引用聖句:マルコの福音書、4章21節-25節
今日の題名は「人類の悩みのもと」 人類の悩みのもととはなんでしょかね?創世記3章1節、悪魔は初めの人間を誘惑した時、何と言ったかと言いますと。「神が本当にそう言われたのですか?」 これが人類の悩みのもとになったんです。人間はある意味で、主の言葉を無視して悪魔の嘘を信じたんです。結局、主の言葉のうしろに疑問符を付けると終わり。 今朝ドイツからE−メールもらったんです。子どもからなんですけれども、日本からもある姉妹のために祈ったらいいと思うんです。 50歳の姉妹で、イエス様を愛している姉妹で、幼稚園の先生なんです。そして仕事さがした時、ドイツの国の教会から推薦されて、子どもの住んでるところの幼稚園で働くようになったんです。要するに教会の経営している幼稚園です。 考えてください、彼女はとんでもない犯罪を犯しました。どういう犯罪を犯したかといいますと。賛美歌を子どもに教えたんです。そして子どもと一緒に祈ったんです!!! そしてイエス様のことを話したんです。今、クビになりそうです。 結局、親はみな反対して。「それは時代遅れです。聖書だって笑い話じゃないか!?キリストだって、昔の人物だったじゃないか?!」、やっぱり、彼女がクビになるようにと。 向こうの牧師は判断を下してはいませんけども、とんでもない混乱が起こっています。わかるでしょ。 全体としてもうだめ!ドイツだけじゃない、ヨーロッパ全体ダメ!反キリストが来るために必要なことなんです。そして、初めに地獄に入るのは悪魔じゃないよ?反キリストです。おっそろしい。 結局もう、聖書批判は全部ドイツから来た物です。神が本当にそう言ったの?この気持ちになると本当におわり。 主はどういう人間を捜し求めておられるのでしょうか?二千六百年前にイザヤは書いたのです。「みことばにおののくものです。」みことばの前に小さくなる人です。 パウロはローマ人への手紙3章の中で、いろいろな人間の罪について書いたんです。人間とはだいたいどういうものか? 全部旧約聖書から引用された言葉ばかりなんです。けども、一度書いているんですけど、彼はまとめて次のように言ったのです。 「彼らには、主を恐れる恐れがない!」もしそうだったら、終わり!もう祝福がない。 いくら聖書読んでも祈っても何にもならない!主を恐れる恐れがなければ、もう終わり!イエス様の態度はどういう態度であったかと言いますと。「あなたのみことばは真理です。」 もちろんイエス様の時代で、今のような聖書は存在していなかった。旧約聖書しかなかったんです。けども、イエス様にとって創世記からマラキ書まで全部神の言葉であり、真理でした。 そしてイエス様が全部信じることができるのならば、私たちも安心して信じることができるのではないでしょうか。絶対にだまされません。わからないところあるよ。ちょっとそれ、別にいいじゃないの。結局、いつか全部分かるようになる。聖書の一点一点は本当だった。 イエス様のようにみことばを大切にした人間はいません。イエス様は、みことばなしに生きることが出来なかったようです。ですから誘惑された時、荒野で40日間なんにも食べなかったとき、イエス様はなんと言ったかと言いますと。 「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つのことばによる。」 イエス様のように聖書を大切にした者はいないし、イエス様にとってみことばとは全ての全てでした。みことばに心から頼るようになると人間は元気になる。 私たちはどうして聖書を読むのでしょうか?聖書について話すのでしょうか?結局、精神的に疲れないためだけなんです。知識を得るためじゃない。もうわかったと思えばもうすでにおしまいです。 いわゆる聖書学者は神の敵です。ちょと考えられない。 ドイツの牧師を訓練する大学の教授たちなんですけども、国によって決められるものです。教会は無視されます。もちろん教会は国と一つなんです。みな無神論者です。考えられない。けど、本当なんです。 ですから素直な信仰を持っていても、神学を勉強することによって駄目になる人が大部分です。 百年前だったかもしれない。ドイツはまだ違ったんです。家族はみんな揃ってテーブルのまわりに座っていて、ある父親は、「本を出せ!」、「お父さん、本って言ってもいっぱいあるじゃないですか?どういう本ですか?」、「決まっとるじゃないか!聖書だよ!!!」 本の本とは聖書です。 ゆっくり考えたことがあるかどうかわからないけど、普通の本を読むとね、だいたい一回しか読まないじゃないですか?本箱いっぱいになるんですけど、2、3回読む本はめったにないよ。