引用聖句:使徒の働き16章31節-32節、34節-36節
ここまで来る途中で、また着いてきてからも考えたんです。何について話したらいいなのでしょうか。 その後ちょっとメッセージを聞いたりして、そして集まった人々の中でいろいろな個人的な話しがあったから、話すべきなのはやっぱり、「家族の救い」について、それから「再臨」についてなのではないか、と思うようになったのです。 話したいことは今の話したように、2つのことです。 第1番目。家族の救いを第一にしない兄弟姉妹は、怠け者です。 第2番目。イエス様の再臨を望まない人は、イエス様を愛していない兄弟姉妹です。 パウロは、「主を愛さない者は呪われよ。」と書いたんです。 呪われることとは、滅びることじゃなくて、ただ祝福され得ないことだけなんです。けど主の祝福がなければもう、すべては虚しいなのではないでしょうか。 毎週土・日曜日、あっちこっち行きますし、だいだいショッキングなこと聞きます。 たとえば、「もう2〜30年間教会行った。けど家族の救いのために、一度も祈ったことがない。」ショ〜ックです。 結局だいたい姉妹たちは先に救われます。男はのん気ですから、傲慢かもしれない。高ぶってるかもしれないけど、99%先に奥さんたちなんです。 もっと素直だから、もっと正直だからでしょう。もっと悩んでるかもしれない。そして、そういう姉妹たちはたとえば教会行くと、もちろん牧師は喜ぶ。玄関で「姉妹、よぉくいらっしゃいました!(^^)」、いい気持ちになるでしょう。 イエス様だったら、そういうヘンなあいさつしないと思う。イエス様だったら、「姉妹、どうして一人ですか?家族はどこ?あなたの親戚友人たちはいったいどこにいるの?」と言うに違いない。 「イエス様、来てください」と一度も祈ったことのない兄弟姉妹も、いるのです。 結局、私たちの大部分は、十字架につけたイエス様をいろいろな知り合いの人々に紹介したことがあると思う。あるいは復活なさったイエス様も紹介したことがあるに違いない。 けれども、近いうちに来られるイエス様を紹介しなければ、罪です。 イエス様のひとつの名前とは、「後に来られる方」です。結局、待ち望むことこそが信仰の現われなのではないでしょうか。 今読んでもらいました箇所は別に彼は読まなくても、みな暗記してると思う。ね、 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も、ね、救われる。」 もう、わかっとるよ、もう!ABCじゃないか。そのとおりです。 けども人間はやっぱり戻るべきじゃないか、と思うよ。ABCとはいったいなんなのでしょうか。 確かに多くの人とはやっぱり新しいこと知りたいし、私たちもおそらく来年のこの喜びの集いでおそらく「聖歌」じゃなくて、「信仰の歌」を歌うようになると思うんです。 ある人々はこないだどこでしたか、横浜で、「いったいどうしてぇ?」と言われたことがあるんです。結局ね、今の聖歌は印刷されません。も、一年前からいのちのことば社から聞いたんです。 「も、終わり。あなたが買おうと思えば、今は何百冊あるけど、終わりですよ。もう印刷されません。新聖歌もう出てるんです。二千何百なんです。」 はァ…そしたらみんな今の聖歌を捨てて、高いもの買わなくちゃいけないの?あんまり高い、そして、今の聖歌の中で聖書と同じ内容でない歌も入ってるんです。疑問です。ですからやっぱり聖書とはいったい何と言っとるか。 同じものでなければ、悪魔喜ぶんじゃないかなぁ。ですから、新しい、集会のためにだけの歌の本を作ったらいいじゃないか。 神戸の兄弟、一生懸命やって作ったんですけど、多くの人とはやっぱり聖歌と比べれば、違う。聖歌の方がいい。 言葉の遣い方もそうですし、それから吉祥寺の兄弟は、ほんっとにね、全部見直したんです。全部。 そして一つの歌のために、時々3日間朝から晩まで祈ったんです。天国で報いられるでしょうけど、大変だと思う。そんなに簡単なもんじゃない。結局みことばを読みながら主を恐れて作ったんです。 今、吉祥寺でみんな使っとるんですけど、もう何年か前から使ってる感じなんです。