引用聖句:サムエル記第II、14章5節
マルコの福音書10:46-52
今日の題名は、今読みました個所の中で、二ヶ所あるんです。 王さまは言った。「いったい、どうしたのか。」「いったい、どうしたのか。」あるいは、バルテマイに言われたイエス様のことば。「何をしてほしいの?願いなさい。」 あるいは、「薬棚である聖書」という題名をも付けることができるのではないかと思います。 イエス様ご自身が願っておられます。「願いなさい。」 何も欲しくなければ、もちろん何ももらいません。それ考えるとすごいチャンスなのではないでしょうか。「何ほしいの?願いなさい。」、頼まないと損します。 もちろん救われませんし、用いられません。ですから聖書の中でよく、「あなたの願ったとおりになる。」と書き記されています。 王の王であられる主イエス様は今日も、私たちの前に立っておられ、次のように尋ねておられます。「いったい、どうしたのか。」、「あなたはわたしに何をしてもらいたいのでしょうか。」と。 主イエス様とは、もちろんあらゆる病気をいやすことが出来るお方であり、イエス様はあらゆる災いを予期するお方であり、いうまでもなくイエス様はあらゆる罪を赦すことができるお方です。 私たちはみんな時々あまり調子が良くないと感じるときがあります。そのとき、ある薬によって良くなることがあります。 薬とは病気を治すためか、あるいは予防するためのものです。 健康でない者は病気だと感じます。霊的に健全でない者はみじめに感じます。多くの人は肉体的には健康ですけど、たましいは度を失っています。 どのような薬が役に立つのでしょうか。聖書はいわばすべての可能な手段が使えるようになっている薬棚のようなものです。 今日ちょっとだけこの薬棚を見て、詩篇の37篇という宝箱を見てみたいと思います。その中から私たちは色々な薬や病人を七つに分けて見てみることにしたいと思います。 第一の病人は、悪を行なう者の繁栄に戸惑っています。 第二の病人は、すべての要求に応じることができるか心配です。 第三の病人は、意気消沈し、打ちのめされ、我慢できないのです。 第四の病人は、憤慨し、腹を立て、神経質で執念深いです。 第五の病人は、自分が救われているかどうかについての病的な不安で満ちています。 第六の病人は、主の導きについて動揺しています。そして、 第七の病人は、絶望の淵にいます。 私たちはここで重症の病気と関わりを持っていることは明らかです。これらの病気は非常に伝染しやすく、それゆえに注意が必要です。 私たちはどこへ行っても肉体的には良さそうに見えますが、内側は本当に病んでる。そういう病人にいたるところで出会います。 私たちは主のみこころの中に豊かに満たされた薬棚を持っていることは、何というすばらしいことでありましょうか。 その中に入っている薬はどれも悪い副作用をもっていません。どの薬も完全に無料です。どの薬も治すためだけではなく、予防のためにも非常に推薦されます。 もしかするとあなたは第一の病人かもしれない。あなたは悪を行なう者が栄えることに戸惑っているかもしれない。最初の瓶から良い薬をお取りください。 詩篇37:1-2
ダビデは悪を行なう者が上手くいってるのを見たとき、戸惑い、まったく混乱してしまいました。 自分のことだけしか考えず、自己中心的な人が成功しているように見えることは、いつも私たちが経験するところです。 彼らは主に対する愛を少しも持たず、その上、主を否定し、主の御名を汚しています。それにも関わらずすべては上手くいってるように見えるのです。 嘘をつく者は自分の目標を達してるように見えます。欺く者は豊かになっているように見えます。暴力を行なう者は自らを完成しているように見えます。 生きるまことの主なる神を否定し、悪に悪を重ねる国民がいつも勝利を収めています。革命家たちが力を奪い取っています。罪なく人間が抑圧され、自由を奪われています。 こういうことについて多くの疑問が次から次へと現われてきますが、だれもこれに満足のいくような答えを与えてくれません。多くの人はどうしてよいかわからず、まったく戸惑ってしまう。主のみことばの薬は次のように言っています。まず1節、2節もう一回読みます。 詩篇37:1-2
詩篇37:10
詩篇37:13
詩篇37:35-36
