悩んでる者の逃れ場である主


ベック兄

(レトロテープ聞き取り)

引用聖句:詩篇23篇1節-6節
1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

イザヤ書53:6
6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

ペテロの手紙第I、2:24-25
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

ヨハネの福音書10:27-29
27わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
29わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

昨日結婚式があり、今朝は洗礼式があったし、その後で納骨式もありましたし、記念会もありましたし、今福音集会ですし、午後は音楽会になりますし、けど内容は全部同じなんです。イエス様を紹介する会それだけなんです。
なぜならば人間にとって必要なのは、牧者なるイエス様を知ること、牧者なるイエス様の近くにいることだけなのではないでしょうか。

一昨日でしたか、一人の姉妹の証を聞きました。泣きながら姉妹は、「私は駄目です。偽善者です。私の中から出ることは悪いことばっかりです。何を言ったらいいでしょう。」私は、「おめでとう。」と言っただけなんです。結局それがわかれば素晴らしいのではないでしょうか。
今朝祈りの中で、ある兄弟がヨハネの黙示録の3章の個所を引用してくださいました。
あなたはなまぬるい、非難すべきことがある。あなたははじめの愛から離れた。この言葉はわれわれにも当てはまる言葉ではないでしょうか。

昨夜遅く台所で、ある兄弟の話が出てきたのです。彼はおそらく夜遅かったでしょう。まだ現場廻ったんです。そして7mの深い穴の上に、結局若芽らしい物しか置いてないんです。木、何にもないし、もちろんこれ穴だと誰もわからない。彼はその上を通って、落ちそうになったのです。すぐ手を伸ばして助かったのです。おそらく落ちたら死んだでしょう。
娘さんはその前にお父さんにいろいろなこと書いたらしいのです。その中でもちろん、あの携挙こと、全然思わなかったでしょうけど、彼女は何と書いたかと言いますと「穴に陥る羊もある。」、結局人間とはそういう者です。

先週私たちは、羊なるイエス様について少しここで学びました。本当にイエス様は比類なきお方です。生きておられる方であり、人間のあらゆるわがまま、あやまちを赦すお方であり、どういう人間であれ愛していてくださるお方です。
ときどきイエス様とはどういうお方?と聞かれます。イエス様を信じれば得るものはいったい何?と聞かれます。一番いい答えは詩篇23篇でないでしょうか。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがない。」もう、喜びに満たされている。
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」もう、一人ぽっちじゃない。

羊飼いなる主とともにいることができることこそが、最高の幸せなのではないでしょうか。ダビデは他の人々よりも羊のことわかったじゃないでしょうか。
ペテロ、ヨハネだって魚のことよくわかたと思います。専門家だったから。
ダビデも羊飼いだったんです。羊はどういう愚か者であるか、彼は何回も何回も経験しました。けど彼はやっぱり人間は、みんなそういう者ですと、もちろん聖書を通しても知るようになったし、実際的な経験によってもわかりました。
イザヤは、私たちはみな例外なく羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かってた。みなめくらにされてしまったし、どうすればいいかとわからなかったけど、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。

主は確かに比類なきお方であり、イエス様の偉大さを私たちはいくら考えても理解することができません。人間はどうしょうもない無力な者、何も知らない者です。羊は自分で自分自身を守ることができない動物です。

最後に読まれましたヨハネの福音書10章の中で、イエス様は自分の羊たちについて少し話しました。イエス様の羊となった人々について3つのことが書かれています。

第1番目、彼らは私の声を聞き、その声を知り、そしてその声に聞き分けます。
確かに羊は愚かだと言われています。けども羊は羊飼いの声がわかる。他人が羊飼いの声を真似して羊の名前を呼んでも羊は見向きもしない。何があってもちゃーんと羊飼いの声を聞くことができる。
そして彼らは主の声を聞く者であるだけではなく、聞く耳を持つ者であり、主の声を聞き分ける者であり、それからもちろん主に従うものです。羊の特徴とは、彼らは羊飼いの声を聞き、知り、その声を聞き分けます。

第2番目、イエス様は、「わたしの羊たちを、わたしはよーく知ってる。」彼らの思っていること、考えていること、すべての悩みをわたしは全部知ってる。そしてまた彼らによってよーく知られている。
パウロは主の前に殉教の死を遂げる前に、テモテへの手紙第IIの中で書いたのです。私は自分の信ずるようになった方をよーく知ってる。大体の人間はイエス様についてのうわさを聞いただけで、イエス様についていろいろなことを知っているのですけど、イエス様ご自身を知らなければ全部意味のないことなのではないでしょうか。