やぁ〜、5・6年間使うじゃないかと思っちゃた。けど、も、すぐ慣れちゃった。合唱団に入ってる人は多いですし、けども、地方の兄弟姉妹たちはちょっと可哀相。 もちろんはじめは間違ったところも入っていましたし、今、またすぐ5冊また出るんです。印刷中です。間違ったところ直されてるし、それから、だいたい今月の2週間後でCDも出るんです。 1からずっと順番で、僕一枚に入ると思ったんです。何もわからないから。4枚必要なんです。72分の4枚のCD必要ですけど、多分全部4枚も500円以内でできる、じゃないかなぁ。 ですからこのCDを買って、歌の本を見ながら聞くと、非常に祝福されると思うんです。 確かに新しい歌かもしれないけど、本当は違う。ね、音楽と音楽とは違うでしょう。みんなわかるよ。 ちょっとヘンな話しですけど、アメリカでいろいろな変わった人がいまして、ある人はちいちゃい部屋いっぱい作って、その中に同じ種を使って、花植えたんです。 ある部屋でロックのようなものだけ、もう、ずっと夜昼聞かせて、別の部屋で、そのクラッシックの音楽ばっかり聞かせて、も、云々と…。 花の育ち方ぜんぜん違う!ロックの音楽だけ聞く花はも、めっちゃくちゃで…、も。や、ちょっと考えられない。クラッシックの音楽で育てた花は、すっばらしくきれいに育ってた。 結局植物でさえも、こういう影響受ければ、ましてや人間じゃないか…。 結局ね、地獄から出る音楽もあるし、天国から与えられる音楽も、ある。音楽好きな人は、どうしても天国行ってもらいたい。も、朝から晩まで夜中も、夜はないでしょうけどね。 いっつもね、音楽ばっかり。主イエス様は礼拝されてるばかりなんです。下手な人もいない。考えてヨ。練習必要ないし、指揮者も必要ない。もう、最高だよ! われわれの歌の本は、新しいものではない。多くの教会は、新しいものを作るんです。若者のため。結局内容は間違っていても、リズムそのものは、おかしい…。 ですから、このわれわれの、今から使うドイツの歌、近いうちに150、聖歌からもちろん入るんですよ。ねぇ。 やっぱり聖歌の中ですっばらしいものがある。言葉は少し変わります。全部許可得てるし、うまくいくと思います。けども、ドイツの歌とは古くて古くて、もう、150年200年前に出たものなんです。 けども、どうしてその本は、その歌は、できるようになったか?結局もう、主を喜ぶ喜びの現われとして。ですから、やっぱり新しいもの、いや、ねぇ。 戻りましょうよ。ABCいいじゃないの?そういうものなんです。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も、救わるる」とは、結局ね、もう一回戻りましょうよ。 「家族の救い」こそが、一番大切なのではないでしょうか? 結局、「家族」とは、血の繋がりを持つ人々を意味してるだけではない。 たとえば、チーフパーサーの兄弟と一緒にフライトに行くクルーは、みんなそうだと思うよ。ね、私たちは自分の親を選んでないでしょ?自分の親戚も、自分で選んでないでしょ? 学校に入ったとき、自分で自分の同級生別に選んでいないでしょ?結局ね、ぜぇんぶ、主は背後に目的を持って導いてくださる。 そして、主の目から見ると、われわれの「知り合いの人々」とは「家族」です。この、知り合いの人々の救いを大切にしない者とは、結局主の悩みの種になります。 あなたの知り合いの人々とは、結局救われるべきです。彼らはどういうふうに救われる、なのでしょうか。 最も大切なのは、前に話したように主の再臨を待ち望むことです。 9年前にドイツに行った兄弟姉妹いっぱいいました。一番多かったかなぁ? そのとき、フィーリンゲンという老人ホームのところ、みんな行きまして、みんな車椅子の人々もたぁくさん集まったんです。 そのとき、昔のアイドリンゲンの神学校の校長先生は、話してくださったんです。まだ、生きてます。もう喘息で時々大変苦しいけど、ほんとに喜びに満たされてる姉妹です。 彼女から、こないだの手紙で、本人の気持ちをわかったのです。彼女は次のように書いたのです。 