望みの神


ベック兄

(富山喜びの集い、2011/05/15)

引用聖句:ローマ人への手紙15章5節、13節、33節
5どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
33どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。

皆さん経験なさったと思うのですけれど、ある聖書の箇所は忘れられない。いつも覚えるようになり、励ましを受けるのではないかと思います。
今の読んでいただいたローマ人への手紙15章の13節の箇所もそうなのです。もう一回読みます。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

昔の話、53年前にうちの一人の娘は亡くなったのです。東京で生まれまして、生まれたとき一つの病気を持っていました。半年間入院して天に引き上げられるようになりました。
日本で初めて行なわなければならない葬儀は、結局自分の娘の葬儀だったのです。その時、色々な国々の宣教師も、皆来て出席して、葬儀が終わってから、一人の宣教師は私のところに来て、この箇所を読んでくれたのです。
だから、忘れられない。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

イエス様だけが、われわれの望みの神です。まことの望みの源そのもととは、主イエス様です。今日の学びを通して、私たちが新しく主にお会いし、主を「望みの神」として新しく知ることができるようになればと願っています。
望みの神は、望みなく失望している者の神です。自分の願いが、望みが満たされ成就されないなら、多くの人はひどく失望します。けれど、イエス様の側には失望ということがありません。
誰もイエス様に失望し、主を失望させることはできない。なぜかと言いますと、われわれの主イエス様は、ご自身の目的を初めから終わりまで完全に成就されるということを知っているからです。

イエス様の一つの名前は、望みの神です。イエス様は疑うことを知りません。イエス様は、ご自身のなそうとするご目的が、必ず完全に成し遂げられることを確信しておられるお方です。
どうしてでしょうか。イエス様の確信は、周りの環境から生まれ出たものでもないし、また人間から生まれ出たものでもない。イエス様の確信と望みは、ご自身のついにあるからです。
イエス様ご自身が、とりもなおさず望みの神であられます。たとえどんなことが起こっても、私たちがどんなに不完全で失敗に失敗を重ねても、イエス様は永遠に変わらない望みの神そのものです。

ですから、この13節は私にとっても忘れられない。
望み、喜び、平和という言葉が出てきます。けれど望みの神は、いったいどうしたら、われわれの心を絶えざる喜びと平安で満たしてくださることができるのでしょうか。
私たちは今日、どうしたら聖霊の力によって望みにあふれることができるのでしょうか。

このローマ人への手紙15章13節にその答えがあります。すなわち、それは信仰によって、望みの神に信頼することによって、喜び、平安と望みにあふれさせられます。
自分を見ないで、望みの神を見つめることによってのみ、喜びと平安と望みがわきあがってきます。
ということは、喜びと平安と望みの源は、私たちのうちにあるのではなく、イエス様ご自身のうちにだけあるのです。

このローマ人への手紙15章を読んでまいりますと、主イエス様は三つの違った名前で呼ばれています。

1.忍耐と慰めの神
2.平和の神
3.望みの神

と呼ばれています。すなわち、悲しみの中にある忍耐と慰めの神、二番目、戦いの中にある平和の神、三番目、失望の中にある望みの神と呼ばれています。

このローマ人への手紙の15章5節を見ると、主はまず、忍耐と慰めの神という名前で呼ばれています。
少し前にさかのぼって、3節を見ると、どんな悩みの中にあっても、苦しみの中にあっても、はたまたそしりの真っ只中にあっても、主は忍耐と慰めの神でるといっていることがわかります。
悩みやそしりは、分かれざる心を持ち、主に対する単一な、ひたすらなる心をもって主に仕える者に必ずやってくることです。

イエス様の歩まれた道は、ご存知のように己をむなしくし、己を否定する道でした。今日においてもなお、イエス様に従う道は、同じくそしりの道であり、悩みの道です。
もし、この悩みやそしりや苦しみを知らず、また信仰生活においてそれらのものはないという人がいるなら、その人の内にイエス様が住んでおられ、主の形をその人の内に段々現していかれるかどうかが、大変疑問と言わなければならないのではないでしょうか。
もし、私たちが主と正しい関係を結んでいるならば、主と同じ経験をするに違いない。このローマ人への手紙の15章3節にあるような経験をするでしょう。

ローマ人への手紙15:3
3キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。

私たちが悩み、苦しみ、そしりの中にあります時、諦め、絶望しないためには、どうしても忍耐の神、慰めの神が必要となって参ります。もしそのような時、忍耐と慰めの神がわれわれにないなら、誰でも失望と落胆の泥沼に落ち込んでしまうことでしょう。
われわれの神は、忍耐と慰めの神です。私たちは打ちのめされているのでしょうか。悩みの中にあって解決がなく、諦めようとしているのでしょうか。それでも、私たちは、困難な状況にあって、また、自分の計画を苦にしているのでしょうか。
私たちは、打ちのめされている必要は毛頭ありません。忍耐と慰めのわれわれの神は、私たちの真中に臨在しておられるからです。

