引用聖句:ローマ人への手紙15章13節
コリント人への手紙第II、1:3-5
ま、きょう、少しだけ、みことばを学ぶことができるのは感謝です。ときどきどうですか?と聞くと正直に答える人もいます。「元気じゃないよ。」もちろん隠しても意味のないことでしょう。 2−3日前に、やっぱりフランスから電話がありました。ある姉妹は、主のために生きたいし、戻ったとき、お姉さんも集会に来ました。 お姉さんは、大いに喜んでいます。フランスにいる妹さんは、主を信じながら夫婦のことや、いろんな事で大いに悩みがあります。元気になる秘訣はなんですか。現実を見つめることより、イエス様を仰ぎ見ることではないでしょうか。 主を待ち望むと、新たなる力を得る。結局、元気になる。 初代教会の人々とは、やっぱり目に見える物にではなく信仰によって歩みました。 こないだ、偶然、昔の兄弟の証しを読みました。厚木に住んでいる兄弟だったんです。リンパ腺で長い間患っていて喜んで天に召されました。 彼は、次のように言ったのです。主が、備えられた時は、最上の時です。 イエス様は今も愛して下さり、導いていてくださっているから、、、。これからは、すべてをイエス様にゆだねて、みことばに従っていきたいと思います。 こんな自分を本当に幸せだと思います。そう語りました。この心構えを持つ人は本当に、幸せなのではないでしょうか。 けど、今回の喜びの集いに集った人々とは、悩んでる人たちばっかりじゃないかな。 いろいろな事で悩んでいるし、苦労しているし、どうしたら良いかわからない。けども、その時、大切なのは、やっぱり、仰ぎ見ることです。 人間にとって必要なのはなんなのでしょうか?はじめに読んでもらったローマ人への手紙の中に全部、含まれています。 ローマ人への手紙15:13
こう言うふうに、パウロは思ったよりも、祈ったのです。本当にすごーい言葉なのではないでしょうか。 どうして、この言葉を大好きになったかと言うと40余年前に、うちの娘の葬儀があったのです。小さな、小さな外人墓地だったのです。 私は、自分で話さなければならなかったし、でも、あとで、イギリスの宣教師、このみことばを読んだのです。 だから、忘れられない。望みの神が望みに溢れさせて下さいますように。「喜び」「平和」「望み」3つの言葉がはいっているのです。 人間にとって、必要ないのは、宗教を持つことです。けど、どうしても必要なのは、「変わらない心の喜び」「真の心の平安」「生ける望み」を持つことではないでしょうか。 言うまでもなく聖書を通して、あなたがたは、生きてる間に、悩みます、苦しみます。 信仰があってもなくても。信ずる者も悩みます。信ずる者も苦しみます。信ずる者もどうしたら良いか、全くわからない者ではないでしょうか。 聖書を通して、提供されている喜びは、悩みながら、もしかすると泣きながら喜ぶことができることです。 たとえば、あなたの子どもが死んじゃった。ご主人は、昨日、事故で亡くなった。あなたは、癌だ手遅れと言われれば、あんまり良い気持ちにならないかもしれない。ある人々は、もうがっかりしてしまった。どうしようと思うようになる。 でも、別の人は、うれしい。イエス様と、もうちょっとでお会いできる。その時まで、精一杯でイエス様と実を結びたいと思うようになる。悩みながら、喜ぶことが大切です。 第2番目は、平安に満たされること。ま、平安に満たされること、すなわち、すべての不安から解放されること。 「そんな問題かかえているのに、どうして喜ぶことできるか?」周りの人々が思うようになれば、すごい証しと思います。 それから、、もうひとつ3番目は、望みを持つようになることがきできる事。 前向き生活ができる事。結局、人間は、みんな悩んでいます、個人的、悩んでいます。ほかの人々も、悩んでいます。集会のために悩んでいます。どうしましょうか? 大切なことは、「今から、、。」過ぎ去ったことは、もう終わりよ。 もう、ずうと前から、私の言いたいことは、通じないけど、大切なのは、お互いに熱心に愛し合いなさい。そうでなければ、悪魔は喜びます。 人間の性格違うし、もうある人と好きになっちゃう。ほかの人と会いたくない。挨拶したくない。 