先程の祈りの中で兄弟も言われたましたように、みことばは本当に人間に与えられる一番素晴らしい宝物ではないかと思うんです。 私たちはときどき悩んでる人々と会うと、結局何をしゃべってもだめだとわかります。けどもそのとき聖書こそが人間の心を慰めることができ、励ますことができることを知ることは、素晴らしい特権ではないかと思うんです。 昨夜一人の人と話したんですけど、子供を亡くした奥さんです。子供はどうして死んだのかは医者のミスだったそうです。ですからやっぱり、この世をのろう気持ちでいっぱいで、医者が注意すれば子供はまだ生きとるとそれしか考えていません。けどもそういう人をいくら慰めようと思っても、結局お手上げなんです。生ける望みを与えることのできるのは、やっぱり聖書だけなんです。 ドイツの心理学者サッド博士は医学全書を書いたんです。そして次のように書きました。祈りとは心配を取り除くために最も効果的な手段です。 真に幼子のような素直な心を持って、あらゆる思い煩いをことごとく主イエスに空け渡すこと、これこそ正にその奥義にほかならない。罪が赦されたこそ、ノイローゼから私たちを守る障壁なのです。 なぜ多くの人々は恐れたり、おののいたり、不安と恐怖の中にいるのか、その人たちは霊的な糧を日々食べてないからだ。そのためサット博士は、毎日規則正しく聖書を読むように、このことを全ての医者が患者に教えるように書き記したんです。 聖書の中心とはもちろん一つの教えではありません。 多くの人々は聖書の中心とは一つの教えであるから、だから勉強しなければならない、理解しなければならないと考えてるのですけど、いくら研究したとしても得るものはそんなに多くないんではないかと思うんです。 頭の知識が増えるでしょう。けども普通の人だったら、頭の知識を得ることによって傲慢になるんじゃないかと思うんです。傲慢になるともうおしまいだよと神は判断しておられます。聖書の中心とは一つの教えではなく、真の慰め人であられ、真の救いを提供してくださるイエス・キリストご自身です。 このイエス様について一ヶ所ちょっと見てみましょうか。 マルコの福音書3:1-2
結局大部分は単なる傍観者としてじゃなくて、訴えるものとして集まったんです。ちょっと悲劇的じゃないかと思うんです。 マルコの福音書3:3-6
と書いてあります。 非常に簡単なわかり易い出来事でありますけども、イエス・キリストとはどういうお方であるか、この個所を通しても知ることができるのではないかと思うんです。 このマルコの福音書という福音書は非常にわかり易い福音書です。聖書に接していない人も、ここから読んだほうがいいんじゃないかと思うんです。ある人々はやっぱり新約聖書の初めから、すなわちマタイの福音書から読もうと思って、けども1ページから読もうと思えばもう眠くなってあきらめてしまう。全然面白くないからです。イエス・キリストの系図について書かれてるものだからです。われわれにとって、本当にマタイの福音書1章は全然面白くない章でありましょう。 ユダヤ人にとって大切なところだったんです。すなわち来るべきキリストとは、どういう系図を持つ者であるかと旧約聖書の中で全部書き記されたから、彼らにとって土台は源そのものだったから大切だったんですけども、われわれにとって面白くないし、そしてこのマルコの福音書とは、どうしてそういうことを触れていないかといいますと、マルコの福音書は、おもに当時のローマ人のために書かれた書物であるからです。 マタイの福音書の半分以上は旧約聖書の引用なんです。ユダヤ人にとって知られてるものだったんです。 マルコの福音書の中で旧約聖書から引用されてる言葉はあんまりない。ローマ人は旧約聖書を知らなかったからです。このマルコの福音書はおもに当時のローマ人のために書かれた書物です。 ご存知のようにローマ帝国は一番力強い国だったんです。そして当時のローマ人は自分の帝国は、もちろん永久に続くものだと確信したもんだったんです。大した権力を持つ国だったんです。ですからその権力、力、そういうものを大切にしたローマ人のために、マルコはイエス・キリストの力について、イエス・キリストの権力について書き記したんです。 