引用聖句:ヨハネの福音書16章33節
コリント人への手紙第II、6:10
ローマ人への手紙8:18-23
今回も、いわゆる「喜びの集い」になりました。いったいどうして喜びの集いをもつことができるなのでしょうか。みことばがあるからなのではないでしょうか。 聖書の無い喜びの集いはありえない。どうして喜びの集いであるかと言いますと、イエス様は招いていてくださるからです。 マタイの福音書11:28
イザヤ書55:1
ヨハネの福音書7:37
ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」、すばらしい、すごい招きの言葉なのではないでしょうか。 何年前に、広島の喜びの集いだったんですけども、前から聞いていたんです。お兄さんはアメリカに住んでいて、弟は非常に悩んでる。おそらく来るんじゃないか。集会始まる前に聞いてきましたし、集会に出られなかったんです。暇がなくて。 奥さんは、彼と小さな子ども三人残して逃げてしまったんです。やっぱり今からどうしたらいいかと分からなかったらしいけども、彼はこの悩むことによって備えられていたたましいでした。 喜んで悔い改めるだけではなく、イエス様を受け、イエス様といっしょだったら何とかなると思うようになり、それからは集会に出ないで、広島のひとりの兄弟と、彼を駅まで連れて行ったんです。 車から降りたとき、あの兄弟は聞いたんです。「忘れ物ないでしょう?」、「は、あります。」、「はっ!何?」、荷物何もないのに、「いやー、重荷から解放された。私の心配事はもう消えてしまった。」と言ったんです。 結局、イエス様とは招いていてくださり、イエス様のところに行くと必ず楽になる、元気になります。どうして喜びの集いと言わるるなのでしょうか。 今回も、二、三人に聞いて、彼らは正直に答えたんです。私の聞いたのは、「元気?」、「いいえ。元気じゃない。」 けどもそういう人々のためにこそ、こういう集いが必要なのではないでしょうか。残念ながら、多くの人々は元気になってから来る。元気になってから来なくてもいいよ。イエス様は、重荷を負う人々だけ呼んでおらるるなのではないでしょうか。 どうして、喜びの集いであるかと言いますと、悔い改めらるるからです。これこそすごい恵みです。過ぎ去ったことはもう終わりでしょう。今から。 半年前でしょうかね。ある姉妹から手紙をもらったんです。手紙を読んだとき、本当に嬉しかったんです。結局、やっぱり悔い改めるようになったからです。部分的にだけど読みます。 「主人の態度に不満をずっと抱いてきた者ですが、聖書が、『主人に従えばいいよ。』と仰るのとは現実にはほど遠いものでした。 心で、または口や態度で逆らい、説教しようとし、私の自我で周りを滅茶苦茶、目茶目茶にし、主人も子どもも主から遠ざけてきた者です。 現状は辛いものですが、この苦しみの中で、『私の過去は赦された。』と、はっきりとしみ込んできました。主が、主人に御心をもれなく、遅れないでお示しくださるように。 また、お従いできますように。そして私は主に従い、どうなっても主から受け取らせていただけますように、切に、切に祈っております。」 あの夫婦は、この間、ドイツのフィーリンゲンまで行きまして、ご主人に頼んだんですね。アイドリンゲン、日曜の午後ちょっと証しをしてください。 向こうであんまり暇がないんですね。長くも四分間の証しです。彼はどういうふうに始めたかと言いますと、 「みなさん、私は悔い改めるためにドイツまで来たつもりじゃないの。」、確かに、やっぱり人格者です。「けどもやっぱり、会社のことで考えられないほど苦労しました。大きな会社の責任者でした。会社で勤めたのは、一千人以上です。けども、もう過ぎ去ったことは過ぎ去った。今から悔い改めるために来た。」 そういう人々は、やっぱり喜ぶことができるようになります。確かに信ずる者も悩む者です。 前に読みました箇所は、普通だったら未信者のために読む箇所じゃないでしょうか。けどそうじゃないんです。