12万人以上の人間


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/01/18)

引用聖句:ローマ人への手紙13章11節-14節
11あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
12夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
14主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

ヨナ書1:6
6船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」

ヨシュア記7:10
10主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。

出エジプト記14:15
15主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。

おととい、あるハガキもらいました。ひと文章、ちょっとだけ読みます。
「私はなかなか悔い改めができなくて、聖霊を悲しませる弱い者です。」
自分は大きいと思えば大変です。

夜になって一日振り返ってみると、結局そういう祈りしかささげられないなのではないでしょうか。
けどもそれにしても主はダメな人間を用いようと望んでおられます。

今日もキリスト者に与えられている使命についてちょっと考えたいと思います。
副題名はちょっと珍しい題名かもしれない。「十二万以上の人間」、聖書の箇所ですよ。ヨナ書4章11節を見ると次のように書かれています。

ご存知のように去年の12月26日に、考えられない大きな地震、また津波によって、初め何万人、何万人、何万人と言われたのですけど、急に十万以上ということになった。
今おそらく十六万になったでしょう。けども十二万と聞いたとき、「あっ、ヨナ書に書いてるじゃないか。」と思っちゃったんです。

ヨナ書4:11
11まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。

十二万以上の人間について主は無関心ではなかったのです。
もちろん、もしみんなに注意されたならば大部分の人々は助けられたに違いない。けども現代人のこと考えてみても、注意されても聞く耳を持たない人々もいたなのではないかと思います。

津波が来ることだって、「そんなことあり得ない。」と思い、逃げなかった人々も必ずいたに違いない。
けど地震のあとで津波がタイまで行ったのは二時間かかったそうです。だから注意しようと思えば十分にできたなのではないでしょうか。
タイにいる兄弟姉妹はみんな安全だったんですね。昨日ある兄弟が戻ったばっかりで、「みな元気なんです。」

われわれの最近の題名とは、「いかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるなのでしょうか」という題名でした。
今日はちょっとだけヨナという預言者について考えたいと思いますけど、結局われわれの質問とは、「私たちの心の願いはいったい何なのでしょうか。」
また、「主イエス様の心の願いはいったい何でしょう。」、「われわれの心の願いとイエス様の願いとは同じなのでしょうか。」

むかしの主の願いとヨナの願いとは同じではなかったのです。
結局われわれにとって一番大切なことはいったい何なのでしょうか。自分の仕事でしょうか。自分の興味なのでしょうか。自分の集まりなのでしょうか。自分の奉仕なのでしょうか。あるいはイエス様を喜ばせたいという願いなのでしょうか。

イエス様はわれわれを見て、本当に喜ぶことができるなのでしょうか。
イエス様のみこころにかなった生活をして、必死に主だけを喜ばせようということこそがもっとも大切です。

イエス様は何を欲してるなのでしょうか。イエス様の心からの願いはいったい何なのでしょうか。
聖書の答えとは、主イエス様はひとりも滅びることがないように願っておられます。よく知られてるペテロの手紙第IIの3章9節に書かれています。

ペテロの手紙第II、3:9
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

ですから、主の願いは人間が救われることです。罪の赦しを得、永遠のいのちをもつことです。
主なる神は人間を救うためにご自分のすべてであるもっとも愛される者、すなわち主イエス様をお与えになったのです。

私たちの心の願いはやはり、「人を救う。」なのでしょうか。もしこの目標を頭に入れていない者は用いられ得ません。
イエス様はわれわれが信ずれば信ずるほど多くのことをなしてくださいます。
私たちがイエス様にいくら信頼しても、し過ぎるということはない。もし信ずれば神の栄光を見ると約束されています。

ひとつのことがはっきりしています。われわれの不信仰のために主は今までにあまり多くのことをなすことができなかったのではないかということです。
われわれの心からの願いはいったい何なのでしょうか。イエス様をもっとよく知りたいなのでしょうか。本当の祈り人になりたいなのでしょうか。
そのための道は、私たちが人のたましいを獲得するために出かけるところにあるのです。もし私たちがそれをすると、結局祈らざるを得なくなります。そうしたらイエス様のすばらしさを、よりよく知ることができるようになります。