始っても、次のことが分かるようで面白くない。でしょ? 聖書はいくら読んでも新しい!不思議じゃないですか?時代遅れにならない。結局、みことばを通して元気になるのは、すごい事実なのではないでしょうか。ですから、できるだけみことばに頼らないと大変なのではないでしょうか。 この間、私たちはこの種蒔きのたとえについて考えました。今話したように、聖書とは本当に大切なんです。けども、覚えるべきこととは、聖書とイエス様とは本当は一つなんです。別々と考えれば、チョットおかしくなる。 再臨なさるイエス様は、神の言葉と聖書は言ってるんです。イエス様に与えられている一つの名前は、「神の言葉です。」 ヨハネの福音書、ちょと見てみましょうか。ヨハネの福音書1章の1〜3節まで。ずっと聖書読んだ人は、もちろん全部分かっているから新しいことじゃないけど、一回も読んでいない人はまったくわからない。何を言っとるのか。 ヨハネの福音書1:1
いったいどういうこと?ピンとこないでしょ。まったく。 言葉か、でも人間の言葉でも神の言葉でもないよ。なぜなら、2節から読むと、この方となっているんです。人格者か〜。 ヨハネの福音書1:2-3
ああそうか。この方は単なる人間の考えられている言葉ではない。ちがう!もちろんいうまでもなく、イエス様のことを意味しているのです。そういうふうに読めば分かる。 初めに、主イエス様があった。主イエス様は父なる神とともにあった。主イエス様は神であった。 この主イエス様は、神とともにおられた。 すべてのものは、この主イエス様によって造られた。主イエス様によって造られたもので、この主イエス様によらずできたものは一つもない。 この方の栄光を見た。神のみもとから来られたひとり子しての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 2,000年前に奇跡的にお生まれになり、この世に来られた、神のみことばであるイエス様こそが大切であります。イエス様を大切にする者はみことばを大切にします。イエス様を愛する者はみことばを愛する者になります。 けども、マルコの福音書に戻りまして、21節から25節までを見ると、強調されているのは聞く耳を持つことです。なぜならば、みことばの間違った聞き方もあり、それからみことばの正しい聞き方もあるからです。 主のみことばの働きについて、チョット考えたいと思うのであります。 これまで私たちは、みことばを正しく聞くことがいかに大切であるかと考えました。その、種とは神のみことばのことです。 マルコの福音書4:23
みことばを正しく聞くことも、間違って聞くこともあります。それゆえ聖書からみことばを正しく聞いた例と間違って聞いた例を順に見ていきたいと思います。 まず間違った例を見てみましょう。 第1番目の例は、イエス様の時代のその後の時代のアグリッパ王様です。彼はパウロからみことばを聞いたんです。福音を聞いたのです。 使徒の働きの26章を読むと次のように書かれています。パウロはみことばを宣べ伝えてイエス様を紹介したのです。王さまは一度福音を聞いたのです。 使徒の働き26:28
パウロは、アグリッパ王に対してあなたは預言者を信じてると、27節に書いています。アグリッパ王は福音を聞きましたけれど、信仰に至る決断をすることが出来なかったんです。結局王の聞いた言葉は無駄であったと言えます。 第二番目の例は、ペリクスという男です。 使徒の働き24:25
ペリクスもまた福音を聞きましたけど、恐れを感じて決断することを先に延ばしました。これは口実に過ぎず、彼はそれ以来福音を聞くチャンスを失ったことと思われます。 主なる神は、みことばに対して即座に受け入れ信じる決断をすることを常に求めておられます。第3番目の例は、ルカの福音書18章に出てくるんです。ある金持ちの青年です。 ルカの福音書18:23
彼よりもイエス様は悲しんだと思う。聞いて非常に悲しんだ、大金持ちだったからである。 この金持ちの青年は、このとき「決断」することを望んでいなかったんです。けど、その決断によって自分から失われるものを惜しんだのです。彼の場合にも福音を聞くことは徒労に終わってしまいました。 4番目の例は、ピラトです。マタイの福音書27章。結局、彼はイエス様の口から直接福音を聞いたのです。真理とは何かと聞いたとき、わたしは真理そのものです。 マタイの福音書27:24
ピラトはイエス様と出会い、個人的に直接にイエス様のみことばを聞き、福音を聞き、福音に接しましたけれど、イエス様の側に立つことを望まなかったのです。彼の聞き方も無駄だったと言えます。 5番目の例はガラテヤのユダヤ人たちであります。今度はヨハネの福音書6章41節になりますが、次のように書かれてます。 ヨハネの福音書6:41
