなかったことを考えると、ひとつの謎の前に立たされているのじゃないかな。
もちろん、多くの人々は同じようなことを経験したと思う。私たちは助けを求めたのです。心から祈りました。主が、手を貸して下さるように切に、真心から祈り求めてました。けれども、私たちの祈りは聞かれませんでした。
少なくとも、私たちが期待したようにならなかったのです。家族の誰かが死んでも、主は働こう、助けようとなさいませんでした。

ちょうど、同じことが1,900年以上前にベタニヤでマルタとマリヤが経験したことでした。イエス様は何をなさったのでしょうか。一言で言うと、何もしなかった。
イエス様は、彼らを助けるために急ぐことをしないで、全く意識的に遅れてやって来ました。そしてまさしくそのことは、今日もなお、主がなさることなのではないでしょうか。
だから、信ずる者のよく「どうして・・・?」「なぜ・・?」と考えます。けれども、私たちが、ここで述べられている7つの事柄に注目することは、今の問い、すなわち、「どうして・・?」「なぜ・・・?」と言う問いに答えるひとつの助けになるのではないかと思います。

第一番目、イエス様は愛した。

ヨハネの福音書11:5
5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

主の愛は、人間の愛とは全く違う性質のものです。主の愛は、理解したり把握したりできませんけど、経験することができます。
マルタとマリヤも、この愛を経験し、体験し、認識しました。そして、彼女たちの生活は、それによって非常に豊かになったのです。
私たちは、イエス様に愛されていると彼らは何回も、何回も何回も経験しました。

第2番目。イエス様は、たいへんな苦しみを、彼らの苦しみを知っておられたのです。

マルタとマリヤは主の御許に使者を使わしました。けれどもイエス様、その情報をその前から父に聞いていたに違いない。
イエス様は、助け求める叫びを聞き取ったのです。絶望的に重大な状態を知っておられたのです。イエス様には、知られていない事柄が何一つない。
私たちは、しばしば主が私たちに対して無関心であると思ってしまいます。イエス様によって愛されているということを、主がよく私たちのことをご存知であるということを忘れてしまうのです。

第三番目。イエス様は、ラザロの死を予防しようとなさいませんでした。

ヨハネの福音書11:32
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

「もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
命そのものであるイエス様にとって、死を予防することはたいしたことではない。
ラザロが癒されるためには、遠くからイエス様一言おっしゃってくださったら十分だったんです。

第4番目。イエス様は、友達の死を望んだのです。

ヨハネの福音書11:37
37しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。

すなわちイエス様はラザロを死なせないでおきたいとは思わなかった。
目先だけを見れば、ちょっとひどい友だと言う思いになるかもしれない。これは、本当の愛なのでしょうか。ほかの全く知らない人々を助けたイエス様は、なぜ今まで長い間、親しい交わりを持ち、その住まいにしばしば招待された友達を、助けなかったのでしょうか。
言えることは、イエス様は義理人情を知らなかった。人間が何を考えているか関係ない。私の思いではなくて、御心だけがなるように。これがイエス様の変わらない祈りでした。

第5番目。イエス様は、出発する前に、同じ所に二日間留まった。

ヨハネの福音書11:6
6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

ヨハネの福音書11:17
17それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

もちろん、これはイエス様にとってなんの驚きでもなかったのです。前から父に知らせてもらったからです。
そして、イエス様をすぐに行かせなかったのも、もちろん父だったのです。結局、最善の時ではなかったからです。

第6番目。イエス様は、完了なさいました。

ヨハネの福音書11:43-44
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

イエス様は、大きな声で叫ばれたのです。イエス様が叫ぶと、父もそれを聞かれます。
イエス様が、命令すると、必ず命令通りになります。不可能なことが、可能になります。
その時、死も力なさを認めざるを得なかったので、死んでいたラザロが甦ったのです。

第7番目。マルタとマリヤがイエス様から受け取ったことは、彼女たちが祈り求めたことよりも、良いものでした。

ヨハネの福音書11:40
40イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

彼女たちは何を望んだか、何のために祈ったかと言いますと、ただ単に病気の癒しを経験したかっただけなのです。
ラザロにまた元気になってもらいたい。死んだら寂しいから。その気持ちは、もちろん誰でもわかります。
けれども彼女たちは、元気なラザロを欲しかったけど、もっといいものをもらったよ。神の栄光を見ることができたのです。

