引用聖句:出エジプト記20章1節-6節
マタイの福音書5:17-20、28、31-32、43-44
ローマ人への手紙7:1-6、18-20、24-25
今朝のメッセージに付けようと思った題名は、いわゆる、掟の支配からの解放であると思ったのですけれども、今、一緒に歌いました歌の中のことばのほうがいいと思ったのです。「見上げるお方は、ただイエスおひとり」、これのほうがずっといいのではないでしょうか。 私たち、すなわち、イエス様を受け入れた者は、今日まで過ごしてきた時を振り返ると、おそらく次のように言えるのではないでしょうか。 「長い間主なる神なく、望みなく、さまよって、何のために生きているのか訳が分からなかった。心中には満足がなかった。望みはただ地上のものに置かれ、自分の願いが叶えられたらそれを無上の幸福としていたのではないでしょうか。 このようなとき、主なる神の御子である主イエス様が全人類のために成し遂げられた御救いのことを聞きました。驚くべき知らせでした。 そのうちにだんだん自分が救われがたい罪人であり、罪のうちに死んでいて、どうしても身代わりに死んでくださった神の御子である主イエス様の救いを受け入れなければならないことを知るようになってきました。それから、イエス様、私は滅びなければならない罪人です。 あなたは聖なるお方です。願わくば御子イエス様の血によって私の罪を赦し、お救いくださいと祈り、イエス様を心の内にお迎えするまでの間、非常な心の戦いがあったことと思います。 けれどイエス様を受け入れたあとは、喜びと平安に満たされた幸いの生涯を知るようになりました。 けれどそうしているうちに、私たちは自分の罪が赦されたけれど、自分の内には依然として罪が残っていて、いつもいつも同じ罪を犯してしまうということに気付かされたのです。 イエス様は私たちの罪のために亡くなられたばかりではなく、私たち罪人のために亡くなられた。 私たちの罪が消し去られたばかりではない。私たち自身も古き人はイエス様とともに十字架につけられてしまった。私はキリストとともに十字架につけられてしまったのだ。 これが分かったときのことは、忘れることができないひとつの大きな経験でした。 これが分かったとき、自分はキリストとともに死に、ともによみがえられたという驚くべき知識が、続いて自分のものとなってきたのです。 そのとき同時に、自分はもうすでに自分のものではなく、尊い血潮に贖われたから、主のものとなった。私は永久的に主のものとなった。 その結果、全身全霊を主イエス様にささげ、イエス様におゆだねするようになりました。」 私たちの大部分の人々は、このように信仰の道を進んで来られたのではないでしょうか。イエス様はこんな私たちのために驚くべき救いのみわざを成してくださった。自分はイエス様のために尽くしたい。という願いが湧いてきたのです。 またさらに、あれやこれやをなすことではなく、イエス様のみこころを尋ね求めて、それに従いたいことを望むようになりました。本当の意味でのいわゆる献身者は、主のみこころをなす人です。 イエス様と同じように、私の思いではなく、あなたのみこころがなりますように、と願う人、また、イエス様の母であるマリヤのように、みことばのとおりになりますように、と願う人が主の用いられる人です。 けれど何をするにも主のみこころにかないたいと願っているにも関わらず、なお、自分の心のどこかにそれを留めようとする何ものかが潜んでいることに気付き始めました。 それを発見した時、今までの経験を疑い始めました。はたして自分はイエス様とともに十字架につけられた、あのことは、間違いだったのでしょうか。いや、確かにあれは聖書の言っていることですから間違いない。 それでは、イエス様にすべてを明け渡さなかったのでしょうかと疑います。けれど確かに自分の生涯をイエス様に明け渡した。それでいて、なお、自分の内には違った主に反する分子が潜んでいる。ただ主にだけ仕え、喜ばれたいと願えば願うほどその度に、失敗してしまいます。 そのようなとき、あれが罪だったのでしょうか。これが不従順だったのでしょうかと思い巡らして、それを主に告白し、勝利の生活にはいろうとしますけれど、祈って立ち上がるや否や、また失敗して敗北の生活にはいってしまいます。 この前、主にこの身をおささげしたのは、完全でなかったのでしょうか。今改めて再び、この身を主にささげてしまいましょうと言います。けれどそれもやはり無駄で、前と変わりがありません。 今、兄弟がお読みになりましたローマ人への手紙7章の18節、19節にパウロが叫んでいるように、私たちも叫ぶようになるまで、同じことを繰り返すのではないでしょうか。7章の18節からもう一回読みます。 ローマ人への手紙7:18-19
