今日このようにして愛する姉妹の納骨式で、少しだけ、聖書の言われているよき知らせについて考えることができるのは、本当に感謝です。 95歳になっても、やっぱり召された時ちょっとさびしくなったでしょうし、もう少しいてもらいたい気持ちもあったのは当然なんです。 今日の納骨式の意味とは、愛する姉妹の生活の結末をよく見て、彼女の信仰にならいなさい。そのためなんです。 習いなさいということは、よく勉強しなさいなのではない。結局愛する姉妹と同じ心構えで将来に向かうことができ、死ぬことができることこそが、主なる神の望みであり、また願いです。 姉妹はおそらく、「よく聖書を勉強して、もうわかったから信じます」という態度とらなかったと思う。そういう人間は存在していないからです。知識を得たから信じますという考え方とは、単なる人間的な思いであり、本物ではない。 知識ではなく、気持ち、心の持ち方は問題であると聖書ははっきり言ってるのです。聖書とは確かに一つの厚い本ですし、けどもけっして学ばなければならない教科書ではない。 聖書全体の言ってることとは、主なる神は高ぶる者を、すなわち頭をさげたくない人々を退け、へりくだる者に恵みをあたえてくださる、救ってくださる。 愛する姉妹は幸せでした。なぜならば、彼女も「私は不完全です。私も過ちを犯しましたし、けど主イエス様は私のために死なれたからありがたい。このイエス様とは私の払うべき借金を自分勝手に払っちゃった。うれしい。」という態度をとることができたのです。愛する姉妹はそれを知るようになっちゃたんです。 「私は駄目。罪ほろぼしのために何にもできないけど、イエス様代わりに死なれたからありがたい。」、主イエス様は私のためにも死なれた、と信ずる者はほんとに幸せです。 けども、姉妹はそれを信ずるようになっただけではなく、「イエス様は私をも受け入れた。」と信ずることができたのです。納得させられたからではない。勉強したからではない。 イエス様は、「へりくだった者としてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てない」と約束してくださったからです。そして姉妹は「イエス様。私も完全ではない。ごめん。」という態度をおとりになったから、彼女は「受け入れられた」と信ずるようになったのです。 わたしのところに来る者をわたしは決して捨てない。決しては、決してです。 イエス様は私のために死なれただけではなく、イエス様は私をも受け入れたと、テイお母様は信ずることができたのです。もう一つの大切なことを彼女は確信したのです。 すなわち「私は病気のため、あるいは歳のために死にません。主の召してくださる時、はじめて死ぬのです。けども死ぬこととはおしまいではない。死んでから永遠の世界に入ることができる。いつまでもイエス様と一緒になることができる」、とお母様は知るようになり、喜ぶようになり、不安から死をおそるる恐怖から解放されたのです。 初代教会の人々と同じように姉妹、「私の国籍は天国です。」と確信することができたのです。 パウロという男は哲学者であり、聖書学者であり、聖書の内容を信じ疑い得なかったのです。けども彼にとって聖書の内容とは、一つの教えであり道徳であると思いこんでしまったのです。 本当はちがう。聖書の中心とは、約束された救い主、また実際にこの世に来られた救い主、また将来再び来られる救い主です。この救い主に対してパウロはまったくめくらでした。それだけではなく、イエス様を信ずる者を彼は命がけで迫害したのです。 何人彼を通して殺されたのか誰もわからない。けども彼はめくらにされていただけなんです。もし真理を知るようになれば、彼は命がけで真理を宣べ伝えるようになり、イエス様を紹介するようになるとイエス様はもちろん知っておられたのです。 彼は確かに世界一のイエス様を紹介する者に変えられました。彼は次のように言うことができたのです。 「キリスト・イエスにあるものが罪にさだめられることは、決してありません。」、意味は「私は安心して、死に向かうことができる。」 「私はこう確信しています。『死』も私の主キリスト・イエスにある神の愛から私を引き離すことはできません。」、死も引き離すことはできない。 彼は、イエス様を紹介したから迫害されるようになったのです。もし彼はただ心の中で信じたならば、押入れの中で小さな声で祈ったならば、彼は別に迫害されなかったんです。 けども彼は、「真理を宣べ伝えないこととは罪です。私はも黙ることはできない。」と言って迫害された者となり、当時の社会の中で結局人気者ではなくなってしまったのです。 何年間彼は刑務所の中ですごすようになったのです。ある時彼は刑務所の中で書いたのです。「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によってキリストのすばらしさがあらわるることを求める、私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては生きることはキリスト。死ぬこともまた益です。」 確かに多くの人々にとって死ぬこととは益ではない。損だ。ですから死について考えたくない人々はいっぱいいます。 けどこの生き方とは的はずれです。今日かもしれないと考えないと、よくない。パウロは「私にとって生きることはキリスト。」、結局キリストからもう離れられない。「そして、死ぬことも私にとって、益です。」 なぜならばあらゆる重荷心配恐怖から解放され、いつまでもキリストと共になると彼は確信することができたのです。 確かに彼は、このピリピ人への手紙1章の中で考えたんです。彼は死ぬことと、生きることとどちらがよいか。考えた時もちろん結論は当然です。