このガリラヤのユダヤ人たちは福音を聞きました。しかし、それにつまづいてしまったのです。6番目の人たちは、いわゆるうわべだけの人たちです。 ヨハネの福音書6:60
彼らは福音を正直で素直な心で聞こうとはしなかったのです。これはひどい言葉だと言ったのであります。イエス様が弟子たちに対して求めておられる厳しさを、受け入れることが出来なかったのです。 7番目の例は、アテネという大都市の人々だったのです。使徒の働きの17章を見ると次のように書かれています。本当は17章全体読むべきですけども、1節だけ読みます。 使徒の働き17:32
アテネの人たちは新しい物好きで、いつでも何か目新しいものを求めていましたけども、福音について聞いたとき、彼らはそれをあざ笑ったのです。彼らが聞いたことも無駄でした。 8番目の例は、エルマという魔術師でした。 使徒の働き13:8
このエルマは、聞いた福音に対して意識して反対したのです。9番目の例は、アンティオケのユダヤ人たちでした。 使徒の働き13:46
アンティオケにいたこれらのユダヤ人たちは、福音を拒みました。それゆえ彼らは永遠の命に預かることが出来なかったとここで書かれています。10番目の例は、エペソのユダヤ人たちです。 使徒の働き19:9
エペソのユダヤ人たちは、主なる神の福音について聞きましたけど彼らは意識して心をかたくなにしてしまったとあります。11番目の例はナザレの、イエス様の故郷の人々です。 ルカの福音書4:28-29
殺すつもりだった。イエス様の故郷であるナザレの人々は、福音に対して受け入れる心を持たなかっただけではなく、イエス様を追い出して殺そうとするほど荒荒しい怒りに満たされたのです。 12番目の例は、イエス様の時代の宗教家たち、聖書学者たちでした。マタイの福音書12章の24節。彼らの態度こそが全く悪魔的でした。 マタイの福音書12:24
聖書学者たちの多くは、主イエス様が神の子である、約束されたメシヤであるということを知っていたにもかかわらず、「彼は悪魔とともに働いているものだ。」と言ったのであります。 主のみことばとは、いつも内容のないうその言葉ではなく、いつも主なる神の啓示そのものです。私たちが主のみことばに対してどのような態度を取るかは、私たちが主ご自身に対してどのような態度をとるかということです。 今の12の例に出てくる人々は、みな福音を聞きました。けどその聞いたことは無駄に終わってしまったのです。主のみことばは、聞く者に三つのことを勧めます。 1番目・・・悔い改め。 2番目・・・信仰。 3番目・・・従順です。 主のみことばを聞いても、悔い改めようとしない人、信じようとしない人、従順に従おうとしない人はみことばを正しい態度で聞いている人とは言えません。 聞く耳を持つことこそが、いっちばんたいせつです。なぜかといいますと、みことばの間違った聞き方もあり、それからみことばの正しい聞き方もあるからです。 今からは正しくみことばを聞かれた12の例を見てみましょう。 第1番目の例は、使徒の働きの17章、べレヤという町にいるユダヤ人たちです。 使徒の働き17:11
ちょっと矛盾でしょ。聖書の中には正しい人はいない、一人もいない、善を行う人はいないんじゃないか。ここで良い人と書いてる。一体どういうもんか?パウロはどういう人たちが良い人なのだと思うのでしょうか? 使徒の働き17:11
べレヤにいるユダヤ人たちは、ただ単にみことばを聞いただけではなく、そのことを自分で聖書から確かめようとしました。彼らはそのために時間を費やし、苦労をいといませんでした。 私たちは時々確かに聞くんです。「あ、あの人は良い人よ。」、今話したように、主の目から見ると良い人はいない。けども、パウロはやっぱり理由があったんです。 「あの人たちは良い人たちです。なぜならば、私のしゃべったことをすぐには信じようとしなかったから。」、みずから聖書のみことばを調べましょう。 一昨日でしたかね、一人の奥さんは言ったんです。「あるメッセンジャーの話を一回だけ聞いたんです。彼の番になった時、私は止めたんです。もういりません。」 なぜならば、メッセンジャーを批判してはいけないと思っちゃったからです。けど、ちょっと違うじゃないの。たとえば、「ベックのことそのままに信じないでください。」、と言いたいよ。 家に帰って、聖書読んで、あおのベックという者はね、もしかすると間違ったことを言っているかもしれない。私はうのみにしたくないから自分でも聖書を開き調べる! もしこの態度をとればあなたたち良い人たちですよ。本当にそうよ!!! やっぱり自分で調べなければだめなんです。人間はだまされやすいでしょ。ですから、「彼はそう言ってる。でもね、いくらメッセンジャーであっても、はたして聖書的でしょうか?」と、やっぱり自分で調べるべきものです。 調べる間に、うれし... (テープ A面 → B面) 正しく聞こうとする、確かな聞く耳を持っていたのです。 2番目、使徒の働きの16章14節です。ルデアという姉妹です。彼女はテアテラに住んでいた者で、商売人でした。 使徒の働き16:14
