二ノ宮家庭集会


ベック兄

(二ノ宮家庭集会、2003/02/19)

引用聖句:イザヤ書、55章8節-9節
8「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
9天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

詩篇139:23-24
23神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

コリント人への手紙第II、8:9
9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

あらゆる人間にとって一番大切なのは、真理を信じることなのではないのでしょうか。何十年も前に国家図書館で、聖書研究会を持つ様になったのですけれども、僕が行った時いつも驚いたんです。
何故なら玄関で大きく書かれているのは、「真理はあなた方を自由にする」

図書館の為には良い言葉かも知れないし、けどもそれを読む人々の大部分は、それを勉強しなくちゃいけない、悟らないと分らない、悟らないと駄目なのかもと思うのですが、真理とは一つの考え方、一つの教えでもない。
イエス様は「私は真理そのものである」と。ですから図書館で過去においてね、聖書あるいはイエス様と書いてあればありがたいのですが、書いてないんです。
「真理はあなたがたを自由にする」人間は自由にならないと、可哀想なのではないでしょうか。

前にある新聞記事をぬいたことがありますけれども、飛行機で読んだ新聞記事ですけれども、外科医であり大学の教授なんですけれども、彼は癌になった患者に、「真理を語れ!」と強く言っておられるのです。
そうしないと人間は暗闇の中に歩むものである。勿論彼はクリスチャンじゃないよ。聖書知らない男です。
一度行ってじっくり話し合ったんですが、それとは関係なしやっぱり人間は知る権利を持つ、言わなければ感謝だけど、聞きたくない家族の人も可哀想と思っている。家族の人も分っているけど言いたくない。
本人を可哀想と思っている。そしたら一つの手段じゃないですか?真理を知らないと平安も安全もないし、やっぱり不安になります。

まともな人間は、毎日自分の死について考えるべきです。いつになるか分らないけど、安心して死ねることが出来なければ大変なのではないではないしょうか。
結局「真理を語れ。」と、あの主を知らない医者は勧めています。

聖書の勧め方は次の様なものです。「捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を救け出せ。」
結局「真理を語れ。」我々にとってそれは何をしているかといいますと、真理であるイエス様を紹介することをしなさい。私達はそれしか出来ない。
人を納得させようと思っても、可笑しいよ。解決はつくんです。でも主を紹介するということは我々の義務であり、特権でもあります。
イエス様は祈りの中で「あなたのみことばは真理です。」と、言われたのです。

すなわちイエス様にとってみことばだけが全てでした。自分の考えではない「私の思うことではなく、御心だけがなるように」と、イエス様は祈り続けたのです。
確かに真理を知ろうと思えば、聖書を通してだけしか分らないなのではないでしょうか。そして聖書の言われている真理とは、ある意味で面白くない。すなわちあなたは正しくない。あなたは善を行う力ないものです。ゼロ以下で使いものにならない。
あなたは初めの愛から離れてしまったものです。あなたはどうしようもない者です。イエス様の十字架の言っていることとはそういうことなのです。

確かに余り面白くない。聖書が強調しているのは、あらゆる人間は罪の中に失われておる存在であり、そして自分自身を救おうと思っても出来ません。罪滅ぼしの為に人間がしようとしても、何も出来ません。
いくら聖書を勉強しても、良い行いをしようと思っても、如何なる努力も全く意味の無いことです。イエス様のみが救いをもたらし、イエス様以外にまことの救いはない。
何故ならば、イエス様の提供されている救いとは、罪の赦しであり、神との平和であり、永遠の命そのものです。

ですから自分の思いでなく、御心だけを大切にすることだけがどうしても必要です。だから今、兄弟がお読みになった個所は本当に大切です。
主の呼びかけはとは、私の思いはあなた方の思いと異なります。似ていない。全部違う。天が地よりも高い様に私の道はあなたがたの道より高い。私の思いはあなた方の思いより高い。従って自分の思いが正しいと思えば、非常に危ない。みことばは何と言っているのでしょうか。