信ずる者も、相変わらず悩む者です。 信ずる者こそが、使徒パウロの悩みの種だったなのではないでしょうか。確かにパウロは、多くの手紙を書きましたし、そしてやっぱり、イエス様の偉大さだけを明らかにしようと思ったのです。 けども、ひとつの手紙だけ彼は、やっぱり自分の本当の気持ちを明らかにしたのです。コリント人への手紙第II。すばらしい手紙です。今日全部読むことが出来ないけど、家へ帰って来てから、ゆっくりお読みになってください。 パウロとは悩みの塊でした。もちろん、それだけじゃない。苦しんでるようでも、いつも喜ぶことができたのは、パウロでした。 コリント人への手紙第II、11:23-28
まあ、毎日のことです。 コリント人への手紙第II、11:28
外からの苦しみとは、もうちょっと想像できない、考えられないものでした。でもパウロにとってそれは、容易いことなのではないでしょうか。諸教会のことを考えたとき彼は悩みました。結局いたるところで、パウロを通して多くの人々は導かれ、救われました。 ある兄弟姉妹にパウロは、 テサロニケ人への手紙第I、1:2-3
すごい表現なのではないでしょうか。いつも。すべて。もしパウロは、私はたまに、ある人々のために神に感謝すると言えば、なるほどだれでもできる。けども、そのテサロニケの教会というのは、本当にすばらしい教会でした。なぜならば彼らは、自分のために生きたくなかったからです。主に仕えるために造られた、主の再臨を待ち望むために救われたと彼らは、毎日考えたからです。 ですからパウロは、彼らのこと考えたときうれしかった。 ほかの兄弟姉妹のことを考えたとき、パウロは正直に、「私は困ってる。私は悩んでる。苦しんでる。」と書かなければならなかったのです。どうしてそんなに違いがあるなのでしょうか。 ある兄弟姉妹は、もちろん再臨は聖書的で、イエス様がいつか来るけど、まだまだ来ないでしょう。そんなに待たなくてもいいじゃないのと考え、ほかの兄弟姉妹は、期待を持って、今日かも知れないと思いながら生活したのです。 ある兄弟姉妹は、結局、自分、自分、自分、自分のことしか考えなかったし、結局、自分自身の実現しようと望んだし、ほかの兄弟姉妹は、もう自分は大切ではない、イエス様のために生きたいと心から望んだのです。 結局、イエス様に喜ばれたいと切に望む者は、イエス様だけが盛んになり、私たちは衰えなくてもいいでしょうと。 結局、ある兄弟姉妹は自分のこと考えてるから、やっぱり中心になりたい。そうでないとあんまりおもしろくない。不平、不満をいいます。 ほかの兄弟姉妹は、イエス様のみすべての栄光を帰したい人。心から望むのです。結果として、主の救いにあずかったとしても、ある救われた人々とはつまづきを与え、分裂を行なう者であり、ほかの兄弟姉妹は、いのちがけで集会全体の一致が現わるることを望んでおるのです。 一言で言いますと、ある兄弟姉妹は結局、まだ暗やみの中にいるのであり、ほかの兄弟姉妹はもう全部明るみに出す人々です。 イエス様のとげのある女性は、イエス様の心を喜ばせたのです。彼女について聖書は何と言ってるかと言いますと、「彼女はイエスの前に出て行って、ひれ伏し、イエスに真実をあますところなく打ち明けた。」 けども、そういう人々とは非常に少ないなのではないでしょうか。だからパウロは、まことの喜びに満たされていた者として、悩みのかたまりでした。悲しんでるようでも、いつも喜ぶことができたのです。 われわれにとって、何が必要なのでしょうか。前に、68番でしたかね、「ゆるがない確信」と、歌いました。あの歌を歌うたびごとににいつも嬉しくなる。本当にすごい歌です。 未信者は、子どもっぽいと思うかも知れないけど、すばらしい。結局、ゆるがない確信をもつことこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。どういう確信をもつべきなのでしょうか。前に兄弟のお読みになりました、ローマ人への手紙8章18節に、次のように書いてあります。 ローマ人への手紙8:18
