引用聖句:コリント人への手紙第II、1章3節-10節
ペテロの手紙第I、5:7
「日々の歌」のこの曲は、今日初めて一緒に歌いました。歌を作った女性は、ドイツの女性だったんですけども、その婚約者は、ドイツから中国へ行って、そして一年後、許婚である彼女はついて行ったんです。 当時もちろん、船でしか動かなかったし、途中で電話することも出来なかったし、けども港に着いたとき、彼女は考えられないことを聞いたのです。 実は、あなたの結婚すべき相手は重病人になり、もう死にました。墓場へ行って、今の歌を作ったんです。 導きたまえ手をとり たとえ目には見えずとも ただ主のみむねにより 頼みゆだねて歩むやすけさ 結局、主とはそういうお方です。悩みながら彼女は全部ゆだねられるようになりました。 先週沖縄で、また何回も見てた絵を見まして、集会所にかかってる絵で、壊された壺なんです。 昔、御代田でも二つあったんですけども、沖縄の集会もそうなんですけども、外国の人の描いた絵なんです。彼は非常に優秀で、人を描いたり、花を描いたり、景色を描いたり、動物を描いたりして、もうすごかったんです。 でも、ある瞬間から壊された器しか描けなくなっちゃった。一人娘が亡くなったからです。 結局、世界はもう沈むようになっちゃったんです。彼はあとで何を経験したか、ちょっと分からないけども、御代田でもう一つの壊された器があったんです。 ちょっとだけ土があって、種が入って、花咲くようになっちゃった。結局、死は終わりではないということなのではないでしょうか。主は生きておられます。 ヘブル人への手紙の著者は、 ヘブル人への手紙12:11
死がなければ実にならないと、聖書ははっきり言っているのです。もちろんそのとき、決して喜ばしいものではない。 今話のありました姉妹も、12、13歳の子どもを急に亡くすのは、やっぱり夢にも思ったことがないでしょう。「どうしてか、なぜか。」、いくら考えても分からない。 けども、主は支配者であり、主は必要ない悩みや苦しみを与えられないと考えると、ちょっと違うなのではないでしょうか。 イザヤも色々なことで悩んだらしい。けども彼は、告白したのです。 イザヤ書38:17
苦しんだのは良かった、という意味なんです。けども人間はそれを、大体あとで初めて分かるようになるなのではないでしょうか。 結局どうしても必要な、大切なのは、希望をもつことなのではないでしょうか。結局希望がなければもう耐えられない。 ですからパウロは、ローマにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。みなさんもよくご存知の言葉です。 ローマ人への手紙15:13
喜びと平和と望みに満たされることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。イエス様だけが励ますことができ、力づけるができるお方です。 どうしてか、なぜか分からなくても、将来のことが今見えなくても、もういいんです。主は完全であり、主の導きも最善であると考えると、やっぱりまた安心して、前向きの生活をすることができるなのではないでしょうか。 望みの神とは、結局がっくりしてる人々、失望してる人々の神なのではないでしょうか。自分たちの願い、望みが満たされ、成就されないなら、確かに多くの人々は失望します。 イエス様の側には、失望ということがあり得ない。どうしてであるかといいますと、イエス様はすべてを最後までご存知であるからです。 もし私たちは、今から百年先のこと、おそらくみんな、そのとき天国だと思うけど、一秒間だけ百年先のこと見ることができれば、もう、人生はいっぺんに変わります。どういう辛いことがあっても、苦しいことがあっても、先のこと見たから喜びに満たされるようになるに違いない。 イエス様はここで、望みの神と呼ばれています。どうして、イエス様が望みの神であるかといいますと、結局ご自分のご目的を必ず、完全に成し遂げることを知っておられるからです。 イエス様のこの確信とは、周りの環境から生まれたものではない。いうまでもなく、人間から生まれたものでもない。主イエス様の確信と望みは、ご自身のうちにあるのです。イエス様は、全部知っておられ、何でもできるお方です。 たとえどのようなことが起こっても、私たちはどんなに不完全で失敗し、どうしようもなくても、主は変わらないお方です。望みの神と呼ばれています。だからパウロは喜んで告白したのです。私たちは不真実であっても、主は変わらない。 パウロは、どういう願いをもっていたか、どういう祈りをささげたかといいますと、今読みました13節ですね、 ローマ人への手紙15:13