第3番目、私の羊たちは私に従います。私はイエス様を信ずるけど、当分の間自分勝手の道行きたいという人の信仰は本物ではない。信ずることとは従うことです。
確かに聖書に何回も、何回も強調していることは、羊とはみな駄目、愚かです。どうして愚かであるかといいますと、自分の身の危険を感じられません。羊を殺そうと思っても反発しません、考えられない。羊に何を教えても何も覚えられないらしい、全然駄目。方向感覚ゼロです、結局駄目なんです。
そして宗教にとって、毒されている人間、いわゆるヒューマニストたちは何を考えているかといいますと、愚かな羊は一生懸命頑張ればライオンにならなくとも、虎ぐらいにはなるのではないか。けどそれ無理な話です。
けど羊として生まれた者は死ぬまで羊です。信ずる者も考えているのはイエス様の救いにあずかる者は迷える羊じゃない。小さい牧者になっているじゃないか。
それも同じような、とんでもないあやまちです。信仰があってもなくても、人間は迷える羊です。ですから、絶えず、みことばに頼らなければ、聞く耳を持っていなければ、「主よ。どーうか導いてください。」という切なる祈りがなければ、簡単に変な方向に行ってしまうようになります。

みことばは、人間はみんな迷える羊であり、おのおの自分勝手な道に向かう者であります。結局わがままなんです。わがままだけだったらまあまあ大体の人間は頑張って、努力すれば何とかなるのではないかと考えてます。これこそ愚かさそのものです。
人間はなぜ自分が生まれたのか?人生の意味は何であるか?死んだ後どうなるのか?ということを、もちろんわかりません。これこそが愚かだとイエス様は言われたのです。
羊とはどこまでも羊であり、そしてまた羊にとどまるのです。人間もどこまでも人間であり、守りなく助けのない存在にすぎない。その状態にとどまる者であると聖書ははっきり言ってるのです。

ある人々は言います。「失敗は成功のもとだよ。」、と。もしそれ本当だったら、助かるけど現実見ると違う。失敗してから本当に、「私は駄目、どうしようもない者です。主が守ってくださらなければ、導いてくださらなければ、駄目だ。」、とわかればありがたい。けど、「ちょっと失敗した、今からもっと努力すれば何とかなる。」、と思えば悪魔は確かにうれしくなるけど、イエス様は悲しくなります。
人間にとって必要なのは、よき牧者を知ることです。よき牧者と結びつくようになると迷ったり、むなしく捜し求めたりすることをやめます。けど依然として羊のように、どうしても助けと導きを必要としてます。けどイエス様の御手の中で自分が守られていることを知ることとは、幸せなのではないでしょうか。
誰が主の羊に属するのでしょうか。ペテロはあなたがたは羊のようにさまよっていました。しかし今は自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとに返ったのです。ふるさとに帰ったこれこそ救いです。主の声を聞くことはどうしても必要です。
「主よ。語ってくださいしもべは聞いております。」

何ヶ月前だったんですけれども、ちょうど祭日でしたから、みんなは遠足気分になって富士霊園まで行きました。納骨式のためなんですけど、急に墓の前で、「やー大変だ、大変だ。何?写真を忘れました。写真飾ろうとしてきれいに忘れました。」、それで別の姉妹の代わりのものあるというのです。バッグから、ちいちゃいこれくらいのフレームに入ってるみことば持って来たんです。差し上げるために書いたんです。
「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」そして、これは墓のところで飾るようになったんです。後で一致して言われたのは「本人の写真よりもみことばがよかった。」本当にそうよ。
けどこういう励ましの言葉はすばらしい、「主よ。語ってくださいしもべは聞いております。」この態度があればOK。

イエス様は、「私の羊は私の声を聞きます。」、とはっきり言われたのです。聞くべきじゃないよ。主に属する者は聞く耳を持ってます。主に属する者は、「主よ。語ってくださいしもべは聞いております。」そういう心構えを持った者です。
ヨハネの福音書で次のように言われました。イエス様はいつも強調したのは聞くことと、信ずることとは同じだよということ、

ヨハネの福音書5:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

聞くことと、信ずることとは同じである。信ずるということは持つことです。まったく空気じゃなくて、永遠のいのちを持つことであるとここで書かれています。
イエス様の御声を聞くということは、イエス様の声を知ることであり、イエス様の声を知ることとは、結局主ご自身を知ることになります。これこそが大切です。
決心するということは十分ではない、罪から離れることも決して十分ではない。もっとよくなりたいと思うことも、もちろん足りません。大切なのは、主を知ること、御声を聞くことによって主を知ることです。
主の御声を聞くことは実践的な意味を持っています。すなわち主のみことばを真剣に受け止め、自分のものにすることを意味します。イエス様は、もちろん福音を宣べ伝えただけじゃないのです。イエス様こそが福音そのものです。イエス様は救いを提供したお方よりも救いそのものです。

このイエス様はよく悩んでいる人々、望みを失ってしまった人々、絶望してしまった人々に、ひと文章言って、彼はいっぺんに元気になったのです。
イエス様は一回も、頑張って、頑張ってと言ったことがない。イエス様は「子よ。安心して、あなたの罪は赦されています。」、赦されたと聞いた人々は、もう瞬間に元気になっただけじゃなくて、死ぬまで忘れられなかったのです。
悔い改めてイエス様のみもとに来て、めぐみを切に求める者は、私の罪は赦されているというみことばを信ずることができます。迷える羊として、わがままな人間として、イエス様のみもとにくる者は、罪を赦されるということを知ることができ、これこそが否定できない事実です。イエス様は自分の羊について語れば「私の子よ。聞く、知る。結果として私自身を知るようになる。」