あの大聖書学者であるパウロはよく書いたのです。「聖書は何と言ってますか。」私が何を思っているか、それは関係ない。
パウロは何かを強調しようと思った時、いつも言ったのです。「私はそれを主から頂いた。私の思いと違う。主の思いはこうだ、ああだ。」と、言ったのであります。

このパウロとは、「私は後ろのものは忘れ目標を目指して一心に走っている。」と。今の時代で考えられないほど、大切なのではないでしょうか。
「後ろを忘れて、今から。」けれども今からについて考えることも大変です。今からの半年先の世界はどういう風になっているのですかね。
もう日本から誰も出られない時代になるかも知れない。大戦争になっているか分りません。結局将来は分るものじゃない。

けどもこの様な時代で、パウロのような態度をとることが最も大切なのではないでしょうか。
「私は後ろのものを忘れ、目標を目指して必死に走ってる。」走ることこそが大切なのです。必死に走っているものはね、後ろを見ようとはしない。そういう余裕がないよ。
右は誰が立ってるか、左、誰が見てるか関係無い。必死に走ってる。

前に非常に困った奥さんが、色々な経験について話したのです。
彼女はね「死ぬことしかない。」と、間違った結論を出しちゃった。けど急に、「私は後ろ向きの生活したくない。」と言ったのです。そういう気持ちがあればまだ大丈夫。
後ろ向きの生活したくない。その方は悔い改めて、イエス様を受入れて、彼女のその時の問題は今日まで解決されていないけど、それと関係なくやっぱり前向きな生活になり、イエス様こそが私の牧者であり、私の導き手であり、守ってくれるお方であることを、味わい知る様になったから不安、心配から開放されたのです。

確かに人間は変えられなければならない。すなわち人間はあらゆる束縛から、孤独から、空しさから、惨めさから開放されないと、もう疲れます。
けど人間は幾ら努力しても、相変わらず惨めで、寂しくて、束縛されておるのではないでしょうか。だからもう諦めなくちゃいけないのでは無い。人間を変える為に、イエス様はこの世に来てくださったのです。

前に読んで頂いた、コリント人への手紙第IIの8章9節。ホントに素晴らしい節です。

コリント人への手紙第II、8:9
9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

人間は富む者となるべきである。まことの財産を持つべきである。
まことの財産とは、変わらない喜びを、心の平安を自分の物にすることです。
富む者となる為にどうしたら良いのでしょうか。
富む者となる為に必要なのはただ一つ、正直になり、頭を下げることであり、へりくだることです。結局自分の貧しさ、無力さ、惨めさを素直に認めることです。
イザヤ書の57章になりますけれども、よく知られておる個所ですけれども、大切な個所で、毎日覚えるべき個所ではないかと思います。

イザヤ書57:15
15わたしは、

主の呼びかけですね。

イザヤ書57:15
15高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。

天と地を無からお造りになった偉大なお方が、心砕かれ、へりくだった人と住む。

イザヤ書57:15
15へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

へりくだればOK。聖書の喜びの訪れとはそういうものです。

へりくだる者とは、「主よ罪人の私を憐れんでください」と、思うようになることです。主の光によって、自分の惨めさ、空しさを知る様になった者は、やっぱり助を求める様になります。

ルカの福音書の中で、みなさんご存知ですけれども、一人の立派な人格者、それからもう一人のメッチャクチャな男について書かれてます。
義と認められ、主によって「よし。」とされたのは、あの立派な生活を送った聖書学者ではなかったのです。聖書の知識を持っていなかったメチャクチャな生活を送った男でした。

なぜならば、いわゆる立派な人格者は祈ったんです。けどもどういう言葉を使ったかと言いますと、
「神よ。」まあそうすればおしまい。「神よ・・・」
あのメチャクチャな生活を送った収税人は「神よ・・」と言わないで「神様、こんな罪人の私を憐れんでください。」
聖書学者は「結局私は聖書の内容を全部知っている。」と、疑わずに信じている。毎週ニ回断食します、十分に献金をします。あいつのような禁を犯す罪を知らない者です。結局だから彼は満足するべきである。ま、そうすればおしまい。
結局へりくだらなければ救われえない。へりくだらなければ祝福されえない。