「主イエスの再臨について考えると、喜びに満たされ、またものの見方も変わります。 過去において、主はどうしてあるところで特別な祝福を与えていたか、について考えていたとき、はっきりわかりました。 すなわち、意識して、期待をもって、主の再臨を待ち望んだとき、主はご臨在を明らかにしてくださった、ということ。そして、主のご臨在が現われると、人間は喜びに満たされます。 私たちはなんのために新しく生まれ変わったのでしょうか?生ける望みを持つためです。 私は、毎日日本にいる兄弟姉妹のために祈ると嬉しくなります。 なぜなら、彼らも近いうちに来られる主イエス様を待ち望んでいる兄弟姉妹であるからです。 主を待ち望むと、自分の考え方、また生き方も、変わります。私たちの今の時代は、確かに恐ろしい時代になってしまいました。 しかし、悩む者こそが待ち望むようになります。 主はアイドリンゲンのすべての姉妹たちの上に、新たに一人一人をめざすことができ、また喜びに満たされるように...」 そういう手紙だったのです。主を待ち望むことこそが、考えられないほど大切です。 みことばとは、結局はっきり主の再臨を待ち望む大切さについて、多くのこと言ってます。みことばこそが、力の源なのではないでしょうか。 みなさんよく引用する箇所なんですけども、エレミヤ書の15章の16節です。1166ページ。エレミヤ書15章の16節。 エレミヤという預言者の体験であります。彼はもし目に見える現実を見たならば、もう動けなくなって落ち込んでしまったはずです。 も、全部まっくらやみでした。いくら主のみことばを宣べ伝えても、聞く耳がなかった。 彼は誤解され、迫害され、何回も刑務所に入れられたんです。けど、だからといって彼はあきらめようとしなかった。みことばに支えられたからです。 エレミヤ書15:16
どうして見つけ出したかといいますと、さがしたから。「主よ。語ってください。」と叫んだからです。 彼はみことばを「理解した」と書いてないんです。「食べた」。自分のものにした。 あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり心の喜びとなりました。 喜ぼうと思えば、みことばを食べなさい。理解できなくても、かんならず元気になります。 ある姉妹、母親が今日みえてますけど、こないだなかなかいいこと言ったんです。 「私は大きな荷物、平気で4階まで運びます。主人はそれを見るとびっくりする。」結局もう、力持ちです。平気で4階まで運びます。 「けど、主人と喧嘩してから、2階までも無理。できません。」結局ね、喜びもあれば、力もあるよ〜。喜びがなければもう駄目。 そして、この力の源、喜びの源とは、結局私たちに与えられてる聖書であります。 詩篇の中で、一番長い詩篇ですけども、時々ぺちゃんこになった人々に、「ぜひ詩篇を読んでください」、何を祈ったらいいかとわからない人々も、やっぱり詩篇を読めばいい。 われわれの祈りとは、聖霊に導かれた祈りであればありがたいけど、問題です。詩篇は祈りです。聖霊に導かれた祈りです。 ですからわれわれもこの聖霊に与えられた祈りを自分のものにすれば、非常に祝福されます。 だいたいの詩篇は、短い。2・3節のものもあるし、20なん節もありますし、119篇だけちょっと長いすぎ。176節。そして何回も何回も、おなぁじこと書いとる。クックックック。 ですから、詩篇119篇だと、5節ずつで十分だと思うよ。けども結局ダビデとは、 やっぱりみことばはすごい。 みことばは、素晴らしい。 みことばに頼ると元気になる。 そればっかり書いてるんです。ね、たとえば9節。 詩篇119:9
詩篇119:16
詩篇119:92
詩篇119:105
詩篇119:162
