なぜでしょう。何の為か


ベック兄

(吉祥寺学び会、2011/09/06)

引用聖句:創世記42章36節
36父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

ローマ人への手紙8:28
28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

このイエス様の叫び「完了した」のゆえに私達は、ここで集ることができたのです。もしイエス様がそう叫ばなかったならば、単なる殉教者として犠牲になったのです。
けれどもイエス様は、我々の受けるべき天罰をお受けになり、罪の問題を解決してくださったから、私達は本当に前向き生活を送ることができ、大いに喜ぶことができるのではないでしょうか。
けれども、天国へ行くまで、今日かもしれないけれども、のばされればやっぱり戦いなのではないでしょうか。ですから今日の題名は「なぜでしょう。何の為か」という題名であります。

人間は誰でも人生において、色々な問題あるいは悩みや苦しみに出会うものです。そして多くの場合、そのような色々な問題に直面した時、私達はいかなる答えをも見出すことができません。考えられない多くの人々は、山のような問題の前に成すすべを知らないで、大いに悩んでいます。
悩みがどうしてあるのか。なぜか皆考えています。そして私達は、しばしば色々な状況の前に成すべきすべを知らないで、またどうしたらそこから逃れることができるのか、逃れ道を見つけることができないし、なかば絶望的な状態に落ちてしまうというようなことが実際にありはしないでしょうか。
創世記42章36節に、ヤコブの経験したことについて書いてありますね。

創世記42:36
36父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

心からの叫びでした。このヤコブはそれまでの生涯においては、自分自身の意思や自分自身の力に頼って行ったことがたくさんありましたが、大部分がそうだったのです。
彼は長い間、ずるい生活をしてしまったのです。自分のこと、自分の利益ばっかり考えたのです。けれども、このような人を欺く者が欺かれてしまいました。
主なる神は罪を見過ごしにされない。これはヤコブが学ばなければならなかった、本当に厳しい教訓でした。だから彼は叫んだね。「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」すなわち言い換えれば、すべてのものが私に反対しているということです。

ヤコブの場合のようにすべてが失敗に終わりそうに思える時、いったい何が成されるべきでありましょうか。いかなる態度をとるべきなのでしょうか。
まず最初に私達が注意すべきことは、すべてのことが失敗に終わるということは、ただそのように見えるにすぎないということです。ヤコブの場合もそうでした。
なぜならば、ヨセフは確かに今はいないけれども、いつかは必ず会える。シモンもまた確かに今はここに居ないけれども、いつか必ず会うことができるということです。

私達は、人間的な味方をするならば、多くのものを確かに正しく見ることはできません。次のように言うでしょう。「すべてのものが私に反対している。すべてのものが失敗に終わる」と。
けれども、本当はその反対が真実です。すなわちこれらの事柄が私達に反対しているのではなく、逆です。
結局、主は支配しておられ、主の許しなしに何もありえない。結局全部、祝福が隠されている祝福なのではないでしょうか。

考えられない多くの人々は、「なぜ、どうしてこんなに悩まなくちゃいけないの。こんなことを経験しなければならないのでしょうか。」
このように苦しみながら悩みながら、いくら自問しても何の解決をも見出せないような事柄が実際に、数えきれないほどあるのではないでしょうか。
「なぜか、どうしてか」という質問について少し考えたいと思います。答えは簡単です。

第1番目すべてを支配したもう主イエス様は、人を救われるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるのです。救われるため与えられた。
第2番目すべてを支配したもう主イエス様は、信じる者すでに救われた人々が変えられるために、多くの出来事を起こるがままにさせておかれるのです。救われることだけでは充分じゃない。変えられる必要がある。
第3番目すべてを支配したもう主イエス様は、救われた者が本当に主に仕える者として、用いられる器として、用いられるために多くの出来事を起こるがままにさせておかれるのです。偶然じゃない。ですから全部イエス様のせいにしましょう。今わからなくても解かる時が必ず来ます。

「なぜか、どうしてか、何の為か」と考えると、今話したようにまず、すべてを支配しておられる主は、どうしようもない人間、本当はたいした価値のない人間を救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。
大切なことは、人間が真理の認識に至ること、すなわちイエス様に出会うことです。どれほど多くの人々が暗中模索して、自分たちが真理を知らないのだということに気がつかないでいるのではないでしょうか。
だから次のように言うことが、全く正当でしょう。「人間は救われうる前に、一度失われた状態になければならない。」、すなわち人間は、主なる神が人間を救ってくださる前に、まず自分の失われた状態を認めなければなりません。