ローマ帝国と比べれば、比べられない素晴らしいものだとマルコの福音書を見ると知ることができます。キリストにとって不可能なことは一つもない。これはひとことばで言いますとマルコの福音書の内容であります。 イエス・キリストとはいのちそのものであり、そしてキリストのところに運ばれた病人たちはみんな例外なく癒されたんです。信仰があってもなくても関係なく、みんな癒されたんです。どうしてであるかといいますと、旧約聖書の中で約束されたメサイヤが来ると、病人たちは癒されると預言されたからです。 もしイエス・キリストが一回だけ、「いや、ちょっと困ってるあなたの場合は手遅れだ。」と言ったならば、結局キリストは本物ではない、ニセモノだったということになります。みんな例外なく癒されたことは、キリストこそが本物である証拠であります。 イエス様はいかなる場合であっても、例外なく救いの道を開いてくださいます。イエス様はいかなる状態においても困ったことがないお方です。イエス・キリストにとって全てのことが例外なく可能なことばかりです。イエス様はいのちそのものであられるゆえ、あらゆる病は退散してしまうのです。 ここで1節から6節まで一人の片手のなえた人のことについて書き記されています。場所はその会堂だったんです。教会と言ってもいいでしょう。当時、自分の聖書を持っていた人間はもちろん一人もいなかったんです。神のみことば聞こうと思えば、やっぱりいわゆる会堂へ行かなければならないんです。 読む人も非常に少なかったんです。いわゆる学者たちしか読むことができなかったんです。ですからやっぱり安息日、会堂へ行かなければ、神のみことばをもちろん聞くことができなかったんです。彼らの会堂に行った理由はみことばを聞くためだったんです。 そしてイエス様の行ったところ、必ず、いわゆるパリサイ人たち、律法学者たちも集まったんです。彼らはもちろん聞く耳は持っていなかったんです。聞こうとしなかったんです。ここでも書いてありますようにキリストを訴えるために、どうして葬り去ろうかという気持ちで集まったんです。 そういうケースの場合、いくら聞いてももちろん何にもなりません。彼らは聖書の内容を知っていたと思い込んでしまったんです。けども決してそうではなかったんです。 聖書の内容、聖書の中心なる方は約束された救い主、すなわちキリストである。彼らは聖書の内容をわかったと思い込んでしまったんですけど、真の神を知らなかったから、結局救いに預かっていなかったのです。 イエス様の癒しの出来事について読むと、大体いつも同じ質問について答えることができると思うんです。 まず第1に病人はイエス様に対してどのような態度をとったのか?非常に大切です。人間は真の救い主に対してどのような態度をとるか?それ一つです。 第2番目はイエス様について何を知ることができるのか?イエス・キリストはどういうお方なのか?これも非常に大切な質問です。 そして第3番目は、周囲の人たちにどのような影響が及ぼされたか?ということについて、 @ここでも病人はイエス様に対してどのような態度をとったのでありましょうか? Aイエス様について何が書き記されているのか? Bそしてイエス様のなされた奇跡とは周囲の人たちにどのような影響を及ぼしたか? この3つの質問についてちょっとだけ考えたいと思います。 第1の質問とは、この病人はイエス様に対してどのような態度をとったのでありましょうか? ここで書き記されているとおり、病人は片手がなえていたと書いてあります。手足がなえてるということは、普通のようにいろいろすることができず、役に立たない、価値のないものです。 それだけじゃなくて、多くの場合は結局妨げとさえなるものではないかと言えましょう。この人は確かに手を持っていたんですけど、実際に手がないとような同じ状態だったんです。 だから彼はもちろん悩んだんです。肉体的よりも精神的に悩んでたでしょう。けどもその苦しみをどうすることもできなかったんです。けども内面的に彼は悩んでいたことを、イエス様はすぐわかったんです。 