引用聖句:ルカの福音書2章10節-11節
ヘブル人への手紙9:28
ヨハネの黙示録1:7
この集いは、喜びの集いという名前を使っているのです。けれども喜びの集いに来る人々はみんな悩んでいるのじゃないの。悩んでいない人はいない。みんな色々なことで悩んだり苦労したりします。 昨日も十何人の人々とちょっと話したのです。みんな悩んでいます。時間を潰すためにだれも来ないのではないでしょうか。「ほかの仕事が無いから仕方がない。行こう。」、そういう気持ちを持つ人もいない。 どうして喜びの集いと言われるかと言いますと、悔い改められるからです。 結局、宗教改革者であるルターはよく言ったそうです。悔い改めることとはもっとも楽しい仕事のひとつなのですって。 結局悔い改めれば、主は恵んでくださる。主は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを与えてくださる。悔い改められるから、本当に恵みそのものではないでしょうか。 確かにイエス様を紹介して人々を救い主に導くこととは、もちろん人間はできない。けれども比較的に簡単です。けれど救われた人々。本当にイエス様を愛し続けることとは全く違う。ですから使徒たちの書いた手紙を見てもわかります。 ある兄弟姉妹に対してパウロももう嬉しかった。「私はいつもあなたがたすべてのために神に感謝します。」と言うことができた。「すべて」です。 けれどもどこの集会へ行っても、99%の兄弟姉妹に対して喜ぶ顔ができても、やっぱり悩みの種になっている兄弟姉妹もいます。ですからおもにパウロは正直に言ったのです。 「私は困っている。私は苦しんでいる。私は悩んでいる。どうしてであるかと言いますと、救われた人々はなかなか成長しなかったからです。」 ある兄弟姉妹は、「イエス様はいつ来るかわからない。まだでしょう。」と考え、ほかの兄弟姉妹は、「今日かもしれない。期待をもって待っている。」 やっぱり全然違う。イエス様に出会った人々とはみんな例外なく、「イエス様はいつか来る。」、もちろん信じています。疑う余地がないのです。けれど、「今日かもしれない。」という期待をもっていなければ、ちょっと・・・。 例えばある若い人々がお互いに好きになっちゃって、もちろんイエス様を信じていて、けれどもやっぱりいっしょになって倍の力、三倍の力になるように。 けれどももし男性が婚約者に向かって、「本当にいつか結婚できるのはありがたいけれども、今から三年半ぐらい全く暇がない。ですから電話をする暇もないし、手紙を書く暇もないし、三年半でまた会いましょうか。」と言うと、愛されていることはあり得ない。そういう縁は切ったほうがいいのではないでしょうか。 結局イエス様を待ち望まない人は、イエス様を本当の意味で愛していない。ですから、「待ち望みなさい。」とよく書かれています。 ある兄弟姉妹は自分のために生活したい。自分自身を実現しようと考えています。別の兄弟姉妹はイエス様のために生活したい。イエス様に喜ばれたいと切に望んでいます。イエス様だけが盛んになり私は別にどうでもいい。 ある兄弟姉妹は中心になりたい。役割を演じたい。そうならないと面白くない。不平、不満を言います。ある兄弟姉妹はイエス様のみ全ての栄光を帰していきたいと望んでいるのであり、ある兄弟姉妹はつまずきを与え、分裂を起こす者となります。 ある兄弟姉妹は命懸けで集会全体の一致が表われることを望んでいるし、ひと言葉でいいますと、ある兄弟姉妹は暗やみの中にいるのであり、別の兄弟姉妹はマルコの福音書5章に出て来る女性のように、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明ける兄弟姉妹です。 今日はイエス様の出現について、イエス様の三回にわたる出現についてちょっと考えたいと思うのです。待ち望むことの大切さについてです。 結局、どういう状況に置かれていても、諦める必要はない。主は来られたし、主は生きておられるし、そしてイエス様はまた来てくださるのです。毎日この事実について考えるべきではないでしょうか。 近いうちにクリスマスです。けれどもクリスマスについて毎年一回だけ考えるのはおかしい。ある兄弟は、私にとって毎日がクリスマスです。イエス様は私のために来られたし、イエス様は私の代わりに犠牲になっちゃったし、イエス様はダメな者を捨てないし、そして近いうちに迎えに来ると毎日考えるべきではないでしょうか。 