原語を見ると、「確信します」と書いてあります。われわれもこういう、ゆるがない確信をもつべきなのではないでしょうか。 すなわち、今の時のいろいろな苦しみは、大したもんじゃない。もし将来、われわれに与えらるる栄光と比べれば、比べなければ耐えられないよ。潰れちゃう。元気失います。 だから、比べることこそが非常に大切なのではないでしょうか。結局、人間は正直になれば、だれでも認めざるを得ないなのではないかと思います。すなわち、大変ですけどうれしい。 ある姉妹からいつか電話もらいまして、彼女はそう言ったんです。「うちはもう、大変です。けどうれしい。」 主の与える喜びとは、結局そういうものです。悩みながら、苦しみながら、喜ぶことができなければ、これこそ大変なのではないでしょうか。初めにお読みになりましたヨハネの福音書の16章でしたかの中で、結局イエス様は同じことを言われたなのではないでしょうか。 ヨハネの福音書16:33
やむを得ない。みんないろいろなことで悩みます。死ぬまで。けどもイエス様は、「だから、我慢しなさい。仕方がないだろう。」と言わなかったよ。 ヨハネの福音書16:33
意味は喜べ。大変ですけど、喜ぶことができる。どうして? ヨハネの福音書16:33
結局、イエス様はすべてに勝って偉大なるお方です。イエス様は、王の王、主の主であり、近いうちにどうしようもないわれわれを迎えに来ると考えると、やっぱり違うなのではないでしょうか。イエス様は勝利者です。イエス様の勝利は、もちろん完全なる勝利です。 私たちはよく歌います。「終わった!!、救いのみわざは成し遂げられた。万歳。」 イエス様の勝利は確かに完全であり、けどわれわれはまた患難がある。私たちの今経験できる救いと、将来経験できる救いとは違う。イエス様の救いとはもちろん完全です。けどもイエス様を信ずる者は、相変わらずいろいろなことで悩む者なのではないでしょうか。 けどもパウロは、「今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」、このローマ人への手紙8章の18節から23節までに取り扱われてる問題は、非常に現実的な問題です。 出て来る言葉だけを見てもわかります。苦しみ、虚無、滅びに、滅びの束縛、産みの苦しみ、うめきというような言葉は、私たちにとって身近に感ずる問題なのではないでしょうか。今の時代は、暴力、困難、不安、失望、落胆、破壊、不秩序、放蕩の時代です。 現代人は、この世のことだけに熱中してますし、主のみことばである聖書に対しては全く無関心です。けども、イエス様を知るようになった者は、この時代の風潮を見て、別にがっくりしていません。なぜならば、聖書がこのことをはーっきり預言しているからです。 今からの世とは、もともっと大変な世界になります。良くなる可能性はない。 けども、われわれは今の時の苦しみに対して、どのような態度を取るべきなのかは非常に大切なのではないでしょうか。正しい答えを得るために、三つの事実について考えるべきなのではないでしょうか。簡単な質問です。 第一番目。イエス様を知るようになった者は、いったい何を持ってるの? 第二番目。イエス様を信ずるようになった者は、何をかけてるなのでしょうか? 第三番目。イエス様を知るようになった者は、いったい何を期待してるなのでしょうか? イエス様を知るようになった者は、何を持ってるなのでしょうか。パウロのローマ人への手紙8章の23節の答えは、イエス様を知るようになった者は、御霊の初穂を持ってるのです。すなわち彼らは、御霊を受け入れることによって救われ、神の子供となったのです。 救わるることとは、結局聖霊の宮になることです。聖霊の宮になっていない者は救われていません。 この間、家内と集会の姉妹と一緒に、ある集会に行きまして、ちょっと遠かったんですね。集会終わって帰ったとき、朝の二時だったんです。 