物質的なものが満ち溢れ、目に見えるものにがんじがらめとなってしまっているため、永遠のものや生ける主について深く考える時間がない、このことが多くの現代人の特徴なのではないでしょうか。
多くの人は、救い主を持つ必要性に対して盲目ですが、たとえそのことを認めざるを得なくなったとしても、依然として逃げようとするのです。
その方々は、静かになって人生の意味を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらないのです。このことこそ、主が多くの不愉快なこと、困難なこと、理解することが出来ないことを私達の上に来たらせることの理由です。

このような主の目的の導きは、ご自身のもとに引き寄せること、また赦しと人生の内容を与えてくださることにほかならない。
聖書の中の一つの実例をちょっと見てみましょうか。よく知られているルカの福音書15章、いわゆる放蕩息子の例であります。
放蕩息子は、自身に満ちて親の家を去ちゃった。意識してこれは自分が選んだ道を行ったのです。

彼は、何ものからも束縛されたくない。自由に自分の人生を楽しもうと思いました。そして、覚えるべきことは、自分自身の道を行きたいと思う者に対しては、主は好きなようにさせます。たとえ最初はすべてのことが望み通りうまく行くように見えたとしても、やがてすべてのことが失敗に向かう時がやってまいります。
その結果突然、すべてのものが自分に反対しているように思われるでしょう。お金はまもなく使い果たして、それまで友達と思われた人々からは捨てられることになっちゃった。すべてのものが失敗してしまったのです。
14節から読みましょうか。

ルカの福音書15:14
14何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、

主のせいだったんですけれどもね。偶然はないから。

ルカの福音書15:14-15
14彼は食べるにも困り始めた。
15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

ユダヤ人にとって一番嫌いな仕事です。豚の肉でさえも食べてはいけないから。

ルカの福音書15:16
16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

けれども、この導きによって、すなわちこの深みへと導かれたことによって、彼はただ単に自分自身に立ち返っただけでなく、そのことによって父の住まいへ戻ることになり、本当に満ち足りた幸いな人生へ入ることができたのです。
多くの場合、人生の途中には恐ろしくたくさんの困難が横たわっています。けれども、主は常に一つの目的を持っておられます。
すなわち私達どうしようもない人間をゼロの点にまで低くすること、あるいは破産させること、これが主のとられる方法であり、その限りにおいてすべてのものは自分自身の助けとなるものを失い、心から悔い改めることにより、また主を信じることにより、主のみもとに行くことが可能となるのです。

「なぜか、どうしてか、何の為か。」と考えると、今まで見てきたように、支配したもう主は人が救われるために、永遠のいのちを得るために、心の満足を得るためにそれらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。
主が人間に、正しい理解と悔い改めを得させるために、確かに多くの事柄を失敗するがままにさせておかれることを見ました。

次に「なぜ、どうしてか」という質問についても少し考えましょう。答えは、第2番目、すべてを支配したもう主は、もうすでに救いにあずかるようになった人々が変えられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるということです。
けれどもも救われていない者だけじゃなくて、信じる者も、またいわゆる運命のなす業を経験するのです。信じる者は、また同じように失望落胆し、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することができない場合に遭遇いたします。
どうして主は、信じる者が厳しい試練に会うことを許されるのでしょうか。それは彼らの教育のためです。彼らの清めのためです。また彼らが主の似姿に変えられるためです。それを証明するために、聖書から一箇所見てみましょう。ローマ人への手紙、皆さん大好きな箇所の一つです。毎日読んでもいい箇所でしょうね。

ローマ人への手紙8:28-29
28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

我々の人生の途中に起きることすべて、また私達の人生の中に入り込んでくるものすべては、主によって用いられており、従って無価値なもの、無目的なものはなに一つありません。
大切なことは、私達が新しく作り変えられること。結局、主イエス様に似た者となることです。
私達の人生の中に偶然というものは何もありません。すべての背後にイエス様が立っておられ、主がそれぞれの場合に応じて、適切な導きを成してくださいます。すべてが益となる、このことを私達は常に新たに覚えるべきなのではないでしょうか。

良きこと、いや最も良きことは、私達が作り変えられることなのではないでしょうか。作り変えられること、主の御手によって練られることは楽しくないでしょう。痛みを伴うことでしょう。
けれども必要です。自らが砕かれることなしには、あり得ないことであるからです。
人はその時失望落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちです。けれども、このようなことは自分の思い通りにならないと目先のことしか考えない時に起こることなのです。

だからこの29節は、本当に大切です。「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子、一番上のお兄さんとなられるためです。」
主は御子の姿に似た者となるようにあらかじめ定めておられるのです。そして主が目指しておられる目的は、何とすばらしいものでありましょうか。
この目的から常に目を離さないことは、非常に大切です。