もちろん今日でも、内面的に大きな苦しみと悩みを持ってる人が少なくない、結局みんないろいろなことで悩んでます。苦しんでます。普通の人はうまく隠そうと思うでありましょうけど、隠すことによって問題は解決されません。 悩んでる人の多くは他の人を見て、自分がはるかに劣った状態でおかれてることを感じます。そしてなぜか、どうしてか、なぜ私だけがこんなに悩まなくちゃいけない、苦しまなければならないのかという疑問が何度も頭をもたげてくるでありましょう。 その結果はもちろんいい結果ではない。不平をつぶやいたり、八つ当たりしたり、何かと反抗したりするのです。その理由は彼らが目がくらんで、心の目が見えなくなってしまっているということに他なりません。 聖書によると、パウロという人も病気だったんです。肉体的なトゲを持っていたと聖書は言ってます。それは何であるか聖書ははっきり書いてませんけども、言えることは彼は自分の手紙書くことができなかった。 そして一回だけ挨拶書いたんです。大きな字で自分の名前書いたと書いてあります。だから結局目が不自由だったことは間違いない、よく見えなかったんです。そしてある人は彼はマラリヤという病気を持っていたのではないかと考えたんです。 マラリヤは、いろいろな種類あるんですけども、見えなくなるいうマラリヤもあるし、この種類になるとテンカンにもなる。結局気狂いのように暴れるようになるということなんです。 もしパウロの場合そうだったら、大変だったんじゃないかと思うんです。たとえば彼は福音宣べ伝える時に、急にテンカンになって気狂いのように暴れるようになれば、ちょっと考えられない状況じゃないかと思うんです。 コリント人への手紙第IIの中で、彼は3回、おそらく夜中祈り続けたんです。「主よ。どうかこのトゲをとってください。癒して。癒して、癒してください。」と切に望んでたんです。 自分で元気になりたいということよりも、私は気狂いなればそれは神の名誉のためにいいもんじゃない。みんなつまずくんじゃないか、そこで癒してください、癒してくださいと一生懸命祈ったんです。 彼は実際問題として、癒しの賜物を持つ者だったんです。多くの人々はパウロによって癒されたんです。死人もパウロによってよみがえらされたんです。 けども自分の病気に対して彼はどうすることもできなかったんです。だから「主よ。癒して。癒して。癒してください。」 けども主は癒してくださらなかったんです。主は、聞く耳を持っていなかったからじゃない。もちろんパウロの祈りは聞きとどけられたんですけど、彼の思うように答えられなかったのです。 主はどういうふうに答えてくださったかといいますと、神はそのトゲを取り去ることなく、私の恵はあなたのために十分だ。私はあなたの近くにいる。あなたを通して自分の臨在を明らかにすることを約束してくださったのです。そしてパウロはそれをわかった時、私は艱難を喜ぶようになったと言ったんです。そのときから、癒してください、癒してくださいと祈らなくなったんです。 どうしてであるかと言いますと、このようなトゲがなければ、このような弱い点がなければ、必ず傲慢になるからだと彼はわかってたんです。結局パウロのように用いられた人はもうめったにいないでしょう。 新約聖書の手紙は、たいがい彼を通して書かれたもんであり、普通だったらみんな傲慢になっちゃいます。この弱さのために彼は傲慢にならなかったのです。艱難を喜ぶようになったのです。 不平、不満、疑惑、反抗などが喜びと感謝に変ることができた人は本当に幸せではないでしょうか。この片手のなえた人は人間的に考えれば気の毒な人だったと思うんです。不幸だとみんな判断したのではないかと思います。 けども彼は、この病気を持っていたからこそ、イエス様を知るようになり、そしてイエス様を知ることこそが救いそのものであります。ですから何があれば幸福とはなにか?不幸とは何か?ということについて、真剣に考えることは非常に大切ではないかと思うんです。 変な新興宗教もありますし、間違った方へ行く教会も数え切れないほどであります。