納骨式メッセージ2


ベック兄

(工藤久平兄、鈴木よつ子姉、岡崎美子姉、三浦璃音彩ちゃん納骨式、2011/04/16)

引用聖句:詩篇23篇1節-6節
1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

聖書の主なメッセージのひとつは、死は終わりではないということです。
最近、かぞえられない多くの人々は、家族の人、親戚の人、知り合いの人を亡くしたんです。また、生きているかどうかわからない人々も一杯います。生ける希望を持っていない人々は、しかたが無いじゃないかとあきらめます。
けれども、聖書に頼る者は確信できます。死は終わりではないと。

もし死でもって終りであれば、人間を創造された万物の造り主はひどすぎる。それはありえない。
聖書の言っていることは、死んでから始まる。
今の人生はどうしてあたえられているかという言いますと、永遠の世界の準備期間として与えらています。

召された人たちは、もし戻ることができても、絶対にもどらない。天国は、あんまり素晴らしいから。
聖書の中で、天国に付いて余り多くのこと言っていない。どうしてであるかと言いますと、人間の言葉で言い表せないからです。あんまり、素晴らしいからです。
ですから、先に天国に行った人々はうらやましい。気の毒なのは、私たち、残されているわたしたちです。

けれども、どうしても持つ必要なのは、私の国籍は天国です、死んだら必ず天国ですという確信が無ければ、もう、全部つまらない、面白くない、何があっても直ぐ落ち込んでしまいます。
けれども、聖書は死は終りではない、イエスキリストは考えられないことを言われました。
私は真理そのものです。命そのものです。よみがえりそのものです。確かに私達はイエスキリストについていくら考えても、ピンときません。つかめない。いくら聖書を読んでも、まったく違う。

このイエスキリストは、友達が重病人になったとき、助けようとしなかった。知らせたんです。「あなたの愛してる友達は危篤状態だよ。」、イエス様は行こうとしない。
二、三日あとで、弟子たちに「行こうよ。」と言われた。「どうして?いやラザロは、もう、死にましたよ。」とわかったんです。
着いたとき、この亡くなった人は四日間墓の中でした。四日間墓の中だったら、もうおしまいだよ。何の希望も無い。望みもない。イエスキリストは行って、彼を呼んだんです。「ラザロ、出てきなさい。」、彼は健康人として出てきた。

それを経験した多くの人たちは、結局、イエス様を信ずるようになったんです。
われわれは生きている間に、キリストの偉大さがまったくわからない。けれども、先に召された人々は、幸せです。イエスキリストを、本当の意味で知るようになったのです。
彼らは誇って、自分が信じたから、自分が悔い改めたから、天国に入ったと思っていないでしょう。なぜならば、自分の持っていた信仰は大したものでは無かったし、自分の悔い改めも中途半端なものだったからです。

結局、みんななんと言えるかといえば、「主は哀れんでくださったから、うれしい。天国は、考えられないほど素晴らしいところである。」
わたしも子ども3人なくしちゃったんですけれど、ある人々はそれを聞くと、気の毒と言うんです。そういう気持ち全然ない。羨ましいね。先にゴールインしたから。われわれは、今日、みな、残されたもの、追い越されたものです。
大切なのは、希望を持って、前向きに生活ができるということです。

パウロはローマにいる人々を励まそうと思って祈ったんです。何を祈ったと言いますと、「どうか、望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によってあなた方を望みに溢れさせてくださるように」
彼は違う言葉でなんと言ったかといいますと、イエスキリストだけがわれわれの望みの源です。望みの神は、望みなく、がっかりして絶望している者の神です。
どんなことがあっても、主は永遠に変わらない望みの神です。だからこのイエス様を信ずるものは、ある意味で、なにがあっても、悩みながら喜ぶことができ、前向きに生活することができるからです。

望みの神、これは、イエスキリストに与えられたひとつの名前ですが、望みの神は一体どうしたら、残されているわれわれの心を、絶えざる喜びと平安と望みに満たすことができるのでしょうか?
答えは信仰によってのみ、すなわち、望みの神に頼ることによってのみ、喜びと平安と望みに溢れさせられます。
いかなる悩み、いかなる苦しみ、いかなる悲しみの中にあっても、イエス様は慰めと望みの神です。

だから、今日の納骨式をどうしてやるかといいますと、もちろん彼らのためではないよ。もう、いないから。ゴールインしたから。われわれのためです。すなわち、いつ死ぬのかわからないでしょう。
最近この国で、亡くなった人の数は誰もわかっていない。まだ、わかっていない。おそらく、将来もわからないでしょう。人間的に考えると悲劇的です。
どうして、なぜと、人間はみな考えますけれど、意味の無いことです。

この赤ちゃん、生まれる前でしょう、なくなったのは。ある意味で、この汚い世界を知らないで、直接天国に行ってしまった。すごいよ。
けれど愚かな人間は、どうして、わたしたちだけそんなに悩まなくちゃと考えます。笑い話です。みんな悩んでいますよ。悩んでいない人はいない。
どうして?必要だから。万物の造り主は、必要ない悩みを、必要ない苦しみをあたえられない。けれどわれわれは、おそらく生きている間に、理解できません。けれど、いつか心から感謝するようになる。

「イエス様、不平不満を言ってしまったけれど、どうしてか、なぜか、わからなかったけれど、いま、わかったよ。」よかったよりも、最善だったとかならず、認めるようになり、結果として礼拝せざるを得なくなるんです。
結局、まことの幸せとは、自分の心を満たすお方、全ての問題を解決できるお方を知ることではないでしょうか?どうしてかといいますと、それによって、その方によって、自分の問題は解決されるからです。
全ての問題を解決できるお方とは、当然です、人間ではない。人間は惨めです。人間は五分先の事でさえもわからない。