聖書はイエス様の三回にわたる出現について色々なことを言っています。最初に、みなさんご存知ですけれど、イエス様は全人類を救うためにみどり子としておいでになられた。来られたのです。 第二番目に、イエス様は主の恵みによって救われた信者たちをご自分に迎えるために、今度はみどり子としてではなくて、花婿として来られるのです。 そして第三番目に、イエス様はいわゆる平和の国、千年王国を建てられるメサイヤとして出現なさるのです。イエス様はみどり子として、花婿として、メサイヤとして出現なさると聖書は何回も何回も言っています。毎日この三つの出現について考えるべきではないでしょうか。 イエス様が来られる時、いつでも人々は2つのグループに分けられるのです。イエス様の第一の出現について考えてみるとわかります。2,000年前にイエス様はお生まれになられたとき、イエス様の誕生を心から待ち望んでいた人々がいました。多くではなかった。 結局、初めての人間であるアダムとエバに、すでに一人の救い主が与えられることが約束されていました。ですから諦める必要はない。救い主が来るよ。救い主は罪の問題を解決するお方であるとみんなわかったのです。 救い主が来る。アダムとエバもそれを知っていたし、待ち望んでいたのです。それ以来、自分の救いの必要性を認めた全ての人々は、この救い主の出現を心から待ち望んでいたのです。 この約束された方の出現を待ち望んでいた全ての人々は、この方が出現された時、その方がどういうお方であるかということをもちろん知ることができたのです。また、そのことを知ることができた人々はだれでも、この方を喜んで受け入れたのです。 けれど大多数の人々はこの方、すなわちイエス様を拒みました。光よりもやみを愛したからです。ちょっと考えられないことです。 ヨハネの福音書1:11
受け入れようとしなかった。悔い改めようとしなかったからです。これらの人々は心の目が暗くされていたので、自分たちがイエス様を必要としているということがわからなかったのです。 いわゆる宗教家たちは無関心であり、国民は悔い改めようとしなかったし、当時のヘロデ王はこの方を殺そうと思ったのです。 イエス様を待ち望まないということ、また、イエス様を求めないということは、イエス様を拒むことを意味します。そしてこれほど悪いことはほかにありません。 聖書はよく言っているのです。求めよ。そうすれば・・・。求めなければダメ。求めよ。そうすれば与えられます。結局、真理は真剣に求められなければならない。まともな人間はにせものをほしくない。本物です。 本物を探し求めた人々がいました。例えば東の博士たちは非常に遠いところからイエス様のところに来たのです。そしてそれはこの人たちにとって決して簡単なことではなかったのです。新幹線も無かったし、飛行機も無かったし、自動車も無かったし。結局遠い国から彼らは来たのです。 どうしてであるかと言いますと、彼らにとってこれほど大切なことはほかになかったからです。だから彼らは真剣に真理を求めて、長い旅をし、そして真理をついに見いだすことができたのです。求めよ。そうすれば与えられるからです。 彼らはいったいどのような態度をもってイエス様を愛したのでしょうか。まず第一番目に、幼子のような信仰をもって。 第二番目に、まことのへりくだりをもって。 そして第三番目に、心からの感謝をもって彼らはイエス様にお目にかかったのです。 彼らは幼子のような信仰をもって、イエス様が自分たちのためにお生まれになられたこと、そしてイエス様が救い主であられることを信じたのです。 彼らは教養の深い人々でしたが、これらのことを説明することも、証明することもできませんでした。けれど彼らはこれらのことを信じたのです。 彼らはまたへりくだった人々でした。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを与えるお方です。彼らはへりくだった人々だった。そのことを私たちは、博士たちが幼子の前にひざまずいたという、この態度の中から知ることができるのです。 私は自分たちの生活の中にイエス様を直ちに受け入れることをしない人々のことを思うと、本当に悲しくなります。またこのもっとも大切な決定を先へ先へと延ばしている人々のことを思うと、本当に悲しくなります。 当時の博士たちは幼子のような信仰を持ち、また、まことのへりくだりをもったのであっただけではなく、心からの感謝をささげることができたのです。 彼らの感謝のしるしは、彼らがささげた贈り物を見るとわかります。彼らは自分たちの持っている最高のものを喜んでイエス様にささげたのです。私たちも、また私たちの救い主となるために天の栄光をお捨てになって、おいでになられたイエス様の前にひざまずき、感謝しようではないでしょうか。 前に読んでもらった個所、もう一回読みます。 ルカの福音書2:10-11