結局パウロは、どうして色々な手紙を書いたかといいますと、もうすでに救いを得た人々の成長のために必要であったからです。 パウロの悩みの種とはやっぱり、せっかく救われた人々は、なかなか成長しなかった。そうすると、救われていても用いられ得ないことになる。 望み、喜びと平和に満たされれば、やっぱり周りの人々は必ず、「いったいどうして喜ぶことができるの?」と聞くようになるに違いない。 私たちはどういうふうに、望みと喜びと平和に満たされるなのでしょうか。この13節によると、結局信ずることによって。もちろんここで、信ずるという言葉の代わりに、信頼することによってと言ったほうが正しい。 聖書の信仰という言葉の意味は、いつも信頼することを意味してます。私たちは、信ずると考えるとやっぱり、何かの教えを知り、信じ込まなくちゃならない。そういう気持ちでしょ? けども聖書の言うってることはそういうことじゃなくて、人間はひとつの教えを信じ込むことによって救われないでしょ。イエス様と出会わなければ。 ですから信ずることとは、ひとつの教えを知ることよりも、望みの神に頼ることです。信頼することです。 このローマ人への手紙15章全体を見ると、イエス様について、三つの、四つと言ってもいい、名前が出てきます。 第一番目。忍耐と慰めの神という表現が出てきます。それから平和の神。そして、今の箇所で、望みの神という言葉が出てきます。 忍耐と慰めの神とは結局、苦しみの中で働いてくださり、自分自身を明らかにしてくださるのです。そして平和の神は結局、戦いの中で、自分の偉大なる力を明らかにしてくださるのです。 それから、望みの神とは、失望の中に、自分自身のご臨在を現わしてくださるのです。 このローマ人への手紙15章5節を見ると、主はまず、忍耐と慰めの神と呼ばれています。少し前にさかのぼって3節を見ると、どんな悩みの中にあっても、苦しみの中にあっても、そしてはたまたそしりの中にあっても、主は忍耐と慰めの神であると書かれています。 悩みやそしりは、分かれざる心をもち、イエス様に対する単一な、ひたすらなる心をもって主に仕える者に、必ずやって来ることです。イエス様の歩まれた道は、おのれを虚しくし、おのれを否定する道でした。 今日においても、イエス様に従う道はそしりの道であり、悩みの道です。もしこのそしりや、悩みや苦しみを知らず、また信仰生活において、それらのものはないと言ってる人がいると、その人の信仰は、疑わしいものなのではないでしょうか。 もし私たちが、主と正しい関係を結んでいるなら、主と同じ経験をするに違いない。この15章3節にあるような経験をすることでしょう。 ローマ人への手紙15:3
私たちが悩み、苦しみ、そしりの中にありますとき、あきらめ、絶望しないためには、どうしても忍耐の神、慰めの神が必要となってまいります。 もしそのようなとき、忍耐と慰めの神が私たちにないなら、私たちは失望し、落胆の泥沼に落ち込んでしまうことでしょう。本当に私たちは、誇りをもって証しすることができるなのではないでしょうか。すなわち、われわれの主は、忍耐と慰めの神です。 私たちは打ちのめされてるなのでしょうか。悩みの中にあって解決がなく、諦めようとしてるなのでしょうか。それとも私たちは、困難な状態にあり、また、自分の計画を苦にしているなのでしょうか。 私たちは打ちのめされる必要はない。どうしてであるかといいますと、忍耐と慰めの神が、いつも近くにおられるからです。 主に与えられてる第二番目の名前は、平和の神という表現が出てきます。 ローマ人への手紙15:33