2番目のイエス様の言われた言葉とはご自身の羊たちについて、すなわち「私は彼らを知っている。私のものは私を知っている。」とあります。
イエス様が私たちを知っておられるということは、本当に大きな慰めです。イエス様はあなたの様々な戦いを知っています。イエス様はあなたの失望もご存知です。
けどもイエス様は、ただ全部知っておられるお方だけではない。すべての背後に導いてくださり、そしてもちろん最後の最後のこともわかります。イエス様は私たち一人一人のために、まったく個人的にご臨在しておられ、よき牧者であります。
よく引用される個所なんですけれども、マタイの福音書7章・・・

(テープ A面 → B面)

・・・反対なのは、私に属していない者は全然知りませんということになります。そういう人々について、マタイの福音書に次のように書かれています。

マタイの福音書7:21-23
21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

イエス様の恐ろしい判断なのではないでしょうか。すなわち「わたしはあなたがたを決して知らない。不法をなす者ども。」
彼らの不法とは何だったでしょうか。彼らは聖書について語り、イエス様の名前を使って悪霊はだしたし、イエス様の名によって奇跡をたくさん行なったのであることがここで書かれてます。
けども彼らは、もちろんイエス様を知らなかったし、イエス様と結びついていなかったのです。私から離れたら全部駄目、実にならないとイエス様は何回も、何回も言われたのです。
イエス様は、私は自分の羊をよーく知ってる。けどここで「私はあなたがたを全然知らない。私から離れよ。不法を行う者。」、と自分の力によったり、悪霊の力と結びついて行なう場合には犠牲を行なうということでさえも不法を行うことになり得る。

救われていることの特徴とは、主の御心を行なうことです。御心とは何なのででしょうか?
自分を見ないで、他人を見ないで、置かれている環境に支配されないで、ただイエス様をよき牧者を見上げることなのです。

私は、私の者によって知られてる。彼らは私をよく知ってるとあります。イエス様はよき牧者であるということを知ることは大切ですけど、もちろん十分ではない。このよき牧者は自分のものである、私のものであると確信できなければ、結局自分にとって無意味です。
イエス様は私の牧者であるから、私には貧しくない。というのは、イエス様が私を伴われ、イエス様は私を導いてくださり、イエス様は私を力づけてくださり、私の近くにおられ、私とともにおられます。

最後にイエス様はもう一つのことを言われました。「彼らは私に従います。」主について行くと言うことは主に従うことです。主に従う者は主の羊に属する者です。
主について行くことが赦されているということは、素晴らしい特権なのではないでしょうか。人はもはや暗闇の中で手探りする必要はない。人はもはや迷う必要はない。
私はイエス様を信じてると言いながら、日常生活の中には、本当に主に従っている要素が見えない人々もいます。けど従順なき信仰はあり得ない。それはせいぜい迷信、あるいは思い込みにすぎないからです。

イエス様を信ずる者は永遠のいのちを持ち、永遠のいのちを持つ者は、イエス様をもっとよく知りたいと思い従順を通して、イエス様に喜んでいただきたいと願う者です。
イエス様が次のことを言われたのは、いわゆる注意や警告としてではない。すなわち私の羊たちは私の声を聞き、彼らは私について聞くべきであるなのではない。むしろ、イエス様は私の羊たちは私に着いて来るということを事実として言われました。

私たちはイエス様に従って行くなのでしょうか?主の御心はわれわれにとって本当に大切なのでしょうか?イエス様がパウロに出会った時、パウロは尋ねました。「主よ。私は何をしたらいいのでしょうか。」この質問を通して、彼は何を明らかにしたかと言いますと、「いままで私は自分自身の主でした。私は全てのことが完全に間違っていたということを認めざるを得ない。私は神に仕えたと思いましたが、実際は悪魔に仕えていた。私は生きる神に対して、まったく盲でした。
今から私は何をなすべきかわかりません。どうか私を導いてください。私はあなたに着いて行きたいからです。」
こういうふうに、パウロはいっぺんに変えられました。イエス様との出会いを通して、パウロは私が愚かな羊にすぎないけど、主は私のよき牧者です。愚かな羊として、私のどうしても必要なのは、イエス様によって守られていること、導かれることです。

イエス様とは私たちにとって、本当によい牧者なのでしょうか?イエス様は私はニセ者ではない、うそつきでもない、詐欺師でもない、私は約束された唯一のよい牧者だよと言われました。
われわれは、この主とは私のものです、私の牧者であるから、私はこの主に信頼し、この主に従いたいと願うようになれば、大いに祝福されます。イエス様だけが、人間の空っぽの心を満たすことができるのです。この主に頼る者は決して、決して失望させられることはない。




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