成就されているのは、イエス・キリストだけが中心になることではなく、人間の一時的問題解決だけです。 お入りになってください。何10万円払えばガンまで治ると約束されます。変な宗教に入って病気が癒された実例はいっぱいあります。なぜならば、悪魔も人間の体を簡単に癒すことができるからです。 けどもショッキングなことは何であったかといいますと、こういうふうに完全に癒された人々は喜ぶべきものなんですけれども、全然喜びがないし、平安もないし、癒された後で自殺する人、ノイローゼになった人々、数え切れないほどいるんです。 どうしてですか?この癒しとは神によって与えられたものではなく、悪魔の業であるからです。神はいつも、全てを長い目で見てくださるのです。肉体の癒しよりもたましいの癒しを大切にする方です。 たとえばガンだって治されたとしても、その人は必ず何年、何10年後で死ななくちゃいけない。だからこの病気の癒しだって、一時的な問題の解決でしかない。 全てを長い目で見てくださるのです。神は病気を癒すことよりも病気を与えるお方じゃないかと思うんです。問題がなければ、困難がなければ人間は死後の世界について考えようとしません。 昨日、一昨日、ある姉妹の葬儀だったんですけども、34才でガンで死ななければならなかったのです。もし彼女は奇跡的に癒されたとすれば、みんな「よかった、よかった。」としか言わなかったと思うんです。自分の救いについて真剣に考える人は一人もいなかったでしょう。 けど彼女は生ける望みをもって安心して死ぬことができたから、多くの人々はやっぱり真剣に考えるようになってます。彼女の義理のお母さんは私に、「あのような死に方はあり得ないことです。彼女の信仰は本物だった。私は仏教信者ですけども、そんなことは考えられなかった。」と言ってたんですし、必ず今から真剣に求めるようになると思うんです。 そして本人は妹に、「イエス様は簡単に癒すことができる。私は全然うたがいません。私の癒されるのは、一つの奇跡でありましょうけど、もっとも偉大な奇跡は病気が治らないで、安心して、喜びをもって、希望をもって死ぬことができるじゃないか。そしてイエス様はこの奇跡を成し遂げてくださった。私は全然心配しません。」と、言ったんです。 ですから妹は驚いて、私に何回も、「お姉様強い。お姉様強い。」と言ってたんです。 この間の23日でしたか、交わり会があったんです。そのときある方が証ししてくださったんです。お坊さんの娘さんなんです。 今学校の先生として勤めてるんですけども、あのお母さんも死ぬ前にはっきりイエス様を信じ、希望をもって死ぬことができたんです。 お母さんはご主人の前、結局お坊さんの前に、イエス様に祈って自分の罪を告白して、救いのために感謝したんです。そのとき、ぼくは意識して聖書の個所、全然読もうとしなかったんです。全部あのお坊さんに頼んだのです。「読んで来て下さい。奥さんのために。」、彼は素直に全部読んできて、福音を全部聞いたんです。 そして後で心から感謝したのです。ぼくはあのお坊さんも救われたと信じています。彼死ぬ前にちょっとだけ、交わったんです。それから、彼と話すことできなかったんですけど、福音を宣べ伝えることができたんですし、祈ることができたんですし、そして、「あなたはやっぱり奥さんのところへ行きたいんでしょ、天国へ行きたいんでしょ。」、彼はもちろん素直にうなずいたんです。 あの娘さんはその大学生として不安定になり、人生とはどんなものかと知りたかったから、いろいろな本読んでたんです。ちょっと面白いことなんですけれども、ガンに罹った患者さんの本ばかり買って夢中になって読んでたそうです。 そしてそのとき彼女の発見したことは、「二種類の人間がいる。一種類は死を恐れる人間、もう一種類は死を恐れない人間である。」と。間違いなくそうなんです。 ある人々はあきらめて死に向かうようになり、他の人々は生き生きとした希望を持って死に向かう人々ではないかと思うんです。 最近天に召された姉妹は、生き生きとした希望を持って、安心して死ぬようになったんです。死ぬ前の二、三日前に病院に行った時、彼女は、「私は全然心配しません。」