パウロは考えられないほど祝福され、用いられたのです。一体どうして?へりくだったからです。
彼はいわゆる、コリント人への手紙第I、15章、ま『甦りの章』と言われているものですけれども、自分のことについてこう言ったのです。

パウロとは勿論、イエス様の十二人の弟子の一人ではなかったのです。でも弟子達と同じ使徒となりました。使徒とは、遣わされた者です。特別な使命を持つ者であります。
パウロも確かに特別な使命を持つ者であり、「私は主イエス・キリストの使徒である。」と、言ったことがあります。
けども彼は偉いとも、少なくとも私はヨハネ、ペトロ、ヤコブ、と同じレベルの者であると思ったことがない。

けれども私達は彼の書いたモノを読めば分るよ。確かに違うレベルでしょう。
ずっとずっと優れていました。けれども、彼は自分のことについて考えた時、言いましたね。

コリント人への手紙第I、15:9
9私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私 は神の教会を迫害したからです。

彼は自分の汚い過去を忘れられなかった。人間的ならばちょっと気の毒。聖書から見ると良かったんじゃないかな。
何故ならばこの汚い過去を忘れられなかったから、幾ら祝福されても傲慢にならなかったのです。「使徒と呼ばれる価値のない者である私」と、彼はいうことが出来たのであります。

今度はエペソ人への手紙3章、彼はいわゆる特別な、使命を持つ選ばれた人達について書いたのです。エペソ人への手紙の中で彼は、イエス様の恵みによって導かれ救われた人々について、いわゆる聖徒達について書いたのです。

エペソ人への手紙3:8
8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、

ここで、「私は聖徒たちのうちで一番小さいものである。」と、言ってるんです。「みんな私より優れている。」こういう風にパウロは主の恵みをほめたたえています。
そして彼の殉教の死を遂げる前に書いた手紙は、テモテへの手紙なんです。
このテモテとは勿論、パウロを通して導かれましたし、何十年間パウロと一緒に働いたし、忠実な同労者でありました。彼にパウロは書いたのですね。

テモテへの手紙第I、1:15
15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

罪人の中の一人じゃなくて、罪人のかしら、一番酷いのは私だよ。彼はこういう風にへりくだっていたから祝福されたんです。

昔の預言者達は、やっぱり主の使いとして主のお考えを、主の御心を明らかにした人々だったのです。その中の一人の預言者イザヤは、次の様に語ったのであります。

イザヤ書61:1
1神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

良い知らせとは、結局貧しい者達のためである。66章の2節、ここで主も次のような同じ表現で言いました。

イザヤ書66:2
2わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

主をおそるることとは、みことばにおののく者です。勿論ホントは別々にすることは出来ない。ここで主があり、ここで聖書があるとちょっと考えない方が良い。主に対する態度と聖書に対する態度は結局同じです。
私はイエス様、愛する。だけど全然飢え渇き持って聖書を読まない人は嘘つきです。ある意味で。

ダビデも経験したから、次の様に証しました。詩篇の51篇17節です。
主はどういう人々を大切にするか、用いようと思っているか。と、言いますと、

詩篇51:17
17神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

生まれながらの人は誇って、自分勝手な道を進もうとします。小さい救いのない者は、乞食よりも貧しい者です。従って心貧しき者となることがこそが大切です。
主イエス様の霊によって、自分の本当の姿を知り、恐れおののいて、自分からは何にも期待することの出来ない人となることは大切です。

結局へりくだるということは、自分が強く、偉大な富んだ者ではなく、ホントに惨めで、哀れな存在に過ぎないことを認めることです。
このことを本当に知る人だけが、思うところの全てを超えて、豊かに施すことの出来るイエス様のみもとへ行く様になります。そしてイエス様の所へ行く人々は、みな受入れられる様になります。

奢り高ぶる者、本当に心砕かれていない者は、もう望みのない者です。使徒達はみな口をそろえて、「イエス様は我々の為に貧しくなられた。」と、強調したのです。
イエス様によって全てが創造されたのじゃなくて、全てはイエス様の為に使われた。ピンときませんし、想像することも出来ない。勿論イエス様は初めのない終わりのない永遠なる神であり、人間を救う為に三十三年間だけ、この地上におられ、そしてご自身の自由意志で貧しくおなりになりました。