イエス様とは単なる救い主、助け手なのではない。主です。支配すべきお方です。 イエス様は救いをもたらすために来られたと聖書は言っています。まことの救いを与えることがお出来になるのは、イエス様だけです。けれどイエス様の救いとはどういうものなのでしょうか。イエス様の救いには七つの面があります。 第一番目。イエス様は罪の債務からの救いをもたらしてくださったのです。人間なんて罪滅ぼしのために何をやっても無駄。いくら聖書を勉強しても、お金を出しても、真面目に生活しようと思っても、全部的外れです。 マタイの福音書1:21
とあります。結局、イエスとは罪を赦すお方である。 ルカの福音書の7章にひとりの罪ある女性が出てきます。イエス様は彼女に今言われました。本当にすばらしい呼びかけです。 ルカの福音書7:48-50
よくこういうことばが言えるのはイエス様しかない。「あなたの罪は赦された。」 二番目。イエス様は罪の力からの解放をもたらしたのです。パウロはイエス様を信ずる者として、イエス様に仕える者として、やっぱり悩みました。彼の正直な告白はローマ人への手紙7章に出て来るのですけれど。 ローマ人への手紙7:24
イエス様を信ずる者として、私はみじめです。 ローマ人への手紙7:24-25
「自分はダメ。けれどイエス様は何でもできるお方です。私を愛してくださるお方によって私は圧倒的な勝利者となる。」とパウロは言うことができたのです。私を強くしてくださるお方によって、何でもできる。 第三番目。イエス様は罪ののろいを取り除かれたのです。 ガラテヤ人への手紙3:13
イエス様は代わりにのろわれてしまったのです。 四番目。イエス様は死の恐れからの解放をもたらしたのです。ヘブル人への手紙の著者は、 ヘブル人への手紙2:14-15
この間また喜びの集いがあったのですけれども、そのときある奥さんが見えまして、末期の癌で、まだ生きているかどうかわからないけれど医者は、「長くてもひと月。」と言ったのです。 けれどもイエス様の話を聞いたとき、祈られただけで急に表情は変わった。それだけではなくて、「自分の葬儀は無宗教で、イエス様を紹介する集いになってもらいたい。」と言われたのです。 結局、死だって決して終わりではない。死んでから天国だと言える人こそが幸せなのではないでしょうか。 五番目。イエス様は来たるべき神の御怒りからの救いをもたらしたのです。有名な、テサロニケ人への手紙第Iの1章の最後に、 テサロニケ人への手紙第I、1:10
とあります。 ヨハネの福音書3:36
結局、悔い改めない者は、 ヨハネの福音書3:36
神の怒りとはもちろん想像できない。結局、提供されている救いを拒む者のために将来はない。 六番目。イエス様はいつも逆らう自己からの解放をもたらしたのです。よく引用されるガラテヤ人への手紙2章20節。 ガラテヤ人への手紙2:20
これこそがすごい解放です。私は別にどうでもいい。イエス様が働くことができれば。イエス様が中心になればありがたいと。 もう一つ。七番目。主イエス様は今の邪悪な好からぬ解放をもたらしたのです。 ガラテヤ人への手紙1:4
イエス様は私のために犠牲になられたのです。この完全な主イエス様の救いを自分のものとして体験した人は、だれでも心から喜ぶことができる。苦しみを持ちながら、悩みを持ちながら喜ぶことができるのです。 例えばルカの福音書1章には三つの賛歌が載っております。一つはエリサベツの。もう一つはマリヤ。それからもう一つはザカリヤの賛歌が出てきます。 ルカの福音書2章は、御使いの賛美。羊飼いの喜び。そして二人の老人シメオンとアンナの証しが載っております。これらすべての者は喜びに満ちあふれていたのです。すべてこれらの者はイエス様を感謝したのであり、主に対する賛美をささげたのです。パウロは歓呼の声を上げて書いたのです。 テトスへの手紙2:11
