引用聖句:ルカの福音書13章10節-17節
今読んでもらいました箇所の17節ですね、「イエスのなさったみわざ」と言う言葉が出て来ます。大切なのはそれです。人間が何を知るべきか、何を信じるべきか、そうじゃなくてイエス様のなさったみわざです。 イエス様のなさったみわざとは、もちろんイエス様の代わりの死です。 生きている間に、イエス様の死の恐ろしさ、大切さを知ることはできないでしょう。けれども、間違いなく永遠に分かって、そのことに感謝をせざるを得なくなります。 大切なのは、今から我々は何を勉強すべきか、いかに努力して、いかに良い子になろうと思うなのかではない。大切なのは、イエス様のなさったみわざです。 ここに出てくる女性は、13節を見ると、神をあがめた。結局、彼女は霊とまことをもって神を礼拝したに過ぎない。 そしてもっとも大切なのはそれなんです。我々の一時的な問題の解決じゃないのです。主なる神が礼拝の中心になれば、人間も解放され大いに喜ぶことができるのです。 結局、この女の証しとはどういうものであったかと言いますと、「キリストには代えられない。」、そういうものだったのに違いない。 イエス様との出会いによって、彼女の心は満たされました。体の病気だって、たいしたもんじゃない。心が満たされるかどうかなのではないでしょうか。 イザヤという預言者は、だいたい2,600年前に生きていた男です。彼は次のように言いました。みんな喜んで読んだ箇所じゃないかな。 イザヤ書12:2
すなわち救いとは、ものではない。主、ご自身を知ることです。主なる神を、どういう人々が知るようになるかと言いますと、もちろん悩んでいる人々だけです。ほかの人々は、頑張ればなんとかなると思い込んでしまっているけど、これは夢の世界です。 いま、この国で一番気の毒なのは、頑張ればなんとかなると言う考え方です。がんばろう、日本。「祈ろうイエス様に。」と言う態度をとった方が良いよ。 自分の財産や家族や、みんな失った人は、どう言うふうに頑張ったらいいの。笑い話だよ。 聖書の世界は違う世界です。今の目に見える世界では頑張ればなんとかなるらしい、けれども聖書の世界は違います。頑張ることを早くやめて。降参したら、いいじゃないの。 今日読んでもらった箇所は、誰が書いたかというと、ルカという男です。このルカという男はお医者さんでした。ですから、彼は医者として、その当時一般には大切にされていなかった女性たちの世界に注意をはらったようです。 健康な婦人でさえ、男の人の半分くらいしか語られなかったことを考えれば、不治の病いの女性の状態がどんなに惨めなものであったか。想像がつくでしょう。 彼女はもう18年も病いの霊につかれ、腰が曲がって体を全然伸ばすことができなかったと書いてあります。 疑いもなく、彼女は長い間、薬の助けを求めたでしょう。あの薬を飲めば、あの薬を買えば必ずなんとかなると、いろいろな人々から話を聞いたでしょう。 けれども、彼女は、医者から医者へと渡り歩いたけれども良くならなかった。ますます、酷くなる一方でした。 もちろん、本当の意味での良い薬もないとも思います。どういう薬も、飲み続けたら薬のために病気になる。医者は、認めたくないけれども、間違いなくそうです。この女性は、癒し、大いなる解放の日が来るまで悩みました。 けれども、この箇所を見てもわかるように、いっぺんに、一瞬に癒されました。解放されたのです。結果として、不安はどこかにいってしまったし、心から喜ぶようになったのに違いない。 この婦人が長年の束縛から解放されることは、待つことができない程、最高に素晴らしい時ではないしょうか。 18年の間、病気でした。18年の間、惨めで救いのない状態でした。18年の間、人殺しと呼ばれている悪魔によって束縛されたのです。 彼女は外面的にも、内面的にも健康となるべきであり、自由の身となるべきだった。悪魔は、これ以上長く勝利をおさめることは、許されないはずです。 「あなたにとって、束縛されて悪魔の支配下に置かれている状態から解かれて、解放される最後の時ではないか?」と言う問いは、我々にも当てはまるのではないでしょうか。 私たちは、さらに束縛された者として留まりたいなのか、我々の信仰生活はさらに霊的に依然として失敗であるべきなのか。 救われる時、罪の債務の赦しをイエス様の御手から受ける時は、今です。 「見よ、今は恵みの時で、今日は救いの日である。」と聖書は言っているのです。 けれども、すべての信ずる者にとっても、イエス様によって解放して頂き自由なる時を持つのも、今です。今日です。 大いなる解放者であるイエス様は、あらゆる束縛から解き放ち、あらゆる惨めさから解放してくださいます。 