イエス様の貧しさとはどういうものなのでしょうか。
この世に来ることにより、勿論初めて貧しくなられた。天国では勿論ありえなかった。イエス様の貧しさとは、父に対してご自身がお選びになった「依存」です。
イエス様がはっきり分ったのは、私は「人間として生まれる様になれば、私は貧しい者になる。」
今までイエス様は何でも知っていました。何でもできた。人間になることによってそれは出来なくなる。

イエス様だけでしょう。本当の意味で言ったんです。
「私は何も出来ません。私は何も知りません。」ヨハネの福音書の中でそういう表現は何回も何回も出てきます。
「私は無知です。無力です。だから私は祈ります。祈るうちに父から聞いた言葉を私は宣べ伝えます。そして私のなす奇跡だって、私の内に住んでいる父の力の現れに過ぎません。私は父から離れたら何も出来ません。」

結局イエス様は、父から聞いた言葉だけを語り、父が行ったことだけを行ったのです。すなわちイエス様ご自分で勝手になさることはしなかったのです。我々にはとっても考えられない。

父に全くより頼んで、いつも父の御心に服従されたのは、イエス様だったのです。「私の思いでなく、あなたの思いがなる様に。」このイエス様の祈りこそが、イエス様の絶えざる態度でした。

どういう人間であれみんな違うんです。
人間は何か聞くと、まず自分で考えます。そして大体祈らずに行動します。壁にぶつかって初めて、やっと、また自分だったか・・・
イエス様は何を聞いても、何を見てもまず行動しなかった。まず祈ったんです。「お父様見てるでしょ。私はどうしたらいいの?」「何を話したら良いのでしょうか?」

一つの実例はヨハネの福音書11章ラザロの死についての個所です。
イエス様のこと、ホントの意味で理解出来た人はもう一人も居なかったんです。イエス様はその意味で孤独そのものでした。辛かったと思う。
だから祈ったのです。休息だった。イエス様にとって・・・。

私達はもし一度暇があれば、半日だけでもどうするでしょうかねえ。一番大切なことじゃないかな。一番好きなことじゃないでしょうかね。
イエス様もそうしたんです。イエス様は祈ったんです。
「自分の思いではなく御心がなるように。」この態度を取ると、やっぱり楽になります。

私達は主イエス様を知るために救われたのであり、そして救われた人々とは、変えられなければならない。
聖書はよくイエス様の御姿に変えられなければならない、イエス様の御姿にかえられる為に救われた、と言っておるのです。そしてイエス様の御姿に変えられる為に、あることをどうしても知ることが必要なのではないでしょうか。
すなわち「私達は、自分の生まれながらの罪の性質は直らない。」と、いうことです。

これを知っている人は、自分でやることが出来ない、主により頼らなければ何にもやることが出来ない、ということも知る様になってきます。
私達は罪を赦されて、主から義と認められる為に、自分で何もすることが出来なかった。ただ一方的な憐れみによって義とされました。
同じ様に、私達が清められて行くのも自分の行いではない。このことも知らなければならない。
このことを知っている人は、自らを自ら清めようと努力することをやめ、ただ復活なさったイエス様に自分をお委ねするはずです。

けど、問題はいかにしてこのようなことを本当の意味で知る様になるのでしょうか。
勿論頭の知識としてでなくて、体験的に知る様になるのだということです。それはイエス様と同じ御姿に変えられて行くことによってのみ出来ることです。
けれども、イエス様の霊はイエス様と同じ御姿に我々を、みわざを、ただ悩みによってのみ行います。悩みと戦いのまっただ中にあって初めて私達は変えられます。なぜなら、変わらないイエス様に頼る様になるからです。

イエス様は、私達を人間的な目で見れば、全く望みの無い状態に導いて下さるのです。何故どうしてでしょうか。
それは私達が「自分の生まれながらの罪の性質は、結局絶対に良くならない。」と、知るためです。
幾ら努力しても疲れるだけです。主に頼らなければ、もうおしまいです。