私達は、もう少しして、結婚式があるじゃないか、無いかもしれないよ。いや、大地震が起こって、みな、いっぺんに死ぬかもしれない。そういう状況です。
半年先のことがわかれば、まだ楽だよ。けれど、五分先の事がわからないのは人間の惨めさを明らにしているではありませんか。
けれども、今日の4人の兄弟姉妹の納骨式は何のためであるかといいますと、彼らは今日ここまで来ることが出来れば、必ず、言うでしょう。イエス様による以外には救いはない。

イエス様は、自分のわがまま、あやまちを購うために救いの道を開いてくださった。救いの代価を払いました。救われる条件とはただ、悔い改めと、信仰だけ。聖書全体言っていることは、それなんです。
悔い改めるなら、信じてもいい。なにを信ずる?赦されたこと、永久的に受け入れられたことです。
従って、人間にとって大切なのは気持ちです。「ごめんなさい。不完全です。赦してよ。」そういう気持ちがあれば、それで、十分です。考えられない。けれど、本当なんです。

宗教的な考え方はもちろん違う。だから、私達は宗教いやです。キリスト教もいやです。イエスキリストだけです。
キリスト教ではない。他の宗教でもない。宗教は要求します。勉強しないとだめ。わかるものではないのに。宗教は立派にならなくてはと言います。人間は立派になるものではない。生まれてから、死ぬまで、わがままなものではないの?
イエス様はなにも要求しない。ただ、正直になり、へりくだれば、頭下げれば、大丈夫よと言っているのであります。

結局、人間の考えてること、人間のやってることは全然大切ではない。主なる神がなにを語っておられるか、なにをなさったか、これこそが重要です。主なる神が、イエスキリストを通してなにをなさったかということこそ、全ての全てです。
聖書は言っています。「主イエスは私たちの罪のために死にわたされ、私たちが義と認められるために、よみがえられた。」聖書全体のいわんとしていることは、それなんです。
そして、この主なる神の呼びかけは、考えられない、想像できない、すなわち「私はあなたを愛する」。聖書はそういっているから、信じますが、どうしてだか、わかりません。つかめ得ないのです。

「私はあなたを愛する」というこの約束は、決してむなしい空約束ではない。宇宙の創造主、万物の作り主ご自身がそう言っているので、本当にありがたい。証拠なるものは、イエスキリストの代わりの死です。
ある人々は変なこと言います。キリストの死は殉教者の死でした。とんでもない。イエスキリストの死とは、我々人間の受けるべき天罰でした。私たちが罰せられない為に、キリストは自分自身を犠牲にした。
だからいえるのは、人間を罰する神はいない。必要ないから。イエスキリストは代わりに罰せられたからです。

聖書に言われている罪とは、悪い行いなのではない。聖書の言っている罪とは、主なる神と人間にある隔ての壁です。
私たちと主なる神との隔ての壁が、取り去られた。イエスキリストの流された血によって、イエスキリストのささげられた命によって、全てのわがままが赦されているという事実こそが大切です。
聖書に言われている救いはなんであるかと言うと、すなわち、罪の赦しなんです。

先に天国に行った人々とは赦された、受け入れられたと確信することが出来たから、ほんとうに素晴らしい。
彼らの行った天国について、私達は多くのことを知ることができない。聖書も言っていない。どうして言ってないかといいますと、あんまり素晴らしいから。人間の言葉で言えない。
聖書は言っています。「彼らの目の涙をすっかり拭い取ってくださる。もはや、死も無く、悲しみ、叫び、苦しみも無い。」夢の世界じゃないの?

死の無い世界、今考えられない。悲しみの無い世界、叫びの無い世界、苦しみの無い世界、夢の世界じゃないの?
けれど、先に行かれた人たちは、確かにそうだと大いに誇ることが出来るんです。
もはや、のろわれるものはなにも無い。夜も無い。神である主が彼らを照らされるので、彼らには、ともし火の光も、太陽の光も、要らない。考えられない栄光なのではないでしょうか?

だから聖書は、結論としてなんと言ってるかといいますと、今のときのいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、とるに足りないです。
イザヤという男は、特別に指名された男で、2,600年前に生きていた人だったんです。彼は次のように言ったのでした。我々も同じように言うことが出来ればありがたい。
「見よ。神は私の救い。私は信頼して、おそれることは無い。主はわたしの力。わたしのほめ歌。わたしのために、救いとなられた。」

イエス様の大いなる恵みによって、先に行くようになった兄弟姉妹は、確信するようになりました。すなわち、赦された。忘れられた。
彼らは、いろいろなつらいことを経験したでしょう。そして、結果として寂しいといわざるを得なかったけれど、それだけじゃない、寂しいけれど、一人ぼっちじゃない。イエス様はいつもついている。
決して私から離れず、私を捨てない。こういう確信を持つ人こそが幸せなのではないのでしょうか?

私はイエス様のものです。けれどそれだけじゃなくて、イエス様は私のものです。
わたしそのものは迷える羊に過ぎない。けれど、イエス様は唯一のよい牧者です。この唯一のよい牧者は、必要なものを必ず与えてくださるのです。
我々にとって大切なのは、生き生きとした希望を持つことです。現実はどうであれ、目に見える世界がめちゃくちゃになったとしても、イエス様に頼るものは、安心して前向きに生活することが出来ます。




戻る