御使いの知らせは、「恐れるな。見よ。すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝えるために来た。」と。 御使いたちの知らせを聞いたときに羊飼いたちはどのような態度を取ったのでしょうか。彼らは、「さあ、行ってみよう。」と互いに話したのです。 結局羊飼いたちの態度は、幼子のような信仰、直ちに従うこと、喜ばしい確信でした。 彼らの幼子のような信仰は、彼らに何が起こったのであるかということははっきりわからなかったにも関わらず、御使いのことばに彼らが従ったということの中に現われております。 彼らは色々と考えることなくして、直ちに御使いに従って大急ぎで出掛けました。喜ばしい確信について次のように書いてあります。 ルカの福音書2:16、20
とあります。最初にイエス様は、全人類を救うために、見よ。みどり子として出現されたのです。 第二番目にイエス様は、主の恵みによって救われた人々をご自分に迎えられる花婿として出現なさいます。引用聖句の前の前の節を読みましょうか。まずヘブル人への手紙の9章26節です。 ヘブル人への手紙9:26
(テープ A面 → B面) ・・・キリスト教と言われている宗教を作るためではない。色々なことを新しく教えるためでもない。 イエス様はどうして来られたかと言いますと、罪の問題を解決するため。罪を取り除くためにイエス様は来られたのです。 このことばはイエス様の、先ほど学びました第一の出現のことを書いているみことばです。イエス様は救いを成就するために来てくださいました。 マルコの福音書の中での一番大切なことばでしょうけれども、マルコの福音書10章の45節を見ると次のように書かれています。 マルコの福音書10:45
多くの人々は宗教の影響を受けているから、大切なのは正しい教えを知ることだと思っています。けれどもそうではない。 人間はひとつの教えを信じ込むことによって救われない。ぺちゃんこになって、へりくだれば主は恵んでくださる。イエス様は贖いの代価として自分自身を犠牲にしてくださった。 それからヘブル人への手紙の9章の28節。前に読んでもらいました個所です。 ヘブル人への手紙9:28
今のみことばの中で、罪を負うためではなく、ということばがありますけれど、これは罪なしでという意味です。ということは、イエス様が二度目に来られるときには、罪との一切の関係のないお方として来られるのです。 けれどこの場合においても、イエス様の前に二つのグループの人々に分けられるのです。イエス様が二度目に来られるときには、それは罪人をさばくためでもなく、ご自分の花嫁である、からだなる教会をご自分の民に迎えるために来られます。 イエス様はマタイの福音書24章の中で、この事実について次のように言われました。 マタイの福音書24:40-41
これは分けられる二つのグループのことを言っていることばです。集会の中においてもどの人がどちらのグループに属しているのかということは、だれもわからない。 ある人は確かに生まれ変わりを体験しているように見えるかもしれないけれど、実際はどうであるかわからない。また逆にある人は信じているかどうかがはっきりしない人々がいるかもしれないけれど、このような人々の中にも主が受け入れておられる人たちがいくらでもおられるかもしれない。 けれどもイエス様が二度目に来られるときには、全てこれらのことが明らかになります。すなわちイエス様が二度目に来られるとき、イエス様に属している全ての人々、すなわちその人の死んだ霊がイエス様の霊によって生き返らせられた人々は、みんな急にその姿が見えなくなるのです。 テサロニケ人への手紙第Iの個所、みなさんよくご存知だと思うのですけれどもう一回読みます。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
どういうつらいことがあっても、苦しいことがあってももうちょっと。いつまでも主とともになると考えるとやっぱり希望が湧いてきます。嬉しくなります。 イエス様の最初の出現の場合に、「見よ。」という注意を促すことばがありましたが、二度目のイエス様の出現のときにも、「聞け。」、あるいは、「見よ。」という、注意を促すことばが書かれています。 コリント人への手紙第I、15:51