イエス様との生き生きとした結び付きをもって生活をしてるキリスト者は、たましいの滅びゆく人々に、イエス様への道を指し示す人々にほかならない。
さらに私たちは人のたましいを救うということは偉大な仕事であり、しかも主ご自身が人間にこの仕事をすることをお許しになったということはすごいなのではないでしょうか。

イエス様がペテロとアンドレに、ついて来るように仰ったとき彼らに言われました。
「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と。
イエス様に従っている者は、それは取りも直さずイエス様から人を漁る人として召された人を意味してるのです。

私たちはこの大切な事実を確信し、自覚してるなのでしょうか。
聖書を見ると驚くべきことばがよく出て来ることに気が付きます。
例えばイザヤ書の55章の8節、9節。よく引用される絶えず覚えるべきことばです。信ずる者、救いにあずかった者に言われてることばです。

イザヤ書55:8-9
8「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
9天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

この箇所は私たち、主イエス様を信ずる者と主との間に何らの結びつきも存在しないということを明らかに示しております。
私たち信ずる者の思いは、常に主の思いと対立するということです。

確かに多くの兄弟姉妹は喜んで証しします。すなわち私はそむきの罪を犯す者だった。私は羊のように迷った者だった。私は自分勝手な道に向かう者だった。
過去形を使いますけど、今はどうでしょうかね。イザヤ書の43章の24節の後半に書かれています。

イザヤ書43:24
24あなたは...あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。

しかし過去だけでなく今もそうではないでしょうか。
もう一つの驚くべきことばがヨハネの福音書6章63節に書かれています。

ヨハネの福音書6:63
63いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。

ということばです。肉とは言うまでもなく人間の知恵、人間の力、人間の努力です。
この箇所は原典を見ると二重否定になっていることがわかります。
この訳ではそこのところがあんまりよく表わされていないように思われますが、原典に忠実に二重否定の表現を使うならば、「肉は決して、決して何の益ももたらしません。」というような具合に表現できるでしょう。

すべての思いや行ないというものは、まったく何の価値ももっていないということです。つまりことばを変えて言えば、御霊の働きによらないものはすべて、肉から出てるものであると言うことができるでしょう。
すべて人間的なものはこの世的であり、ヤコブは悪魔的であるとまで言ったのであります。

初めが御霊で始まったにも関わらず、肉によって完成されるという信者が少なくないなのではないでしょうか。
イスラエルの王であるサウロという王さまは、肉によって完成された信者の実例です。彼は、もうダメだと思って自殺してしまったのです。
ガラテヤ地方の信者たちも、同じような危機に陥る可能性が非常に強かったことがわかります。これはパウロの痛みだったのです。ガラテヤ人への手紙3章3節を見ると、彼は当時の兄弟姉妹に次のように書いたのです。

ガラテヤ人への手紙3:3
3あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

ですから御霊で始まることだけが大切なのではなく、むしろ御霊によって歩むことが大切であることがわかります。

ガラテヤ人への手紙5:16
16私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

ガラテヤ人への手紙5:25
25もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

私たちが主の光の中に私たちの生活を見ることができ、自分が目くらであることに驚き、心からの悔い改めをすることによって、主の豊かな祝福にあずかることができるように心から切に請い願い求めます。
何としばしば私たちは絶対に悪いとは思われないけど、主のみこころに反することをしてるのではないでしょうか。自分の意見や思いは正しいと思えばもう大体おしまいです。

ですから前のハガキを書いた兄弟なんですけれども、言ったのです。
「私はなかなか悔い改めができなくて、聖霊を悲しませてる弱い者です。」
かつてイエス様は弟子たちに向かって言われました。「しばらく休みなさい。」、これは主のはっきりとした命令でした。

「休みなさい。」、当然ですけど、人が休むべき時間というものは確かにありますけど、それと同時に主は弟子たちに対して、まったく違うみことばをかけていたのです。
「まだ眠って休んでいるのか。」、そのときは眠ったり休んだりしてる時ではなく、目を覚まして祈り続けなければならない時でした。

イエス様の考えと弟子たちの考えとは違いました。そしてヨナという預言者についても結局同じことが書かれてます。
このヨナという預言者は深く眠っていたのです。けどもそのとき眠るべきではなかったのです。

