死は勝利にのまれた


ベック兄

(広島喜びの集い、2009/09/06)

引用聖句:ヨハネの福音書11章1節-16節
1さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
2このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
7その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
8弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
9イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
10しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
12そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
13しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
14そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
15わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
16そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

今朝の題名は、「死は勝利にのまれた。」とつけたいと思います。
イエス様は圧倒的な勝利者です。そして、イエス様の願いとは、私たちも勝利者になることです。
イエス様を信じ、イエス様を知るようになった兄弟姉妹は必ず、「主を喜ばせたい。御心にかなう生活をしたい。」と願っていますけど、いくら頑張っても、なかなかうまくいかない。だから、平安がなく喜びも勝利も知らない。たえず上がったり下がったりしているのです。

イエス様を信じながら罪を犯す可能性があり、感情的になり分別を失う可能性もあり、またねたんだり、肉の欲に負けたり、お互いに争いあったりすることもあり得ることです。これは勝利ではありません。
けれども勝利とは、いったい何なのでしょうか。聖書がはっきりと言っていることは、まず罪の問題の解決です。
「赦された。自分の過ちは永久的に忘れられた。」、そう言う確信を持つ兄弟姉妹こそ幸せなのではないでしょうか。

また、勝利とは孤独からの解放です。たまに寂しいけど、決してひとりぼっちではない。主は、いつも近くにおられ、ついておられる。決して、私から離れない。私を捨てない。と言う確信を持つ人々は、幸せなのではないでしょうか。
それから、もちろん死を恐れる恐怖から自由にされることです。
有名なルイ14世は、葬式の列を見たときにすぐ命令したのです、「カーテンを閉めろ。」、またゲーテは、一番親しい友達の葬儀でさえも出ようとしなかった。やっぱり死について考えたくない。それは人間の共通点です。日本人の気持ちだけではない。

人間とは何でしょうかね。ヘブル人への手紙の2章によると、人間とは考えられない程、かわいそうな存在です。「人間とは死の恐怖につながっている奴隷です。」
考えて下さいよ。「人間とは死の恐怖につながっている奴隷です。」
結局、召された兄弟姉妹の証しを聞くとわかるでしょう。イエス様は、死を克服してくださったお方です。「行かせて、私の主であるイエス様と行くようになるから、お願いです。」

パウロも同じ態度をとったのです。

ピリピ人への手紙1:23
23私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

イエス様を知らない人々は、そう言う気持ちをもちろん理解できません。話しても必ずけんかになります。その意味で、イエス様を知るようになった人々は、確かに変わっている。変人です。死ぬこととは終わりじゃない。キリストと共になることです。
ある姉妹は遺言に書いたのです。これは、大切に保管して置いてください。
「延命治療は、どんなことをお医者に言われても、しないでください。お願いしますよ。手術もしないでください。自然の形で召されたいのです。私は地上での生活が終って、今度は天国での生活が始まったのです。地上での生活を卒業させてもらって、天国での生活に入学させてもらうのです。葬儀どころか祝ってください。お祝いしてください。」

考えられないのではないでしょうか。死は勝利にのまれた。もし、死の恐怖につながっている奴隷が、そう言うふうに言うようになれば、すごいのではないでしょうか。
ある子は次のように言ったのです。「おばあちゃん、おばあちゃん。イエス様、大好きだよ。」「そう。どうして?」「パパは、いつか死ぬ。ママも、いつか死ぬ。でも、イエス様は死なない。」
大人はなかなかわからない。言っても無駄じゃないでしょうか。その意味で、イエス様を大好きになるのは、考えられない程大切なのではないでしょうか。

聖書の大切な命令のひとつは、「主イエスから目を離さないでいなさい。」なぜならば、イエス様から目をそらすとやっぱり悩むのです。悩むようになりますし、落ち込むようになりますし、どうしたら良いかとわからなくなってしまいます。
「イエス様から目を離さないでいなさい。」人間は、簡単に惑わされます。もちろん宗教に入る人々は、皆騙されています。なぜならば要求されるからです。
どうしようもない人間から何か要求されれば、間違っているのです。イエス様は要求されるお方ではなく、与えたいお方です。偽物ではなく、本物を与えるお方とはイエス様です。