みな変えられるのです。パウロはこれをコリントにいる人々に書いたのです。もしテサロニケの人々にだけ、私たちはいつまでも主とともにいることになると書いたならば、ちょっと問題なのです。 先週もある女性から電話があった。「やっぱりイエス様が来ると怖い。私は残されるに違いない。」、結局完璧になり得ないから。 確かに、いわゆる教会の歴史を見るとそういうことを教えた人々がいっぱいいました。やっぱり立派な信ずる者だけ引き上げられ、ほかの人々はみんな残される。テサロニケ人への手紙だけを見ると、そういうふうに解釈されうるのです。テサロニケの兄弟姉妹は本当に主を第一にした人々だった。コリントの人々はめちゃくちゃです。もう全然ダメ。 けれどもここでパウロは、「私たちはみな」、と言っているのです。結局主の恵みによって救われた人々は引き上げられるようになる。想像できない。けれども聖書ははっきりそう言っているのです。私たちはみんな変えられるのです。 どうしてここに、「聞きなさい。」ということばが使われているのでしょうか。それは、「今まで以上に待ち望みの生活をしなさい。」という意味です。 今、イエス様を待ち望んでいない人は不従順な人です。そして不従順は罪です。 第二番目に、「今まで以上に主に喜ばれるような生活をしなさい。」という意味です。それは自分自身の気に入るようなことだけをするのではなく、また、人の気に入られるようなことだけをするのではなく、ただ、「主のみこころにかなうことだけをしなさい。」という意味です。 パウロは証ししたのです。 ガラテヤ人への手紙1:10
第三番目に、「今までより以上、まだ救われていない家族、親戚、友人たちのために祈り、且つ戦いなさい。」という意味です。 イエス様は私たちに応えようとなさっておられるお方です。私たちの祈りに対して応えようとしているのです。「信ずれば神の栄光を見る。あなたの信じたとおりになる。」と約束されています。 イエス様への待ち望みがわれわれの毎日の生活を決定するものでなければならない。私たちが救われたことの理由のひとつは、イエス様を待ち望むことです。テサロニケという町にいる兄弟姉妹に書き送られたことばです。 テサロニケ人への手紙第I、1:9-10
彼は別にたくさん喋らなくてもよかった。やっぱり伝えられたのです。彼らは悩みながら喜ぶことができた人々でした。すべての不安、心配から解放された人々でした。そして彼らは前向き生活をした人々だった。どうして? 「イエス様が来られます。もうちょっと待ちましょうよ。」という態度を取ったのです。 イエス様が二度目に来られるときには、確かに多くの人々があとに残され、高見をすることになります。 このような引き上げられるという体験をした人は今まで二人だったのではないでしょうか。一人はエノクという男でした。彼はアダムからの7代目の人だったのです。むかしむかしの人だったのですけれども、ヘブル人への手紙の著者は彼について次のように書いたのです。11章5節。 ヘブル人への手紙11:5
死なないで天国に行っちゃった。 ヘブル人への手紙11:5
彼は、「主よ。あなたを喜ばせたい。どうしたらいいの?教えてください。」と毎日何回も祈ったに違いない。 当時の人々は必死になってエノクを捜したけれど見つけ出されることはなかった。死ぬことなしに天国に移された。 もう一人はエリヤという預言者です。列王記第IIの2章15節から次のように書かれています。 列王記第II、2:15-18
エリヤも人々が捜しましたが、見つけることができませんでした。主がエリヤを取り去られたからです。これと同じようにすべての主の恵みによって救われた人々が一瞬のうちに取り去られるときに、あとに残された人々はこれらの人々を捜し求めることになるでしょう。けれどついに見つけることはできません。 そのときに多くの人々は自分たちの人生について、また、取り去られた自分の妻や両親、あるいは子どもたちのことについて真剣に考えるようになるでしょう。今は救いの時です。 あなたはもしイエス様を自分の救い主として受け入れるならば、今日これからでも新しい人生と、そして永遠のいのちを得ることができるのです。 イエス様はこの御霊の出現について、いわゆる空中再臨についてまた次のように言われました。 ヨハネの福音書14:2-3