でも、それは、自分の気持ちによって動かされることです。 みんなイエス様に愛されている者です。ひとりひとりのために、イエス様は犠牲になられたのです。 もちろん主は、自分の愛で愛しなさいと言ってないよ。それ、無理です。 あなたは、できないから、私の愛でもって愛しなさい。適当じゃない、熱心に。上辺だけじゃない。心から。その時、前向きに生活することができる。人間にとって大切なのは、いま、話したように、喜びと平和と望みに満たされること。 結局、望みの神を仰ぎ見ることによって、元気になります。言うまでもなく、イエス様ご自身が望みの神です。 望みの神を仰ぎ見ると、うれしくなります。心配から解放されます。確かに、多くの人々は悩みます。がっかりします。 望みが満たされない。けれども、主の側には、失望と言うことがありません。誰も、主イエス様に失望し、失望させることはできません。 なぜかと言うと、主イエス様は、ご自身の目的をはじめから終わりまで、ご存じであり、完全に成就する力を持っているからです。 主イエス様は、望みの神と呼ばれるお方で、イエス様は疑うことを知りません。自身のなそうとする目的な完全に成し遂げられることを知っているからです。いったいどうしてでしょうか。 イエス様の確信は、周りの環境や人間から生まれ出たものではないからです。 ご自身のうちにあるからです。イエス様は全部知っておられ、なんでもできるお方であるからです。 ま、正しい日本語じゃないと思うのですけど、ある姉妹は、別の姉妹を励ましたのです。「希望だらけだよぉ。。」(微笑)ふふふ。 同じ問題を持っていたのです。子どものことで、たいへん。けど、ひとりで、望みの神を仰ぎ見ることで、ほかのぺっちゃんこになった姉妹を励ましたのです。「希望だらけだよ。」ほんとうに、そうなんです。 「希望だらけだよ!」。。。(^_^)v 主、ご自身が、望みの神です。どんな事があっても、主は、望みの神であられ、私達は、不完全で、失敗に失敗を重ねても、主は、永遠に変わらない望み の神であります。 ローマ人への手紙15:13
この13節によると、主は、望みの神と呼ばれているだけではなく、この望みの神は、喜びと、平和と、望みに満たしてくださる。どうして、満たされるのでしょうか。 言うまでもなく、聖書の勉強ではありません。良い人間になろうと努力する事によってでもなく、主を信ずることによって、。 この「信ずる」と言う言葉は、あまり言いたくない言葉なんですね。 信ずると言うと、やっぱり、ある教えを信じ込むことと、考えている人が多い。 聖書の言葉の意味は、そう言うものじゃない。何かを、信ずることじゃなくて、助け手であり、勝利者であるイエス様に頼ることです。主に、頼ることによって、喜びと、平安と、望みに溢れさせられると、ここで、約束されています。 このローマ人への手紙15章を読んでみると、主は、いろいろな名前を持っている事がわかります。聖書全体の中で、主に与えられている名前は、600以上です。(^_^)v わたしたちは、ちょっと、ひとつの名前しかない。(笑い) ほんとは、実はこの名前ですと言う人もいるんですけど(笑い)だいたい、ひとつ、ふたつしかない。主は、600以上。 もちろん日本語に訳すことができない。訳せば、やっぱり説明しないといけない。そしたら、長い文章になる。そしたら、ちょっと人間の作った聖書になっちゃう。 わたしたち、ちょっと、かわいそう。でも、天国行って、600の名前について、知るようになれば、もう考えられないほど、うれしくなるに違いない。 この15章の中で、ふたつ、みっつだけだけど。すごい名前。 5節には、「忍耐と慰めの神」忍耐、深いお方です。 ある人々は、「イエス様、どうして、なかなか来ないの?」と聞きます。ま、聖書の答えは、忍耐深いお方であるからです。 その前に、悩みによって、苦しみによって、備えられた人々が、救われなければならないからです。もし、主に備えられた最後の日本人が、今日、救われるかもしれない。 最後の、エジプト人が、今日、救われるかもしれない。その瞬間、イエス様は来られます。イエス様は、忍耐深いお方であり、慰めの神です。 結局、人間は、説教を聞きたくないでしょう。慰められたいのではないかと思います。 