もちろん、今の7つの点は、私たちにも当てはまるものなのではないでしょうかね。もう一度言いましょう。

1番目、イエス様はラザロやマルタやマリヤを愛しただけではないのです。イエス様は、私たちをも愛しておられるお方です。
しかも、ひとりひとりを全く個人的に愛しておられるお方です。
イエス様は、誰に対しても、決して無関心ではない。ひとりひとりを心にかけておられるからです。

2番目、イエス様は、私たちの心の状態をもよく、最も正確に知っておられます。背後の動機も知っておられます。
すべてのことにおいて、イエス様は一定の目標を目指しておられます。イエス様にとって、知られていないことは何もない。

3番目、イエス様は、私たちの悩みを変えることができるお方です。イエス様は、私たちの助けの叫びを聞いておられるお方です。
イエス様にとって、聞くことと、聞き届けてくださることとは、同じようなものです。求めよそうすれば与えられると約束してくださったから。

4番目、イエス様は、私たちが考えるような具合には、必ずしも答えてくださいません。
多くの人々は困った時、イエス様はよろしくとお願いします。けれども、イエス様は人間に仕えるしもべじゃないよ。主の主、王の王です。もし、主が私たちの我儘な祈りを聞いてくださるとしたら、私たちは不幸になるんじゃないでしょうか。自分にとって、何がよいか悪いか全くわからないのは、私たちです。
意識的にイエス様は私たちの苦しみを通して、吟味されることを省略なさいません。私たちは誘惑され、困難なことをも味わいます。

5番目、主は、主の時に答えてくださり、その主の時は最善の時です。人間的に見れば、もちろん遅すぎました。と言うのは、ある人が四日間も墓の中に置かれればもうお手上げなんです。
前に、横浜の姉妹から電話があったのです。母親が死んだ葬儀はいつしましょうか。日にちも時間も全部決めたのです。しばらくして、「いやー、まだ生きている。」、葬儀のメッセージ準備し始めましたけど...。使ったのは、3年、4年後なのです。医者が、心臓に直接注射して、心臓がまた動くようになったんです。
けども、ラザロのように墓の中に四日間、もう無理よ。何をやっても・・・。でも、主によって遅すぎることはあり得ません。マルタとマリヤは、もちろん、イエス様が来て下さっても無理よ。お手上げです。そう思ったのに違いない。

6番目。けども、ここでも書かれているように、イエス様はその当時助けたのです。
もちろんイエス様は生きておられるお方ですから、今日も助けて下さるお方です。主は、主の時が来たれば、完了なさいます。たえず覚えるべき事実なのではないでしょうか。
悪魔によって惑わされないようにしましょう。いくらもう終わりと思っても、違う。主は、生きておられます。

7番目。主の答えは、いつも、私たちが期待するものより遙かに良いものです。
ですから期待をもって主を見上げ、主の偉大なることを期待しましょう。

またマリヤは、元気なラザロを見たかっただけなんです。けども、彼らの祈りは聞かれなかった。
けども、主の栄光を見るようになった。どういう風に見たかと言いますと、多くの人々が、イエス様を信ずるようになったのです。
もし、ラザロが死なないで、病気だけ癒されたのなら、みんなラサロの所へ行って、おめでとう、治って良かったねと言って終わったに違いない。

なぜイエス様は、マルタ、マリヤ、ラザロに対して、そのように行動なさったなのでしょうかね。
また、どうして私たちもいろいろな理解できないことを味わわなくちゃならないなのでしょうか。
二つの理由を上げることができます。

第1に、イエス様は、理解できないことをたくさん許しておられます。
私たちは、それによって苦しみに陥ります。私たちは、そのような疑問を持つようになり、わけがわからなくなってしまうことがあります。それは、確かに面白くない。厳しい試練なのではないでしょうか。
けれどもまさに、それを通して主のご栄光を現すようになるのです。前に読みました4節です。