ヨシュア記7:10
10主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。

ひれ伏すこととは主を崇めることです。礼拝することです。
このヨシュアは彼が地にひれ伏して、主に祈って、主を崇拝したのです。けどもそのときは主に祈るべき時ではなく、罪が聖められなければならない時でした。それですから主はヨシュアに、「立て。」と仰せになりました。

そのときそこにはイスラエルの民の中で不従順、盗み、隠し事があったんです。
そのようなものがあった場合には、もはや祈ることは意味がないんです。われわれの場合はいったいどうでしょうか。

いかに多くの不従順を告白しなければならないことでしょうか。また何と多くの盗みを犯したことでしょう。
自分の名誉を人にまさって誇りたがったり、自分が中心になりたがったり、人間によく思われたがったりすることなどとは全部盗みであると聖書は言ってます。
なぜならばすべての誉れとすべての栄光とはただ主にのみ帰されるべきあるからです。

また何と多くの隠し事、偽り、偽善などを行なってることでしょうか。
もしそうすると、敬虔な形をしていても、その実を否定する者になるとパウロは書いたのです。
出エジプト記の14章の15節を見ると、また次の箇所があります。

出エジプト記14:15
15主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。

モーセは主に叫びました。心から祈ったのです。そして主はモーセに仰せられました。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。」
確かに主に叫ぶべきときがありますが、このときは叫ぶべき時ではなくして、主は全き従順を待ち望んでおられたのです。

今まで述べたことを通して私たちは、自分の思いや自分の行ないがいかに主の思いとみわざとから離れており、違ってるものであるかということを知ることができるのです。
私たちは祈るべき時に眠ってしまう。
罪を告白し、光の中に明らかにしなければならないときに祈り始めます。
また主が私たちの従順を待っておられるときに私たちは主に叫んでしまう。そういう者なのではないでしょうか。

結局、なかなか悔い改めができなくて、聖霊を悲しませてる者ですと。
これらの事実をつまびらかに知ることができたならば、主がいかに忍耐を持ち、大いなるみわざによって私たちを取り扱われ、決して見捨てることをなさらないことに気が付くはずです。

主の恵みがなければ確かにおしまいです。
私たちも結局祈らなければならないときに眠ってしまったり、罪を告白して明らかにしなければときに祈り始めてしまったり、主に従順に従うべきであるときに叫び出したりするならば、そのときにはもはや主との交わりを持つことができないことを知らなければならない。
これらの事がらはわれわれが主と結び付き得ないことの表われなのではないでしょうか。

そのときには主との生ける交わりもなく、また御霊による導きも存在していない。
私たちが罪を光の中にさらけ出し、それを主のみもとに偽らずにありのまま差し出すことをしなければ、祈ることも、主に呼ばわることも、何の価値もないのです。
私たちが全く妥協せずに主に従うならば、必ず主は答えてくださいますが、そうでなければ主は決してお答えになりません。もう一回ヨナ書に戻りまして、

ヨナ書4:11
11まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。

去年の津波で確かに大ぜいの人間は死にましたけど、死んだ動物について何も聞いてないんです。ドイツのニュースで、死んだ動物はないと報告されたのです。
その対岸のすぐ近くに大きな動物園があったんですね。そのために多くの人々が島まで行ったんですけども、その死んだ象もなかったし、死んだ虎もなかったし、死んだウサギもなかったんですって。みんな早めに逃げたからです。

死んだ魚も一匹もなかったんですって。みんな深い所まで逃げてしまったのです。
色々な島がありまして、そのいわゆる原住民もいます。この原住民たちの中で死んだ人は一人もいない。みな親から、おじいちゃん、おばあちゃんから教えてもらったんです。鳥が変な鳴き声をすると逃げなさい。高い所に逃げなさい。彼らはそれを覚えて逃げて助かったのです。

その意味でやっぱり動物は人間よりも・・・。海べにいる家畜は主にとってどうでもよかったなのではなかったのです。
ましてや主の愛の対象である人間の死、また滅びを望む神は存在していません。
主は海べに住む十二万以上の人々に対して無関心ではなかったのです。