と。その前の30節と31節を見ると、力を尽くし、祈りの戦いのうちに主に祈ってほしいと書いてありますが、私たちの主は、戦いの真っ只中にあっても、なお平和の神であるということです。 心を尽くし、真心を込め、誠心誠意主にのみ仕え、奉仕する者は、いつも戦いの真っ只中に投げ出されております。 31節、32節見るとパウロは、これからユダヤに行くに際し、ユダヤの未信者の迫害を予測していました。また、エルサレムの聖徒に仕えることができるように、その奉仕に対して、霊的な戦いを予測していたのです。 パウロは戦いの渦の真中におったわけです。このようなときパウロに必要であったのは、やっぱり、平和の神なのではないでしょうか。 主はいつも、私たちの求めに応じて、私たちの求めとなってくださるお方です。そしりと苦しみの中にあっては、忍耐と慰めの神であり、戦いの中にあっては、平和の神です。 主に与えられてる名前は、忍耐と慰めの神であり、二番目は平和の神であり、そして三番目は前に話したように、望みの神と呼ばれています。 すなわち、苦しみの中にある忍耐と慰めの神。戦いの中にある平和の神。失望の中にある望みの神と呼ばれています。 パウロは、このローマ人への手紙を、捕われてすぐ、有終の美となるというときに書きました。24節と28節を見ると、パウロは近いうちに、スペインに行きたいと望んだことが分かりますけど、実際にはダメでした。 少なくてもそのとき彼は、スペインに行くことができなかったばかりか、囚われの身になってしまったのです。これはパウロにとって、どうでもいいことではなかったのです。非常な苦しみだったに違いない。 牢屋に入ってるという、その苦しみばかりでなく、スペインにおけるご奉仕道が断たれたというパウロの苦しみは、どんなに大きなものであったか、想像できないでしょう。 また反面、私たちは、パウロが牢屋につながれたということは、良かった良かったと言わざるを得ないなのではないでしょうか。もしパウロが、牢屋につながれなければ、多くの書簡は生まれなかったでしょう。けどもパウロはここにいたとき、自分が今書いてる手紙は、聖書に残されるとは、夢にも思っていなかったのです。 刑務所にいるのが、主のためのご奉仕に最善であるとは思わなかったでしょう。彼が囚われの身でいるということは、やはり面白くなかった。苦しみ、失望であったに違いない。彼はそのようなとき、望みの神を必要としてました。 私たちは、悩み、戦い、失望してる。だから、忍耐と慰めと平和と望みの神が必要であることも切実に知っております。悩みの中にいるとき、忍耐と慰めの神が側にいると考えると、希望をもつようになります。 絶望的な戦いの中にいるなのでしょうか。霊肉の戦いで苦しんでるなのでしょうか。 または、自分の性格の点で悩み、戦ってるなのでしょうか。平和の神はともにおられること考えると、希望が湧いてきます。また私たちは、失望し、打ちのめされてるなのでしょうか。 望みの神は、私たちのうちにおられることを考えると、前向き生活することができるのです。結局主はなんでもできる。 前に読みましたイザヤの告白とはすばらしいものです。私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。 イザヤ書の61章を見ると、また次のように書かれています。 イザヤ書61:2-3
と、あります。 イエス様がこの世に来られたご目的の一つとは、結局、溢れるばかりの喜びを与えることでした。 有名なヨハネの福音書15章11節に、イエス様は言われました。 ヨハネの福音書15:11
人間は、主にあって喜ぶことができるか、あるいはがっかりして、絶望してしまうかのどちらかです。前向き生活するために主は、自分に与えられた名前を通して、自分自身を明らかにしてくださったのです。 すなわち主は、苦しみの中にある忍耐と慰めの神であり、戦いの中にある平和の神であり、そして、失望の中にある望みの神です。 ちっぽけな人間が、その主とつながっていればまったく違う。悪魔は私たちに向かって来るのに、一番強い武器とはいったい何なのでしょうか。絶望することです。あきらめることなのではないでしょうか。 だからこそパウロは、このローマ人への手紙15章13節に、 ローマ人への手紙15:13