結局、みことばを自分のものにする。みことばに頼る。ことこそが私たちにとって、一番大切なのではないでしょうか。 家族の救いこそが大切です。喜んで主の再臨を待ち望む者とはいったいどういう者なのでしょうか。 主を愛してるものです。それから、家族の救いを経験している者なのではないでしょうか。 もちろん、「主イエスを信じなさい」と言われてますけどそれはなんでしょうか。 ある人々は、やはり「イエス様のことわかること」だと考えとるんです。それ、無理。永遠にわたっても、私たちはイエス様をおそらく理解できないじゃないですか。あんまり素晴らしいからです。 「イエス様を信じること」とは、「イエス様を理解すること」意味してるのではない。「イエス様の約束を自分のものにすること」です。 そして、聖書の中の最も素晴らしい約束の一つとは「家族も救われます」。あなたの知り合いの人々もみな導かれるべきである、ということです。 主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も、救われます。 夕べ兄弟も、結局「もしかすると、近いうちに来るよー」と、言われたのです。 結局イエス様の再臨を待ち望む者は、聞く耳を持つ者です。 使徒の働きの中で10章だと思うんですけども、コルネリオといういわゆる異邦人、ローマ人について書かれてます。「ペテロ来てもらいたい。福音を聞きたい。ペテロが来ると、やっぱり新しい世界を知るようになる。」と彼は確信したんです。 ペテロはなかなか行こうとしなかった。頑固と言わなかったけど、「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」…そういう気持ち、はじめてなかったようです。 3回も彼はある幻を見てから、「いったい主はなにを考えとるの?!」命令は、『汚い動物をほふって食べなさい』。 ペテロは、「けしからん。主よ。私はそれだけしません。旧約聖書、違うこと書いてるじゃないか!」、意味はね、『あなた汚いと思われてる異邦人のところ行きなさい』ということだけだった。 どういう気持ちで行ったかわからない。喜んで行かなかったと思う。 けども、彼はコルネリオのところへ行って、イエス様の十字架について、イエス様の流された血潮について、あんまり話さないで的外れのこと言っちゃたよ。 「主はすべてのものの主です。」 救い主について話さないよ。 「イエス様はべてにまさっていだぁいなるお方です。」 と。それで、みんな導かれたんです。ま、ペテロが行ったときね、素晴らしいあいさつがあったんです。 使徒の働き10:33
すごぉい…、あいさつです。結局彼らは備えられていたのです。 私たちは、時々全く関心を持っていない、別に悩んでいない人々の救いを考えるのです。それはちょっと的外れ。ね。備えられた人々は、イエス様の話しを聞くといっぺんに導かれ、救われます。 そうでない人々のために祈った方が早道なのではないでしょうか。 ペテロはあのコルネリオの家行ったとき、みんなもう、心開いていた。 「私たちは、あなたの与えられたみことばを聞きたい。」 そういう気持ちです。 「私たちは、みんな結局、聞く耳を持ってる。主のなさったことを聞かせてください。」 人間のすべきことじゃないよ。結局「宗教は結構です。」 宗教は、人間のなすべきこと、知るべきこと大切にする。けども、それによって人間は救われませんよ。 大切なのは、主なる神はイエス様を通して何をなさったか、すなわち、中心とは、イエス様の代わりの死です。彼らは結局それを聞きたかったんです。見事にみんな救われました。家族みんな! 聖書の中でたとえば、次のような箇所があります。ルカの福音書8章39節。 ルカの福音書8:39
すごいんです!彼は、イエス様から離れたくなかったよ。イエス様の弟子になりたかった。イエス様は、 「違う。わたしはあなたを用いようと思ってる」 結局イエス様に追い出されたんです。 「出てもらいたい。」 …けども、そうするとあの町は福音なしの町になっちゃうでしょ。だから、イエス様は 「私の弟子にならなくてもいいよ。家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを話して。」 彼はそうしたのです。みんな、イエス様のことを聞くようになったのです。結局 「家に帰りなさい。家族に帰りなさい。家族だけじゃなくて、知り合いの人々に、わたしのしたことを宣べ伝えよ。わたしを紹介しなさい。」と。 ペテロの弟だったかお兄さんだったか忘れました。アンドレという男なんです。彼は主に出逢ったんです。もう、嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。 「今まで待ち望んでたメサイアに出逢った!」 と経験しました。けど、それでいいと彼は思わなかった。 やっぱりペテロも知るべきです。と思って。彼はまず自分の兄弟シモンを見付けて、 ヨハネの福音書1:41-42