これは信ずる者だれでもが経験する戦いではないでしょうか。 このローマ人への手紙7章のおもな問題とは、前に話したように、掟の支配からの解放であります。 ちょっとだけ、三つの点に分けて考えたいと思います。 第一番目、掟は私たちにいったい何を教えるのでしょうか。 第二番目、掟の終わりである主イエス様。 第三番目、自分を見限ることの祝福。 この三つの点についてちょっとだけいっしょに考えたいと思います。 まず第一番目、掟は私たちにいったい何を教えているのでしょうか。 主の掟はモーセの十戒にまとめられており、イエス様はそれを山上の垂訓で説明しておられます。さらに主の掟をイエス様がまとめて一口で言われたみことばが、マタイの福音書の22章36節からではないでしょうか。 よく知られている個所なのですけれども、マタイの福音書22章の36節から。ある聖書学者、立派な人格者だったでしょう。イエス様のところへ行って聞いたのです。 マタイの福音書22:36-40
私たちはあるものが、どれだけの長さがあるか、ものさしを使います。同じように、私たちは何が正しいか、何が悪いかを知るために、主の掟を用います。 ちょっと残念なのですけれど、今日の世界を見ると、善悪をはかる尺度が人間の頭になってしまいました。その結果、国々の間では争いがあり、また、人々の間にも不和と不一致があります。 何十年か前の出来事なのですけれど、あるとき近所の八百屋さんに、新しく雇われてきた小僧さんが買い物をしたとき、これはだいたいいくらです、と言って品物をくれました。普通の値段より安くだいたい見積もられるとありがたいけれど、だいたい見積もられて払ったお金の半分くらいしか品物をもらえなかったら、ちょっと面白くない。 多くの人々は、この「だいたい」という言葉で物事を曖昧にしてしまうのではないでしょうか。罪についても、だいたいこのくらいならよいだろう、とごまかしてしまいます。人が善悪を判断するときいつも、だいたいくらいの判断しかできません。 しかし主なる神の場合は、全く違います。このように、このゆえから主なる神は人にはっきりしたはかりとして、掟を与えてくださったのです。 掟は主なる神が私たちの本当の姿を見られるごとく、私たちが自らのまことの姿を見ることのできる唯一の鏡のようなものです。すなわち、掟によって罪が映し出されます。これこそがパウロの経験でした。ですから前に読みました個所、もう一回戻りましょうか。 ローマ人への手紙7:7
また、同じくローマ人への手紙3章の20節を見ると、次のように書かれています。 ローマ人への手紙3:20
私たちは自ら進んでこの鏡の前に立つでしょうか。または、鏡の前から身を隠すでしょうか。ダビでは自らの姿を映し出していただくために、あえて主の鏡の前に立ちました。彼は心から祈り、また、叫んだのです。 「神よ。どうか私を探って、わが心を知り、私を試みて、わが諸々の思いを知ってください。私に悪しき道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」とダビでは心から祈ったのです。 このダビデのように鏡の前に立つには、何とかして真理を知りたいという飢え渇きがなければ、できない相談です。 多くの人々は、半分暗やみの中に入って、光に来ようとしません。裸のままの姿で主の前に立つことをしません。 かつてイエス様は、光に来ようとしない人々を嘆いて次のように言われましたが、今日多くの人々は同じではないでしょうか。 ヨハネの福音書3:19-20