2,3日前に、東京の病院で、ある、一度、成功した男に会いました。 東大を出て、東大の博士とって教授になって、ルーテル教会の何十年長老として働いた立派な人格者。 でも、娘によると、親は、ヒューマニストにすぎない。救いの喜びや確信がない。娘さんは沖縄の小さな島で、集会の姉妹を通して導かれ、知るようになったのです。 こないだ、親を見舞いに一緒に行きました。お父さんは病気。人間的には、ほんとうにかわいそう。 お父さんは、聞いたの「どうして、来たの?」むつかしい。聖書の内容、全部、知ってるよ。もちろん、イエス様、信じてるって言うでしょう。言えることは、お父さんね、やっぱり、こういうふうに病気になっちゃったから、お父さんと、一緒に悩みたいからよぉ。やっぱり、前向き生活できないと、全部、面白くない。 もちろん、ちゃんと歩くことができない。1メートル歩くのも、看護婦さんの支えが必要。結局、どうして来たの。わたしは、何をやるべきですか。 お父さんね、いくら、みじめであっても、イエス様が死んだこと考えると愛されてる事がわかる。愛されてる事がわかると、うれしくなると、前向き生活できる。希望を持って死ぬことできる、それしかない。 結局、人間には慰める事できませんが、できる事は、慰めの神を紹介することです。それで、十分です。 ローマ人への手紙15:3-5
この3節を読むと、どんな悩みの中にあっても、苦しみの中にあっても、はたまたそしりのまっただ中にあっても、主は、忍耐と慰めの神であると書いてあります。 また、悩みや、そしりは、二心でなく、イエス様に対する単一なひたすらな心をもって、主に仕える者に、必ずやってくるものです。 悪魔の攻撃を知らない人の信仰はダメ。思い込みに違いない。主を第一にするものは、必ず悪魔の的、攻撃の的になります。 イエス様の歩まれた道とは、いったいどう言う道だったでしょうか。 それは己を否定される道でした。己をむなしくし、己を否定する道でした。 今日においても、なお、イエス様に従う道は、そしりの道であり、悩みの道です。 私達が、悩み、苦しみ、そしりの中にある時、あきらめ、絶望してしまわないために、どうしても、忍耐の神、慰めの神を必要とします。もし、そのような時、忍耐と慰めの神が、ないなら、私達は、ほんとうに、失望し、落胆の泥沼に落ち、死んでしまうのではないでしょうか。 われわれの主とは、忍耐と慰めの神です。 あなたは、うちのめされているのでしょうか。悩みの中にあって、解決がなく、あきらめようとしているのでしょうか。 それとも、あなたは、困難の状態にあり、また、自分の性格を気にしているのでしょうか。ま、うちのめされる必要は、ない。なぜなら、忍耐と慰めの神が、近くにおられるからです。 主に与えられている第二番目の名前は、平和の神です。 ローマ人への手紙15:33
私達の主は、戦いのまっただ中にあっても、平和の神と呼ばれています。 心を尽くし、まごこころを込め、誠心誠意主に仕える者は、いつも、戦いのまっただ中に、投げ出されます。 ローマ人への手紙15:31
31節を見ると、パウロは、今からの事について、書いたのです。 今から、ユダヤへ行こう。でも、必ず未信者の戦いを予測したのです。ちょっと面白くない。けども、それだけでなく、エルサレムに行くと、主にある兄弟姉妹に仕えようとしても、そんなに簡単なもんじゃない。必ず戦いが起こると、彼は、確信したのです。 この時、彼の支えとなったのは、平和の神です。主は、いつも私達の求めに応じて、私達の求めとなってくださるお方です。そしりと、苦しみの中では、忍耐と慰めの神であり、戦いの中にあっては、平和の神であられます。 もうひとつの名前は、望みの神です。 ローマ人への手紙15:13
イエス様は、ここで、望みの神と呼ばれています。パウロは、この手紙を、もうすぐ捕らわれて、幽囚の身をなる時に書いたです。 ローマ人への手紙15:23-25