このアンドレは何のために生まれてきたかわからないけど、もしかするとそのためだけ…。 ペテロ導くためだけだったかもしれない。彼は、後で振り返ってみたとき、「よかった!黙らなかったのは。」 また、次の箇所あります。 ヨハネの福音書4:53
彼だけじゃない。彼の家の者みんな、信じた。救われた。 使徒の働きの16章です。ルデヤについての話。 使徒の働き16:15
あの家の者もみな導かれ、救われたのです。そして前に兄弟のお読みになりました16章の中で、全家族という言葉も出てきますね。 使徒の働き16:31-33
夜中のバプテスマだったんですね。 使徒の働き16:34
なんと多くの家族は今バラバラになってるなのではないでしょうか。 大部分の問題はやっぱり家庭内の問題です。全世界を見てもそうです。ドイツの総理大臣は、結婚して離婚して、結婚して離婚して、結婚して離婚して、今、4番目、5番目の女性なんです。 (テープ A面 → B面) …人はね、国民を導こうと思っとるんです。そして、彼が選んだのは国民です!そうすれば、もうさようなら。もうおしまい。希望がないんです。ヨーロッパ全体そうなんです。 主は近い、の証拠です。 反キリストは必ずヨーロッパから出るものです。ですから、その準備、だけなんです。ある意味でもう怒りたい気持ちになる。めっちゃくちゃじゃないか!あの政治家たちは…。 全部、芝居なんですよ。ほんとのこと言わないよぉ。けどもそういうふうになると聖書ははっきり言っとるから、だから、もうちょっと…!イエス様が来らるる!と考えると、やっぱり、うれしくなります。 結局、家族、自分の家族こそが、大切です。 「自分の家族をかえりみない人は、信者であっても、不信者よりもひどぉい!」 と聖書ははっきり言っとるのです。ね。 知り合いの人々の救いのために重荷を感じなければ、彼らのために祈らなければ、もうだめ。主は祝福することができません。 使徒の働き16:34
結局、全家族が救われなければ十分じゃない。中途半端です。ほんとの喜びもわいてきません。ローマ人への手紙の中で、 ローマ人への手紙16:5
と、パウロは書いたのです。結局家族は、みんな救われただけではなく、やっぱり家の教会になっちゃた。 この家とはこの家族とは神の住まいになった。周りの人々のための光となったのです。もちろん初代教会の人々はそういう特徴がありました。 使徒の働き2:46-47
とあります。結局家、家族とは中心になったのです。家、家族とはバラバラとなれば、もう…だめ。 必要なのはいったいなんなのでしょうか?前に話したように、信ずること。主イエスを信じなさい。 その信仰の現われとはいったいなんなのでしょうか?聞く耳を持つこと、祈ることです。祈りながらみことばを読み、みことばを読みながら祈ることです。 両方一つにならなければいけない。結局聖書とは、祈りの材料です。 約束されてるからだから信ずることができる。そして信仰の現われとして、感謝することです。 ルカの福音書10章の中で、ま模範的な女性について書かれてます。みな、ご存じです。ルカの福音書10章39節。 ルカの福音書10:39
結局彼女はもう自分のこと忘れ、周りのこと忘れ、主よ語って〜。聞かせて。教えてください。 そういう気持ちでいっぱいだったのです。このマリヤがしたようにイエス様の足もとに座り続けることなしに、祈りの生活は成り立ちません。彼女は聞く耳を持っていたのです。 アブラハムについて、似てること書いてます。 アブラハムは神と顔と顔とを向かい合わせて、語った。 創世記18:17