とあります。暗黒の中に住み続けたいと願うのは、本当に恐ろしいことです。このような人々はやがて主の御前に立たされる時、目が覚め、自らの滅びゆく様を見て恐れるでしょうが、その時はもうすでに遅すぎます。 例えば癌の患者が医者の忠告を聞かず、生活を享楽したいために好きなことをするなら、恐ろしい結果になってしまいますが、主の掟に耳を貸さない者はなおさら恐ろしい結果になってしまいます。 けれど掟はいつも私たちの罪、私たちの咎を暴き立てます。掟の光に照らされると、自分は罪人で、自分は咎ある人間だと叫ばなければならない。パウロはまた掟について、律法について次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙3:10
とあります。 掟は主なる神によって与えられたものですから、聖なるものであり、正しく、且つ、善なるものです。前に開いたローマ人への手紙7章の12節に、 ローマ人への手紙7:12
とあります。掟そのものは良いのですが、掟を守らなければならない人間は、罪を犯し、守り得なくなっているのです。 例えば東京の全市民に、二千円ずつの税金を課するということは、正当な良い掟でしょう。けれど、ただ二十円しか持っていない人々にとっては、この掟を守ることができません。 多くの人々は一見したところ、大人しすぎ、良い人のように見受けられますが、だれかに何かを言いつけられると、すぐに不機嫌になってしまう人もいます。 小さな子どもたちを見ると、人々はみんな「可愛い。可愛い。」と言いますけれど、一たび何か気に入らないことを言いつけますと、首を振って言うことを聞きません。私たちもこれと全く同じではないでしょうか。 私たちの生まれながらの性質は罪です。掟はこの罪の性質があらわにされるために、主によって私たちに与えられました。すなわち、偶像を拝むなかれ。姦淫するなかれ。偽証することなかれ。心を尽くし、汝の神を愛せよ。 次に、汝の隣人を己を愛するごとく愛せよ。このように、私たちの罪の性質が表われるために、掟が与えられているのです。 何とかしてこの掟を守ろうとする人々はみな、やがて自分が罪人であり、どうしても掟全部を行なうことができないということを知るようになります。主なる神は私たちが足の先から頭のてっぺんまで罪に染み汚れ果てているということをよくご存知です。 ところが、この醜い己の真相を人間が知らないままであり、ということが問題です。己の真相を知るために主はわれわれに掟を与えてくださいました。主なる神は私たちが掟を守ることができないことをもちろんよく知っておりながら、われわれに掟をお与えになりました。 実は、主は私たちが掟を破るために掟をお与えになってくださったのです。掟は罪が増し加わるために与えられたとローマ人への手紙5章20節に書かれています。 ローマ人への手紙5:20
パウロはこのことを体験しています。 ローマ人への手紙7:7
律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 掟によって私たちの本当の性質があらわにされます。そして自分は徹底的に罪にまみれ、汚れ果て、このままではどうしても聖い主のみこころにかなうことができないということを教えています。 私たちはみな、この段階に到達したのでしょうか。 今朝、ある夫婦とちょっと話し合いました。やっぱり二人ともは一致したのです。「私たち二人ともは全然ダメです。もう、どうしようもない者です。主が私たちを守ってくださらなければ、もうおしまいです。」ここまで成長した人々はありがたいのではないでしょうか。 (テープ A面 → B面) 必ず与える、この掟を人間は破ると知りながら私たちに掟をお与えになったのです。 もし私たちがどうしても掟を守ることができない無力さを徹底的に知らされたなら、掟の役目はそれで果たしたことになるのです。 掟は私たちを主イエス様に導く養育係であるとパウロは言ったのです。ガラテヤ人への手紙の3章を見ると、パウロは次のように書いたのであります。 ガラテヤ人への手紙3:24
私たちは掟によってキリストに導かれる時、今まで守ることのできなかった掟をイエス様が、イエス様ご自身が守らしめてくださるのです。今まで掟はわれわれに何を教えるかについて考えたのです。 今度は第二番目になりますけれど、掟の現われである主イエス様について少し考えたいと思います。 ローマ人への手紙7章はローマ人への手紙6章の14節の説明ではないでしょうか。すなわち、 ローマ人への手紙6:14