と、祈ったのです。 パウロは、悪魔が主のしもべたちに対して、絶望という武器を持って激しい攻撃してくることを知っていたから、このように書いた、祈ったのです。 われわれの周囲にある多くの悩みや苦しみ、戦いは、表面的なものである場合が多いようですけど、ここで言ってる戦いは、悪魔が人のたましいを主から奪い取ろうとして、絶望に引き入れることに対する激しい、深刻な内面の霊の戦いをいってるのです。 けどもこのように激しい戦いの真っ只中にあってもまだ、失望せず、落胆せず、かえって望みを抱く、一歩一歩前に進むことができるのは、人間の力の結果じゃなくて、聖霊による力による以外にないと、ここであります。 イエス様に対して尊い者、主にとって価値のある者には、悪魔の働きもますます激しくなります。これに対してちょっとだけ三つの例を、旧約聖書から取り出してみたいと思います。 まず、アブラハムのことについて。二番目。ダビデについて。そして三番目。エリヤについてなんです。三人とも絶望してしまったのです。 主はアブラハムに現われたのです。栄光の神がアブラハムに現われたと書いてあるんです。結果として彼は、何があっても、私はこの主に従いたい、この主のために生きたいと心から望んだのです。大切にしたものは全部捨てて、主に従ったのです。 (テープ A面 → B面) ・・・分かったから、息子をお与えになることを約束してくださったのです。けど、この主の約束とはなかなか成就いたしません。アブラハムは段々歳を取り、ついに八十五歳になってしまったのです。望みはほとんどなくなってしまいました。 彼はそれまで、主とともに歩み、多くのすばらしいことを経験しました。けど今、息子を与えてくださるという主の約束は、望みがなくなった。もう無理と彼は思ったのです。 確かに人によって反応は違うでしょう。人が絶望いたしますと、色々な反応を示します。ある人は絶望状態に陥ると、もう完全に諦めてしまいます。またある人は、逃れるために、自分で何かしようとする。アブラハムの場合がそうだったんです。 アブラハムは確かに絶望してしまった。主は約束したけど、いくら祈っても、待ち望んでも、主は見向きもしない。妻サラは子を産みません。そこで、彼の奥さん、サラは、別の女性、名をハガルという女性をアブラハムの妾として与えた。ちょっと考えられないことです。 そしてあのハガルという女性は、間もなくアブラハムの子を産んだのです。 結果とは、今日の混乱です。アラビア人たちはみんな、この生まれた子孫です。結局ユダヤ人とアラビア人の戦いの始めとは、それなんです。 アブラハムは結局、その行ないによって、「主はできない。だから自分でことを行なおう。」と思ったのです。彼は、「主は望みの神ではない。私がやらなければ、主はなし得ない。」と思ったのです。 結局彼は絶望に陥りました。そのときアブラハムは、主により頼まないで自分でことを行なったのです。 その結果は結局、悪魔の勝利になってしまったのです。悪魔は私たちの状態を見て、大喜びのときがしばしばあるなのではないでしょうか。私たちは、「主はできない。主はこの状態を解決できない。だから自分でやろう。」と、口でこそもちろん言いませんけど、実際の生活において、それをやってる場合が往々にしてあるのではないでしょうか。 二番目の実例はダビデです。ダビデはイスラエルの最後の王様でした。けども、彼はやはり、主からすばらしい経験を与えられたあ と、やっぱり絶望した。とあります。サムエル記第Iの27章の1節にあるように、自分勝手な言葉を口にし、またそれを行なってしまったのです。 サムエル記第I、27:1
だれも聞こえなかった。彼だけ。心の中で言った。 サムエル記第I、27:1
と、ダビデは心の中で言ったのです。 これより以前、かつて主はダビデを呼び、ダビデに、やがて王となることを約束されました。アブラハムの場合は、子どもが与えられると約束された。ダビデに、あなたは必ず王になることを約束されたのです。 アブラハムは、先ほど見ましたように、主はできないと考えました。これに対してダビデは、そう言わなかったのです。「主は、今はもはや、なすことができない。もうすでに遅すぎる。私が王となることは、もう望みがない。」と思ったのです。 ダビデは、それまでの長い間、「主は、ご自身のご計画を必ず、余さず、成就される。」ということを100%確信し続けてまいりました。ところが今どうでしょう。周りの情勢が困難に見えます。絶望的に見えます。ダビデはすべてがダメであると望みを捨てました。 