主に与えられている第二番目の名前は、このローマ人への手紙の33節ですね。平和の神と呼ばれています。

ローマ人への手紙15:33
33どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。

とあります。
その前の30節と31節を見ると、力を尽くし祈りの戦いの内に、祈って欲しいと書いてありますが、私たちの主は、戦いの真っ只中にあっても、なお平和の神であられるということです。
心を尽くし、真心を込め、誠心誠意、主にのみ仕えたいと欲するものは、いつも戦いの真っ只中に投げ出されております。

この31節、32節を見るとパウロは、これからユダヤに行くに際し、ユダヤの未信者の迫害を予測していました。また、エルサレムの聖徒に仕えることができるように、その奉仕に対して霊的な戦いを予測していたのです。
パウロは、戦いの渦の真中におったわけです。このような時、パウロの支えとなったのは何だったでしょうかね。平和の神でした。主はいつも、私たちの求めに応じて、われわれの求めとなってくださるお方です。
そしりと苦しみの中にあっては忍耐と慰めの神であり、戦いの中にあっては平和の神です。

主に与えられている名前は、今話したように忍耐と慰めの神であり、二番目、平和の神であり、そして三番目、望みの神と呼ばれています。
すなわち、苦しみの中にある忍耐と慰めの神、戦いの中にある平和の神、そして、失望の中にある望みの神と呼ばれています。
13節を見ると、われわれの主は望みの神です。パウロは、このローマ人への手紙をもうすぐ囚われて有終の美となるという時に書きました。

24節と28節を見ると、パウロは間もなくスペインに行きたいという願いを持っていたことがわかりますけれど、実際にはどうなったことでしょう。パウロは、少なくともその時、スペインに行くことはできなかったばかりか、囚われの身になってしまいました。
人間的に見るならば、彼にとってショックでした。「主はどうして、そんなことを許すの?」パウロにとって、非常な苦しみだったに違いない。
牢屋に入っているというその苦しみばかりではなくて、スペインにおけるご奉仕の道が断たれた、というパウロの苦しみは、どんなに大きいものであったか想像に絶することです。

また反面、私たちはパウロが牢屋に繋がれたということはよかった。素晴らしいことだ。もし、パウロが牢屋に繋がらなければ、あのような多くの素晴らしい書簡はうまれなかったであろう、と言うかもしれない。
けれどパウロは、獄にいた時、自分が今書いている手紙が、聖書に残されるとは夢にも思わなかったのです。獄にいるのは、主のご奉仕のために最善であるとは思っていなかったでしょう。
パウロが囚われの身でいるということは、苦しみ、失望であったに違いない。パウロはそのような時に、望みの神を必要としていたのです。

私たちは悩み、そしり、戦い、失望しているでしょう。ですから忍耐と慰め、また平和の神がどうしても必要です。私たちは、悩みとそしりの中におられるでしょうか。忍耐と慰めは、われわれのそばにおられます。
私たちは絶望の戦いの中にいるのでしょうか。霊肉の戦いで苦しんでいるのでしょうか。あるいは、自分の性格の点で悩み戦っているのでしょうか。平和の神は、われわれとともにおられます。
私たちは失望し、打ちのめされておられるのでしょうか。望みの神は、私たちの内におられます。ちょっと一箇所読みます。イザヤ書の61章の2節からお読みします。

イザヤ書61:2-3
2主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
3シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。

とあります。
イエス様のこの世に来られた目的の一つは、あふれるばかりの喜びを与えるためでした。
ですから言われました。ヨハネの福音書15章11節

ヨハネの福音書15:11
11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

イエス様がこの世に来られた目的の一つは、それだったのです。
人間は、主にあって喜ぶことができるか、あるいはがっかりして、絶望してしまうかのどちらかです。
前向きに生活するために、主は自分に与えられた名前を通し自分自身を明らかにしてくださいました。すなわち主は、今、話したように

1.苦しみの中にある忍耐と慰めの神
2.戦いの中にある平和の神
3.失望の中にある望みの神

です。
ちっぽけな人間が、この主と繋がっていれば、悪魔はどうすることもできません。けれど、悪魔はわれわれに向かってくるのに一番強い武器とは、何であるかと言いますと「絶望」という武器です。
悪魔の一番強い武器である絶望について、少しだけ考えましょうか。