主は御自分に属しておられる者を限りなく愛してくださいますから、まさにそのために私達を懲らしめ教育なさるのです。
主の教育は、私達が主の聖さにあずかるように、御自身のみもとに引き寄せたく思っておられることです。私達の主は完全であり、主の導きももちろん完全です。
おそらく私達は、すべてを理解することはできないし、挫折してしまう経験に直面し、また自分自身を同情してしまうというような場合もあるのではないでしょうか。

「どうしてこんなことを経験しなくちゃならないのでしょうか。どうして次から次へとこんなことが私に起こるのでしょうか。どうして私は、こんなにたくさんの困難や理解できないことを経験しなければならないのでしょうか。」と多くの人々は考えます。
すべての苦しみは、その時は面白くない。喜ばしいものではない。かえって悲しく思われるものであると聖書は言っています。そしてそれだけではなく、後になるとこれによって訓練された人々に、平安な義の実を結ばせます。
ここで大切なことは、その時は一時的に悲しく思われることですけれども、後になるとそれが結果的に幸いになるということです。

次に、次の事柄を覚えましょう。すなわち私達は決して主のための実験用のものとなるのではない。主が常に最善のみを考えておられる、最愛の子であるということです。
たとえ実際にすべてのことが失敗したとしても、私達は主によって愛されているということを知ることができるのです。まさに主の試練や懲らしめこそ、主の愛の証拠です。
私達は今そのことを理解することができなくても、しかし後になるとそのことを主に感謝し、礼拝するでしょう。ダビデの告白は本当にすばらしい告白です。

詩篇119:67
67苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

意味は、苦しんだのは良かったということです。
「なぜか、あるいは何の為か」という問いについて、今考えましたね。答えは3つです。

第1番目すべての背後に主は人の真の救いのために、多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。
第2番目すべての背後に支配したもう主イエス様は、信じる者が変えられるために多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。
最後にもう一つの答えは、すべての背後に支配しておられる主は、救われた者が本当に主に仕える者となるため、主の用いられる器となるために、多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。

多くの信者は、実を結ばない木のようなものであるかもしれない。主は彼らを用いることがもうできません。その原因は一体何でしょうか。彼らは主なしでも何とかなると考えているからです。
もちろんこれは、知らず知らずやれると考えているのです。けれども、彼らは自分自身の力と自分の知恵により頼んでいます。確かに多くの信じる者は、主のために何かをやりたい。主のために一生懸命、何かをやりたいと思い、またこのことやあのことをしたいのです。
主に願ったりするのですけれども、結局彼らはこのことやあのことを自分がしたいために主を利用しようとしてしまっているのです。けれども、実際は主が信者をお用いになりたいと思っておられます。ご自分の器として信じる者一人ひとりを用いたく思っておられます。

永遠に残る実を結ぶ奉仕は、主のための我々の努力ではない。私達を通して主ご自身がなさる御業でなければなりません。
これこそ多くの者が私達に逆らっているように思われたり、主が私達を厳しく取り扱わなければならなかったり、私達が砕かれなければならないことの原因なのではないでしょうか。
一つの例として、ペテロにしましょうか。ペテロとはどういう男であったかといいますと、自信に満ちた男、独立心に満ちた男でした。彼は、自分自身の能力に自信を持っていました。彼の言っていることを私達が読むと、ちょっと笑います。

ルカの福音書22:31-33
31シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
32しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

すごい言葉ですね。彼はそう言っただけじゃなくて、思ったんです。心から思ったんです、けれども、

ルカの福音書22:34
34しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう

何時間後ですよ。もしイエス様は半年後と言ったならば、けれどもイエス様は今日

ルカの福音書22:34
34鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

一回だけでもひどいけれども、3回。シモン、シモン。見なさい。悪魔が弟子たちを麦のようにふるいにかけることを願って、わたしは別に反対しませんでした。聞き届けられました。
そしてわたしはそれに、これは本当に大変なことでしょう。厳しいことでしょ。辛いことでしょうけれども、あなたが破産して本当に自分自身に絶望するためには、どうしても必要なことですよと。
ここで注意していただきたいことは、色々な人格の順番、あるいは順序ですね。ここの聖句によると、まず悪魔、2番目わたし、すなわちイエス様、そしてあなた、すなわちシモンペテロ、およびあなたの兄弟たち、こういう順番になっていますね。主はペテロを通して、彼の兄弟たちを強めようと計画しました。