とあります。掟からの解放が問題です。解放とは、より高いものに結び付けられることです。 束縛とは、低いものに結び付けられることです。イエス様は次のように自分自身を明らかにしたのです。 ヨハネの福音書8:36
イエス様にしっかりと結び付けられることは、まことの自由を得たことになります。 恵みは主が私たちに御子イエス様を与えてくださり、イエス様が私たちのうちに住んでおられ、掟を守ってくださり、まことの自由を与えてくださったことに表われています。これに対して、掟は私たちが主のために何かをやる。 掟を自分の力で守ろうと試みる。そして主に喜ばれようと努める。この態度は掟にある態度です。けれども、その結果はいったいどういうものなのでしょうか。 主のみこころを知り、それを行ないたいと願いますけれど、いつも失敗に終わってしまいます。 ローマ人への手紙6章では、罪からの解放について書いてあります。そして例えに、主人と奴隷が使われています。罪と罪人の関係は、結局、主人と奴隷の関係であると聖書は言っているのです。 けれどローマ人への手紙7章では、掟からの解放について語られています。そして例に、夫と妻が挙げられています。掟と罪人の関係は、夫と妻の関係です。これを少し考えてみたいと思います。 ローマ人への手紙7章に、ひとりの婦人とふたりの男が出てきます。 婦人は今、あんまり好きでもない男と結婚しています。もうひとりの男のほうをよほど愛しています。 けれど残念ながら、婦人はひとりの夫しか持つことが許されていません。結婚している夫は別に悪い人ではない。ただ、間が上手く合わないだけです。夫はいつも曖昧なことが嫌いです。この妻は何でも曖昧にしておきたいのです。 このように、ふたりのやり方が違いますから、幸福に上手く暮らすことができません。夫は非常に厳しいのです。いつも妻に、こうしなさい、ああしなさいと要求します。 けれど夫は夫して当然のことを言っているだけであって、別に間違ったことを妻に要求するわけではありません。悪いのは、妻が夫に聞き従い得ないことです。このようにしていくうちに、ふたりの間に食い違いが出来てきます。 何とかして夫に従いたいとするのですけれど出来ません。妻の言うこととやることは、原則としていつも間違いばかりだからです。妻は絶望してしまい、ほかの夫を求めます。 ほかの意中の男は、今の夫のように曖昧を嫌い、厳しい人ですが、ただ一つ大きな違いは、妻に命令することを自分自ら助けて、一緒にやってくれるということです。何とかしてこの新しい人と結婚したいのですが、残念ながら今の夫が生きているうちは出来ません。 パウロはこれをローマ人への手紙7章で、掟と人の間を表わす例話を用いているのです。 第一の夫は、主なる神の戒め、いわゆる掟であり、妻は何とかして主のみこころにかなおうと努めることができないでため息をついている私たちであり、第二の夫は、掟を私たちのうちにあって行なわしめてくださるイエス様を表わしているのです。 掟は私たちに色々なことを要求しますけれど、私たちを助けてくれません。しかしイエス様は掟より以上のことを要求されるお方ですけれども、われわれのうちに住んでおられ、ご自身で私たちを助け、要求を行なってくださるお方です。 ですから、妻は今の夫と離れ、二番目の男といっしょになりたいと願うのです。 妻の願いは、一日も早く今の夫が死んでしまうことです。夫が死なない限り、その結婚は決して起こりません。妻は夫がまだ元気で、一向に病気にならず、死にそうもないのを悲しく思います。マタイの福音書5章。前に読んでもらいました個所なのですけれども、もう一回ちょっと見てみましょうか。 マタイの福音書5:18
これを見ると、掟である第一の夫は決して死なない。永遠に生きていることが分かります。どうしても私たちは掟を守らなければならないことが分かります。 けれど私たちはどうしたら第二の夫である主イエス様とひとつになることができるのでしょうか。 前に読みましたローマ人への手紙1節から3節までを見ると、初めの夫が死んだら、第二の夫と結ばれても良いと書かれていますが、4節には、夫の死ではなく、妻の死、すなわち、私たちが死ぬことが書かれています。4節をもう一回読みましょうか。 ローマ人への手紙7:4