いろいろ悩んでる人見えましたし、遠くからも来ましたし、例えば二人は、子ども亡くした奥さんたちだったし、どうして来たかと言いますと、別の姉妹に案内され連れて来られたからです。 あの姉妹も同じこと経験したのです。あの姉妹もやっぱり娘を亡くしちゃったんです。娘は自殺してしまったんです。結局そういう悩みをもつ人は、喜ぶことができれば非常に魅力的です。 悲しんでるようでも喜ぶことができる人は、一番いい証しなのではないでしょうか。非常に悩んでる人々は、あんまり問題を持っていない人々の説教を聞きたくないよ。けども、悩みながら、悲しみながら喜ぶことができることこそが、一番効果的な証しなのではないでしょうか。 けどもあの夜、それを見たとき、やっぱりイエス様はすごいとうれしかった。けども同じ晩、ちょっと悲しいことも経験しました。 一人の牧師夫婦と外国から来られた宣教師とが話したんです。あの牧師は、急に奥さんの前ですよ、大きな声で泣くんです。 「高校生のとき、イエス様のこと信じたつもりだったから、イエス様のために生きたいと思っちゃったけど、神学校出て、牧師になったけど、私は救われていません。何の喜びもない。確信もない。だからもう説教できません。仕方がなくて、いろいろなホテルで結婚式をやることになった。そうすればあまり喋らなくても、単なる形式的な儀式ですから、それで何とかなる。」 けど、泣くんです。苦しくて、苦しくて。外国から来た宣教師は何と言ったかと言いますと、 「私は愛するイエス様と言えません。イエス様のことわからないから。」、悲劇的じゃないですか。結局彼らは聖書の知識もってるよ。けども聖霊の宮になっていない。 パウロはこのローマ人への手紙8章の9節に、 ローマ人への手紙8:9
そういう人は、宣教師であっても、牧師であっても、神父さんであっても、ローマの王であっても関係ない。 救いとは、聖霊の宮になることです。もちろんわれわれは、イエス様を信じ受け入れたとき、聖霊の宮になっちゃったと感じなかったでしょ。もしかすると今日まで感じられない (テープ A面 → B面) 聖霊の宮になります。常に不思議なんですけども、聖霊の宮という言葉はコリント人への手紙第Iの中に何回も出てきますけども、コリントの信者たちは全然ダメだったよ。決して証しにならなかったんです。 パウロは、「未信者よりもひどい。」と、ちょうど5章でしたかに書いたのです。結局もうダメ。けどもパウロは、結局あなたがたは神の住まいだよ、聖霊の宮だよと強調したのです。 コリント人への手紙第I、3:16
いったいどういうことを忘れたなのでしょうか。 コリント人への手紙第I、6:19-20
結局、イエス様との出会いによって、救いの体験こそが大切であります。聖霊の宮になることによって人間は救われます。御霊を持たない人は、キリストのものではない。すなわち救われていない。 イエス様を受け入れる者は、自分の過去、現代、及び、将来に対してまったく違う関係をもつようになります。イエス様の十字架の贖いによって、自分の罪は消し去られています。自分の過去は、自分に対してもはや重荷ではない。なぜならば、イエス様は代わりに死なれ、イエス様の血が流されたからです。イエス様が赦すと忘れます。 義と認められることとは、罪の赦しを得ることよりも、一度も罪を犯したことがない状態に置かるるようになる。それもピンと来ません。考えられない。けども感謝して信ずることができる。聖書はそう言ってるからです。 それから、イエス様との出会いによって、現代に対しても新しい関係をもつようになります。復活なさったイエス様は、信ずる者ひとりひとりを、まったく個人的に導いてくださるので、すべてを安心してゆだねることができるのです。 それは不安から、心配からの解放なのではないでしょうか。 それから御霊の宿になることによって、将来に対して新しい関係をもつようになります。すなわち将来が不確実なものではない。イエス様は再び来られます。 二千年前にイエス様は、もうもちろん来られました。みどりごとして。