と言っておられます。また、 創世記18:22
とあります。意味は「祈り続けた」。アブラハムの祈りは、砕かれた謙遜を身にまとったものでした。彼は、何を言ったかといいますと、 創世記18:27
ちり灰とは役に立たない、捨てるべきものです。アブラハムはそう祈っただけじゃなくて、本当にそう思ったんです。「私は、まぁったく、役に立たない者です。 創世記18:27
このアブラハムの祈りの結果はどうだったでしょう。創世記の19章29節に書かれています。 神は、滅びの町ソドム・ゴモラの町より、アブラハムの祈りの答えとして、親戚である甥であるロトを救い出されたのです。 このロトとは、ほんとにずるい男でしたよ。自分のことしか考えられなかったんです。主を信じたのです。義人ロトと聖書は言っています。イエス様、そう言ったんです。 けども彼は、自分自分自分のことしか考えていなかったのです。いい土地があったとき、アブラハムは 「あなたは選んでください。この良い土地か、まぁ、あんまりたいしたもんでない土地とどっちの方が欲しいの?」 もちろん彼は祈らないで、もちろんいい土地を選んだんです。当たり前ですよ。 けどアブラハムはいわゆる悪い土地を選んだんです。いい土地とはゴモラとソドムの土地だったのです。そして彼はその中に住むようになったのです。彼は考えられないほど悩んだ…んです。 けども、この自分のことしか考えられなかったロトのためにアブラハムは、1回2回だけじゃなくて祈り続けたのです。結果として彼は救い出されたのです。 結局聞く耳を持つこと、家族の救い知り合いの人々の救いのために祈り続けること、こそが大切です。 一つの実例、ちょっと見てみましょうか?マタイの福音書の8章。マタイの福音書8章の5節から マタイの福音書8:5-9
全部私の思う通りに行く。私はそういう力を持つ者です。結局だから、イエス様、あなたは、ひと言葉だけ言って〜。しもべは治ります。来なくてもいいよぉ。 マタイの福音書8:10
・・・ (聞き取り者注:ここで、テープのつなぎ目?のようです。) ・・・でした。 救われた民族に属する者でした。ですから、彼らにとってちょっとおもしろくない。 マタイの福音書8:10
このような素晴らしい信仰を持ってるのはあの、異邦人である百人隊長だよ。 マタイの福音書8:11
…日本からだよ。ね、イスラエルから見ると日本は東なんです。 マタイの福音書8:11-13
決定的な節は、8節です。 マタイの福音書8:8
アブラハムに似ている者です。 「ちり灰にすぎません。」 「そういう資格がないよ。主よ。ただお言葉をいただかせてください。そうすれば、私のしもべは治ります。」 結局、この百人隊長にとってこのしもべですよ。しもべはやっぱり家族の者でした。彼はこのしもべに対して無関心ではなかったよ。ほんとに出掛けてイエス様の所行って、自分の信仰を結局表したのです。 「あなたはできる。イエス様、ひと言葉だけでいいんです。」 イエス様は彼の信仰を見て驚かれた。 あるとき、ナザレだったんです。イエス様は、ナザレで大きくなって、30歳まで大工さんとして働かれたのです。 みんなイエス様のこと知ってたんです。イエス様は戻ったとき、ある人々もね、驚いたらしい。 マルコの福音書6:2
はじめてだったと思いますよ〜。 マルコの福音書6:2
別に大学行ってないじゃないの?神学部にいたこともないだろう。今までわれわれの中の一人だったじゃないか。 マルコの福音書6:2-6
も、このナザレの不信仰の町の中で、いくら福音を宣べ伝えても意味のないことです。彼らはイエス様を拒んだんです。それだけじゃなくて、殺そうと計画しました。 そのときイエス様は彼らの不信仰を驚かれた。百人隊長、異邦人の信仰を見たとき、イエス様はも、驚かれた。うれしくなった。 結局、家族の救いとは結局信仰にかかってるものです。信ずれば、神の栄光を見る。信ずることとは理解することじゃない。 うそ知らないイエス様が約束したから、間違いなくそうだ!という断固たる態度とるべきなのではないでしょうか。 前に、テモテへの手紙第Iの5章8節でしたね、引用した箇所もう1回読みます。 テモテへの手紙第I、5:8
