引用聖句:ヨハネの福音書3章1節-16節
この最後に読んでもらいました16節は、聖書の中で一番中心になることばです。 どこの国に行っても、信じる者に出会いますと、必ずみなこの16節を暗記しているのです。 そしてイエス様は、このすばらしいみことばを、誰に言ったかといいますと、ニコデモという男にです。 彼は、もちろんイエス様との出会いによって変わりました。他の聖書の箇所にはあまりないんです。 けども解かっているのは、国民はみな「十字架につけろ」と叫ばれた後で、イエス様は確かに、犯罪人のように十字架の上で死なれましたし、けどもこのイエス様の屍を欲しかったのは、このニコデモです。 よっぽどの勇気がなければ、よっぽど偉い人でなければ、もちろん絶対にもらえない。ですからイエス様の葬儀をやったのは、このニコデモでしょうね。他の人、一人、二人しかいなかったと思います。みな逃げてしまったからです。 このニコデモとは、どういう男であったかと言いますと、真理を求める人でした。 彼は、特別に選ばれたイスラエルの民に属していただけじゃなくて、広く認められた教師でした。今の読みました10節を見ると ヨハネの福音書3:10
とイエス様は彼に言われたのです。ヘブル原語を見ると、イスラエルの中でただ一人の特別な教師という表現が使われていることが解かります。 そして1節によると、彼がユダヤ人の指導者の一人であったことが解かります。 いろいろな人々の中の一人だけだったんですけど、教師としてみことばを説明する者として、彼は別格の人でした。 もちろん彼は最高の教育を受けたし、一般に認められた人格者でした。道徳的にも彼は、高尚な模範的な生活を送ったにちがいない。けどこのニコデモとは、やっぱり真理だけ知りたい、そういう気持ちでいっぱいでした。 けど、心の奥底では、彼は本当の意味で満たされていなかったでしょう。高齢に至るまで彼はあきらめないで、真理の探求者であり続けました。 もちろん当時の旧約聖書を、彼は徹底的に知り尽くしていた。もちろん来るべき救い主の約束がよく解かったのです。 ニコデモはイエス様について、イエス様の教えについて、イエス様の行われた奇跡について、いろいろな事をもちろん聞いたでしょう。そして彼は真理を求め続けていたから、イエス様を個人的に訪ね、もっとよく知りたいと思って、その決心をいたしました。 イエス様は、もちろん現代人よりもはるかに、忙しく大変な毎日を過ごしておられました。あらゆる地方から、病人がイエス様のもとに連れて来られ、それらすべての人をイエス様は、癒してくださいました。一回も手遅れですと言わなかったのです。 イエス様は忙しさに忙殺され、しばしば何かを食べる時間でさえも見出されなかったと、聖書を読むと解かります。 そして弟子たちが疲れ果てて、横たわっている時、イエス様は立ち上がって何時間も、山の中でただ一人で祈られました。そう言うことですから、昼間イエス様と個人的に話し合うことは、実際問題として不可能だったでしょう。 そこで彼は、夜、何時頃だったのでしょうか、10時、11時、12時半かわからないけれど、夜、彼はイエス様の所にやってきたのです。 彼は、正直かつ率直に自分の問題を持ってやって来ました。そこで彼は何を経験したかと言いますと、イエス様のもとに来る者は、決して無駄にはならないということを、経験しました。 イエス様は、すべての質問に答えてくださり、あらゆる問題を解決なさり、真理へと導いてくださるのです。 イエス様のご臨在のもとで、彼は驚くべき発見をしました。すなわち、模範的で正直な努力にもかかわらず、自分が霊的には盲目で、死んだ者である、失われた者であるということが、いっぺんに解かったんです。 神の国についての最も根本的な真理は、彼には結局、解かっていなかったのです。彼は何を経験したかと言いますと、すばらしい発見を、7つの発見をしました。 第1の発見とは、イエス様は、求める魂には出会ってくださる備えを持っておられるということです。すごい恵みでしょう。 すなわち、個人に対する主の配慮を知ることが、ニコデモはできたんです。 