ローマ人への手紙15:13
13聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

とパウロは祈っていますが、パウロは、悪魔が主のしもべたちに対して絶望という武器を持って激しく攻撃していることを知っていたから、このように祈ったのです。
われわれの周囲にある多くの悩み、苦しみ、戦いは、表面的なものであることが多いようですけれども、ここにいる戦いは、悪魔が人の魂を主から奪い取ろうとして、絶望に引き入れることに対する激しい、深刻な内面の霊の戦いを言っているのです。
けれど、このように激しい戦いの真っ只中にあっても、なお失望せず、落胆せず、かえって望みを抱き、一歩一歩前に進むことができるのは、もちろん聖霊の力による以外にありません。人間は、いくら頑張っても何にもならない。

イエス様に対して尊いもの、イエス様にとって価値のあるものには、悪魔の働きもますます激しくなってまいります。
これに対して、三つの例を旧約聖書から取り出してみて見ましょうか。

1.アブラハムの絶望
2.ダビデの絶望
3.エリヤの絶望

始めに、アブラハムの絶望について見てみましょうか。
主は、アブラハムに息子をお与えになることを約束されました。けれど、その約束はなかなか成就いたしません。アブラハムは段々歳を取り、ついに85歳になってしまい、その望みはほとんどなくなってしまいました。
アブラハムは、それまで主とともに歩み、多くの幸いなことどもを経験してまいりました。けれど今、息子を与えてくださるという主のご約束は、望がなくなってまいりました。

人間が絶望すると、いろいろな違った反応を示します。ある人は絶望状態に陥ると諦めてしまいます。また、ある人は逃れるために自分で何かしようとします。アブラハムの場合がそうでした。
アブラハムは絶望しました。妻サラは子を生みません。そこで妻サラは、使い女で名をハガルという一人の女性をアブラハムの妾として与えました。不信仰の表れそのものです。
そしてこのハガルは、エジプト人だったのですけれど、間もなくアブラハムの子を生みました。これは何を意味しているのでしょうか。

アブラハムはその行いによって、「主なる神はできない。だから、自分でことを行なおう。」、いけないアブラハムの心を表しています。
このアブラハムは、「主は望みの神ではない。私がやらなければ、主はなし得ない。」、という気持ちになったのです。アブラハムは絶望してしまいました。
信仰の父と呼ばれている男は絶望した。その時アブラハムは、主に拠り頼まないで自分でことを行ないました。その結果はどうだったのでしょうか。言うまでもなく、勝利者になったのは、アブラハムではなく悪魔です。

悪魔はわれわれの状態を見て、大喜びの時がしばしばあるのではないでしょうか。
私たちは口で「主はできない。主はこの状態を解決できない。だから、自分でやろう。」、と口でこそ、もちろん言いません。
けれど、実際の生活において、それをやっている場合が往々にしてあるのではないでしょうか。

二番目、ダビデの絶望について、少し考えましょうか。
ダビデは、やはり、主から素晴らしい経験をとられた後に、とんでもない態度を取りました。サムエル記第I、27章1節にあるように、自分勝手な言葉を口にし、またそれを行なってしまいました。読みます。

サムエル記第I、27:1
1ダビデは心の中で

公ではないよ、

サムエル記第I、27:1
1言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に

敵の国に、

サムエル記第I、27:1
1のがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」

とダビデは、みこころにかなうダビデは言ったのです。これより以前、かつて、主はダビデを呼び、ダビデにやがて王となることを約束されました。
アブラハムは先ほど見ましたように、「主はできない。」と考えましたが、これに対してダビデは何と言ったのでしょうか。「主は、今は、もはやなすことができない。もうすでに遅すぎる。私が王となることは望みがない。」と思ったのです。
ダビデは、それまでの長い間、主はご自身のご計画を必ず、余さず成就されるということを確信し続けてまいりましたけれど、今どうでしょう。周りの情勢が困難に見えます。絶望的に見えます。ダビデは、すべてがダメであると望みを捨ててしまいました。

実際はこの時、ダビデの敵であるサウルの死は間近に迫り、ダビデが王となるのは目前に近づいていたのです。
やがてダビデは王となるのですが、ちょうどその寸前、今の時は悪魔が働き闇の時であり、絶望に引き込もうとする時期です。ダビデは絶望してしまいました。
もし、私たちが望みの神を見失いますと、それは悪魔の勝利です。