まもなくスペイン(イスパニア)に行きたいとパウロは思っていました。見物のためではなく、時間を潰すためではなく、イエス様を知らない人々が救われてもらいたい。幸せになってもらいたい。いくら攻撃され憎まれてもかまわない。私は、スペインに居る人に、十字架につけられたイエス様を伝えたい。紹介したいと、祈ったのです。 でも、違う方向に導かれました。刑務所に入れられたのです。 結局、スペインに行くことが、できなかっただけではなく、囚われの身となってしまったのです。 彼は、がっくりしたんじゃ、ないでしょうかねぇー。やっぱり、非常な、苦しみだったでしょう。。 牢屋に入ってる苦しみだけじゃなく、スペインへの奉仕の道が断たれた。パウロにとっては、どうでも良い事ではなかったのです。 パウロの苦しみはどんなに大きなものであったかは、想像に絶することです。 もちろん、私達の考えは違うのです。私達は、良かったぁ。スペインに行かないで、牢屋の中で、手紙を書いたのは、良かったぁ。刑務所の中で、数えられない多くの人々の導きとなり、数えられない多くの人が、励まされたのでは、ないでしょうか。 パウロは、そのような中で、急に時間ができて、前より祈るようになったのです。みことばをゆっくりと読む事ができたのです。結局、パウロは、何にもわからなかったのです。もし、自分の牢屋の中で、書く手紙が聖書として残るなら、スペインへ行けない事はどうでも良かったかもしれない。 けど、その時、旧約聖書しか存在していなかったのです。新約聖書ができるとわからなかったし、自分の手紙が永遠に残ると思ってもみなかった。 彼は、結局、どうして手紙を書いたかと言うと、いろんな事を質問されたからです。いろんな情報がはいって、祈った結果、聖霊に満たされて書いたもにすぎません。けども、パウロは、刑務所にはいった時、そのとこが、うれしくて、うれしくて仕方ないと言う気持ちがなかったのは確実です。 「どうして?」「もう、がっかり、、(;_;)」 その時、彼にとって、大切だったのは、「望みの神」だったのです。悩 み、そしり、戦い、失望してるのは、人間です。だから、忍耐と慰めと、平和と望みの神が、必要であります。悩みとそしりの中にいるのでしょうか。 忍耐と慰めの神は、そばにおられます。絶望的な戦いの中にいるのでしょうか。霊肉の戦いで苦しんでいるのでしょうか。ご自分の性格の点で悩み戦っているのでしょうか。 平和の神が、あなたと共におられます。失望し、うちのめされているのでしょうか。望みの神が、あなたのうちにおられるのです。 悪魔の目的は、いつも私達をイエス様から離すことです。 イエス様から、目を離した瞬間、人間はみじめになります。どうしようもない者になるのです。 はっきり言うと、人間は、主を見るか絶望するか、どちらかなのです。そして悪魔の最大の武器とは、「絶望」と言う武器です。 けども、前に読みました、ローマ人への手紙15章13節によると、聖霊の力により、望みに溢れさせてくださいますようにと書いてあります。こう言うふうにパウロは祈ったのです。 私達の周囲にある多くの苦しみや悩みは表面的なものである事が多いでしょうけども、ほんとの戦いは、悪魔が人の魂を主から奪い取ろうとして、絶望に入れることに対する激しい深刻な内面の霊の戦いです。 でも、この激しい戦いの中でも失望せずに、落胆せずに、かえって望みを抱き、一歩、一歩、前を進むことができるのは、聖霊の力によるしかない。イエス様にとって、価値のある者には、悪魔の攻撃もますます激しくなっていきます。 これについて、3つの例を考えましょう。旧約聖書からにしましょうか。 ひとつの例は、アブラハムです。アブラハは、偉大な人物です。いわゆる宗教世界の中で、一番大切にされているのは、アブラハムです。イエス様じゃない よ。 もちろん、われわれ、イエス様を信じる者はアブラハムは、すごいと、わかってるよ。信仰の父と呼ばれ、神様の友と呼ばれました。けども、イスラム教徒も、うれしくなる。ユダヤ人も、アブラハムの名を聞くと目が輝く。アブラハムは、すごい人物。 主は、アブラハムに息子を与えると、約束してくださいました。結局、あなたの子孫を通して、全世界の人は多いに祝福されると言われたのです。アブラハムは、もちろん疑わずに信じたのです。 神様は、うそつきじゃないから、自分の約束を守られる方だから安心だぁ。 けど、彼は、だんだん年をとり、85歳になったのです。 「もう、ダメ。」望みがないと彼は思っちゃったのです。 