ルデアは、みことばを聞くだけではなく、心を開いてそれを受け入れたのです。これも正しい聞き方です。彼らのうちの幾人かは良く分かった。パウロとシラスに従った。 テサロニケのユダヤ人たちはみことばをただ単に聞くだけではなく、みことばに従順に従いました。従順のない信仰は、ほんとうの信仰であると言えません。 4番目、マリヤ。イエス様を生んだマリヤです。 ルカの福音書2:19
イエス様のお母さんであるマリヤは、みことばを心に受け入れただけではなくみことばについていろいろと考え、結果として主を賛美するようになったのです。 今度はある異邦人、イスラエルの民に属さない女性についてマタイの福音書15章に次のように書かれています。 マタイの福音書15:27
イエス様はこの女に向かって、あからさまにあなたは異邦人であり汚れた者であるとおっしゃいました。けどもこの女は、みことばを聞いて腹を立てずにかえって謙遜になったのです。みことばを正しく聞く者はへりくだります。 「主よ、あなたの言われたとおり、あなたの愛を受ける資格のある者ではない。救われる権利もない。あなたがあわれんでくださらなければ、もうおしまい。」 今度は有名なサマリヤの女です。ヨハネの福音書の4章の17節から。 ヨハネの福音書4:17-19
この女は、イエス様のみことばによってさばかれることにあまんじたのです。 今日の人々は、みことばを上から見下ろして、みことばを自分の考えでさばこうとします。けどもこのことによって、得るものはなにひとつありません。損をするばかりです。 みことばに対して正しい聞き方をすることは、自分がみことばの下に立って、みことばが自分自身に対してなんと語っているかを聞き分けて、それを受け入れることです。 7番目の例は、生まれつきの盲人であります。今度はヨハネの福音書9章を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書9:35-38
心からみことばを聞く者は、その必然的な結果として、イエス様を礼拝するようになります。聞いて、礼拝せざるを得なくなること、これは正しい聞き方の結果です。 8番目の例は、コルネリオであります。コルネリオだけではなく、みんな家族も聞く耳を持っていて救われたのです。今度また使徒の働きに戻りまして、 使徒の働き10:33
みんな彼らは聞く耳を持っていた。みことばを正しく聞くことは、コルネリオのように喜んでそれを受け入れることであります。 9番目の例はパウロです。 使徒の働きの26:19
そむかなかった。パウロはみことばを聞いて自分自身の人生の方向転換をしました。彼の望んでいた唯一の事柄は、イエス様に栄光を帰し、イエス様を喜ばせることでした。 10番目の例は、バプテスマのヨハネです。 ヨハネの福音書3:29
ここで書き記されているバプテスマのヨハネのように、みことばに耳を傾け、その聞いているみことばに対して心から喜ぶ人は正しい聞き方をしていると言えます。けど、正しく聞くということは、自分がおとろえ主イエス様が栄えるという願いを起こさせます。 11番目の例は、ベタニヤのマリヤです。ラザロの妹です。 ルカの福音書10:39
結局、「イエス様話して、聞かせて。」、時間をつくって、このベタニヤのマリヤのように主の足もとにすわることは、みことばを聞く正しい態度です。多くの信者に欠けているのは、多くの世の事柄から離れてみことばに聞き入る態度です。 私たちにはこのように主イエス様のみことばを聞き、イエス様に語っていただきたいという切なる願いがあるのでしょうか..?また、イエス様に対して自分の願いをあますところなく、お話ししたいという切なる願いがあるのでしょうか? 12番目の例は、エマオに向かう弟子たちであります。ルカの福音書24章、復活の朝、あの二人の弟子たちはイエス様に出会いました。 ルカの福音書24:34