彼は次のような言葉で、イエス様に話たんですね。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」 ここでニコデモは、3つのことについて言ったんですね。すなわち、イエス様が主なる神のもとから来られたということ。次に、主なる神がイエス様とともにおられるということ。そして第3に主は、お出来になるということです。すごい告白だと思います。 ニコデモの心の奥底にあった問題は、「私はいかにして、永遠なる神の国に入ることができるのか。まことの救いをどういうふうに自分のものにすることが出来るのか」という問題でした。 けど、ニコデモがこの時をこの質問を、言葉で質問する前に、イエス様はその答えを彼に与えてくださった。 真理を求め、救われたいと思う者は、イエス様が答えてくださるということを、彼は知ることが出来たのです。 というのは、主は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方であるからです。 ヨハネの福音書の中で、次のような招きのことばがあります。 ヨハネの福音書7:37
真理をもとめるなら、 ヨハネの福音書7:37-38
すばらしい呼びかけです。「わたしのもとに来なさい」、ニコデモはこの態度をとったんです。「イエス様の所に行こう。」 真理に飢え乾いている者は、イエス様が、この心の飢え乾きを満たしてくださることがお出来になることを、経験するようになります。 今話したようにこのニコデモという男は、真理の探求者でした。彼の飢え乾いた魂は、聖書の知識によっては満たされなかったのです。結局一つの教えによって、救われ得ないと彼は認めざるをえなかったのです。 結局、彼は広く認められた立派な聖書学者でした。イスラエルの中で、ナンバーワンだったんです。豊富な聖書の知識を持っていたんですけど、それにもかかわらず、その聖書知識によっても、本当の救いを知らなかったのです。 聖書の戒めを守ることによっても、本当の満たしは与えられないことを、彼ははっきり解かりました。彼が必要としたものは、いのちの水、心の安らぎでした。 永遠の救いを本当に得たいと思うならば、先入観念を捨て、自分自身に頼ることを止め、生ける救いの神を求めるべきです。旧約聖書のイザヤ書、この間も、いろいろな人が引用したすばらしい箇所です。 イザヤ書55:6-7
これは福音そのものです。もう2,600年前に書かれたことばです。ニコデモは、主のご臨在において、すべてを自分の努力、あるいは宗教性、自分の正義というものが、永遠なる神の前に全く価値のないものであることを認めざるをえなかったのです。 彼のすばらしい経験とは、イエス様は、求める魂に報いてくださいます。イエス様は、あらゆる人のために、時間を作ってくださいます。イエス様は、苦しみや悩みをご存知であられ、解決することがお出来になる。 これこそが、ニコデモの経験、最初の発見でした。 第2番目の大発見は、このイエスとは、偉大なる教師以上のお方である、ということも彼は知るようになりました。 すでにこのニコデモが、イエス様と出会う前に、彼はイエス様が教えと行いにおいて、比類のないお方であるということを確信しました。 それからニコデモがはき出した結論は、主イエスが神から来られたお方であるということ、そして主なる神ご自信が、イエス様と共におられるということでした。 けど、ニコデモがイエス様と出会った時、イエス様は、それ以上のお方であることをはっきり解かったのです。 もちろんイエス様は、あらゆる時代の最大の教師です。誰もイエス様のようなことばを語った者はいません。主は、人間のあらゆる教えをはるかに越えています。 そのことは、当時一般に認められました。たとえば、いわゆる山上の垂訓の最後に何を書いているかと言いますと、マタイの福音書7章28節、29節を見ると次のように書かれています。 マタイの福音書7:28-29