どうしてそのとき来られたかと言いますと、キリスト教作るためではないし、人間にいろいろなこと知らせるためでもなく、殺さるるため。神の子羊として、罪滅ぼしのために罰せらるるためでした。 今度イエス様が来らるると、もちろんまた十字架につけられるためじゃない。イエス様の勝利はもう永遠なるものです。 今度イエス様は、もちろんイスラエルの民を助けるため、千年王国を造るために来られない、イエス様は今度はまずイエス様に属する者たちを迎えるために来るのです。ですから、みどりごとして約束されたメサイとしてじゃなくて、いわゆる花婿としてイエス様は来られます。信ずる者はみな、イエス様のからだの肢体と呼ばれ、また花嫁と呼ばるるようになってます。考えられない将来になります。 いわゆる空中再臨についての箇所はちょっと少ない。けども、一番おもだった箇所とは、 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
多くの人々は、信ずる者はみな再臨のことを一度信じています。新約聖書の中で340回くらい、再臨のことについて書かれていますが、けども再臨を信ずることと、再臨を待ち望むことはちょっと違う。 そして数えられない多くの信ずる者は、イエス様はエルサレムのオリーブ山に下りて、千年王国を造るということ考えてますけど、その前に、いわゆる空中再臨が起こるのです。 そのとき、イエス様はもちろん目に見えない形で空中までだけ来るんですね。その次に、先に召された人々の灰になったからだは変えられ、よみがえりのからだ、栄光のからだになり、そして先に天に行った霊とたましいとまた一つになる。 先に召された兄弟姉妹は先です。けどもその後で、生き残ってるわれわれは、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。血を見ないで。 今までそういうこと経験したのはふたりだけです。 エノクという人と、エリヤという預言者でした。二人は死を見ないで、そのままで天に引き上げらるるようになったのです。このようにして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これは将来の栄光であります。ある人々は、テサロニケの人々とは立派であったから、もちろん引き上げらるるのは当然でしょう。 けども、非常に幸いに、これはやっぱり聖霊の導きです。コリント人への手紙第Iの中で、同じ事実について書き記されています。 コリント人への手紙第I、15:51-52
結局パウロは、「私たちはみな。」と言っているのです。コリントの信ずる者の群れとは大したものではなかった。成長のない群れでした。赤ちゃんは歩くとやっぱり親は喜ぶでしょう。けどその赤ちゃんは、ぜんぜん大きくならないで、成長しないで、歩くことができないで、話すことができないで、自分で食べることができなければ、いや大変だよ。悩みの種になる。コリントの教会は、そういう状態だった。 だからパウロは、「ね、自分の外からの経験する苦しみとはいいよ。けど、ある兄弟姉妹は、もうどうしたらいいかわからない。」 コリント人への手紙第I、15:58
主にあってという言葉は、アンダーラインすべきです。主とつながっていなければダメ。いくら「主のため、主のため、主のため」と言っても全部無駄。 主にあって、無駄でないと約束されてます。主に頼ると私たちは守られ、導かれ、満たされ、用いられます。主に頼らなければ、主は私たちを守ることができないし、導くこともできないし、満たすこともできないし、また用いられいないのです。 主は近いと、パウロはローマの刑務所の中で書いたのです。すごい励ましだったのです。彼にとって、主は近いとは何を意味したかと言いますと、もちろん、主は自分の吸う空気よりも近い。入ったとき、やー大変です。入ってきてから急に元気になった。一人ぼっちじゃないから。 イエス様は、「わたしは決してあなたから離れず、あなたを捨てない。刑務所に入っても関係ない。」、結局主のご臨在こそが、パウロにとってすごい励ましでした。 