と言われたんです。 結局これは戦いの終わりだと思ってたんです。自分の絶望している時、主人を見た時、彼女は喜ぶことができなかったはずです。ですから、少なくとも死ぬ前に主人救われてもらいたいという気持ちでいっぱいだったと思います。 それからもう少し、イエス様のために頑張りたい、実を結びたい気持ちでもういっぱいだったんです。それはわれわれの想像できない戦いだったと思うんです。 けども全て委ねることによって、「もう心配しません。もう少しでイエス様と一緒にいられる。」という確信を持つようになったのは、本当にやっぱり、主の勝利のあらわれだったんです。 (テープ A面 → B面) 詩篇10:14
たとえば、30何才かでガンになれば、そして医者は、はっきり手遅れだと言うと、おそらく第三者は不幸だと言うでありましょう。不幸とは何であるかといいますと、幸せになるための手段ですと聖書ははっきり言ってます。 「不幸な人は、あなたに身をゆだねる。」不幸を知らない人は、結局自分の力に頼って頑張ろうとする、結局絶対に救われ得ないということです。 ある人は全部うまくいけば幸せだ、家を持ったり、金持ちになったりすると幸せだ、出世したり、いい人と結婚したり、健康であったりすると幸福だと考える人がもちろんいっぱいいるんです。けども全部うまくいったとしても、心そのものは満たされていないのは事実なんです。 今日も一人の人と会いますけど。割合年配の方なんですけども、やっぱり幸せじゃないんです。何時死ぬかわかりませんし、財産いくらでもありますし、この間どなたか彼女の家を買おうと思って、100億円提供したんです。そういう人なんです。 結局そのような人が外から見ると、そのような人は幸せであるべきでしょう。けど心は満たされていません。欲しいものを全部与えられたとしても、人間の心そのものは空っぽなんです。 ですから幸福とは、幸せとはいったい何なのでしょうかと考えることは非常に大切なのではないかと思うんです。 もう何10年も前に亡くなった友人が言ったんですけども、彼は30何年間寝たきりだったんです。手足動かなかったんです。自分のお父さんの所為(せい)だったんです。叩かれるようになり完全に中風になっちゃって、普通だったらこの世をのろう気持ち決まったことでありましょう。 けども彼のところに行ったとき、見舞いに行った時慰める必要はなかった、いつも慰められちゃったんです。彼は、「私は不幸になることによって幸せになっちゃった。イエス様知るようになったから。うれしくてうれしくてしょうがない。」、いつもこの態度とったんです。 彼は本当に幸せな人です。絶えざる喜びに満たされた。本当の幸せはただイエス様を知ること、イエス様との交わり、出会いを通してのみ与えられるものです。 マルコの福音書に戻りまして、この3章に出て来る病人とは、結局幸せになっちゃったんです。どうしてですか?イエス様を、イエス様の救う力を体験的に知るようになったからです。 彼はもちろん、自分ではどうすることもできない悩みを持っていました。そして彼はこの悩みをもって、イエス様のみもとに行ったんです。大切なのはそれだけなんです。ありのままの状態で悩みをもってイエス様のところへ行くことです。 イエス様はその人に2つのこと命令してくださったのです。最初の命令は、「出て来なさい。」という命令だったんです。 出て来なさい。彼は手がなえただけだったから、出て行くことはそんなに難しくなかったと思うんです。けども、彼は他の人間から群衆から出なければならなかったんです。 ぼくよく思うんですけど、現代人の多くはいわゆる大衆人間になっちゃったんではないか思うんです。やっぱり周りを見てそれから行動する。みんなやってるからです。みんなやってるからだからいいじやないか、間違っていても仕方ないじゃないか、みんなやってるからです。 この考え方は決して、決してよくないということなんです。結局いつも周りを見ると本物はなかなか得られないのではないかと思うんです。出て行くことは大切です。この病人はイエス様の命令に従って出て行ったのです。 