それまで、彼は、主とともに歩み、多くの奇跡を経験したのです。けど、今、息子を与えてくださる主の約束は望みがなくなったと思ったのです。絶望したのです。望みを持つか、絶望するかのどちらかです。 彼は、絶望してしまったのです。そして、人間的に絶望すると、生まれつきの性格で違うけど、多くの人は、絶望すると、あきらめます。 結果として、もうなんにもしなくなる。どうせ、ダメだから。別の人々は、絶望してるけど、逃れ出るために、自分で何かしようと思っとるのです。 アブラハムの場合がそうだったのです。アブラハムは絶望した。妻、サラは、子を産みません。そこで、妻サラは、エジプト人の女性ハガイをめかけとして与えた。 ま、考えられないことです。結局、アブラハムは絶望した。 神だって、望みの神じゃないよ、無理よ。そして、こういうふうになったのです。結局、普通のこと考えられない。 妻サラは、別の女性をアブラハムに与えた。ね、どなたか愛人を作るとまともな奥さんは命がけで戦います。絶対、ゆるさない。とんでもない話し。 でも、サラはそれをして、アブラハムは、賛成したんですよぉ。 ま、まもなく、子どもが産まれました。アブラハムは、自分で事を行おうと言うとんでもない事を行う、とんでもない信仰の父と呼ばれたアブラハムの姿を現しているのではないでしょうか。 アブラハムの神は望みの神ではない。わたしが、、やらなければ神はなし得ない。 彼は、もちろんそう言ってないよぉ。でも、彼の行いは、それを物語っています。結局、彼は、信仰の父と呼ばれた男は絶望してしまったぁ。 聖書は、どうして、神のみことばであるか?考えてくださいよ。こう言う失敗について書かれているからです。 人間が、聖書を書いたなら、こう言う失敗について、何も書かなかったよぉ−−。恥ずかしいじゃないか。ぜーーんぶ。 でも正直に書かれています。アブラハムは、結局、主により頼まないで、自分で事を行ったのです。その結果は、どうだったでしょうか? 悪魔の勝利になったのです。現在のイスラエルとパレスチナの戦いの原因は、それなのです。考えられない悲劇です。 次の実例は、ダビデです。 この偉大なる世界で一番えらい王様ダビデでさえも、絶望したのです。 サムエル記第I、27章1節を見ると、彼のことがわかります。自分かってな言葉を口にしたのは、このダビデです。 サムエル記第I、27:1
ダビデは、心の中で、結局、問題はここなのです。公に言わなかったよ。 ダビデは、心の中で言った。ゴリヤテも、ペリシテ人でした。ダビデは敵の国に行ったのです。 聖書読むとわかります。当時のペリシテの王様に大切にされた。でも、ダビデは、ほんとうは、うそをついた。平気で騙しちゃった。 全部、うそでした。ダビデですよ。考えられない。 かって、主は、ダビデを呼び,王となる約束をされたのです。先ほども、読みましたように、アブラムは、主にはできないと思ってしまいました。 ダビデは、何を思ったかと言いますと、いまは、もう何もできない。あきらめる事しかない。ダビデは、ほんとうに、それまでは、主は自分の計画を必ず上手されることを確信し続けたのです。 けど、いま、周りの情勢が困難で絶望的なとき、ダビデはすべてがだめであると望みを捨ててしまったのです。 実際には、この時、ダビデを苦しめたサウルの死は間近に迫り、ダビデが王となる日は近づいていたのです。 すぐあとで、サウルは自殺してしまったのです。ダビデは、結局、王となるのですけど、その寸前、悪魔が働き、闇の時であり、絶望に引き込もうとする時期でした。 もし、主が望みの神を見失うなら、それは、悪魔の勝利になります。 もう、ひとつの実例は、エリヤです。 エリヤは、預言者たちの中で、ナンバー1です。このような勇気ある男は、めったにいない。みんな反対しても関係なし。わたしは、主の側に立つ。そう言う男でした。主と共に歩んだ男でした。 主と共に歩み、主から限りない祝福を受け、主の力を十分に味わった預言者だったのですが、この預言者も絶望してしまった。どう言う気持ちだったのでしょうか。 主はできないとも、もう遅すぎるとも思わなかったよ。何を思ったかと言うと。 わたしは、ダメと思ったからです。自分自身に絶望してしまったのです。 