だから預言者であるヨナは遣わされたのです。彼はどうして信じ、救われたかと言いますと、彼を通して滅びゆく人々は導かれるべきだったからです。
このヨナとはいわゆる預言者であり、主のしもべでした。「主よ。お話になってください。しもべは聞いております。」
すなわち、「しもべは従うつもりです。従いたいのです。あなたのみこころだけを行ないたいなのです。」、この心構えこそがいわゆる預言者たちの態度でした。

預言者たちは自分で色々なこと考えたり、勉強したり、そして結果としてすべてをまとめて話したなのではない。預言者たちは主の口として用いられた器に過ぎませんでした。
主はこういうふうに語られ、これを宣べ伝えと命令なさったから彼らは主の命令どおりに行なっただけなんです。単なる管のようなものに過ぎなかったのです。
預言者であるしもべたちにとって大切であったなのは、自分で考えることではなく、従順に従うことでした。

確かに預言者たちはみなイスラエルのために遣わされたのです。けど例外があったのです。
ヨナという預言者は邦人たち、ニネベに遣わされました。1章の1節からちょっと読みますか。

ヨナ書1:1-3
1アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。
2「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
3しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュヘのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。

この箇所を見るとヨナが非常に急いだんです。どうしてでしょうか。主の宮に行くためでしょうか。王さまに呼ばれて急いだなのでしょうか。あるいは何か特別な使命を受けていたなのでしょうか。

決してそうじゃない。彼は主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとしたと書いてあります。
いったいどうしてヨナは逃げようとしたなのでしょうか。なぜ主のしもべであるヨナは主の御顔を避けようとしたなのでしょうか。
主の使命が彼にとって重すぎ、大きすぎ、また嫌ったためにそれに耐えることができなかったなのでしょうか。

主のしもべであるヨナは、主とは違った考えを持っていたのです。
預言者は主が何を望み、何を成そうとしているかを思い計ることができなかったのです。

ヨナ書1:1
1アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。

ヨナに主のみことばが与えられたことがわかります。主のみことばはひとつの事実であり、行ないであり、また出来事です。
主のみことばが望んでおられたことは、ヨナに対して行なうこと、ヨナとともに行なうこと、ヨナを通して行なうことでした。

ヨナ書1:2
2「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」

と主はヨナに命じておられたのです。大きな町であるニネベはわざわいでした。主はヨナを立たせて、この町に向かうことを望まれました。
「主なる神の怒りが近づいてる。」、ヨナはそのことを警告し、説教するように急ぐべきでした。
主はニネベを戒めたく思われ、また注意することをも望んでおられました。主は大きな町であるニネベに対してあわれみをもっておられたのです。

そのとき、ヨナの態度とはもちろんとんでもないものでした。
近づいて来る神の怒りと滅びゆくニネベの町に対して、彼は全く知らん顔をしたんです。無関心でした。

主はヨナに、「行け。」と命令されたとき、彼は「はい。」と答えようとしなかったのです。彼のはっきりとした態度は、「主よ。嫌です。行きたくない。」
「イスラエルの民のためだったら何でもする。けど、異邦人のために嫌です。行きません。」
主はご自分のしもべを用いたく思っておられたのですが、そのしもべはそのことを好みませんでした。「嫌です。」、これこそ神のしもべの気持ちの表われでした。

その叫びと招きはわれわれにも向けられています。
救いと赦しを与えようと望んでる主は招いておられます。「わたしのために行きなさい。」、あなたは福音をまだ誰も伝えなかった人々に宣べ伝えることを勇気を出して、あえて行なうべきです。
「急げ。警告せよ。叫べ。そして主の御名によってゆけ。」、主はあなたを用いようと望んでおられますと。

ヨナ書1:3
3しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュヘのがれようとし、立って、ヨッパに下った。

主の御顔を避けて逃げることは危険です。創世記の4章16節に次のように書かれてます。

創世記4:16
16それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

カインは主の前から去ってしまった。有名なヨブ記1章12節に似てることばが書かれてます。

ヨブ記1:12
12主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。

カインは主の前から去って行きました。悪魔も主の前から出て行ったのです。けどそれだけではなく、神のしもべであるヨナも同じことをしてしまいました。
彼はタルシシュ行きの船を見つけたと書いてあります。それはヨナにとって願ったりかなったりでした。これは主の導きではないでしょうか。主はヨナの通りを本当に好都合にしておられるなのでしょうか。主はご自分のしもべの不従順に対してそれでいいと仰るなのでしょうか。