掟は永遠にとどまります。けれど、もし私たちが掟に対して死ぬなら、掟から自由の身となることができるのです。 どんな掟も死んだらその人の身に掟としての力を及ぼすことができません。 第二次世界大戦の時、ドイツの空軍大臣であるヘルマン・ゲーリンクは終戦後、死刑を宣告されましたが、執行される前に毒を飲んで死んでしまったのです。ゲーリンクが死んだ時、死刑という判決は自然に消えてしまったわけです。 同じように、主なる神の戒めから解放されるには、私たちが死に切らなければならない。もし私たちが死ぬなら、第一の夫がどんなに命令しても、私たちには何の関わりもありません。 ここで問題なのは、それではどうしたら死ぬかということです。死に方がローマ人への手紙6章4節に書かれています。 ローマ人への手紙6:4
パウロはコリント人への手紙第Iの中で、よく知られている個所なのですけれども、次のように言ったのです。1章の30節。 コリント人への手紙第I、1:30
あなたがた、恵みによって救われたひとりひとりは、神によってキリストのうちにあるとあります。 主なる神は私たちをキリストのうちに置き給いました。ですからイエス様が亡くなった時、私たちもともに死んだのです。 それとともにイエス様がよみがえられた時、私たちは主イエス様にあったがゆえに、ともによみがえらされたのであります。死によって妻は第一の夫から解放され、第二の夫と結婚することができます。ですからローマ人への手紙7章4節にそう書いてあります。 ローマ人への手紙7:4
あなたがたが他の人のものとなるように、と書いてありますが、この他のものは、すなわち、主イエス様は、自分が命令したことを自ら成し遂げる力を持っています。 第二の夫と結婚した結果はどうでしょうか。それまでため息をつき、悩んでいた妻は、豊かに神のために実を結ぶようになります。妻のうちに宿った主イエス様のよみがえりの力、よみがえりのいのちは、神の実を結ぶ力です。 もう妻は努力して掟を守り、主に仕え、主を喜ばせようとする必要はありません。うちに宿っておられる主イエス様ご自身が全てのことを成さしめてくださるのです。そして主のなさることは、いつも主に喜ばれます。 もう一ヶ所。コリント人への手紙第IIの11章を見てみましょうか。 コリント人への手紙第II、11:2
乙女が結婚すると何が起こるでしょうか。普通、夫の名前を名乗ります。それだけではなく、夫の持ち物も自分のものとなります。 もし私たちがキリストのものになると、同じことが起こります。私たちはキリストの名を名乗り、主イエス様の持てる全てのものを自分のものとするようになるのです。 もし、主の持っておられる全てのものを持っているという確信に立つなら、主のご命令に従うことは、簡単なことです。ヨハネの手紙第Iの5章3節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの手紙第I、5:3
今まで二つのことについて考えました。夫とは何を教えているのか。第二番目。掟の終わりである主イエス様。最後に短く、第三番目の点についてちょっとだけ考えたいと思います。すなわち、自分を見限ることの祝福についてです。 霊的破産をもたらす祝福についてです。 ある兄弟が勝利の生活を願い、非常に悩み、ほかの兄弟に、「どうして自分はこんなに弱いのでしょうか。私はどんなに努めても勝利の生活に達することはできない。」と漏らしました。 相手の兄弟は言ったそうです。 「きみが主のみこころにかなう生活をしたいと願っていることはありがたい。幸いです。そして、努力してもできないということを知るようになったこともありがたいことです。なおさらいいことです。 けれどきみは弱いと言うが、まだ弱りきっていない。もし、本当に、徹底的に弱くなりきるなら、少しも試みられないはずだ。 もし弱くなりきったら、きみのなすことは初めから終わりまで主だけが成してくださるでしょう。」と。 私たちもみな、「自分は何もできない。全く弱い存在です。主よ。どうか私のために全てを成してください。」という点にまで来なければならないのではないでしょうか。 水に溺れる人を助けるとき、溺れている人が自分で暴れる元気があるうちは、助けることができない。 自分で動く力のある人を助けに行くと、助けに行ったほうもしがみつけられて、いっしょに溺れてしまいますけれど、弱りきったとき、全くもがく力が無くなったとき、簡単に助けることができます。 同じように、主は私たちがあの夫を愛そうと尽くした妻のように、全く自ら努力することをやめ、霊的に破産するのを待っておられるのです。 私たちはしばしば自分では主に仕える力があると考えます。そのようなとき、全然十字架の意味を知っていないことになります。 十字架はわれわれに対する神の判決です。私たちには十字架の刑が一番適当しているのです。主に喜ばれたいと願って、自らする努力は、全く役に立たない。ローマ人への手紙7章14節に、自分は肉につける者である。18節に、 ローマ人への手紙7:18