実際にはこのとき、ダビデの敵であるサウルの死は間近に迫り、ダビデが王となるのは目前に近づいていたのでありました。やがてダビデは王となるのですが、ちょうどその寸前、今のときは悪魔は働き、闇のときであり、絶望に引き込もうとする時期です。 アブラハムは、信仰の父と呼ばれている。アブラハムは、絶望した。神の御心にかなおうと呼ばれてるダビデも同じく、絶望してしまったのです。もし私たちが望みの神を見失いますと、それは悪魔の勝利です。 第三番目の実例は、エリヤの絶望です。 間違いなく彼は、一番優れた、もう力に満ちた預言者でした。神の人と呼ばれていた人でした。彼は主とともに歩みました。主とともに歩み、主より限りない祝福を受け、主の力を十分に味わい知るようになった人でした。 けどもこのエリヤも、絶望してしまったのです。彼は絶望したとき、主のすばらしい御力を知っていましたから、アブラハムのように、神はできないと考えなかったし、またダビデのように、今もうすでに遅すぎるとも言えなかったのです。彼はいったいどうして絶望したなのでしょうか。 自分自身に絶望したのです。「主よ、私は汚れた者です。ご自身の役に立たない者です。ご用にかなわない者です。弱い者です。力のない者です。お願い。ほかの人をお探しになって、ほかの人をお遣わしになってください。私はもうダメ。」 エリヤは己に絶望し、このように思うようになったのです。 このアブラハムの絶望。ダビデの絶望。エリヤの絶望について考えると、一つの疑問が浮かんでくるなのではないでしょうか。 アブラハムやダビデ、エリヤは、なぜこのように、想像に絶する絶望状態に落ち込んでしまったなのでしょうか。それは、アブラハムにしても、ダビデにしても、エリヤにしても、心から全力上げて、主に仕えた人々でした。 主が彼ら三人を見ますと、三人は主に愛される者であり、非常に主のために価値ある者に見えたはずです。ですから主は、この三人を通して、ご自身の永遠の目的を達成されようといたしました。 悪魔が、主の御心にかなうこの三人に、全力を上げての激しい攻撃を加えないはずはありません。 結局悪魔は、彼らはもう主のものですから、救われてるから仕方がないけど、やっぱり用いられないようにと、彼らを攻撃したのです。 三人が絶望に陥った原因は、このように一つは悪魔の攻撃ですが、その上にもう一つの見のがすことのできない理由が横たわっています。 主は三人を通して、ご自身の目的をご自分で成し遂げようと思われました。三人を単なる道具として、器として、用いたかったのです。この主のご目的にかなうためには、絶望の中に沈みこむことが必要だったのです。けど、望みの神は、まったく望みを失ったアブラハム、ダビデ、エリヤの神です。 私たちはもうすでに、言い知れないこの激しい絶望に追い込まれたことがあるなのでしょうか。私たちがことをなす場合、私たちの生まれながらの性質をもってするなら、それは主のお邪魔とすることであることを知らなければならない。 私たちは自分のもってる感情、考え、意思が役に立たない。それらに信頼がもてなくなってるなのでしょうか。私たちは自分自身に絶望をしてるなのでしょうか。そのような状態にあって、主を見上げているなのでしょうか。主を望みなき者の、望みの神として知ってるなのでしょうか。 今まで二つの点についてちょっと考えましたね。第一番目は、主の三つの違った名前についてでした。それから、悪魔の一番強い武器である絶望につてでした。最後にもう一つのこと、すなわちイエス様の望み、イエス様の勝利の望みについてちょとだけ考えたいと思います。 私たちの主が、この地上で過ごされた最後の頃のことを思い浮かべてみましょう。イエス様がそのご生涯を通してなされたご奉仕は、目に見えた結果が現われたなのでしょうか。 決してそうではない。すべてが絶望的に見えました。すべてが無駄であったかのように見えました。 イエス様は、父の御心を成就するために遣わされて、この世において33年のご生涯を送られました。そのご生涯の終わりのとき、すべてが虚しく、絶望的に見えたのです。 イエス様はエルサレムに向かい、涙を流された。イエス様は救うために、いやすために、立ち上がらすために、しもべとしてこの世においでになりました。 けどどうでしょうか、人々はイエス様を侮り、冷たくあしらいました。イエス様のご生涯の最後は、十字架でした。