彼は刑務所に入ったのは良かった。そうでなければ私たちは、エペソ人への手紙も、ピリピ人への手紙も、良いような手紙は持っていないからです。主はすごい。いうまでもなくパウロは、自分の手紙は聖書として残ると夢にも思ったことがない。 信ずる者は何を持ってるなのでしょうか。前に話したように、罪の赦し、神との平和、永遠のいのちです。すごい宝物です。けどもこのローマ人への手紙8章を見ると、信ずる者はまだ完全じゃない。 主の救いは、主の勝利は完全です。けども信ずる者は、やっぱりまだ相変わらず悩む者です。苦しむ者です。パウロはそれを飾ることなく、真理そのものを語ったのです。すなわち、救われた兄弟姉妹も待ち望んでいる者であり、うめき、苦しむ者です。非常に現実的です。 すべての被造物とともに、信ずる者も虚無に服している運命共同体であると、ここで書かれています。もっとも麗しい花もしぼみ、もっとも麗しい日も過ぎ行き、もっとも年老いた人も死んでゆく。 二、三日前に吉祥寺でまた葬儀があったんです。召された兄弟は98歳だったんです。けどもやっぱり召されました。 パウロは、今のこの状態を、うめきと産みの苦しみという言葉で表現してます。そして当然、このようなおもしろくない状態から離れたいと、だれでも望むなのではないでしょうか。けどもイエス様なしには無理です。 今の世界を見るとわかります。どこでも多くの約束がなされています。どういう政治家であっても、いろいろなこと約束します。どういう宗教であっても、いろいろなこと約束しますけど、守ろうとしない。できないからです。 現代の特徴は、無常。移り行くことと死であります。原因は主から離れていることであり、主を知らないことであり、主を恐れないことです。貧しい人もおり、金持ちもいる。ある人は愛され、ある人は見捨てられてる。 けどもだれもわかります。もっとも頭のいい人々、もっとも金のある人々、もっとも美しい人々、もっとも権力のある人々はやっぱり孤独なんです。すべてはおもしろくない。 人間は確かに、何とかしなくちゃと、いつも思っています。歴史を見ると、いろいろな理想がありました。今まで。 例えばギリシャの理想は良かったらしい。どういう理想であったかと言いますと、良い性質と美しい肉体をもつことこそが、幸せの基であります。けどもこういう教育理念は、今日まで達成することができなかった、単なる幻想に過ぎなかったのです。 マルクス主義的の考え方も、すなわち共同体の理想も、階級のない社会という理想も今日まで実現されなかったのです。もちろん、マルクスという男はドイツの神学校を卒業して、もちろんよく聖書読んだはずです。使徒の働き2章を読んだとき、嬉しくなったでしょ。これこそ本物です! その理念といっしょになって頑張ろう。結果は、何千万人殺したのかわかりません。結局使徒の働きの初代教会の世界とは、聖霊によって造られたもので、本物でした。みんな自分のこと考えようとしなかった。みんな主にあってひとつになり、喜ぶようになったのです。けど、人間の知恵に頼って、人間の力に頼れば、そういう世界を造るもんじゃない。 現代の、革命的なヒューマニズム、人道主義は完全な福祉国家を目標としているのです。その目的は、戦争、悲劇、飢え、破滅のない調和のある世界を造ることです。けどこの目的も達成さるることはありえない。 どうしてであるかと言いますと、宗教があるからです。宗教があるおかげで平和になり得ません。宗教は全部、宗教戦争です。恐ろしい。ですから政治家たちは、いくら平和、平和、平和と考えても、無理。宗教が存在してる限りありえない。 イエス様は、変わらない喜びを、心の平安を、永遠のいのちを与えます。悪魔は何を与えるかと言いますと、教えです。恐ろしい。いわゆるテロリストたちとは、犯罪人じゃないよ。夢中になった宗教家だけです。夢中になった宗教家はもう、悪魔の道具になります。 ドイツのアドルフ・ヒットラーは、結局そういう夢中になった男でした。彼は何を約束したかと言いますと、「俺に信頼せよ。」