イエス様は、溢れるばかりの喜びを与えて下さるお方です。イエス様を受け入れた人々は、自分の名前が命の書、小羊の書に記されていること。イエス様の贖いのみわざに基づいて、義とされ良しとされていることを知っています。 けれども、至る所に精神的な病人、病いの霊につかれている信者が居ます。そのような人々の状態は、勝利と敗北の繰り返しです。 確かに、彼らは罪が赦されいることを証ししますが、日常生活については、何一つ勝利について知りません。彼らは、罪の債務から解放されていることは知っているけれども、罪の力から解放されることについては、何一つありません。 このような状態が、多くの人々の場合何年も続いているということは、悲劇なのではないでしょうか。 イエス様は、本当に解放できるのでしょうか。このことについては、なんの疑いもありませんけど、私たちはなんとしばしば、罪と自我、悪魔によって束縛されているのではないでしょうか。 多くの信者が、不親切、ねたみ深く、訓練されておらず、自己中心的で、不誠実であり、疑いと恐れと不安によって束縛され、主のために奉仕する自由がないと言う原因はなんでしょうか。 悪魔によって束縛されているのです。けれども、イエス様は本当に自由にすることができるのでしょうか。あらゆる束縛から解き放つ主の力は、いったい十分なのでしょうか。 慢性的な束縛が存在します。そして、多くの人々は、本当に自由になることができるという希望を放棄しました。私たちは、主に栄光を帰することをしない。そういう習慣を持っているかもしれない。 イエス様は、あらゆる壁を打ち壊し、束縛されている状態から解放することがおできになるのでしょうか。 ここに出てくる婦人の癒しは、「私たちの主は、それがおできになる。」ということの証明です。また私たちは、ここでイエス様が、癒しと解放をお与えになったかも、知ることができます。 ルカというお医者さんは、イエス様がどのようにして安息日に、会堂で福音を宣べ伝え、この病いの女から目を離さなかったかを述べています。 けれども、イエス様はただ単に、この女性の惨めさと希望のない状態だけをご覧になったのではない。イエス様は、この女を御許に呼び寄せた。これは、いつも主の導きの方法です。 イエス様は、いかなる倫理学をも与えないで、また人が自分の力でゆっくりと自分の解放すべきであるとかの、処方箋も何一つお与えにならなかった。イエス様は御許に呼び寄せた。聖書の中で最もよく知られている箇所とは、マタイの福音書11章28節です。 マタイの福音書11:28
キリスト教に入れじゃない、教会に入れじゃない、私の所に来なさい。私の所に来る者を私は決して捨てません。喜んで受け入れます。これがイエス様の招きの言葉です。 イエス様は結局、我々をもご覧になります。イエス様は、我々に何が欠けているかもちろんご存知です。またイエス様は、隠された罪をもご存知です。 けれどもイエス様は、我々の悩みと本当の姿をご覧になるだけではなく、イエス様は我々をも、呼びかけて呼んでおられるのです。ひとりひとりを心から待っておられるのです。 私たちが逃げることをやめるまで、忍耐してイエス様は待っておられます。イエス様は、私たちのもはや隠したり、言いつくろったりしたいと思わないようになるまで、待っておられます。 イエス様は、私たちがそのままの状態で御許に来るのを待っておられます。ありのままでいい。待ってるよと。 イエス様の御許に来る人は、救いと解放を経験します。誰でもが、イエス様の大いなる解放を経験すべきなのではないでしょうか。それでは、これから二つの点についてちょっと考えてみたいと思います。 第一番目、この婦人が置かれていた状態について。彼女が置かれていた状態は、絶望的な状態でした。 第二番目、この婦人が解放を経験した道についてです。 まず第一に、この婦人の絶望的な状態を私たちは想像することができないでしょう。 確かに彼女は、会堂の中で最も気の毒な可哀想な人でした。今日も、礼拝や学び会に来る時、内面的に打ちのめされている信者がいます。なぜなら、その人たちの日常生活は失敗であり、イエス様の栄光を現すのに役に立たないからです。 この婦人も、そういう気持ちを持っていたのではないでしょうか。 彼女は、ただ単に外面的に腰が曲がって伸ばすことができなかっただけではなくて、内面的には治る希望が全然なかったのです。 ですから、惨めな気持ちになり、喜びも平安も力もなかったんです。けれどもイエス様は、彼女をご覧になりました。 ルカの福音書13:11、16