たい〜へんな言葉です。結局主は、家族を救いたい。われわれの知り合いの人々を救おうと思っておられます。 けども、もし、私たちは、単純に信じなければ、期待を持って、前もって感謝しなければ、結局だめです。多くの人々は叫ぶんです。 「主よ。助けて。ズ…主人を救ってください。親を救ってください。子どもを救ってください。」 けど、それだけだったら、ちょっと十分じゃない。なぜならば、そういう人々はだいだい主を見ないで、現実だけを見てるのです。 そうすると、「救ってください」と言いながら、『やぁ…、まだ、何年間かかるかもしれない。」そういう祈りはきかれません。信仰じゃないからです。不信仰の言い表わしにすぎないからです。 「主よ。あなたは約束したから私は目に見える現実見ると、もうぺちゃんこになる、落ち込む。けどあなたはうそつきじゃないから、なんでもできるお方ですから、あなたの名誉がかかってるから、期待を持って待ってます。よろしく。」 この態度とると、奇跡が起こります。 もちろん私たちは、待つべきです。主の時が来なければ、なんにもならない。けど、主の時は最善の時です。 家族のための心配、家族のための救いこそが、大切です。 昔の、ヨブはやっぱり家族のこと考えて、心配しました。結果として祈ったんです。ヨブ記1章5節。 ヨブ記1:5
素晴らしい態度なのではないでしょうか。家族の救いこそが主の働きの目的です。 ヤコブについて、次のように書かれてます。 彼もま、明確な決断をしたのです。創世記の35章57ページになります。35章の1節から。 創世記35:1-5
ベテルは「神の家」を意味します。今で言いますならば「イエス様の体なる教会」を意味します。そして主なる神は、ヤコブに「立ってベテルに行きなさい」と言われたのであります。 私たちにこのみことばを当てはめるならば、「わたしとともに、わたしの教会を建てなさい」と。「わたしとともに、わたしの教会を建てる同労者と、なりなさい。」という意味です。主なる神はヤコブに、「立ってベテルに行きなさい」と言われました。 これは主のご目的だったのです。けどもどのように主の家は建てられていくなのでしょうか?2節を見ると、家族について書き記されています。 創世記35:2
結局主につかえるか、偶像に仕えるかのどちらか、だったのです。結局彼らは妥協しなかったから、結局は守られたのです。そしてもちろん光になったのです。 使徒の働き16:31
結果として、妥協せず、主の側に立つことによって、結局、家族も救われます。 けども大切なのは、やっぱりはっきりとした態度をとることです。これは時々、ばからしく見えるかもしれない。 たとえば、モーセはエジプトの王となるべきでした。ありのまましたならば、王になった。当時の世界の支配者になった。 けど彼は全部拒みました。「いやです」。そして聖書は、「彼は苦しむこと選んだ」んです。 考えて。…考えられない!苦しみを選ぶことだって、耐えることができるかもしれない。けど選ぶことだって!結果として彼の家族だけじゃなくて、みんな民族全体、悪魔の支配から解放されたんです。聖書の報告は短い。 ヘブル人への手紙11:25-26
…このキリストとは彼の1,500年前に生まれたでしょう?どうしてイエス様知るようになったかわからないけれど、知っていたんです。 ヘブル人への手紙11:26
現実見ると、やっぱりおかしくなる。彼はなが〜い目で見ることができたのです。 報いとして与えられるものから目を離さなかった。すご〜い決断でした。 聖書の中で、旧約聖書の中の一番短いちいちゃな本はルツ記です。ほんとに素晴らしいものです。内容は、 ある家族はベツレヘムに住んでいました。 ベツレヘムという、名前は「パンの家」。あふるるばかりの食べ物がある。 そういうところに住んでいたんですけど、急に飢饉になったんです。 彼らの信仰は本物か偽物か、明らかにするためでしょう。 彼らの信仰は本物ではなかった。