心が燃えるとは、そこに愛があるということのしるしです。正しく聞くとは、ここで書かれているエマオの途上の弟子たちのように、イエス様に対して愛のこころを燃やすことです。 みことばが、それを聞いた人々にどのような働きを及ぼすかは、その人の心の状態が前に話したように、道端のようであるか、岩の上のようであるか、いばらの地のようであるか、それとも良い地のようであるかによって決まっています。 つまり聞く者の態度によってその人が救われるか、それとも滅びるかが決まります。 前に読みました箇所をもう一回読みましょうか。 マルコの福音書4:23-25
この節によれば、正しい態度でみことばを聞きたいと望んでいる者は、その態度を賜物として与えられることが分かります。 真理を知ることは恵みによります。けど、それを望む者には主はいつもそのための力を与えられます。けど、それを望まない者は真理を理解する力を与えられることはありません。 マルコの福音書4:12
彼らがどうして悔い改めて赦されることがないのでしょうか。主に対して信仰の決断をした人が、実際に信仰生活を歩み出すことがなければ、その人が悔い改めることを望んでもそれができなくなります。 悔い改めることを望まない者は、悔い改める力を主から与えられることはありません。ここでは、どっちつかずの態度は赦されません。主のみことばは、受け入れるか、拒むかのどちらかです。 イエス様のみことばを受け入れるとは、とりもなおさずイエス様を受け入れることです。そして、イエス様を受け入れるとは永遠のいのちを持つことです。 マルコの福音書4:8
マルコの福音書4:20
この節には、実の結び方にもいろいろあることが書いてあります。三十倍、六十倍、百倍と書いてあります。良い地の実の結び方はさまざまな結び方があります。すべての秘訣とは、主につながることだけ。 ヨハネの福音書15章。毎日読むべき箇所なのではないかと思います。 ヨハネの福音書15:1-5
ここで実を結ぶことについて、もっと多くのみを結ぶことについて、さらに多くの実を結ぶことについて書かれてあります。主は私たちが多くの実を結ぶことを望んでおられます。 それではどうしたら多くの実を結ぶことができるのでしょうか。それは、樹液が幹を通って枝にまで良くいきわたることができるならば、多くの実を結ぶことができます。 御霊が私を導き満たし、支配することができるならば私たちは多くの実を結ぶことができる者となります。 イエス様は信じるもの一人一人が誰であれ、多くの実を結ぶことができるためにはどんなことでもしてくださいます。信じる者が少ししか実を結ばない者であるか、あるいは多くの実を結ぶ者であるかは、その人自身の選択にかかっています。 私たちの信仰生活はさらに多くの実を結ぶ者となるために、主によって刈り込みをされなければなりません。私たちが主によって刈り込みをされる、つまり聖められるならば、私たちは多くの実を結ぶ者となります。 そのとき結ぶ実は、自分の意志によって枝にではなく、主が私たちのために備えてくださった御霊の実です。 ホセア書14:8
あなたはわたしから実を得る、とあります。 主イエス様が私たちのうちにあって私たちを支配することがおできになるなら、必然的な結果として私たちは多くの実を結ぶ者となります。 信じる者はだれでも多くの実を結ぶ者とならなければなりません。そしてそのような信者は、世の光である、と言われるのです。 実を結ばない種は隠れた光りのようなものであり、何の役にもたちません。 多くの実を結ぶ良い地に蒔かれた種は、多くの人々に祝福をもたらすことができ、輝いた光のようなものです。それは価値のある役に立つものであり、これによってイエス様のみもとに導くことができるのです。 イエス様は、私たちを人を綱捕る漁師として用いられたく思っておられます。けどもそれは、みことばをこころの中に受け入れてみことばに働いてもらわなければ不可能です。 私たちは主の御声を正しく聞きたい、というこころからの願いを持っているのでしょうか?主の望む態度とは、私たちはサムエルのように 「主よ。語ってください。しもべは聞きます。しもべは従いたいのです。」 パウロの切なる願いは、 「主よ。私はなにをしたらよいのでしょうか。」 当時のイエス様の民衆は、おしえてもらいたいと思ったから、みことばを聞こうとおもったのです。だからイエス様のみもとに集まったのです。 聖書の教えを勉強した宗教家たちはイエス様を殺そうと願ったのです。意識して聞きたくなかったからです。 ダビデの告白、経験とは次のようなものです。 詩篇19:7-11
もう1箇所。 詩篇119:49-50
詩篇119:76-77
主を愛する者は聞く耳を持ってる、と言えます。 |