主よ、わたしは、ダメ。汚い汚れた者で、ご自身は役に立たない者です。力のない者です。ほかの人を捜して、ほかの人をお遣わしになってください。 エリヤは、自分に絶望して、このように思うようになったのです。 ま、主はある意味でね、ユーモアのあるお方じゃないですか。死にたくて、死にたくて仕方なかったエリヤは、今日まで、死んでいない。死ねないで、そのまま天国いっちゃった。ね。 ひとつの質問が出てくるでしょう。アブラハムは、神様の友達と言われたのです。 主は、アブラハムにソドムとゴムラを滅ぼすときも、ちっぽけなアブラハムに知らせたのです。結局、そう言う親しい関係があったのです。 けど、彼は、絶望した。 ダビデは、「みこころにかなう人」として、聖書に何回も何回も出てくる。このダビデも絶望した。 エリヤもながーーい間、用いられ祝福されたんですけど、彼でさえ、絶望してしまったのです。 ま、ひとつの質問は、誰でも持ってるでしょう。アブラハム、ダビデ、エリヤは、どうして、そのように想像を絶する絶望状態に落ち込んでしまったのでしょうか。 それは、アブラハムにしてもダビデにしても、エリヤにしても、心から、全力を注いで主に仕えた人々だったに違いない。そして、主が、彼らを、愛される者であり、価値ある者に見えたはずです。 ですから、この3人を通して、ご自身の目的を達成されようと思ったのです。 悪魔が、主のみこころにかなう3人に、全力をあげて、この3人に激しい攻撃を加えないはずは、ありません。 3人が絶望に陥るには、ひとつは悪魔の攻撃であり、もうひとつ理由が横たわっているのではないかと思います。 主は、3人を通して、ご自分の目的を、ご自分でなしとげようと思われたからです。3人を単なる器として、用いたかったのです。 この主の目的にかなうために絶望の中に沈むことができたのです。 絶望した3人は、回復され用いられたとき、傲慢にならなかったのです。 最後まで、実を結び祝福される奉仕をすることができたのです。結局、絶望した状態を忘れられなかったからです。 ま、望みの神は、全く望みを失ったアブラハムの神で、またエリヤの神であられます。 わたしたちも、激しい絶望に追い込まれた方があるかもしれない。私達が、生まれながらの性質で持って、主に仕えようとするなら、それは、主のお邪魔になります。 自分の持ってる感情や意志が役に立たず、それらに信頼できないと思っているのでしょうか。 自分自身に絶望したことが、あるのでしょうか。 そのような目にあって、主を見上げておられるのでしょうか。 主を望み、望みの神として、知っているのでしょうか?? 最後に、イエス様の勝利について、ちょっとだけ考えて終わりたいと思います。 イエス様がこの地上で過ごされた最後の頃のことを思い浮かべたいと思います。 イエス様が、そのご生涯を通してなされたご奉仕は、目に見えた結果が現れていたのでしょうか。決して、そうではありません。 すべてが、絶望的に見えました。すべてが無駄であったかのように見えました。 イエス様は父の御心を成就されるために遣わされて、33年のご生涯を送られました。そのご生涯の終わりには、すべてが、むなしく絶望的に見えたのです。 エルサレムを見たとき、イエス様は涙を流されたとあります。結局、イエス様は、救うために、解放するために、喜びに満たすために来られたのです。 けれど、どうたったでしょうか?イエス様は人々に侮られたのです。 イエス様は、冷たくあしらわれたのです。イエス様のご生涯の最後は、十字架でした。十字架にかけられ、ご自分の周りの、愛する弟子達でさえ逃げてしまったのです。全くの孤独をイエス様は、味わわなければならなかったのです。 でも、その時、イエス様は、絶望したのではないのです。溢れる望みに満ちていたのです。 うちに帰られたら、帰ってからで良いですが、宿題があります。 ヨハネの福音書14章から17章まで、4つの章だけなんですけど、ゆっくり、ゆっくり読んでください。非常に、たいせつなんです。 14章から、17章を見ると、将来を望み見て、限りない深い平安と静けさをお持ちになっていた事がよーくわかります。 この4つの章は、イエス様の別れの言葉でした。