、そして国民は、「命令しなさい。従います。」と、言ったのです。 結局、「近い将来、世界を自分の物にする。みんなすばらしい住まいを持つようになるし、もう不自由がない。自分の作る国は千年間もつ。」と、約束したんです。十三年間しかもたなかった。そして本人は自殺してしまった。哀れじゃないでしょうか。 結局彼は、当時のユダヤ人の三分の一、六百万人、殺してしまったのです。ひどい。結局、すべての理想は単なる幻想にすぎない。ヒットラーは結局ユダヤ人が生きてる間平和になり得ない、現在のだいたいの国々の思いとは同じ思いです。恐ろしい。 アルベルト・アインシュタイン、彼もユダヤ人だったんですけども、彼は何と言ったかと言いますと、世界の唯一の問題は、人間の心の問題である。結局、すべての理想は環境を変えることを目指しているけど、そこに住む人間の心が変わらなければ、その環境は何の価値ももたない。 イエス様を信ずるようになった者は、何をもってるなのでしょうか。罪の赦し、主との平和、永遠のいのちです。生きる希望を持っているのです。 けども、それにしても相変わらず悩んでます。ですから私たちは、救われてるでしょうけど、まだ半分しか救われていない。みんなまだ疲るるでしょう。若者も、まだみな、病気になる可能性があるじゃないですか。これは救いじゃないよ。ですから多くの教会、宣言する。病気になると、「あなたは悪霊に憑かれてる。やっぱり悪霊を追い出さなくちゃ。あなたの信仰が薄いから、あなたは病気になった。」云々と。 全部うそ。聖書はそういうこと言ってません。 パウロも病気になり、死ぬまでいやされなかったのです。パウロの同労者であるテトスも、いつも弱い男でした。パウロは彼を癒す自由がなかったのです。パウロはもちろんほかの病人をたくさん癒したんですし、死人もよみがえらせたんです。けども自分の病気は、「愛されてる証拠である。」と知るようになったのです。運命でもないし、天罰でもない。 パウロは、「信ずる者もやっぱり悩む者です。」、けども大切なのは前にも話したように、信ずる者は何を期待してるかと言いますと、ローマ人への手紙8章の18節と21節を見ると、同じ言葉が二回出てきます。どういう言葉かと言いますと、「栄光」という言葉であります。 結局、来たるべき栄光とは、もう考えられないものです。私たちはいつまでも主とともになる。それだけではなく、私たちのからだも栄光のからだ、よみがえりのからだに変えられるようになり、プラスアルファ、私たちは、イエス様に似た者となる。 考えたことがあるんですかね。イエス様とわれわれとはまったく違うよ。考えられない。けども私たちはイエス様と似た者となる。いつでしょうかね。イエス様と会う瞬間です。そのときいっぺんに変えらるるようになります。これこそが、いわゆる救いの完成であります。 イエス様を待ち望むことこそが、大切なのではないでしょうか。イエス様の再臨を待ち望まないこととは不従順です。不従順は罪です。主とわれわれの隔ての壁です。 主に喜ばるるような生活をすることも要求されています。パウロは、「今、私は人に取り入ろうとしてるのでしょうか。いや、神でしょう。」 あるいはまた、人の歓心を買おうとつとめてるのでしょうか。もし私が今なお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。 結局、イエス様の再臨を待ち望む者は、まだ救われていない家族、親戚、友人たちに対して関心をもつようになり、祈り続けるようになります。 失われてるたましいの救いのために生きなさい。これこそが主の呼びかけであります。もちろん私たちは人たちを納得させようと思ってもできません。けどもイエス様を、イエス様だけを紹介すると、人々はかならず聞く耳をもつようになります。 意識的にイエス様にだけにより頼みましょう。イエス様の再臨を喜びながら生きましょう。また、失われてるたましいの救いのために祈り続けましょう。 主は必ず恵んでくださるからです。 |