また、次の8章8節に、 ローマ人への手紙8:8
前に話したように、ローマ人への手紙7章1節から3節までの妻、7章15節から19節までのパウロは、主を喜ばせたいと願ってやったのですが、反対のことしかできなかったのです。 このようなことを私たちもすでに経験済みなのでしょうか。私たちは主を喜ばせたいと願っているけれど実際には己、または人を喜ばせるためにやってしまいます。 祈ろうとすれば眠くなり、聖書を読もうとすれば気が進まないといった状態なのではないでしょうか。パウロがローマ人への手紙を書いたこの時代の殺人の罪に対する刑罰は、死ぬまで死人のからだを自分の身に背負って歩むという恐ろしい刑罰でした。 パウロは自分自身、ちょうどこの恐ろしい刑罰を受けた者のようだとここで言っています。 死人が自分のからだから離れず、自分はどのようにしても解放されそうもない。あわれな自らの姿を嘆いています。パウロは、 ローマ人への手紙7:24
と叫んでいます。この、主イエス様に向かっての叫びは、主の喜ぶ叫びです。これは人のなしうる最も霊的な叫びです。これは人が全く自らを見限った時、霊的に破産した時初めて、心の底から出てくる叫びです。 私たちはすでに自分自身に絶望したことがあるのでしょうか。それとも祈ることにより、みことばがあることにより、より良いキリスト者になろうと努めているのでしょうか。パウロは色々なことが私たちを救うとは言っていません。 ただイエス様だけが救いうるお方であると言っています。 パウロは前には自分でことを解決しようと努めましたが、最後にそれを出来ないことを知り、自らの努力をやめたその途端、イエス様の祝福がそそがれました。 パウロはその時ローマ人への手紙7章の25節で喜びの声を挙げています。「私は主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」 私たちはどのようにして罪の赦しをいただいたのでしょうか。祈りによってでしょうか。みことばを学ぶことによってでしょうか。また、ささげることによってでしょうか。そうではない。十字架を仰ぎ、イエス様がそこで私たちのために何をしてくださったかを知った時ではないでしょうか。 それでは私たちはどうしたら掟から解放され、イエス様に喜ばれる生活をすることができるのでしょうか。 あれをやり、これをやるし、また、あれをやめ、これをやめることによってではなく、内住の主イエス様を心から信じ、感謝し、イエス様に全てを成していただくことによって、全き解放と主に喜ばれる歩みをなすことができるのです。 罪の赦しはイエス様がなさったことを単純に信じ、感謝することによりいただけますが、掟からの解放はイエス様が今、私たちのうちに成してくださることを単純に信じ、感謝することによっていただくことができるのです。 最後にひとつのドイツの歌を紹介いたします。 かつて私は聖き生活を送ることができないと思った。なぜなら、自分の力で聖くなろうと努めていたから。しかし今は、主が私に聖きを与えてくださった。主ご自身、私のうちに全てをなさってくださる。 かつて私は自分で親切になり、愛にあふれ、柔和であろうと努めた。しかし今は、主イエスが私のうちに住んでおられ、私をご自分の御姿に変えられようとしておられることを知った。 かつては日々刻々、勝利の生活を送るとは夢にも思わなかった。しかし今は、主自らわがうちに住んでおられ、私の歩みを勝利に保たれることを知った。 かつて私は主のうちにとどまり、主に喜ばれようと必死に努めた。しかし今は、私は主ご自身、私のうちにみわざを成すままにしている。このようにして私は主にあり、主は私のうちにおられる。 |