弟子達は、この言葉を聞いたとき、「おかしい?」「奇妙だ?」と思ったに違いない。 イエス様のこの別れの言葉の中で、今後、私の名によって、願い求めることは、すべて、かなえられると約束されたのです。 弟子達は、それを、聞いたとき、いったいどういうものか、。願い求めても、いま、失敗に終わってるのではないのか。結局、イエス様は、なぁーに言ってるの? また、イエス様は、御霊を送り多くの実を結ぶようになると約束した時も、弟子達は、自らを省みて、それは、全く不可能な事であると考えたに違いない。 聖霊の力によって、望みに溢れている。これこそが、イエス様のお姿でした。 この4つの章を読むと、周囲の状態が、いかに絶望的であったか、わかります。 でも、それと共に、その中にあって、イエス様は、望みに満ちておられたかを見ると、私達のイエス様は、限りない望みに満ちあふれた方であった事がよーくわかります。 イエス様は、アブラハムのように、神にはできないと思う事をなさいませんでした。 また、イエス様はダビデのように、遅すぎると言うことを言いませんでした。むしろ、私は、喜んで生き生きとした望みもって墓に参ります。これは、決して、遅すぎると言う事ではなくて、主の時なのです。こうして、死に向かっていかれたのです。 イエス様は、エリヤのように、主は私を用いられないとは、言われなかったのです。聖霊により、父は、自分を用いる事を約束したから、救いの御わざは、成し遂げられると確信したのです。 そして、イエス様は、甦りは、希望が失望に終わることのないことの、証拠なのではないでしょうか。 私達は、望みの神を信じている者として、平安と望みに満ちています。いまの世にあって、末の世にあって、かかる喜びと望みと平安に満ちた人々が、必要です。 人と環境に目を留めると、望みはなく。絶望的に見えるけど知らないけど、主は、望みの神です。この望みに満ちた主イエス様を仰ぎ見ましょう。 アブラハムは、神はできないと思ったのです。ダビデは、今となっては、もう遅すぎると思ったのです。エリヤは、主は、わたしを用いられない。私はダメだからと言ったのです。 私達は、なんと言うのでしょうか?困難があり、苦しみがあり、悩みがあります。それゆえに絶望に陥っているのでしょうか。 もし、絶望に陥っているなら、それは、大洋の中に住んでいる一匹の小魚が、のどが渇いたので、大洋の水を飲もうと思うけど、もし、自分が飲んだために、大洋の水がなくなりはしないかと、飲むことをためらっている状態に似ています。 大洋は、小魚に向かって、「しぃーんぱいする事ないよ。だいじょーぶ。どんなに水を飲んでも、わたしは、尽きることがない。と言います。 悩みを持っているから、そのために、お先真っ暗で、絶望的な状態にあるかもしれない。でも、それによって、すべてを絶望し、あきらめようと、なさるのでしょうか。 また、ある人が、山の頂きに対し、立って、私が一生懸命、空気を吸う。そしたら、空気がなくなってしまわないだろうか?心配してる姿に似てるのではないでしょうか。 ま、大地は言うでしょう。小さな人よ。お前が、いくら呼吸しても、酸素はつきない。思う存分、空気を吸いなさいと言うでしょう。己自身を、ちっぽけな事に心囚われ、大いなる神を見失っている人は、先ほどの大洋の魚、山の頂上で空気吸う人なのではないでしょうか! 信ずれば、神の栄光を見る。あなたの信じた通りになると何回も書かれています。 いわゆる小さな信仰は、あなたを天国に導くでしょう。でも、あ大きな信仰は、天国をあなたの心のうちの導くでしょう。 パウロは、心から書いたのです。どうか、望みの神が、あなたがたを、信仰による、すべての喜びと平和で満たし、聖霊によって、望みに溢れさせてくださいますように。 コリント人への手紙第II、1:8-10
大阪で集まった兄弟姉妹よ、わたしたちは、絶えられない圧迫を受け、死を覚悟して、もうおしまいと思いました。 主よ、どうして、絶えられない圧迫を許したの。ショックでした。ゆだねたと思ったけど、ゆだねてなかった。 幸いなるショックです。 なぜなら結果として、前向き生活することが、できるようになったのです。 主は、信頼できるお方です。救い出してくださるお方です。 |