ニコデモも、これを認めざるをえなかったのです。けど、イエス様は教師である以上にまず第一に救い主です。 というのは私たちは、我々に教えてくれる誰かを必要としているのではない、我々を救ってくださるお方を必要としているのです。最大の聖書知識でさえ、我々を救ってくれません。救いは人間の心の中で、主なる神だけが成してくださる行いであるからです。 つまり、救いは罪の問題の解決です。御使いは、イエス様のご降誕の前に、なぜイエス様が来てくださったのかを発表しました。マタイの福音書1章21節です。 マタイの福音書1:21
イエスという名前は罪からの救い主です。ニコデモの経験した第3の発見とは、何であったかと言いますと、肉により生まれた者は、肉であるということでした。肉はいつまでも肉に留まります。 すなわち私たちは、私たちの生まれつきの性質を変えることができない。私たちの生まれつきの性質は、罪を犯すことしかできない罪の性質です。 よく言われるでしょう。「失敗は成功のもと」と、本当なのでしょうか。ニコデモはそう思わなかったのです。詩篇の中でダビデという王様は言いました。 詩篇51:5
人間は、罪を犯すことによって罪人になるのじゃない。罪人として生まれたからです。 イザヤ書64:6
人間の生まれつきの性質、すなわち肉は、非常に礼儀正しく、敬虔で、外から見ると良いように見えるかもしれないけど、主なる神が見れば、とても受け入れられないほど罪に汚れています。 私たちはまだ肉の中にいるのでしょうか。イエス様の霊によって、新生を経験したのでしょうか。 ニコデモの第4番目の発見は何であったかと言いますと、本当の救いは、宗教とは何の関係もないということで、したがって単なる頭の知識とも関係ないということです。 すべての人間の行いは、救われることにとって役に立たない。妨げになるだけ。イエス様は、そのことをはっきりとおっしゃいましたね。 ヨハネの福音書3章3節から読みましょうか。 ヨハネの福音書3:3、5-7
救われたいと思う人は、新生を経験しなければならないとイエス様ははっきり言われました。 ここで大切なことは、もちろん外側の変化ではない。全く新たなる創造です。 コリント人への手紙第II、5:17
新生は、ただ単に決断ではありません。今から私は集会に行きます。私は聖書を読みます。私は祈ることもする。このことすべては、外側のことです。主なる神の救いは、新生から始まります。 人は、罪人としてイエス様の御前に来て、イエス様を自分の救い主として受け入れることによって、全く新しいいのちを持つようになります。 イエス様を持つ者は、永遠のいのちを持ちます。もちろん永遠のいのちを持つことこそ、聖書の言っている新生です。 5番目のニコデモの大発見とは、何であったかと言いますと、今読んだ箇所を見てもまた解かる、すなわち新生が絶対に必要であるということでした。 このヨハネの福音書3章3節において、イエス様は、新しく生まれなければ、何をやっても無駄で空しい、役に立たないということばを使っておられます。 7節において、イエス様は、はっきりと「あなたがたは新しく生まれなければならない」というみことばをもう一度あらわしています。 救われたいと思う人は、新しく生まれなくちゃならない。天国へ行きたいと思う者は、新しく生まれなければならない。 ですから私たちが本当に、新しく生まれ変わっているかどうかということは、最も大切な問題であります。 新生なしには、人間は滅びます。新生なしに本当の喜びも、平安もありません。新生なしに、生き生きとした望みも存在しないのです。 第6のニコデモの大発見は、何であったかと言いますと、新しく生まれ変わるのに、誰も歳とりすぎているのではないということでした。 4節ね。ちょっとおもしろい質問です。 ヨハネの福音書3:4
イエス様は、彼にはっきり答えたのです。「ニコデモよ。あなたも新しく生まれることができるよ。」 もちろんこれは、自然の事柄ではない。超自然の事柄であり、霊的な覚醒を意味している。 今まで霊的に死んでいたあなたも、新しく生まれることができる。あなたは、生ける神と結びつくことができ、あなたの債務が帳消しにされ、あなたは本当の救いの確信を得ることを経験できるよ。イエス様を信じ、受け入れる者は救われて、父なる神の子となります。 ヨハネの福音書1:12