ヨハネの福音書11:4
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

私たちが、悲しみに悲しみを加えるためではなく、あるいは、あきらめたり、すべてを投げ出したりするためではなくて、主のご栄光が現われるために、理解しがたいことをいろいろと経験させられます。
イスラエルの民も、荒野を通らなければ、40年間通らなければならなかったのです。その時のども渇き、太陽は照りつけ、敵にもさらされたのです。
けども主は、助け手として必要なものを与えたのです。毎日のマナを与えたし、水も与えたし、雲の柱と火の柱によって、神は導かれました。イスラエルの経験したことは、苦しみと悩みを通して、主のご栄光を見たということです。

第2の答えは、主は、主に属する者の信仰を試し、増し加えるために、理解しがたいことが起こることを許されるということです。
苦しみがなければ、成長もあり得ません。私たちは、苦しみに陥らなければ真剣に主の方を見ることはありません。
私たちの上になんの重荷も置かれなければ、私たちは、主の約束にしがみつくことをしないでしょう。

ヨハネの福音書11:15
15わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

これもまた、私たちをひとりにさせる理由なのではないでしょうか。私たちは、心が混乱して、出たらいいのか入ったらいいのかも全くわからなくなってします。いくら考えてもわからない。
けれども、私たちは次のことを忘れてはなりません。
主のご栄光が、明らかにされることこそが、主の導きの目的であります。

最後にもうひとつ、この点について考えましょう。すなわち、イエス様は無関心ではない。イエス様は、マルタとマリヤと苦しみを共にしてくださったということです。
しばしば私たちは次のように尋ねられます。家族の者が重病で、負傷したり死ぬような時、主は何も面倒をみてくださらないのでしょうか。あるいは、配慮してくださるのでしょうか。私たちの祈りは応えられずにそのままの状態で、終わってしまうように思う時もあります。
たとえ、私たちが祈ったであろうとしても、主が簡単に防ぐことができたであろう死が生じます。ひとつのことが明らかです。主は、あらゆる人のことを心にかけておられます。主は、無関心である人は一人もいません。

ヨハネの福音書11:32-35
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35イエスは涙を流された。

この35節は、聖書の中で最も短い聖句です。「イエスは涙を流された。」、マリヤの証しは、後で必ず次のようなものであったでしょう。イエス様は、私と共に泣いてくださったよ。
結局、イエス様はご自身に属する人達を心にかけておられるお方です。イエス様は、その人達の苦しみ悩みを悲しみと一体となって下さいます。
私たちが、誘惑や困難の中にひとりぼっちにされたままになることはあり得ない。ヘブル人の手紙の中で著者はイエス様について次のように書いたのであります。

ヘブル人の手紙4:15
15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

イエス様は、私たちのことを理解しておられるお方です。イエス様の地上生活の間に、イエス様も多くの悩みを経験しました。全く孤独であること、誰からも理解されないこと、それが何を意味していたかイエス様は経験しました。
イエス様は、悩みと苦しみを経験なさったし、もちろん肉体的な苦痛も、知っておられたのです。イエス様は飢えと渇きとにも、苦しまれました。疲れたこともありました。そして、悪魔に抵抗すること、また、主のみことばだけに拠り頼むことが何を意味するのか、イエス様は知っていたのです。
私たちの悩み苦しみは何でしょうか。それをイエス様に言いましょう。イエス様は、人間ひとりひとりとひとつになって下さり、共に悩み、涙を流してくださるお方です。

テモテへの手紙第I、2:5
5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

ここで、イエス様は人としてのキリストと呼ばれていますが、主は神であり人間であり、そして人間であり神であるのです。
その神性において、イエス様は全能であり主権者であり栄光に満ちたお方です。主の人間性においては、主は恵み深く理解してくださるお方であり、優しいお方です。
最後にもう一箇所。

イザヤ書63:9
9彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

私たちは、苦しみや苦痛でもって、決してひとりぼっちにはさせられません。
主にとって、私たちは大切な存在です。主は、ただ、私たちの最善だけを考えておられるお方です。ですから、イエス様は私たちに困難なことを経験させるのです。けれども主は、共に悩んでおられるお方です。
私たちがすべての悩みや苦しみを主に申し上げることをするなら、主は共に苦しんでくださり、私たちのことを心配してくださり、主の最善の時に、恵みの奇蹟を、なしてくださることを経験するに違いありません。




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