ここでは、この婦人について今読みましたように、5つのことが述べられています。 (1-1)彼女は、アブラハムの娘でした。 (1-2)彼女は、病いの霊、弱さの霊を持っていた。 (1-3)彼女は、この状態ですでに18年もたっていた。 (1-4)彼女は、自分で自分を治すことが全然できなかった。 (1-5)彼女は、解放されることを、心から望んでいたのです。 まず第一に、彼女はアブラハムの娘でした。というのは、彼女が神の民に属してること。したがって、主を信じた者であったことを意味しています。アブラハムは信仰の父と呼ばれたからです。 そして彼女は、自分の運命によっても、心をかたくなにしないで、信ずる者の交わりを求めていました。 また彼女は、主の言葉だけが慰めを与え、希望を与えてくれることを体験的に経験したのです。ですから、彼女は会堂に来たのです。というのは、ただ単にそこだけが、主の御言葉を聞くことができる所だったからです。 当時、自分の聖書を持っていた人間は一人もいなかったのです。御言葉を聞こうと思えば会堂に行かなければならなかったのです。 今日も忠実に集会に来ている信者が居ます。しかしその方々は、来た時と同じ状態で、すなわち何一つ変わらず悲しんで内面的に病気で帰って行きます。主を信じながら束縛されています。そして、こういうことはあり得ることです。 我々の生活の中で、何がいったい推進力なのでしょうか。我々を動かす支配しているものは、いったい何でしょうか。このことを静かに考えるべきなのではないかと思います。 二番目です。この婦人は病いの霊、弱さの霊を持っていたと聖書は言っています。 彼女は腰が曲がっていました。そして聖書は、それが普通の体の病気じゃなくて、悪魔のわざであったと言っています。悪魔が彼女を束縛したのです。彼女は、悪魔によって束縛され、悪魔の虜でした。 もちろん美しさとか優雅さとかは、すべて無くなった。確かに彼女は腰が曲がっていましたから、人々は彼女の顔をよく見ることはできなかったでしょう。たとえ見ることができたとしても、あんまりにも深い悲しみの表情に驚いたに違いない。 彼女は腰が曲がっていましたので、実際には地面と自分だけしか見ることができなかった、あらゆる自己中心、自己追求の信者のひとつ姿が、そこにありました。 自分自身のことだけしか考えない人は、結局障害者です。本当に重病人です。もちろん当然です。我々の最大の敵は、尊敬されたいと思う自我なのではないでしょうか。 この婦人は18年の間、自分の体の状態のことばかりを考えて、思い煩い、自由で健康になる道は、あるのだろうかと自問していました。多くの信者は、自分の霊的な状態について祈ります。どうしたら、自由になり霊的に健康になれるのだろうかと。 三番目は、彼女はこの状態で、すでに18年もたっていました。18週間だったら長いけど、18年だったらもう想像できません。 18年前に、彼女は悪魔に攻撃され、悪魔の攻撃の的になりました。 そして悪魔に負けて、それ以来悪魔の力と悪魔の独裁のもとに置かれた。けれども18年間です。 私たちは自分の状態のことで、もうどうにもならないと見放してしまっているかもしれない。それだけではなく、他の人についても、どうすることもできないと思ってるかもしれない。 勝利の人生には、決して到達できない。我々の自我は、主の働きに逆らいます。 自己否定が少なければ、イエス様の命もほんの少ししか現れません。十字架の道からはずれてしまうと、よみがえりの力を経験できないのは、当然です。 四番目、彼女は、自分の曲がった体を真っ直ぐにしたり、自分自身を解放したりすることは全然できませんでした。疑いもなく、真っ直ぐになることができると言うのは彼女の切なる願いだったはずです。 けれども、あらゆる試みは失敗しました。あらゆる試みの際に、自分の無力さが現れどうすることもできませんでした。確かに私たちも御心にかなう生活をしたいと試み、何度も失敗したのではないでしょうか。 また、私たちはイエス様にいろいろな約束をしました。けれども、何度も同じ罪を犯してしまった。人は罪を犯しても赦してもらえます。また罪を犯し、もう一度赦してもらいます。たえず上がったり下がったりしています。 五番目、彼女は、解放されることを望んでいたのです。切に願ったに違いない。それが彼女の願いであったということを、我々はなぜ知ってるのでしょうか。なぜならば、彼女は、イエス様が彼女をお呼びになった時に、瞬間的に反応したからです。 自由になる。そのことは彼女の心からの叫びでした。我々のうち誰もが、本当の自由でありたいと言う切なる願いを持ってるでしょう。悪魔にしばられている者は、決して決して幸せじゃない。 けれども、どうすれば解放されるのか。どうすれば、私たちは主の大いなる解放を経験することができるのでしょうか。この婦人の癒しは、この問いに対する答えを与えています。 