主のみことばをして、語らしめよ。 主のみことばは癒す作用をもっています。主のみことばを通してあなたは突然色々な事がらを別の光の中に見ることができます。 あなたは生きるまことの主なる神がすべてのものの上に立っているのを知るようになります。 主は決して手から手綱を離さない。イエス様は、お赦しになること、またなぜそれをお赦しになるのかをもちろんご存知です。主の時に主はすべてを明らかにしてくださいます。 あなたが腹を立て、人々がねたみを起こす場合、あなたは内面的に別の態度を取ることを突然覚えるでしょう。 あなたは神なく、望みなく、恐ろしい永遠に向かっているすべての人を気の毒に思うでしょう。悪を行なう者の時は定められています。見せかけの幸せは間もなくダメになります。 第一の病人は、悪を行なう者の繁栄に戸惑っています。第二の病人は、すべての要求に応じることができるか心配です。 周囲は下がってしまうように見え、すべてがどうなってしまうのかわからない。そのとき二番目の瓶からもうひとつの分を取り出してください。神のみことばは次のように言っています。 詩篇37:3
主のご命令は非常に健康を促進してくれます。「主に信頼しなさい。目に見えるものに支配されないようにしなさい。」 生けるまことの神は私たちの生気を配慮していてくださることはすばらしいのではないでしょうか。 ちょっと旧約聖書から一ヶ所読みます。 列王記第I、17:3-6
けどもエリヤが驚いたことに、その川が涸れた。どうなるのでしょうか。 エリヤは心配する必要はなかったのです。というのは主がすでにひとつのご計画をもっておられたからです。 列王記第I、17:9
エリヤの神はもちろん私たちの主でもあります。主は昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。 烏によって養われることとはちょっと考えられない。烏とはそういうものじゃないんです。自分のことしか考えないものです。 けども主は命令すると、やっぱり動物でさえも従わなくちゃならない。すべての心配を予防するために主はすばらしい約束をお与えくださいました。37篇に戻りまして、 詩篇37:19
詩篇37:25
結局主は忠実です。 アブラハムもまた非常に大きな苦しみの中に置かれました。そのときアブラハムはすばらしいみことばを与えられました。 創世記の22章の8節。「神ご自身が備えてくださる。」、心配する必要がない。神ご自身が備えてくださる。 ここで神の名前が出てくるんですね。アドナイ・イルエという名前です。すなわち、すべてを備えてくださる主という神の名前が出てきます。主はすべて必要なものを間違いなく与えてくださいます。 私たちは決してひとりぼっちにはさせられません。主は配慮してくださると約束してくださったから、だから安心してすべてをゆだねることができるのです。 主イエスは偽ることのできないお方です。民数記の23章を見ると次のように書き記されています。 民数記23:19
私たちは主のみことばに拠り頼みますと、主は私たちのためにみことばを果たしてくださいます。 第三の病人は、意気消沈し、打ちのめされ、我慢できないのです。 あなたは、主が自分を忘れてしまい、自分の祈りを聞き届けてくださらないという感じをもっているかもしれない。そのとき第三の瓶からその分を取り出してください。しかも朝と晩、お飲みになってください。 詩篇37:4-7
突然困難が私たちを襲うとき、私たちが落胆し、意気消沈するということは、いかに早く起こることでしょう。 自分は忘れられてしまっている。もはや愛されていない。もう配慮されていないという印象を持ちがちです。 ある人は足に強い痛みをもち、ひとりの医者を訪ねました。徹底的に調べてもらったあとで医者はその人に緑の錠剤を与え、その錠剤が必ず効果を発揮し、間もなく痛みはなくなりますと約束しました。けどその人は肩にも痛みを感じました。 すると医者は診察して、今度は白い錠剤をくれました。けども彼は次のことを知りたいと思いました。 「緑の錠剤が足のため。白い錠剤が肩のためというのはどうしてわかるのでしょうか。」と。 私たちもおそらく似たことを言うのではないでしょうか。4節から7節の聖句はいかに私たちの憂鬱な気持ちを直すことができるのでしょうか。 主のみことばによって、いかに打ちのめされた状態から脱出することができるのでしょうか。 もちろん私はあなたに何一つ説明できません。ただあなたに次のように言うことができる。すなわち、 「主のみことばを真剣に受け取ってください。それをあなたのために個人的に要求してください。主のみことばに従ってください。そうすればあなたはいやす力を経験するに違いない。」 詩篇37:4
あなた自身から、あなたの感情から、あなたのみじめな状態から目をそらせなさい。 詩篇37:5