すばらしい、まことの希望を与える、本当の確信を与えるみことばではないでしょうか。前に話した個所の内容は同じです。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
また有名なヨハネの福音書17章に出て来るイエス様の祈りの中で出て来ることばです。 ヨハネの福音書17:24
みことばである聖書は主イエス様の三回にわたる出現について多くのことを言っています。 最初にイエス様は全人類を救うために、みどり子として出現されたのであり、第二番目に、イエス様は主の恵みによって救われた兄弟姉妹をご自分に迎えられる花婿として出現し、そして最後に第三番目ですけれど、イエス様は千年王国を建てられるメシヤとして出現なさるのです。 イエス様はこの出現について多くのことを言われました。例えば、 マタイの福音書16:27
マタイの福音書24:30
この第三番目の主イエス様の出現の場合にも、「見よ。」ということばが書かれています。前に読んでもらいました個所です。 ヨハネの黙示録1:7
そのときイエス様はみどり子としてではなく、花婿としてではなく、メサイヤとして来られます。すなわちイエス様にとらえられた人々、そしてイスラエルの民にとってイエス様はメサイヤとして来られ、しかしすべて悔い改めたくない人々に対してはさばき主として来られます。 そのときすべてのユダヤ人は国民としてイエス様をメサイヤとして認め、そして受け入れるようになります。彼らにとってはイエス様は喜びであり、救いであり、勝利となるのです。 けれども信じたくない、悔い改めたくない人々にとってイエス様はもっとも恐るべき方になります。ヨハネの黙示録の中でも変な祈りが書き記されています。役に立たない祈りなのです。 ヨハネの黙示録6:15-17
これは恐るべきほら穴の中での祈りです。まったく役に立たない祈りです。なぜならこれらの人たちは救いの時に祈ったのではなく、さばきの時に祈ったのです。これは、時すでに遅しと言うべきです。 彼らは確かに祈ったけれど、それは救いの神への祈りではなく、山や岩に向かう祈りです。したがって、それは何の値打ちもない祈りです。 彼らはなぜ祈ったのでしょうか。彼らは小羊の御怒りを恐れているからです。また彼らは主のさばきを恐れているからです。しかしこの祈りはだれからも聞いてもらえないのです。詩篇の作者は書いたのです。 詩篇2:4
と書かれています。主イエス様は大いなる御力と栄光のうちに再びおいでになられます。一たび主イエス様とともに引き上げられたからだなる教会は、主とともにいっしょに来るのです。そのときエルサレムという町は世界の首都となります。 千年王国の特徴は正義、平和、幸福、永いいのち、健康、物質的な幸せ、のろいは自然から取り除かれるのです。世界の国民の望んでいることがらは、すなわちイエス様の再臨によってのみ、完全に成就されるのです。 パウロの証しは次のようなものです。テモテへの手紙第IIの4章8節。彼は殉教の死を遂げる前に最期に書いた手紙です。彼の証し。 テモテへの手紙第II、4:8
主を心から愛している人々に約束されているものです。 私たちもパウロのように言うことができるのでしょうか。私たちも主の現われを本当に慕っているのでしょうか。このことに正しい審判者である主がいかなる判断を私たちの上に下してくださるかということがかかっているのです。 もう一ヶ所読んで終わりましょう。 マタイの福音書25:34
逆のことばは41節に書かれています。 マタイの福音書25:41
このことばを聞くようになる人々はもう見込みがない。永遠に暗やみの中に過ごすこと、まことの喜びを知らないで、平安を知らないで、永遠に過ごすこととは、考えられない恐ろしいことです。 ここに私たちはひとつの招きとひとつのさばきを見ることができるのです。したがって、ここでも人々は二つに分けられるようになります。 今日でもイエス様のところへ行って、イエス様を受け入れた人々は、イエス様のこの招きにあずかることができるのですけれど、自分の道を変えないで進もうとする人々は、何があっても悔い改めたくない人々は、イエス様のこのさばきを受けることになります。 パウロはやっぱりコリントにいる曖昧な態度を取った人々に書いたのです。 コリント人への手紙第I、16:22
結局、イエス様を愛する者はやっぱり待っています。「お願い。今日来られるかもしれない。」と考えるとやっぱり見方が変わります。 |