ここで私たちは、次の二番目の点を考えてみましょう。すなわち、解放が経験される道についてです。 ここでは、いろいろなことが、ルカによって正確に書き記されています。私たちは、イエス様がどのような力でこの束縛された婦人を解放したか、そして完全な解放という奇蹟をどのように行ったかを、知ることができます。 ここでも、また5つの事柄を考えることができるんじゃないかなと思います。 (2-1)彼女は、イエス様の御許に来ました。確かに、彼女はイエス様の足下にひれ伏したのです。 (2-2)彼女は、イエス様の声を、すなわち全く大いなる力の言葉を聞きました。 (2-3)彼女は、イエス様の御手を感じ、それによって、イエス様が何かをなそうとしておられることを知りました。 (2-4)彼女は、創造的な行いとして、イエス様の力を経験しました。 (2-5)彼女は、主をあがめました。心から礼拝したのです。 それでは第一に、イエス様が彼女をご覧になった時に、彼女を呼び寄せました。彼女が主の声を聞いたとき、彼女はひかれるように主の所に行きました。イエス様は、彼女に対して無関心ではなかった。 イエス様がお呼びになる時には、いつもはっきりとした目標があります。 イエス様は、人間が心を開いて主の所に来ることを望んでおられます。そしてこの婦人は、このことを行ったのです。 彼女は、イエス様の所へ行き、足下にひれ伏して期待に満ちて、希望に満ちて、信仰に満ちていたのであります。 疑いもなくこの瞬間に全くの静けさが辺りを支配したでしょう。すべての目はイエス様に向けられたに違いない。 イエス様が何をするのでしょう。イエス様は、どのようにしてご栄光を現されるのでしょうか。イエス様はどのようにして、この婦人の信仰に報いようとなさるのでしょうか。 人間が、腰が曲がっていて悪魔に束縛されていながら、イエス様の声を聞き、主の「私の所に来なさい。」と言う招きに従うとき、もちろん大いなることが起ります。 なんと多くの人が、わがままによって、債務によって、不安によって、疑いによって、内面的に重い気持ちになっています。 でもイエス様が呼んでおられるということは、なんと素晴らしい事実でありましょうか。 イエス様がこの婦人を呼んだとき、すべての目は彼女の上に向けられたでしょう。彼女は何をするなのでしょうか。彼女は、依然として群衆の中にもぐっていようとは、思わなかった。 彼女は、イエス様の所に出て行くために前へ出て行く決心をした。彼女は、ただ単にイエス様の所へ行く決心をしただけではなくて、実際に行き、イエス様の足下にひれ伏したのです。 イエス様の足下にひれ伏す者は、間違いなく解放されます。元気になります。喜びと平安と希望に満たされます。 我々の悩みがたとえどのようなものであろうとも、イエス様の所に行きましょう。たとえ何が自分を束縛し、とらえていようとも、イエス様の所に行きましょう。 イエス様の所にには助けがあり、主の解放とはやっぱり誰にも提供されているのです。 聖書全体を見ると、4つの福音書を見ると、次のことを言っています。 イエス様の足下にひれ伏す者は、もはや自分を大切にしないで、目立ちたがらないで、役割を演じたいとも思わない。 それから、イエス様の足下にひれ伏す者は、徹底的に打ち砕かれすべてを光の中に出す備えができている。 もう一つ、イエス様の足下にひれ伏す者は、イエス様の約束の真理を経験します。すなわち、へりくだった者に恵みが与えられるのです。 二番目、この婦人は主の声を聞きました。全く偉大な力の言葉を聞くことができたのです。どういう言葉を聞いたかと言うと、12節に書かれています。 ルカの福音書13:12
「あなたの病気はいやされました。」と、イエス様は言われたのです。この婦人は、イエス様のこの言葉を聞いた時に、主は私をも解放したいと望んでおられ、それがおできになるということを彼女は知り、確信しました。 けれども、イエス様はただ単にこの婦人を解放したいと思っただけではなく、主の働きの妨げとなっているあらゆる束縛から、我々をも自由にしたいと望んでおられます。 いったいどうして私たちはそのことを知ることができるのでしょうか。 なぜなら、イエス様は主の言葉の中に、そのためのはっきりとした言い表しを持っているから、知ることができるのです。 そして、イエス様の恵みが、すべての罪の力よりも偉大で、あらゆる罪から洗い清める主の血潮が洗い流されたからです。 この方こそご自分の民をその罪から救ってくださるお方ですと、マタイの福音書1章21節に書かれています。 マタイの福音書1:21
そして、私たちは圧倒的な勝利者となると、ローマ人への手紙8章37節に書かれています。 ローマ人への手紙8:37