すべてを主にゆだね、主に信頼せよ。イエス様はあなたを失望させない。 イエス様の前に静まり、イエス様を待ち望め。イエス様の命令に従う者はいやされ、活気を与えられ、強められます。 第四の病人は、憤慨し、腹を立て、神経質で執念深いです。 そうであるならば、第四の瓶から強い頓服薬を取り出してください。感情がすぐに爆発すると感じれば、特に急ぐ必要があります。8節ですね。 詩篇37:8
とあります。予期しないことがしばしば不機嫌と怒りの原因です。だれかが不真実な言葉を語ると、意図しない行為が飛び出したり、私たちは憤慨してしまいます。 パウロはエペソ人への手紙の中で信ずる者に、結局主の恵みによって救われた人々に次のように書いたのです。大切な警告でしょう。 エペソ人への手紙4:26-27
あなたは怒ることがあるかもしれないけど、この怒りが罪にならないように気を付けましょう。怒りに機会を与えてはなりません。 怒りと憤慨を日没まであなたの中に宿らせてはいけない。さもなければ私たちは簡単に悪魔に余地を与えてしまうからです。 別の言葉で表現するならば、私たちは寝る前に必ずみことばという薬を飲むべきです。すなわちみことばによって私たちはもはや憤らず、腹を立てず、神経過敏にならず、執念深くならないように整えるべきです。夜が始まる前に私たちは主との関係、また隣人との関係を清算しておくべきです。 わたしたちはこのみことばを薬として食べ、自分のものとするならば、多くの問題は始めから大きくはならずに済むでしょう。 また多くの悩みやむつかしい状況は解決されるでしょう。腹を立て、執念深く、何があっても絶対に許したくないと思う人は、自分自身を一番傷つけます。 第五の病人は、自分が救われているかどうかについての病的な不安で満ちています。そして永遠の安全についての疑いで満たされています。 このような病気の状態、みじめな状態に対しては、強い薬が必要です。詩篇の37篇に戻りまして18節。 詩篇37:18
詩篇37:24
詩篇37:28
詩篇37:33
はっきりとした救いの確信をもっていない信者が確かにいます。そういう信者はイエス様が本当に自分を受け入れてくださったのか、不安をもって絶えず疑っています。その人たちは本当に救われているかいないのかわかりません。 その人たちは不安の中に生活し、もしかすると暗やみの中に追い出されるかもしれないという不安の中に生きています。それは悪魔のしわざです。 あなたもまたこの不安、この疑いを知っているのでしょうか。特に夜になると悪魔はしばしば信ずる者から確信を奪うために、信ずる者を攻撃します。 ここではどのような薬が服用されなければならないのでしょうか。 主のみことばの中では、ここで二度ばかり「永遠」ということばが使われています。イエス様はたとえ私たちが失敗して倒れたとしても、決して追い出さないと約束しておられます。 主イエス様の愛は何があっても愛し続け、その愛によって回復してくださいます。この主の愛に対して心の目が開かれる人は回復されます。イエス様は救われた者を決して捨てません。 イエス様によって贖われた者は、永遠の安全の中にいます。あなたがこの確信をもっていないか、あるいは失ってしまったならば、その確信を得る、ただ一つの道が存在します。 確信の土台はいうまでもなく主の永遠のみことばです。主のみことばに拠り頼み、主が約束してくださることを幼子のように信じなさい。 あなたが失われた罪人としてイエス様のみもとに行くならば、あなたはイエス様があなたをいつまでも受け入れてくださるということを知ることができるのです。 いったいどうしてなのでしょうか。この確信の土台なるものとはいったい何なのでしょうか。 イエス様は、「わたしのもとに来る者をわたしは決して捨てない。」と約束してくださったからです。私たちが理解できるかできないかに関係なく、主は「決して」と言われたから、決しては決して以外の何ものでもないのです。 イエス様によって受け入れられた者はそれによって永遠の安全のうちにいます。この永遠に全うする事実のために、毎日主に感謝しましょう。 第六の病人は、イエス様の導きについて動揺しています。 自分はイエス様のご計画を理解できない。そしてイエス様がそもそも、あなたの働きとあなたの将来のご奉仕に関心をもっておられるかどうか疑っています。 この病気によって、人はだるくなり、霊的に疲れるようになります。 詩篇37:23-24