彼はタルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ったと書いてあります。ただではなかったんです。この船賃はもちろん高いものだったに違いない。
タルシシュまでの距離はニネベまでの距離よりも三倍も遠いでしたから、船賃もニネベに行くよりは三倍に高かったに違いない。このように主の御顔を避けると、多くの費用を・・・

(テープ A面 → B面)

・・・喜び、幸せなど多くのものをも犠牲にしなければならないのです。
主の御顔を避けるときには多くの費用を払わなければならないことに注意しなければならない。

ひとつのドイツの歌の内容は次のようなものです。

「主は今日も招いておられます。心の備えをしなさい。

主の招きを避けようとするのですか。
主の御顔を避けようとするのでしょうか。
失われた者たちのために犠牲を払おうとはしないでしょうか。

もはや本当の喜びをもちたいとは思わないのでしょうか。

主なる神に対して常に拒み続けるのでしょうか。

主は今日も招いておられます。心の備えをしなさい。」

そして二節、

「主はここにおられる。
主に対して従順に『はい。』と言いなさい。
主に自分のわがままな意思を明け渡しなさい。
そうすれば主はあなたの心を静め、
主ご自身の平安で満たされるのです。

自分の意思を行なう者は決して神のみこころに安んじることはない。
主はここにおられ、あなたの心からの返事を待っておられる。」

という歌なんです。

ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下ったと書いてあります。ヨナは船底に降りていたと5節に書かれてます。
ヨナはヨッパに下り、船底に降りて行った。それゆえヨナがいつも下へ、下へと向かっていることがわかります。
私たちの心の奥底をもっとも揺れ動かすものは、いったい何なのでしょうか。

切に主を大事にし、主にだけ従いゆく心構えのできていない者は、たちどころ、主から引き離されて下へ下へと落ちていくのです。
もちろんそれは終わりじゃない。

ヨナ書1:4-5
4そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。
5水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。

突然嵐がやって来て、激しい暴風が起こりました。
暴風は主によって遣わされたものであり、逃げようとする神のしもべであるヨナを捕えるためになされたものです。

水夫たちは非常に驚き恐れました。彼らは大声で叫び、多くの者はひざまずきました。彼らは船の積荷を海に投げ捨てました。
どうして私たちは滅びなければならないなのでしょうか。いったいこの原因はどこにあるのでしょうかと異邦人たちは尋ねました。
これははたして偶然に起こったなのでしょうか。はたして運が悪かったなのでしょうか。不幸な出来事に過ぎないなのでしょうか。いったいだれのせいなのでしょう。私たちのせいなのでしょうかと彼らは口々に叫びましたけど、ヨナ、神のしもべであるヨナはそのように問いませんでした。

私たちは困難や病気、その他理解しがたいことが起こった場合には、いったいなぜかというと問うことをするなのでしょうか。
あの見知らぬ者はいったいどこにあるのかと水夫たちは思って、ヨナを捜しました。
そのとき彼は船底で横になり、ぐっすり寝込んでいました。神のしもべである預言者であるヨナはぐっすり寝込んでいたのです。

ヨナは使命をもっていたにも関わらず寝込んでしまいました。
多くの人々が危険な状態にあるときでも神のしもべであるヨナは眠ってるのです。上では台風が荒れ狂っているときにヨナは船底でぐっすり寝込んでいたのです。

ヨナ書1:6
6船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」

ヨナは気が付かず、何も知らなかったのです。当然です。眠ってる者は聞くこともできないし、見ることもできないし、知りたいと思いません。
ヨナは主の御声を聞こうとはしませんでした。
また、悩み、苦しんでる人々に目を留めようともしなかったのです。なぜなら彼は主の御顔を避けて逃げたからです。

私たちはいったいどうでしょうか。私たちも主から逃避してるなのでしょうか。ヨナと同じように眠ってるなのでしょうか。
苦しみ、悩み、困ってる状態の中で主の御顔を熱心に聞きたいと思わないなのでしょうか。

ヨナ書1:6-7
6船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」
7みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。

すべてはヨナのせいでした。
水夫たちには何の責任もなかったなのでしょうか。水夫たちも同じく罪人ではなかったなのでしょうか。水夫たちはヨナよりも罪が軽かったなのでしょうか。