また、イエス様は導きたい、守りたいと心から望んでおられます。確かにこのイエス様は、人間のわがまま、過ち、罪を明るみに出すお方です。でもそれだけではない。明るみに出された罪は、もう罪ではない。光だそうです。
もちろん考えられないし、想像することができないけど、聖書がそう言っているから間違いなくそうです。結局、本物のイエス様は近づいてくださるお方です。
いつも聞く耳を持つお方であり、答えて下さるお方であり、恵もうと望んでおられるお方です。そして当然ですけど、イエス様を仰ぎ見ると礼拝せざるを得なくなるのではないでしょうか。

今読んでもらいましたヨハネの福音書11章は、よく知られている箇所です。もし私たちが、聖書を全然持っていなくて、他の聖書の内容を知らなくても、このヨハネの福音書11章だけを持っていれば十分じゃないかな。
イエス様とはどういうお方であるか、やっぱりちょっと知るようになります。けれども本当は、逆に、ますますわからなくなってしまうかもしれません。
イエス様とは、いったいどう言うお方なのでしょうか。言うまでもなく、イエス様の教えたことは大切でしょう。けれどももっと大切なのは、イエス様は何をなさったかということです。今の開いているヨハネの福音書11章を見ると、45節、46節。

ヨハネの福音書11:45-46
45そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
46しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

ここで二回も、「イエスのなさったこと」と、あります。結局、大切なのはそれなのです。ちっぽけな人間が何をすべきかではないのです。人間が何を信ずるべきかじゃないのです。イエス様は何をなさったか。大切なのはそれです。4つの福音書を見てもわかります。
一方において、イエス様の偉大さ、他方において、イエス様のご奉仕の本質を見ることができます。すなわちイエス様の人格と御業が、私たちに明らかにされるのです。
けれども大切なのは、結局、イエス様が何をなさったのでしょうかと言う質問なのではないかと思います。

イエス様は、ベタニヤで何をなさったのでしょうか。確かにこの11章を通して、イエス様の愛、イエス様の考えられない力、イエス様の恵みを知ることができます。
けれども、それにしても、ちょっとつかめない。理解できない。イエス様は、何をなさったかと言いますと、手短に考えると4種類の答えがあるでしょうね。
今日は時間がないから、二つの点についてだけ考えたいと思います。

ひとつは、イエス様は、助けを求められました。けれどもイエス様は、「わかった。すぐ行こう。」と言う態度をとらなかったのです。
意識的に遅れて行きました。けれども、その遅すぎて行くということが最も最善の時だったのです。
二番目、イエス様は、マルタとマリヤの苦しみを共にした。
この二つの点についてだけ、考えてみたいと思います。

結局、イエス様は緊急に来るように求められました。けれども早速赴く代りに、意識して遅らせ、結局、助けようとしなかったということです。
その状態を想像するとわかります。イエス様のことを心から愛した人々は、あんまりいなかったのです。けれども、ベタニヤと言う小さな村に住んでいる三人の兄弟、マルタ、マリヤとラザロは、イエス様のことを心から愛したのです。
けれども、イエス様は助けようとしなかったのです。

確かに、三人ともイエス様の全く特別な友でした。三人の友と、イエス様は、再三にわたって交わったり泊まったりしました。
けれども、ラザロは病気になったのです。その状態は早く悪化しましたので、死にそうな人から離れられない。だから、マルタとマリヤは他の人に使いを頼んだのです。
「イエス様に知らせて。」

ヨハネの福音書11:3
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

賢い言い方ですね。「イエス様、私たちが困っている。私たちが悩んでいる。」と言うより、「あなたが愛しておられる者が病気です。」
イエス様はこの知らせを受けた時、なんとおっしゃったかと言いますと、友達を助けようとするために出かけようとしなかった。どうして?イエス様は自分で考えて動いているのではない。一回も。いつも、まず祈ってから。
詩篇の作者は、「私は祈りです。」と告白したのです。もちろん、人間には言えない言葉だと思う。この言葉も、やっぱり約束された救い主であるイエス様に対する預言の言葉でした。