今まで、アブラハムの絶望、二番目、ダビデの絶望について考えてみましたが、今度は第三番目ですけれど、エリヤの絶望について、少し考えましょうか。
このエリヤという預言者は、実に神の人でした。主とともに歩んだ男でした。主とともに歩み、主より限りない祝福を受け、主の力を充分に味わい知るようになった男でした。けれどエリヤも絶望しました。
エリヤは絶望した時、神の素晴らしい御力を知っていましたから、アブラハムのように「神はできない。」と考えなかったし、またダビデのように「今はもうすでに遅すぎる。」とも言えなかったのです。エリヤは、いったい何に絶望したのでしょうか。

自分自身に絶望しました。「主よ。私は汚れた者です。ご自身の役に立たない者です。御用にかなわない者です。弱い者です。力のない者です。お願い、他の人をお探しになり、他の人をお遣わしください。私はもうダメです。」
エリヤは、己に絶望し、このように思うようになりました。
けれど、ここに一つの質問が浮かんでこないでしょうか。アブラハムやダビデ、エリヤは何故このように想像に絶する絶望状態に落ち込んでしまったのでしょうか。

それは、アブラハムにしても、ダビデにしても、エリヤにしても、心から全力をあげて主に、主にだけ仕えた人々だったのです。
主が彼ら三人をみると、三人は主に愛せられる者であり、非常に主のために価値あるものに見えたはずです。
ですから、主はこの三人を通して、ご自身の永遠の目的を達成されようといたしました。悪魔が、主のみこころにかなうこの三人に全力をあげての激しい攻撃を加えないはずはありません。

三人は絶望に陥った原因はこのように、一つは悪魔の攻撃でしたが、その裏にもう一つの見逃すことのできない理由が横たわっています。
主は三人を通して、ご自身のご目的をご自分で成し遂げようとしておられました。三人を道具として、ただの器として用いたかったのです。
この主のご目的にかなうためには、絶望の中に沈み込むことが、結局必要だったのです。

けれども、望みの神は、まったく望みを失ったアブラハム、ダビデ、エリヤの神です。私たちは、もうすでに言い知れないこの激しい絶望に追い込まれたことがあるのでしょうか。
私たちがことをなす場合は、われわれの生まれながらの性質をもってするなら、それは、主はお邪魔とすることを知らなければならないのではないでしょうか。私たちは自分の持っている感情、考え、意志が役に立たない、それらに信頼が持てなくなっているのでしょうか。
私たちは、自分自身に絶望をしているのでしょうか。そのような状態にあって、主を見上げているのでしょうか。主を望みなき者の望みの神として知っているのでしょうか。

今まで、私たちは二つの点について考えてまいりました。
第一番目、主の三つの違った名前について。それから、第二番目、悪魔の一番強い武器である絶望についてでした。
最後に三番目ですけれど、主イエス様の勝利と望みについて、少しご一緒に考えてみたいと思います。イエス様の勝利と望み。

イエス様が、この地上で過ごされたあの最後のころのことを思い浮かべてみましょう。
イエス様がその生涯を通してなされたご奉仕は、目に見えた結果が表れていたのでしょうか。そうではない。すべてが絶望的に見えました。すべてが無駄であったかのように見えたのではないでしょうか。
イエス様は、神のみこころを成就されるために遣わされて、この世において33年のご生涯を送られました。そのご生涯の終わりの時、すべてがむなしく、絶望的に見えたのです。

イエス様はエルサレムに向かい、涙を流されました。イエス様は救うために、癒すために、立ち上がらせるために、しもべとして、人間に仕える者としてこの世においでになりましたけれど、どうでしょうか、人々はみな主を侮り、冷たくあしらいました。
イエス様は、ご生涯の最後は十字架でした。十字架に架けられる時、ご自分を取り巻く、愛した弟子たちさえみんな逃げさり、まったくの孤独でした。
けれど、そのような主でありましたが、なおかつ、あふれる望みに満ちておれられたのではないでしょうか。

ヨハネの福音書14章から17章まで続けてお読みになってください。読むとわかるよ。イエス様が将来を望み見て、限りない深い平安と静かをお持ちになっていたことがよくわかる。
このヨハネの福音書14章から17章は、イエス様のお別れのことばでした。弟子たちは、このことばを聞いた時、「君よ。」と思ったに違いない。
イエス様は、この別れのことばの中で弟子たちに「今後、私の名によって願い求めることはすべてかなえられる。」、と約束しましたが、それまで願い求めたことがみんな失敗に終わっている弟子たちにとって、主のことばは不思議に響いたことでしょう。