最後に第7の大発見は、新しく生まれるためには、ただ一つの道だけが存在するということでした。 たしかに、富士山の頂上に至るための道はいろいろあるでしょう。でも救われるためには、ただ一つの道しかないとイエス様は、前に読んでもらいました、ヨハネの福音書3章14節から言われましたね。 ヨハネの福音書3:14
わたしも、 ヨハネの福音書3:14
十字架につけられなければならない。 ヨハネの福音書3:15-16
世のかわりに自分の名前を入れてもいい、 ヨハネの福音書3:16
イエス様は、ニコデモに対してはっきりと言われました。 「わたしは荒野における蛇のように、上げられなければならない。わたしは十字架につけられなければならない。そのことによって、わたしはもともと貴方に下されなければならない罰を、わたしの身の上に受けなければならない。身代わりとなるわたしの死によって、債務は帳消しにされ、罪は赦されるのです。」 こういうふうに、イエス様は、ニコデモに福音そのものを述べ伝えました。 結局イエス様は、はっきり言われたのは、救われるための道はきわめて簡単だよ。永遠のいのちを持ちたいと思う者は、誰でもそれを持つことができる。 誰であっても、歳をとりすぎていることもなければ、若すぎることもありません。また悪すぎることもなければ、愚かすぎることもない。 十字架につけられたお方は、ご自身の上に罰を受けてくださいました。よみがえられたお方は、もちろん人間一人ひとりのことを考えられないほどに、愛しておられるのです。そしてヨハネの福音書5章24節に、イエス様はまた次のように、福音そのものを述べ伝えました。 ヨハネの福音書5:24
イエス様と主のみことばを信じる者は、永遠のいのちを持っています。永遠のいのちを持つ者は、もはや裁きにあうことがない。というのは、身代わりとなって、裁かれたお方ご自身が、今や我々のために、とりなして下さり、弁護して下さるからです。 イエス様を持つ者は、死からいのちに移されています。 救われた人々みな、ニコデモが発見したと同じ、7つの大発見をした者なのではないかと思います。すなわち、主の恵みによって、受け入れられた人々が、次のように告白します。 第1番目、イエス様は、私を変えてくださり、私が求める前に私を探して下さった。イエス様は、ただ単に、私の苦悩を理解して下さっただけじゃなくて、私の罪の問題を解決し、すべての悩みを解決して下さった。 2番目、イエス様は、偉大なる教師以上のお方であり、私の救い主、贖い主です。イエス様は、私の罪と債務を赦して下さった。イエス様は、私に、真の安らぎを与えて下さいました。 3番目、肉は肉に留まり、決して良くなることはないというイエス様の言明は、共通して経験したのです。自分の努力は、どのようなものであっても、真の救いの喜びを得るためには、助けにならなかった。 4番目、イエス様は、別の宗教をお与えになりません。新生を通して、私は永遠のいのちをいただきましたと信じる者は、証することができるのです。 5番目、イエス様は、新生を通して、私に新しいいのちを与えて下さっただけじゃなくて、本当の喜び、深い平安、生ける望みをも与えて下さいました。新生なしには、私はおしまいだったでしょう。 6番目、私は救われましたので、私でさえ贖われましたので、この可能性は、どなたに対してもあり得るのです。主の恵みは、誰に対しても充分であり、主はすべての人を、憐れもうと望んでおられます。 そして7番目、永遠の救いに至る唯一の道は、もちろんイエス様です。 イエス様を知ることは、本当の意味で、生きがいのある人生を知る土台です。というのは、イエス様は、完全な満足を与えてくださるからです。 これこそ救われた兄弟姉妹の証しであります。この大いなる主が、すべての兄弟姉妹の生活を通して、誉めたたえられ、崇められるように。 |