第2番目の命令とはちょっと違ったもんだったんです。「手を伸ばしなさい。」この命令はもちろん彼にとって、まったく不可能なことだったんです。 結局なえた手を持ってる人は手を伸ばすことができません。あり得ないことなんです。けどもイエス様はそのことを命令なさったのです。ここでも言えることは、イエス様の言葉には力がある。 イエス様は、「私の言葉は霊です。いのちです。生かす力を持つものです。癒す力を持つものです。解放する力を持つものです。そしてこの言葉に従う人は、もちろん力を与えられます。」 みことばに頼る者にとっては不可能なことは可能になる。これこそがこの病人の経験だったのです。イエス様が手を伸ばしなさいと命令した時、彼は困った顔して、できない、できない、困ってる、困ってるとは言わなかったんです。従ったんです。 もし、彼がイエス様の命令に従わなかったならば、もちろん奇跡は起こらなかったでしょう。彼は前と同じように、あわれな、そしてみじめな状態にとどまっていたでしょう。 彼は手を伸ばすという、彼には不可能に思われることをあえてしたんです。結局自分の手がなえてるという現実から、すなわち目に見える世界から意識的に目を背けイエス様に従ったんです。 信仰とはそれなんです。できるかできないかは問題じゃない。命令されてるから従う、こういう心構えがあれば奇跡が起こる。ためらったり、ちゅうちょすることなく、彼はイエス様のみことばに従ったのです。幼子のようにみことばに頼ったのです。 片手のなえた人が手を伸ばそうとすることは、この普通の人の目から見れば、もちろんおかしいことですし、幼稚な子供っぽい理想にすぎないでありましょう。けど神の目からすれば、それこそ幼子のような信仰に他ならない。 イエス様はよく言われたのです。「幼子のような信仰がないと、幼子のように素直にならないと決して救われません。天国に入れません。」と。 このマルコの福音書3章を見ると、パリサイ人たちもイエス様が癒しの奇跡を行なうのを見たんです。自分の目で見ることができたんです。彼らは非常に批判的でしたけども、イエス様の癒しは本物ではないと一回も言えなかったのです。認めざるを得なかったんです。自分の目で毎日確かめることができたからです。 現代人の多くはこのような個所を見ると、ちょっとおかしいじゃないかと考えるんです。どうしてであるかといいますと理性でもってつかめないことだからです。当然です。問題は奇跡があったかなかったかということじゃない。イエス様はニセモノだったか本物だったかということなんです。 もしイエス・キリストは、約束された救い主、真の神であるならば奇跡だって普通なんです。当たり前のことです。神のなさることは奇跡ばかりだからです。 もしキリストがニセモノであったならば、もちろんあり得ません。そしたら聖書全体は捨てるべきものであり、うそなんです。 パリサイ人たちは、イエス・キリストの敵たちは、イエス様の奇跡は全部本物であると認めざるを得なかったのです。けども、彼らはどうしてイエス様を素直に信じようとしなかったであるかいいますと、イエス様の前に頭を下げたくなかったからです。結局悔い改めたくなかったからです。悔い改めたくない人は本当にみじめになります。 今日似てる人はいっぱいいるんです。神に対してじゃないかも知らないけど、人間に対して絶対に許さないという態度を取る人はいっぱいいます。どうしても不幸になろうと思えば、その態度をとり続けなさいと言えるんです。何にもなりません。相手の人にも、自分で滅茶苦茶になるからです。 当時の律法学者たちは、何があってもキリストの前に頭下げませんと決心したのです。本当に気の毒だったんです。 イエス様はどうしてこの病人を癒していてくださったのでありましょうか、もちろん自分の約束された救い主の権力を表すためです。そしてもちろんこのみじめな病人を幸せにするためだったんです。 もちろんイエス様はこの病人を今癒すと、みんなもう怒るようになり、出かけて、いかにして自分を殺すことができるかと相談になる。前よりも憎まれるようになるとイエス様は知りながら、この病人を癒していてくださったのです。