十字架にかけられるとき、ご自分を取り巻く愛していた弟子たちさえみんな逃げ去り、まったくの孤独でした。 けど、そのような主でありましたが、なおかつ、溢れる望みに満ちていたなのではないでしょうか。うちにお帰りになってから、ヨハネの福音書14章から17章までお読みになってください。 イエス様のお別れの言葉であります。イエス様が将来を望み見て、限りなく深い平安と、静けさをお持ちになっていたことが、よく分かります。 この14章から17章の言葉とは、イエス様の別れの言葉でした。弟子たちはこの言葉を聞いたとき、奇妙と思ったに違いない。イエス様はこの別れの言葉の中で弟子たちに、今後、わたしの名によって願い求めることは、すべて叶えられると言われましたが、それまで願い求めたことがみな、失敗に終わってる弟子たちにとって、主の言葉は不思議に響いたに違いない。 また、イエス様は、後ほど御霊をおくり、あなたがたは、多くの実を結ぶようになるということを、弟子たちにお約束になりましたけど、弟子たちは、そのとき自らを顧みて、それは不可能なことであると考えたに違いない。 聖霊の力によって、望みに溢れてる。これこそが、われわれの主イエス様のお姿でした。 この14章から17章までを読むと、周囲の状態がいかに絶望的な状態であったかがよく分かる。それとともに、その中にあって、主イエスがいかに望みに満ちておられたかを見ると、私たちの主は、限りない望みに満ち溢れた方であったことがよく分かります。 イエス様はアブラハムのように、父はできないと思うことを、もちろんなさいませんでした。わたしの父は何でもできると、イエス様は何回も言われたのです。 またイエス様は、ダビデのように、もう遅すぎるということも言わなかったのです。むしろ、わたしは喜んで、生き生きとした望みをもって、墓にまいります。これは、決して遅すぎるということなくして、決められた父のときなのですと言われ、死に向かっていかれたのです。 またイエス様は、エリヤのように、父はわたしを用いられないと言わなかったのです。イエス様は聖霊により、父はわたしを用いることをしてくださると確信したのです。 そしてイエス様のよみがえりは、希望は失望に終わることがないことの証明なのではないでしょうか。 私たちは望みの神を信じてる者として、喜びと平安と、望みに満ちてるなのでしょうか。今の末の世になってかかる喜びと平安と望みに満ちてる人がどうしても必要です。 イエス様は、至るところでご自身の御心にかなった教会を、すなわち天的な、霊的な、世界的な教会を打ち建てられることができるなのでしょうか。 私たちがまことに主イエス様をかしらとして、主の御姿を表わす者となってるなのでしょうか。人と環境に目を留めると、望みなく、絶望的に見えるかもしれないけど、私たちは望みに満ちた主イエス様を仰ぎ見ましょう。 至るところにいる兄弟姉妹は、やがて傷もしみもない教会となり、主に喜ばれる器となりたい。主のご栄光のうちに住み続けるとなることを確信いたします。 アブラハムは、神はできないと思い、ダビデは、主は今となってはもう無理、遅すぎると言ったのです。エリヤは、主はできるけど、私を用いられてないと思ったのです。 私たちは何を考えているなのでしょうか。困難があり、苦しみがあり、悩みがあります。そのゆえに、絶望に陥ってしまうなのでしょうか。もし、絶望に陥ってるなら、悪魔の勝利になります。 ローマ人への手紙15:13
コリント人への手紙第IIの中で、パウロは大切なことを言われました。もう一回、ちょっと見てみましょうか。 コリント人への手紙第II、1:8-9
どうしてでしょうか。どうしてイエス様は、このような困難を許したなのでしょうか。答えは、 コリント人への手紙第II、1:9
まだ、なっていなかったということでしょう。ゆだねると言いながら、全然ゆだねていない。ゆだねたと思ったけど違うと、パウロたちも経験するようになったのです。 結局主にゆだねると、主は働く。 コリント人への手紙第II、1:10
前にも読みましたペテロの書いた言葉もすばらしい励ましなのではないでしょうか。 ペテロの手紙第I、5:7
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