イエス様は聖書の聖句の中で、「悲しむものは幸いです」結局幸福になるために、悩むこと、苦しむことこそが大切です。苦しみによって、イエス様の御姿に変えられることこそが主の目的であります。
イエス様を仰ぎ見ることこそが、最も大切ではないのでしょうか。

イエス様によって全てが創造されたけれども、このイエス様は叩かれる様になったのであります。ムチ打たれました。唾され、侮れたのです。
もしイエス様がそうしようと思ったのならば、そういう人々はイエス様の一言でこの地上から抹殺されたはずです。たちどころに、滅んでしまったはすです。
けどイエス様は耐え忍んで、全てを負われ、自ら悩みをよしとされ、両手両足に釘を打たれ、十字架の上で「お前は人を救ったのに自分を救うことは出来ないのか。」と、ののしられたのです。
もししようと思えば、イエス様の為に十万の天の軍勢がひかえていましたから、イエス様の一言でイエス様を救う為にやって来たでしょうけど、イエス様はそうされなかったのです。

結局イエス様とは柔和で心へりくだったお方でした。私達はこのような主と同じ御姿に変えられていきたいものです。
イエス様とは透き通ったお方でした。裏表が無かったんです。勿論嘘も知らなかったのです。偽善も知らなかったのです。極みまで真実なお方だったのです。二心を持たなかったお方でした。
向こうへ行っていいことを言い、こっちへ来て都合のいいことを言うお方ではなかったのです。このイエス様の御姿に変えられなければならない。と聖書は言っています。

イエス様とは、いつもハッキリとした目的を持っていたのです。そしてイエス様は祈りの人でした。勇気のあるお方であり、柔和にして、心へりくだった方でした。平安、平和、喜びの方でした。
この御姿に私達も変えられなければならない。これに至る道は、多分主の歩まれた道です。悩み多き道、誤解に満ちた道、嘲りの道であります。

エレミア・哀歌ちょっと見てみましょうか。
前にダビデの祈りを読みました。非常に大切な祈りです。

詩篇139:23-24
23私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

と、ダビデは心から祈ったのです。
祈っただけじゃなくて、心から願ったから御心にかなう人に変えられたのです。

エレミア・哀歌3章の40節ですね。

哀歌3:40
40私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

結局主は、主の道へ立ち返るべきだと言っておられます。どうして?私たちが間違った方向に進んでしまったからです。戻らなければならない。
どうしてでしょうか?それは私達が主から離れちゃったからです。自分勝手に行動する様になったからです。
このことを認識することは、非常に謙遜なことです。そして認められた債務を告白することは、面白くないかも知れないけど、大切です。

主によって用いられた多くの人々を見ると、ハッキリ分ります。
例えば旧約聖書の中でサムソンという男について、色々なことが書いてあります。彼は勿論、特別に選ばれたイスラエルの民に属するもので、長い間主の用いられた器でした。
けども今日読まなくてもいいんですけど、士師記の16章を読むと、彼が自分の押さえがたい情熱によって、気がつかないうちに主の霊が自分から去って行ってしまったんです。
今までと同じだと思ったんですけど、違ったんです。主は彼の側に立つことが出来なくなってしまったのです。イスラエルの民はサムソンをあざ笑いました。

何故ならば、彼は主の霊無しに力なく、望みなく、助けのない者になってしまったからです。長い間主に用いられた者はもう用いられなくなってしまった、とはなんという悲劇なのでしょうか。
ダビデ王様についても、やっぱり同じ様なことを言わざるえないのではないでしょうか。彼はただ主の恵みに与かるようになっただけではなく、特別な使命を持った男でした。イスラエルの民の王になったのです。国民の、民の指導者でした。
けどもサムエル記第IIの11章を見ると、彼はバテ・シェバという女性と姦淫を犯し、預言者であるナタンの方針により自分自身を主の光の中に見ることが出来、そして次の様に告白せざるをえなかったのです。そして「その姦淫をした男は私です。」これも比類の無い悲劇なのではないでしょうか。