またイエス様は、「後ほど御霊を送り、あなたがたは多くの実を結ぶようになる。」、ということを弟子たちにお約束なさいました。けれど、弟子たちは、その時自らを顧みて、「それはありえない。不可能なことである。」、と考えたに違いない。
聖霊の力によって望みに満ちあふれている、これこそイエス様のお姿でした。このヨハネの福音書14章から17章までを読むと、周囲の状態がいかに絶望的な状態であったかがよくわかります。
それとともに、その中にあって、主がいかに望みに満ちておられたかを見ると、われわれの主イエス様は、限りない望みに満ちあふれたお方であったことがよくわかります。

イエス様はアブラハムのように、「父なる神はできない。」と思うことを、もちろん、なさいませんでした。また、イエス様はダビデのように「もう遅すぎる。」と言うこともいたしませんでした。
もちろん、「私は喜んで、生き生きとした望みを持って墓に参ります。これは決して遅すぎるということではなくして、決められた主の時なのです。」、と言われ、死に向かっていかれたのです。
また、イエス様はエリヤのように「神は私を用い賜わない。」と言われませんでした。イエス様は聖霊により、「主は、自分を用いることをなしたもう。」と確信しておられました。そしてイエス様のよみがえりは、希望は失望に終わることがないことを証明しているのではないでしょうか。

私たちは、望みの神を信じている者として、喜びと平安と望みに満ちているのでしょうか。今の末の世にあって、明るい喜びと平安と望みに満ちている人々が、どうしても必要です。
イエス様はいたるところで、ご自身のみこころにかなった教会を、すなわち天的な、霊的な、世界的な教会を打ち建てられることができるのでしょうか。私たちが、まことにイエス様をかしらとして、主の御姿を現す者となっているのでしょうか。
人と環境に目を留めると、望みなく絶望的に見えるかもしれないけれど、今日、われわれは望みに満ちたイエス様を仰ぎ見ましょう。いたるところにいる兄弟姉妹は、やがて傷もしみもない教会となり、主に喜ばれる器となり、絶えず主のご栄光の内に住み続けることになることを確信いたしましょう。

アブラハムは、神はできないと思いました。ダビデは、主は今となってはもう無理、今は遅すぎるといったのです。エリヤは、主なる神はできる、しかし私を用いられないと申しました。私たちは何と考えるのでしょうか。
私たちは困難があり、苦しみがあり、悩みがあります。それゆえに、だから絶望に陥ってしまうのでしょうか。

もし絶望に陥るなら、それは、あたかも太平洋の中に住んでいる一匹の小魚が、「喉が乾いたので太平洋の水を飲もうと思う。しかし、もし、自分が水を飲んだために、太平洋の水がなくなりはしないか。」、と恐れ飲むことをためらっている状態に、さも似ているというものです。
太平洋は小魚に向かって、「心配することはないよ。大丈夫だよ。お前がどんなに水を飲んでも、私は尽きることはない。」と言うことでしょう。
私たちは、いろいろな悩みを持っているから、そのためにお先真っ暗で、絶望的な状態にあるかもしれない。それによって、すべてを投げ出し、諦める必要はない。

また絶望している人は、ある人が山の頂に立ち、「私が一生懸命空気を吸うと、空気中の酸素がなくなってしまうのではないか。」、と心配している姿に、さも似ています。
大地はその人に言うでしょう。「ちっちゃな人よ。お前がいくら呼吸しても、酸素は尽きない。思う存分空気を吸いなさい。安心しなさい。」と言うでしょう。
己自身を見つめ、ちっぽけなことに心を捉われ、大いなる望みの神を見失っている人は、あたかも、先ほどの太平洋の魚、また、山の頂に立つ人間のようなものではないでしょうか。大きな信仰を持ちましょう。

小さな信仰は、われわれを天国に導きます。
けれど大きな信仰は、天国をわれわれの心に導きます。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

こういうふうに、パウロはローマにいる兄弟姉妹に書き送って、彼らのために祈ったのです。
委ねていると言いながら、全然委ねきれない人もいるし、委ねたと思ったけれど、違うと認めざるを得ない人々なのではないでしょうか。
それを明らかにするために、もう一箇所読んで終わります。コリント人への手紙第II、1章の3節から、少し長いけれど、3節からお読みいたします。

コリント人への手紙第II、1:3-7
3私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
4神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
5それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
6もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
7私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

それから、パウロの正直な告白です。

コリント人への手紙第II、1:8-9
8兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
9ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

まだ、なっていなかった。なるためでした。

コリント人への手紙第II、1:10
10ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

最後にもう一箇所読みます。ペテロの手紙第I、皆さん暗記していることばです。素晴らしい約束です。

ペテロの手紙第I、5:7
7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

主が心配してくだされば、心配するのはおかしい。
主は心配してくださるという確信を持って将来に向かうと、あふれるばかりの祝福を経験するようになるに違いない。




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