イエス様は祈りそのものでした。イエス様は、よく祈ったよりも、祈りそのものでした。祈ることなしに考えようとしなかったし、行動しようとしなかったのです。
結局、ラザロの病気のことを聞いたとき、すぐ、「お父様、行きたいけど、・・」「だめ・・」「どうして・・」「ラザロは死にます。でも死んでから行ってもいいよ。死んでから、彼を甦らせなさい。」「あ、そうか、わかった。」
結局、イエス様の変わらない態度とは、「わたしの思いではなく、御心だけがなるように。」、それを考えると、私たちは、イエス様のことを全くわからなくなっちゃう。私たちの態度とは、違うからです。

イエス様は、全く理解できないようなことをなさいました。すぐには、出発しなかった。

ヨハネの福音書11:4
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

ラザロは死にます。けれども神の栄光のためのものです。神の子がそれによって、栄光を受けるのです。神の子であるイエス様が栄光を受けるのです。
どうしてであるかと言いますと、多くの人々が、イエス様を信じるようになり、救われるからです。

ヨハネの福音書11:6
6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

ちょっとひどいじゃないの。身の毛のもよだつような全く理解できない態度です。
あんまりにもひどい。そう考えることもできるでしょう。けれども、全く意識的になされました。イエス様は、何をなさるか、もちろん知っておられました。

ヨハネの福音書11:7
7その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。

どうして?それは父が言われたから。今なら出かけてもいいよ。トマスは、仕方が無くて、「一緒に行きましょう。一緒に死にましょう。」と言ったのです。「危ない、今行くのは。」
私たちは、こうしたイエス様の行いを考えたり、イエス様が、何もなされなかったのを考えると一つの謎の前に立たされます。
けれども、私たちはすでに同じようなことを経験したのではないでしょうか。

私たちは、助けを叫び求めました。主が手を貸して下さるように節に祈り求めました。けれども、私たちの祈りは聞かれなかったのです。少なくても、私たちが期待したようにはならなかったのです。
家族の誰かが死んでも、主が働き助けようとはなさいませんでした。ちょうど同じことが、1,900年以上も前にベタニヤで、マルタとマリヤが経験したことでした。当時、イエス様は何をなさったのでしょうか。一見したところイエス様は、聞こえない耳を持っていたわけです。
イエス様は、彼らを助けるために急ぐことをしないで、全く意識的に遅れてやって来ました。そしてまさしくそのことは、イエス様は、今日もなおなさるお方です。イエス様は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。

私たちは、イエス様の導きをわかろうと思っても無理です。やっぱり、「イエス様は何をされるのでしょうか。」、そう言う問いも出て来ます。
ちょっと、この質問に答えるために7つの事柄について考えたいと思います。

(1)イエス様は、愛しておられます。
(2)イエス様は、私たちが苦しむとき、その苦しみを知っていてくださいます。
(3)イエス様は、ラザロが死を予防することもできましたが、そうされませんでした。
(4)イエス様は、愛されたラザロを死なせないために行動されなかった。
(5)イエス様は、出発前、二日間同じ所に留まられた。
(6)最後に、イエス様はラザロを死から解放された。イエス様と父はひとつで不可能を可能にされた。
(7)最終的な結果は、祈り求めたものより最善であった。

まず一番目について。
イエス様は愛してくださった。たえず覚えるべきことです。

ヨハネの福音書11:5
5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

もちろん、イエス様の愛と、私たち人間の愛はちょっと違うだけじゃない、全く違う性質を持つものです。主なる神の愛は、理解したり把握したりできませんけど、経験することはできます。
マルタとマリヤとラザロも主の愛を体験的に経験した人々でした。だから、彼らの生活は非常に豊かにされた。
私たちは、ある人に無視されたとしても、誤解されても、イエス様は私たちを理解できる。私たちは、イエス様に無視されていない。愛されている。三人ともは、何回も何回も経験しました。