ヨナは主を知っていた人でした。主に遣わされた預言者でした。主のしもべでした。
けどそれにも関わらず、彼は主の御顔を避けて、逃げてしまいました。それですからここに不幸が起こったのです。
水夫たちは、「告白せよ。言いなさい。いったいどういうことか。」などと口々にヨナに言いました。これはヨナの逃避の終わりでした。

主から遣わされた嵐はヨナを使いました。捕まえました。
異邦人たちはヨナの告白を迫りました。ヨナはそれ以上逃げることはできなくなってしまったのです。逃避はしかし主の御手の中で終わりました。
これこそ恵みなのではないでしょうか。いかなるものも主から逃げ切ることはできません。

主はヨナを明るみに出されました。
主は女中の指先によってペテロを明るみに出されました。
主はナタンという預言者を通してダビデを明るみに出されました。
主は天の光を通してダマスコに向かうサウロを明るみに出されました。

私たちももうすでに明るみに出されたことがあるなのでしょうか。
今日明るみに出されることを望んでるなのでしょうか。
私たちは主によって見つけ出され、明るみに出されることを望むなのでしょうか。

隠さず告白しようではないでしょうか。いったいヨナは何を告白したなのでしょうか。
私は神によって特別に選ばれた民に属する者です。私はすべてを造られた栄光の主に出会ったのです。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。私は滅びゆく人々に対してさばきが臨む前に警告するようにと召された者です。しかし私は神に対して不従順であり、主の御顔を避けてのがれようとしました。

ヨナは自分を言い繕うことをせず、すべてが自分のせいであることを率直に認めました。
ヨナは主に対し、審議に対して債務を負っていることを認めました。
ヨナは自分が死に当たる債務を負っており、死の判決を受け、海の中に投げ込まれることをよしとされただけではなく、そのために願ったのです。

罪の支払う報酬は死です。しかし主は言っておられます。「わたしは悪者の死を得ることだろうか。彼がその態度を悔い改めて生きることを喜べないだろうか。」
ヨナはいかに悔い改め、生きるべきだったなのでしょうか。ヨナがいかに悔い改めるかについては、2章、1節から10節までを見るとよくわかります。

時間のことでちょっと読みませんけどあとで家でゆっくりお読みになってください。

ヨナは結局何を経験したなのでしょうか。ヨナは死の谷を通って来ました。主は彼から多くのものを奪い、多くのものを与えました。
ヨナはいったい何を奪われたなのでしょうか。ヨナのわがままな意思、逆らい、目くらであること、自分の力と自信を奪われました。
では、彼から何を奪われなかったなのでしょうか。彼の証明と使命こそそれにほかならない。

ではいったい何が与えられたなのでしょうか。彼は主の光によって自分の本当の姿を見ることができ、完全な赦しと恵みにあずかることができたのです。
主にどうしても従いたいという意思も与えられ、そのために使命を果たす力を得ることができたのです。

ヨナは船から海へ投げ込んでもらい、それによって多くのものを得ることができました。
私たちもヨナと同じように自分のわがままな意思、逆らい、目くらであること、自分の力と自信を投げ込もうではないでしょうか。
新しく変えられたヨナは陸地に上がることが許されました。まったく変えられたヨナは主のみことばを聞きました。

ヨナ書3:1-2
1再びヨナに次のような主のことばがあった。
2「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」

主のみことばは今度はヨナによって答えられました。ヨナは主に従い、ニネベに行ったのです。
ニネベは非常に大きな町でした。そこには十二万人以上の人々が住んでおりました。
「もう四十日すると、全員滅ぼされる。」とヨナは叫びました。主はニネベに対して無関心ではなかったのです。主は十二万人以上のニネベの住民をあわれまれました。

ニネベは取りも直さずこの世の象徴です。この世は非常に大きなものです。何百万人という救われざる人々がこの世に生活しております。
主はこの世を愛しておられます。有名なヨハネの福音書3章16節。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