エリヤという預言者は、勿論主に選ばれ遣わされた者でした。けども彼もある時、もう落胆して「もう、十分です」、荒れ野に引き戻り、主が自分の命を奪って欲しいと真剣に祈りました。
もう死にたい、死にたい、死にたい・・・列王記第Iの19章見ると分ります。すなわち彼、ペシャンコになってしまったんです。そのことに対して悪魔は、どの様に勝ち誇ったなのでしょうか。

イザヤは自分自身を主の光の中に見ました。彼は自分自身の不潔さ不純さに驚き、次の様に叫ばざるをえなかったのです。「ああ、私は災いです。私はもう駄目です・・・」と、叫んだのです。

イエス様の弟子達のこと考えても同じ様なこと言えるのではないでしょうか。
最後の晩餐の時、イエス様は言われたのです。「あなた方の中の一人が今晩私を裏切ります。」すると一人の例外もなく全ての弟子達は驚いて、そして尋ねたのです。「主よ。それは私でしょうか?」・・・
私達もまた「主よ。それは私でしょうか?」と、問うべきなのではないでしょうか。「私はあなを悲しませたのでしょうか?」

「隠れた所にある障害物を、私にお示しになって下さい。私の障害物を認める恵みを、お与えになって下さい。」と。
ペテロという一人の弟子が、自分の恐るべき絶望的状態を求むる様になったのです。ルカの福音書22章見ると分ります。

ルカの福音書22:62
62彼は、外に出て、激しく泣いた。

と、書かれてます。結局もうおしまいだと思ってたんです。
こういう、主によって選ばれた人々は確かに不完全で過ちを犯した人々だったんですけど、彼らはみな立ち返りました。主に立ち返りました。
サムソンは、結局最終的に敵の滅びの為に用いられました。ダビデは偽善と姦淫から脱出する様になったのです。エリヤもあらゆる無力さ、失望、落胆から開放される様になったのです。
イザヤはあらゆる自らの状態と不純から脱出することが出来たのです。そしてぺテロは、あらゆる傲慢から、思い高ぶりから開放されたのです。

聖書の報告とは本当に素晴らしいものです。すなわちそういう人々は全く回復された、ということです。
今日大きな問題となっているのは、十字架のないキリスト教が宣伝されていることなのではないでしょうか。
如何なる努力、如何なる熱心さ、如何なる聖書的信仰も、私達が十字架あるいは、十字架につけられることを恐れる時、全て不充分なものとなってしまいます。
イエス様の苦しみに与かることなしに、聖書も実を結ぶこともありえない。日々打ち砕かれることなしに、我々の自我は主の働きの妨げとなります。
打ち砕かれた後で、初めて用いられると聖書は何回も何回も言っておるのです。

例えばギデオンという男は、確かに主によって用いられました。ギデオンと共にいた三百人の兵士の持っていた、土の器が砕かれた時、初めてその中に入っていたたいまつが光を放ち、彼らは敵に対して勝利を得る様になったのです。

イエス様は、まずご自身に持ってこられたパンを裂くことにより、初めて何千もの人を満腹にすることがおできになったのです。
ナルトの壷もまた、高価な香りを家中に満たす前に砕かれなければなりませんでした。
サウロが徹底的に砕かれる備えを持った時に、初めて主は彼を用いることが出来たのです。
ヤコブもまた腰の骨を外されて、ビッコをひいて歩く様になったと聖書に記されていますけれども、彼もまた砕かれた後、初めて祝福を受ける様になったのです。

信ずる者の内にあるイエス様の命は、私達が日々主に自分の意志を意識的に従わせることによって、砕かれる時によってのみ明らかになります。
自己否定は自分の権利を捧げることです。自分により頼まないことです。
私の心ではなくあなたの御心をなしてください。これがイエス様の生涯の変わらなかった態度でした。ですからイエス様から恵みの流れが、命の泉が人々に分け与えられていたのです。

私達の考え、感じ、意志、全て主のご支配のもとに置かれる時、我々の内側からも命の泉が涌き出るはずです。ですから次の様に祈るべきなのではでしょうか。

「イエス様。私は自らに絶望しています。自らなんにもすることが出来ない。どうか私を通して御自身の御心をなさしめてください。」と、いいたいなのではないでしょうか。




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