二番目。イエス様は、彼らの困った状態、彼らの苦しみをもちろん知っていたのです。二人は、イエス様の御許に使者を遣わしました。もちろん、イエス様はその情報をよくわかった。けれども、助けを求める叫びを聞き取りながら、イエス様は、彼らの絶望的な状態をご存知でありながら、行動しようとしなかったのです。
私たちは、しばしば主が私たちに対して無関心であると思いがちかもしれません。私たちは、イエス様によって愛されているということを、主が私たちをよくご存知であるということを忘れてしまいます。そうすればもう真っ暗闇になります。
主の愛は、変わらない。理解できない。つかめない。けれども、イエス様は、愛し続けてくださるお方です。

三番目。イエス様は、ラザロの死を予防しようとされませんでした。

ヨハネの福音書11:32
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

その通りです。命そのものであるイエス様にとって、死を予防することとはたいしたことじゃなかったよ。
癒されるために別にベタニヤまで行かなくても、すぐなんです。イエス様が、一言おっしゃってくだされば十分でした。
そう言う実例もあるんです。聖書の中で。

四番目。これはちょっとたいへんです。イエス様は、自分の愛されている友、ラザロの死を望んだのです。

ヨハネの福音書11:37
37しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。

もちろんその通りです。イエス様は、ラザロを死なせないでおきたいとは思わなかったのです。目先だけを見れば、「ちょっとひどいよ。それが愛なのか。」、そう言う人もいるでしょうね。
ほかの他人の人々を助けてくださったイエス様は、どうして、今まで長い間、親しい交わりを持ち、その住まいに何回も何回も訪れたラザロを助けなかったななのか。
イエス様は人間を喜ばせようとは、しなかったよ。誤解されても、無視されてもかまわない、「お父さま、私の思いではなく、御心だけがなるように。」

イエス様は、やっぱり自分が理解されなくなってしまうことは、もちろんわかったのです。
けれども、「私は、自分のことを大切にしません。御心だけがなりますように。」と願ったのです。

五番目、イエス様は、出発する前二日間同じ所に留まっておられた。前に読んでもらいました6節。

ヨハネの福音書11:6
6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

ヨハネの福音書11:17
17それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

もちろんこれは、イエス様にとって別に驚きではなかったよ。父に教えられたからです。
イエス様は全部知っておられました。イエス様をすぐに行かせなかったのは父です。それが、最善の時ではなかったからです。

六番目、イエス様は介入なさいました。

ヨハネの福音書11:43-44
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

もちろん、イエス様はいつも父と一つだったから、もちろん確信を持って大声で叫ぶことができたのです。
イエス様が叫ぶと死者もそれを聞きます。イエス様が命令すると何か起こります。不可能なことが可能になります。
その時、存在していないものが存在するようになる。死も力ないことを認めざるを得なかった。死は勝利にのまれたのです。死んだラザロが甦りました。

もうひとつ、7番目、マルタとマリヤがイエス様から受取ったことは、彼女たちが祈り求めたことよりも良いものでした。

ヨハネの福音書11:40
40イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

彼らは何を望んだかと言いますと、ただ病気の癒しだけ、一時的な問題の解決だけを望みました。けれども彼らは、神の栄光を見るようになりました。
今考えた7つの真理は、もちとんマルタとマリヤやラザロに対するだけではなくて、私たちにも当てはまるものなのではないでしょうか。考えるべきです。もう一回言いましょうか。

(1)イエス様は、愛しておられます。マルタやマリヤやラザロだけではなく私たちをも愛されています。ひとりひとりを個人的に愛されている。
イエス様は、誰に対しても決して無関心ではない。イエス様は、人間ひとりひとりを心にかけておられます。
ぴんと来ないし考えられないけど、間違いなくそうです。


(2)イエス様は、マルタ、マリヤの状態をご存じだっただけではなくて、私たちの状態をも最も正確にご存じです。
イエス様は背後の動機をご存じです。すべてのことにおいて、イエス様は一定の目標を目指しておられます。
イエス様にとって、知られていないことは何もない。

(3)イエス様は、当時の三人の悩みを解決できたお方です。言うまでもなく、私たちの悩みをも完全に変えることができるのです。
イエス様は、私たちの助けの叫びを聞いておられます。そして、イエス様は聞くことと、聞き届けて下さることを約束しておられます。
イエス様は約束を守るお方です。必ず答えてくださいます。