イエス様は我々のために死んで下さり、我々のために甦られ、我々のために全能なる神の右に高く上げられました。 それは私たちが、私たちを愛しておられるイエス様によって圧倒的な勝利者となるためです。 そして、ヘブル人への手紙の著者も素晴らしい言葉を書いたのです。 ヘブル人への手紙7:25
これらの御言葉は、勝利の生活のために贖われ解放されることが可能であるということを我々に約束してくれます。 そしてまさにそのことを、この婦人が経験しました。体験的に味わい知るようになりました。 「あなたの病気は癒された。」とイエス様は彼女に言ったのです。それは、罪がもはやあなたを支配しないと言うのと同じ意味を含んでいるのです。 ローマ人への手紙6:14
あるいは、御子が自由にする者は必ず完全に自由です。 私は、「あなたを完全に自由にします。」という意味も含まれています。よく知られているヨハネの福音書8章36節です。 ヨハネの福音書8:36
本当に自由であるということは、完全に自由であるということ。そして罪の支配から解放されていることを意味します。イエス様は、この婦人にまことの解放を約束しました。 私たちは、今までに次のことを見てきました。この婦人は、イエス様のところに来て、イエス様の足下にひれ伏しました。それから、この婦人は、あなたの病気は癒されたと言う素晴らしい福音を、力ある言葉を聞きました。 そして第三に、彼女は、イエス様の手を感じました。 ルカの福音書13:13
主が「手を置かれた」と書いてあります。イエス様が彼女に触った時、彼女はイエス様の命、イエス様の力の何かを感じたはずです。すなわち彼女は、そのことによって自由になりました。 イエス様が我々の上に手を置かれると、私たちもまた自由になり、もはや前とは同じ人間ではなくなります。イエス様の御手がらい病人に触った時、そのらい病人は、らい病から解放されました。 イエス様の御手が耳の聞こえない者に触った時、彼は聞くことができるようになりました。イエス様の御手が盲人に触った時に、その盲人は見えるようになりました。 イエス様と接触する者は、イエス様があらゆる束縛から、あらゆる情欲から、完全に解放して下さることを経験します。 主が手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びました。 我々の主が行うことは、創造的な行いです。主が命令すると、すぐその通りになる。詩篇の作者は、このように書いたのです。33篇の9節。 詩篇33:9
天地を創造された主、我々の体をもお造りになった主、その主が彼女の上に御手をおかれると、大いなることが起りました。 詩篇の作者、一文書だけですけど、次のように書いたのです。 詩篇146:8
「主はかがんでいる者を起こされる。」とあります。悪魔によって束縛され腰が曲がりまっすぐになることが全然できなかった彼女が、真っ直ぐになったと記されています。 今日、最も必要とされて、第一に求められている人々はどういう人々でしょうか。間違いなく真っ直ぐな人。純粋で誠実で正直な人なのではないでしょうか。 そして、光の中を歩み透き通っていて、その動機が純粋な人々が求められています。 腰の曲がっている人は真っ直ぐになりました。彼女は、自分では真っ直ぐにできなかったのです。 それは全く不可能でした。それは、ちょうど私たちが自分の力では、イエス様に似た生活をすることが絶対にできないのと同じように、全く不可能です。 それは、主がなさること、主の命の働き以外の何ものでもありません。最後に五番目について考えましょう。 五番目。主の行いを経験した者は、礼拝せざるを得ません。 彼女は真っ直ぐになり、神を誉め称えました。悪魔に束縛され、自分の情欲に縛られている人は、決して主を崇めることはできません。 暗闇の中の人生は決して主の栄光のために役に立ちません。自己中心の生活は、主の御名を汚します。 主が手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて神をあがめました。私たちもまた、この素晴らしい解放、すなわちこの婦人が経験することを許された解放を経験しようではないでしょうか。 主の大いなる解放を経験することは可能です。というのは、主は昨日も今日もいつまでも変わらないお方であるからです。奇蹟を行う主は、我々すべての生活の中で、悪魔に束縛されていた婦人に行ったことを、今も行うことができるのです。 もう一箇所、詩篇の139篇。ダビデの心からの願い、心からの叫びです。 詩篇139:23-24
この態度をとる者は、もちろん主の素晴らしさを、解放する力を、経験することができます。 |