癒さざるを得なかったのです。 癒しの奇跡によってパリサイ人たちの怒りを招くことをよく知りながら、この病人を癒していてくださったのです。結局イエス様は自分のこと守ろう、自分のことについて考えようという気持ち全然なかったのです。この病人が幸せになれば私は喜ぶ、これはイエス様の絶えずとられた態度だったのです。 他の人々の気持ちとは、いったいどういうことだったのでありましょうか。2節と6節見るとわかります。 2節見ると、パリサイ人たちがイエス様を訴える口実を見つけようと様子をうかがっていたことがわかる。そして6節を見ると彼らはイエス様を殺そうと相談し始めたと書いてあります。 なぜイエス様とパリサイ人との分かれ目は、癒しを通して前よりも大きなものになっちゃったのでありましょうか。イエス様は彼らが心の中で考えてる悪い思いを知ったにもかかわらず、依然として彼らを愛し続けたのです。けどもそのことを通して、彼らの敵対心はますますひどくなってしまいました。結局イエス様の愛を受け入れないで拒む人は、その心がますますかたくなになってしまいます。ますます「めくら」にされてしまうんです。 けどもそれと反対に、イエス様の愛を受け入れ提供されたものを受け取る者だけが、本当の幸福を知るようになります。イエス様を通して本当の幸福を知ったものは、もはや悩みの中にいることはありません。 それに対してイエス様を知らない他の人々は、全てそれを知ろうと知るまいが大きな悩みの中におかれています。マタイの福音書の中にイエス様は、重荷を負うて苦労している者は、精神的に疲れている者はキリスト教に入れということじゃない。教会員になりいなさい、聖書を研究せよということじゃなくて、ありのままの状態で、この病人のように悩みを持って私のところへ来なさい。私は休ませてあげますと呼びかけておられます。 このマルコの福音書3章を通して、絶望的な病人といのちそのものであるイエス様を見ることができます。この2つの、二人の人格者が一緒になったとき完全な癒しが行なわれたのです。 この癒しとはどういうふうに行なわれたかといいますと、イエス様のひと言、ただ一つの命令が癒しの奇跡を行なったのです。イエス様のみことばは力に満ちたものです。 光がなかった時、主なる神は「光よあれ」と言って、光になったと書いてあります。主なる神が命令すると命令どおりになる病人が癒されることは当然なことです。これと同じようにイエス様の言葉に忠実に従う者は、誰でもイエス様の力を体験することができる聖書ははっきり言ってます。 イエス様のみことばの力を体験するための前提条件とは何なのでしょうか?前にも言いましたように幼子のような素直な信仰だけです。 信仰の土台は、もちろん自分の考えてること思ってることじゃなくて、神の約束です。神は約束してくださったから、神はうそつきじゃないから、ありがたいと信じます。この断固たる態度こそが幼子のような信仰です。 片手のなえた人が持っていたのはこのような信仰だったのです。イエス様はそのような信仰を見て マルコの福音書2:5
と言われました。このような神の約束はもっとも素晴らしいものではないでしょうか。 自分の過ち、わがままは赦されてると確信できる人だけが幸せであるからです。私たちは目に見える、いわゆる現実だけを見ると、全てが望みのないもので満ち満ちていることを認めざるを得ないのでありましょう。 けどそれから目を反らしてイエス様を見上げ、イエス様のみことばに信頼し、全て委ねるならばこの病人のように癒しと、救いと、解放を体験することができます。 聖書の救いとはどういうもなのでありましょうか?罪からの解放、罪の赦し、人間の恐れる恐れからの解放、また前に言いましたように、死の恐怖からの解放こそが聖書を通してて提供されてる筋です。 幼子のような信仰があるところにはどこでも、必ずこの真理を味わい知る体験が存在します。本当にイエス様は私たちが素直な心で、幼子のような信仰を持つことを待っておられます。なぜならば、それを通してのみ、神の栄光を拝することができるからです。 |