(4)イエス様は、私たちが考えるようには、必ずしも答えてくださいません。
意識的にイエス様は、私たちが苦しみを通して、吟味されることを省略なさいません。私たちは誘惑され、困難なことも知るでしょう。必要だからです。
主は、必要ない悩み、必要ない苦しみ、必要ない病気を与えられないお方です。

(5)イエス様は、父の時が来た時、結局助けてくださったのです。父の決められた時は、最善の時です。人間的に見るならば、もう遅すぎました。ある人が四日間も墓の中に置かれれば、もうお手上げなんです。
でも、イエス様にとって遅すぎることはない。イエス様は当時、助けて下さった。イエス様は今日も助けてくださいます。イエス様は、父の決められた時が来たなら介入なさいます。
悪魔によって惑わされないようにしましょう。遅すぎることはあり得ない。イエス様の一つの名前は、望みの神です。望みの神が生きておられる限り希望がある。

(7)主の答えは、私たちが期待するものよりも、常にはるかに良いものです。
だから期待をもって支配者なる主イエス様を見上げ、主の偉大なることを期待しましょう。

確かに質問があるのです。どうして、マリヤとマルタに対してそのように行動なさったの?
あるいは、私たちは、こんなに多くの困難なことを、理解できないことを味わわなければならないの?
二つの理由を挙げることができるのではないでしょうか。

第一番目、イエス様は理解できないことをたくさん許しておられます。僕はよく言いますけど「イエス様のせいにしましょう。」
偶然はない。全部は、確かにイエス様の導きじゃないよ。けれども、何があっても、イエス様の許しがなければあり得ない。従って、イエス様のせいだと思えばいいよ。
皆さんご存じでしょうけど、私も5年前にちょっと病気になっちゃった。必要なかったのに、多くの方は心配したのです。元気になるように云々と。変な祈り捧げられたでしょうけど。

私は全然癒しのために祈らなかった。どうしてであるかと言うと、人間は5分先のこともわからないでしょう。何もわからない。ですから、自分のために何が良いか悪いかわからないよ。
パウロは、この世を去ってキリストと共にいるほうが遙かに良いと言ったのです。ですから私は、自分の病気のことを祈らなかったけど、その時、ひとりのフランス人の祈りは、私に非常に助けになったのです。
パスカルは、1623年に生まれて、1662年に亡くなったのです。数学者としても、哲学者としてもすごい男でした。皆、それを認めていますけど、彼は病気だったことは余り知られていない。39歳で亡くなったのです。そして彼の祈りは、本当にすごい祈りでした。

主よ。私は健康になりたいとも、病気になりたいともしません。
元気になっても、病気になっても、別にどうでもいい。
しかし、生きていても死んでいても、
あなた様が栄光をお受けになりますように。

私にとって何がいいかどうか、あなた様だけが知っておられる
のです。あなた様こそが主です。あなたの望むままにして下さい。
与えてもいいし、取られても結構です。

主よ、ひとつのことだけを確信しています。
あなた様に従うこととは、自分にとって最高であり、
あなた様を悲しませることは、自分にとって損です。

私にとって必要なのは健康か病気か、わかりません。
富か、貧しさかもわからない、他のすべてのことについて
考えても同じです。

人間にとっても、天の御使いにとっても、全くわからない
のです。私にとって、何がよいか悪いかわかりません。
これは、ひとつの奥義です。
私はそれを知ろうとはしません。

私は、ただ、あなた様を崇拝したい気持ちでいっぱいです。

結局、このパスカルはこう考えたのです。「人間は何にもわからない者です。けれども、考えられない程愛されている者です。病気だって、どうしてあるのかと言うと必要だからです。主は、必要ない悩みや苦しみを与えられません。」
どうして、なぜと考える人は、必ず不幸になります。考えない方がいい。
前に読みましたヨハネの福音書11章4節。

ヨハネの福音書11:4
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

私達に悲しみを加えるためでもなければ、あきらめたり、すべてを投げ出したりするわけでもなく、主のご栄光が現れるために、私達は理解しがたいことを、いろいろと経験させられます。