人間的に考えて、「ここで餓死してしまうから、外国まで行こうよ」、行っちゃったんです。けどうまくいかなかった。 まずご主人は亡くなったんです。ね、外国で主人が亡くなった。息子さんたちは、未信者、主を知らない人々と、結婚したんです。結局ぜ〜んぶ自分勝手な、行動だったのです。あの二人の息子さんたちも亡くなったよ。 もう、ひ〜げきてきです。外国で、主人なし。子どもなし。残されてるのは、嫁さんたちだけです。けども彼女はやっぱり小さくなった。 「やっぱりよくなかった。自分勝手なことしてしまった。」 悔い改めた結果として帰ろうと決心しまして、そして一人の嫁に、 「いいよ。ここで残ったらいいじゃないの?」 「うん。わかった。そうします。」 もう一人の嫁はもう〜、もちろん頑固ではなかったよ。けど決心したんです。聖書は何と言ってるかといいますと、「ナオミ」という姑は、 ルツ記1:15-16
…嫁と姑の話しだよ。すごいよ。 ルツ記1:16
すごぉ〜い、あかし、なのではないでしょうか。もう、喜んでいわゆる外国行く。私の国籍は天国だから。結局ナオミの神は、嫁のルツの神となったのです。 もう一人の異邦人について同じようなこと書いてます。 ナアマンというシリヤの将軍だったんです。彼は主の恵みによって、いやされ、救われました。彼の告白とは、 列王記第II、5:17
…「将軍」じゃないよ。将軍なんかじゃなくて、 列王記第II、5:17
結局このような態度とることは、家族の救いのために必要なんです。 アサフという詩篇の作者は、 詩篇73:25
「主よ。あなたは私にとってすべてのすべてである。」この態度とる者は、大いに祝福されるだけではなく、家族の救いを経験するようになります。 問題は私たちは、家族に対して無関心なのでしょうか? あるいはアブラハムのように、家族の救いのために毎日祈り続けるかどうか。 それから、ほんとにイエス様の再臨を待ち望むかどうか、なのではないでしょうか。 こないだちょっと横浜で、ある末期の癌になった姉妹のところに見舞に行ったのであります。彼女の切なる願いは、 「再臨は近い。けど家族残したくない。」 まずちょっと病室の前にご主人は座っていて、二人の子ども12歳と15歳の子どももいまして、そのときやっぱりま、奥さんのために行ったと思っちゃたんです。 だいたい全部違うんです。見舞にいくとだいたい違うようです。 こないだ、ある姉妹のご両親のところへ行きまして、もちろんご両親のためだったと思ったんですけどやっぱりお姉さんのためだったらしい。 だいたいそういうもんなんです。人間のやってること全部、ククク…的外れ。 結局まご主人は、あなた先に入りなさいよと言って、どうして入ったか、 「私の葬儀をお願いします。」 別にそれ後で主人に言ってもいいだろう、と思ったんですけど、ほんとに喜んでもう輝いた顔で…、ねぇ、7歳12歳15歳の子ども残さなくちゃいけないでしょ。 ご主人残さなくちゃいけないでしょ?けども、彼女は「再臨は近い。残したくない。」 それから、ご主人と二人の子どもも呼んで、ほんとにいい交わりでした。 ご主人も子どもも悔い改めて、 「イエス様信じます。」 家族は一つになったんです。それこそ最高なのではないでしょうか。あの、姉妹はもう、嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。 結局主を待ち望むことと、家族の救いのために祈ることとは一つなんです。 イエス様を愛する者は、家族の救いのために心配し、毎日彼らの救いのために感謝します。 そして、イエス様のことを愛すれば、もちろん「来てくださぁい。」と心から祈り続けるなのではないでしょうか。「今日かもしれない。」そういう気持ちで生活すると、やっぱり価値観変わるよ。 初代教会の人々は毎日「今日かもしれない」という期待を持って生活したから、どういうことがあっても、いっくら憎まれ迫害されても、もう平気でした。殺されても別に。イエス様と一緒になるから。 ね。 近いうちに私たちはいつまでも、イエス様と一緒になると考えると、ほんとに嬉しくなっちゃうなのではないでしょうか。 |