主なる神はそのために御子を死に渡されました。イエス様は何百万という人の罪の報いを受けてくださいました。

テモテへの手紙第II、1:10
10キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

とあります。また有名な、

ローマ人への手紙6:23
23罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と。ヨナは滅びゆくたましいに対する主の大いなる愛を知り、一日歩き回って、恐れることなく、主のことばを宣べ伝えました。
ヨナは町中を歩いて、大いなる悪がはびこっているのを見、主のさばきのことばを宣べ伝えました。
なぜヨナは人間を恐れなかったなのでしょうか。ヨナは死の谷を通って来たからです。ヨナは自分自身を捨てたからです。ヨナはまったく妥協せずに、主に従ったからです。

そのようなしもべを主は用いたく思っておられるのです。そのようなしもべを主は求めておられるのです。そのようなしもべを主は多くの訓練を通して教育されるのです。
死の谷を通って来た者、また自分自身を捨てた者を今日主は必要としておられるのです。
ヨナはさばきと恵みを宣べ伝えました。「もう四十日すると、滅ぼされる。」と言うヨナによって伝えられたみことばのうち、滅ぼされるということは確かにさばきを意味しています。

けど、もう四十日すると、ということばは恵みを意味しています。なぜならば、四十日間の間に罪を悔い改めることができるからです。
今日も恵みの時です。今日自分の罪を明るみに出し、赦しを受ける者は救われます。
けど恵みの時は限られています。「恵みを受けなさい。」、これこそ喜びの訪れ、すなわち福音です。

ニネベでは何が起こったなのでしょうか。ヨナはあざ笑われ、嘲られ、追い出され、殺されたなのでしょうか。
そうではない。3章の5節を見るとわかりますね。

ヨナ書3:5-9
5そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。
6このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。
7王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。
8人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。
9もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」

ニネベには何が起こったなのでしょうか。ニネベはついに悔い改めました。恵みの神に呼ばわれました。ニネベは立ち返りました。さばきに陥ることなく、恵みにあずかるようになりました。
主はひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。
テモテへの手紙第Iの2章を見ても同じことが書かれています。

テモテへの手紙第I、2:4-6
4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。

私たちは本当に主が願っておられることを、望んでおられることを理解してるなのでしょうか。
主は愛と救いを提供したく思っておられます。主は自分自身を捨て、主の愛によって救いを得させるしもべを求めておられます。

ニネベは私たちひとりひとりを必要とします。
この世は滅びに向かって進んでおります。ニネベは例えばある場合にはあなたの家庭であり、またある場合にはあなたの職場でありましょう。
主についてのはっきりとした証しを公にすることは恥ではありません。

ローマ人への手紙1:16
16私は福音を恥とは思いません。

福音の代わりに主イエスを考えるべきなのではないでしょうか。
ヨナの最後を読むと、ちょっと悲しくなります。人間とはまったく自分勝手な者であることもよくわかります。

ヨナは仕方がなくて主に従うようになりました。そして奇蹟が起こったのです。しかしそれこそがヨナは欲しくなかったのです。
ニネベの人々はみんな悔い改めないで、みんな例外なく滅ぶようになったなら、彼はかえって喜んだんです。

ヨナ書3:10
10神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

ヨナ書4:1
1ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、

云々と書いてあります。ずっと1節から11節まで読むとわかります。けども主は11節に、

ヨナ書4:11
11まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。

初めに読みました、ローマ人への手紙13章は本当に絶えず覚えるべきです。

ローマ人への手紙13:11
11あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。

主の再臨は近い。

イザヤ書6:8
8私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

とイザヤは言ったのです。
主に仕えようと思えば、自分自身を犠牲にしなければあり得ないのです。自己否定のない奉仕とは自己満足であり、まったく虚しい、役に立たない努力です。

確かに多くの人々は主に仕えたいと言いますが、けど従おうとしない。結局自分自身を大切にするなのではないでしょうか。
自分の思いを捨てたくない。自分の思ってることは正しいと信じてるからです。

自分の思いこそがみこころだと主張する人もいます。だれも反対することがないためにみことばが与えられたと言う人もいますけど、前に言いましたように、みこころだけを行なおうという意思、また切なる願いがなければ、いくらみことばが与えられたと言っても何にもならない。

みことばを行なおう。みこころを行なおうと思えばわかるようになる。すなわちその人は導かれるようになり、用いられるようになるとイエス様は約束してくださったのです。
イザヤのように、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」という願いをもつことができれば本当に感謝です。




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