二番目、イエス様は、ご自分に属する者の信仰を試し、増し加えるために、理解しがたいことをお許しになります。
苦しみがなければ成長もありません。私達は、苦しみに陥らなければ、真剣に主の方に向くことはありません。結局、全部、主のせいにすれば、結局すべては祈りの材料になります。主は、祈りを聞いてくださるのです。

私達の上に何の重荷も置かれなければ、私達は、主の約束にしがみつくことをしない。
従って、いろいろなことで悩むこととは大切です。必要です。

ヨハネの福音書11:15
15わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。

これも、ちょっと理解しにくい言葉です。これもまた、主がどうしてすぐに介入しないで、私達をひとりぼっちにさせるのかの理由なのです。
もちろん私達は、心が混乱し、出たらいいのか入ったらいいのかもわからなくなってしまいます。いくら考えても、もう全くわからなくなってしまいます。
けれども、私達は、次のことを忘れてはなりません。主のご栄光は明らかにされます。そして私達は、そのことによって、主により、いっそう主に近く信仰が強められるようになるのです。

最後に、もう一つの点について、ちょっと考えたいと思うのです。素晴らしい点です。イエス様は、マルタとマリヤと苦しみを共にしたということです。
しばしば私達は、次のように尋ねられます。「家族の者が重病で、負傷したり、死にそうな時、主は何にも面倒を見て下さらないのでしょうか?」あるいは、「配慮して下さらないのでしょうか?」「私達の祈りは答えられずに、そのままで、私達の祈りは過ぎてしまうのでしょうか?」
私達が祈ったとしても、主が簡単に防ぐことができたであろうことが生じます。ひとつのことは明らかです。主は、あらゆる人のことを心にかけておられます。主が無関心な人は、ひとりもいません。

ヨハネの福音書11:32-35
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35イエスは涙を流された。

「イエスは涙を流された。」、聖書の中で最も短い節です。イエスは涙を流された。
結局、もちろん6日前にイエス様は父に知らせたのです。ラザロは健康人として墓から出る。その時イエス様は涙を流された。けれども、おそらく長くても5〜6分で、ラザロは健康人として出て来た。
泣かなくてもいいのじゃないか。結局、イエス様は、泣いてるマリヤを見たとき、もう我慢できない。共に涙を流された。

やっぱり、イエス様のことちょっと、もうわからなくなった。理解できない。マリヤは後で、ラザロの復活について、いろいろなことを証ししたでしょう。
けれども、証しの中心になったのはなんでしょうか。おそらく、イエス様は私と一緒に涙を流された。そのことじゃないでしょうか。
イエス様とは、そう言うお方です。イエス様は、ご自身に属する者たちを心に掛けておられるお方です。イエス様は、その人達の苦しみや悩み悲しみと一体となってくださいます。

私達は、誘惑や艱難の中にひとりぼっちに見捨てられることはあり得ません。
ヘブル人への手紙4章15節を見ましょうか。

ヘブル人への手紙4:15
15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

すなわちイエス様は、私達のことを理解しておられます。イエス様の地上生活の時に、イエス様は多くの悩みを経験なさいました。イエス様は、全く孤独であること、誰からも理解されないことが何を意味しているのか経験しました。イエス様は悩みと苦しみを経験なさったのです。
イエス様は肉体的な苦痛をご存知でした。イエス様は、飢えと渇きにも苦しめられました。また疲れたこともありました。悪魔に抵抗することや、主のみことばだけに依り頼むことが何を意味しているかをイエス様は、知っておられました。
あなたの悩みはなんでしょうか。それをイエス様に言ってください。イエス様は、あなたと一つになって下さり、あなたと共に涙を流して下さるのです。

イザヤ書63:9
9彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

私達は苦しみや苦痛によって、決してひとりぼっちにはさせられません。主にとって、人間一人一人は、考えられない程大切です。
主はまた、私達の最善だけしか考えられないお方です。まさにそうですから、イエス様は私達に困難を経験させるのです。けれども、イエス様は、共に悩んでくださいます。
私達が、すべての苦しみを主に申し上げることをするならば、主がともに苦しんでくださり、私達のことを心配して下さり、主の最善の時に、恵みの奇蹟をなしてくださるということを、私達は経験するようになります。




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