けれども、そのためにはペテロは砕かれることがどうしても必要でした。そのために悪魔がペテロを攻撃することになるのですけれども、その時にも主は絶えずペテロのために祈ってくださいました。
したがって、悪魔は自分がしたいことを何でもするということはできません。私達は完全に主の御手の中にいるのであり、それは永遠の安全を意味しています。
ですから主は、悪魔とペテロの間にお立ちになっておられるのです。

ペテロは本当にすべて失敗してしまいました。彼は最後の土壇場に立たされたのです。そこにはもはや一条の希望の光も差し込まないで、すべての望みが消えうせた。全く絶望的な状態が支配しました。
けれどもこの訓練は必要でした。ペテロはもはや自分の力により頼むことが出来なくなりました。そこから初めて主はペテロをお用いになることができたのです。
その良い例が五旬節でしょう。その時、ペテロは大したことはしなかったけれども、旧約聖書からあちこちの聖書の箇所を引用しただけで、けれどもも結果はすごかった。

ペテロを通して3,000人以上の人々が救われたとあります。一日で3,000人以上の人々が導かれた。このことを通してペテロは解かった。「私はダメ。」単なる器ですけれども、この器が用いられなければ役に立たない存在です。
パウロも同じようなことを経験したのではないでしょうか。
パウロもペテロと同じように、深みを通ってきました。すなわち3日間、暗闇の中に生きたのです。そのことは後になってパウロは次のように証ししました。

コリント人への手紙第II、3:5-6
5何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。
6神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

私達はみな実を結ぶ秘訣を知っています。すなわち自分自身を否定して、自分に対して死ぬのです。
この原則について、イエス様は言われました。みな暗記していることばでしょう。

ヨハネの福音書12:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

どこにも多くの重荷をになっている人、いかなる逃れ道を見出せないで絶望的な状態になっている人がいます。どうしてこんなにたくさんの困難を経験しなければならないの。どうして私は失敗してしまうの。
答えはおそらくそれは、まだはっきりとした救いの喜び、救いの確信を持たないで、イエス様こそ私のもの、かけがえのないものということができないからなのではないでしょうか。
あるいはもしかするとそれは、あなたの救い主があなたを御自分に似た者に作り変えようとしておられるからではないでしょうか。

大切なのは救われることだけじゃなくて、主をより知ることによって清められることです。
それから今まで主を利用しようとしていたかもしれない。主に「ああしてくれ、こうしてくれ。」、けれども今や主があなたを主の御手の中で、御自分の器として用いになろうとしておられるかもしれない。
旧約聖書の中で次のような箇所があります。

申命記8:15
15燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、

道をふさぐ岩、すなわち障害物から、あるいは理解できない困難や私達が甘受しなければならない心痛、あるいは心の痛み、これらのものから主は水を湧かせようとしておられるのです。
これらの経験を通して、私達は主の御許に行くのであり、このような経験を通して、私達は祝福されうるために祝されまた、いのちをあたえられるのです。
生ける水は川となって、われらよりいずるべしとあります。旧約時代に主はご自信の民に向かって、次のように言わなければならなかったのです。

エレミヤ書2:13
13わたしの民は

未信者ではない、異邦人ではない、

エレミヤ書2:13
13二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

エレミヤ書17:13
13イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」

わが民は二つの罪を犯す。一つは、湧き水の泉であるわたしを捨てたこと、第2は、水をためることのできない壊れた水ためを、自分たちのために掘ったとあります。
このようにして、主は悔い改めて立ち返ることを呼ばわりました。主イエス様を知らない人は、悔い改めて主の御許に立ち返らなければならない。救われるためです。
イエス様を知るようになった人々は、主の内にとどまるため、また用いられるために悔い改めて立ち返らなければならない。イエス様の内にとどまる者だけが、主と結びついているのであり、このいのちの泉の通りよき管となることによって、イエス様はご自信を現すことがおできになるのです。

今この時の試練は、まさに永遠の世界に至るための準備期間のようなものです。主は何者も御手から失いません。主は永久にすべてを支配なさるお方です。
暗闇の夜にも、困難の涙の時も主の御手は守ってくださいます。失望落胆した心も慰められ、喜ぶことができます。なぜなら主はとこしえに支配したもう主であられるからです。
そして主は決して過ちを犯しません。私達に理解できないことがたくさんあるとしても、主は私達にとって最も益となることを考えておられます。初代教会の人々はそれを確信したから言えたのです。

ローマ人への手紙8:18
18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

この確信こそが初代教会の特徴でした。
最後にもう一箇所読みます。非常にすばらしい証しであります。悩んだ者の証しです。

ハバクク書3:17
17そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。もう大変だよ。けれどもそれだけではない。

ハバクク書3:18-19
18しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
19私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて。

ハバククの経験したことは、私達も経験すべきであり、経験することができるのです。




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