私たちは主の導きをじっくりと考えるならば、常に次のことを尊重しなければなりません。 イエス様ご自身が、私たちが主によって導いていただくことに関心をもっている以上に、私たちを導くことに関心をもっておられる。 私たちが主に信頼し、主に拠り頼み、主の導きを待ち望み、主だけを喜びたいと思うならば、イエス様はご自分のご栄光と私たちの最善に至る道を導いてくださいます。 たとえ私たちがつまずいたり、倒れたり、それが何度も繰り返し、私たちの経験であるとしても、イエス様は私たちをお見捨てにならず、私たちを助け引き上げ、新たに強め、力を与えてくださいます。 若い青年は自分の将来について動揺するかもしれない。「いったいどうなるのでしょうか。」と心配するかもしれない。 若い少女は将来の伴侶について、動揺するかもしれない。「いったいだれといっしょになるのでしょうか。」と。 すべてを主イエスにゆだねると祝福されます。そしてゆだねたものを主の御手に任せ、明け渡しましょう。私たちのために刺し通された主の御手は、私たちを守り、導きたいと願っておられます。 第七の病人は、絶望の淵にいます。自分はあちらこちらと揺れ動く、出るべきか入るべきかわかりません。 このためには何が正しい薬なのでしょうか。 詩篇37:39
主ご自身が苦難のときのとりでであるということは、動かすことのできない事実です。 自分は今、大変な苦難の中にいるかもしれない。けど、自分は主に逃れ、主にすべてをゆだねるならば主は助け、守ってくださり、主の助けを奪いません。 主は嘘、偽りを言いません。薬を飲んでください。みことばを食べ、自分のものにしてください。苦しみをもったまま主のところに行き、イエス様の前に自分の心を注ぎ出してください。 するとあなたはイエス様が解放してくださることを経験します。またイエス様が圧迫する重荷を取ってくださることも経験し、またイエス様があなたがたを決しておろそかにしたり、捨てたりなさらないことを必ず経験します。 最後に二つのことについてちょっと考えて終わりたいと思います。 第一に、昔の多くの薬棚は鏡の戸をもっています。人が棚の前に歩いて行くと、自分自身が見えます。主の薬棚である聖書もそれに似てるのではないでしょうか。 鏡は私たちの姿を映し、私たちは生きるまことの神がいかに私たちをご覧になっておられるかわかります。私たちは私たちの傷と結果を認識し、いかにあわれむべきみじめな存在であるかを見ることができます。 第二に、私たちは薬棚の戸を開けると、その中に入っているたくさんの薬を見ます。あらゆる苦しみ、悩みに対してここには適当な治療薬があります。 私たちは薬を見たり、それに驚いたりしても、何の癒しをも経験しない。またコルクを抜いて匂いを嗅いでも十分ではない。 私たちは薬を飲まなければなりません。そのときに初めて私たちは薬の効果を経験します。ヤコブはそのことに対して非常に重大なことを書き記したのであります。 ヤコブの手紙1:21-25
前に読みました個所の中で、「あなたはいったいどうしたのか。いかがですか。」 ヨハネはその第IIIの手紙の中で、愛するガイオへ次のように書き記したのです。 ヨハネの手紙第III、1:2
と。このことばによると、ガイオが霊的に健全であったことがわかりますが、ヨハネは彼が肉体的にも健康であるようにと願ったのです。 大部分の信者においては、逆のことがほとんどではないでしょうか。すなわち彼らは肉体的には健康ですが、霊的に見ると、多くの人があわれむべき状態なのではないでしょうか。 いったいどうしたのか。私たちは霊的に健康なのでしょうか。 イエス様の提供された薬を見て、自由にお使いください。そうすれば、ヤコブが言っているようになります。そういう人はその行ないによって祝福されます。 詩篇の37篇を2、3度読むことは十分ではない。主の約束について深く考えてください。自分の苦しみ、自分の問題をもってイエス様のみもとに行きなさい。イエス様のみことばを知って、あなたに語らせなさい。 主イエス様のみことばは、専用の薬です。主のみことばによってただ単に自分の救いを確信するに至るだけではなく、そのためにあなたを強め、あなたが主のご栄光を帰することができ、主イエス様おひとりがほめたたえられるようになるのです。 7つの大問題について、あるいは7種類の病人について考えてまいりました。もう一回まとめましょうか。 ・悪を行なう人の繁栄に対する戸惑い。 ・あらゆる要求に応じられない心配。 ・意気消沈し、打ちのめされ、我慢できない気持ち。 ・憤慨し、腹を立て、神経質で執念深い性質。 ・自分が救われているかどうかについての不安。 ・主の導きに対する動揺と絶望の淵にいる状態。 ヨハネの黙示録の22章の17節の後半に次のように書き記されています。 ヨハネの黙示録22:17
すばらしい呼びかけなのではないでしょうか。 |