死ぬことの方がいい。はるかにいい!と彼は思ったんです。 けども彼は、多くの人々のために奉仕をしなければならない必要性を感じたため、さらに生きつづけることをいいだろうと思ったのです。 もし彼は自分勝手に選ぶことができたならば、もちろん死ぬことを選んだでしょう。「この世をさって、キリストといることの方がはるかにすばらしい」と彼はピリピ人への手紙の中で書いたのです。 結局、人間にとって最も大切なのは、安心して死に向かうことができることなのではないでしょうか。 イエス様は友達の墓の前に言われたことがあります。「わたしはいのちそのものです。わたしはよみがえりそのものです。わたしを信ずる者は、死んでも生きる。」 普通の人間の考え方とは、死んでからもうおしまい。もう死んじゃった。聖書の言ってることとは全く違う。死んでからはじまる。 今の人生がすべてだったら、人間に与えられた人間にいのちを与えられた創造主はちょっとひどすぎ。みんな苦労してます。信仰があってもなくても、悩んでいない人はいない。どうしてかな? 何の悩みも苦しみもなければ、誰も聴くく耳を持ってないよ。「結構です。間に合ってます。幸せ。」、ですからいろいろなことで苦しむこととは幸せなんです。 人間の考えてる不幸とは、幸せになるために必要なものにすぎないけど、人間はそれをなかなかわからない。ながい目で見ることができないからです。 今の与えられてる人生とは、永遠の世界の入るための準備期間にすぎません。 愛する姉妹は、われわれを残して先にゴールインする特権にあずかるようになったのです。愛する姉妹の持っていた信仰とは、決して英雄的な行ないではなかったのです。 彼女は、「イエス様ごめん。あわれんで。私のためにも犠牲になり、救いの代価を払ってくださったからありがとう!」という態度とっただけなんです。 結局イエス様信じることとは自分の無力さ、みじめさを認めることだけ。へりくだればOK、とイエス様は約束してくださったのです。自分を低くする者は受け入れられ、義と認められ、よしとされるようになります。ですから愛する姉妹のあずかるようになった救いとは、決して自分の努力の結果ではなかったし、勉強した報いでもなかったのです。主はあわれんでくださったからです。 私たちも、愛する姉妹の生活の結末、生まれてから死ぬまでの時じゃなくて、彼女の信仰生活の結末をよく見て、彼女の信仰にならうべきであります。 95年間ねえ、生活しなくちゃならない。ふぅ・・・。ある意味で大変なんじゃないの?そんなに楽しくない。 聖書ははっきり、「人生とは苦労と労働。わずらわしさと、悩みである。」と言っとるのです。けどもこの悩み、苦しみ、わずらわしさとは天国に入るための必要なものであると考えると、ちょっと違うなのではないでしょうか。 愛する姉妹の信じたイエス様とは、前に話したようにキリスト教と関係のないお方です。宗教家ではない。人間から要求するお方でもない。自分自身を犠牲にしてくださったお方です。 イエス様とは死を克服してくださったお方です。「わたしはあなたがたの代わりに罰せられ殺されるけど、3日目に復活する。」、イエス様の弟子はそれを信じようとしなかったし、信じられなかったし、かえってキリストと関係をもっていない人々の方が心配したらしいんです。ですからローマの兵隊たちは頼まれて墓を守られるようになったのです。 夜、誰も屍をどろぼうしないように。屍をどろぼうして、「復活なさった!復活なさった!」と言われれば、とんでもない話です。ですから絶対そんなことにならないようにと、兵士たちはちゃんと墓を守ったんですけど、兵士たちの目の前でキリストは墓から出たのです! このキリストに出会って話し合ったり、交わったり一緒に食べたりした人々とは五百何十人でした。 愛する姉妹は、どうして安心して死に向かうことができたかといいますと、イエス様は罪ほろぼしのために代わりに死なれた。このイエス様は私から何も要求しない。聖書の知識も、立派になることも、お金も。へりくだればOK!、と彼女は素直に信ずるようになったから、結局生ける希望を持つようになったんです。 そして、われわれに・・・ (テープ A面 → B面) 姉妹の切なる願いとはいったい何なのでしょうか? 幸いに先に召された人々は、この地上のことを見ることができない。見ることができれば、天国は地獄になっちゃうんじゃないか。怒るようになると思う。 「いったい、どうして信じないなのか!どうして信頼しないなのか!ばかあ。」、という気持ちになるにちがいない。ですから先に天に召された人々は、この世のことまったくわからない。守られてる。 けど、大切なこと知らされるようになります。すなわち、もし今日、今までイエス様に頼らなかった人々は、「私も姉妹のような信仰を持ちたい。イエス様、私もわがままなんです。ごめん。」、この態度とれば、すぐ姉妹に知らされるようになります、と聖書は言ってるのです。 この世で、一人の人が頭を下げて悔い改めると、天国で大いなる喜びがある、とあるからです。ですからもし姉妹が来ることができれば、できませんけど、代わりに僕が言います、彼女は必ず言うでしょう、 「私はたいした知識がなかった。理性でもってつかめなかったし、気持ちもちょっとついていかなかったけど、イエス様信ずるようになったのはよかった。 大好きな家族の人々、大好きな親戚、友人たちはみんな私の所に来てもらいたい。お願い。頭を下げればOKよ。 ごめんなさい。わがままです。ゆるしてと祈ると、イエス様はよろこんでゆるしてくださり、生ける希望を与えてくださる。」 と言うに違いない。 わたしは命であり、よみがえりです。わたしを信ずる者は、死んでも生きる、と約束されてるから、結局希望があります。 |