引用聖句:列王記第I、3章3節
マタイの福音書22:32-40
ペテロの手紙第I、1:8
今朝朝食の時、ある方々とちょっと話し合いました。 去年の夏、ある大学の先生が御代田まで来まして、奥さんはドイツ人で、どなたからか分からないけど、リンデの本をもらって、そして一年間この本を読み続けて導かれ、救いの確信を得るようになったのです。 2人はドイツにいる間に、またアメリカにいる間に上手くいったんですけども、息子生まれてからやっぱりもう上手くいかなくなっちゃったし、嫁・姑問題も出てきたし、非常に悩むようになったんですけども、あのご主人も去年初めて御代田まで来ました。 けど、結果はもっと反発するようになったんです。 理由はちょっと珍しいんです。「みんな喜んでいるから、いや。」 複雑な気持ちになったと思うよ。みな喜んでいる。正しい結論はやっぱり「みんな本物持っているじゃないか。」 嬉しくて嬉しくてしょうがない、そういう気持ちがないはずですけども、悩みながら喜ぶことができれば、これ、本物なのではないでしょうか。 けども彼は「いやです」という態度を取ったのです。この方は本当に可哀想じゃないかと思う。 今日の題名はちょっと迷ってるんですね。まだはっきり分からない(場内笑)。 「愛されてる者の幸せ」あるいは「愛する者の幸い」、どっちかちょっと分からない。ま、自分で判断して(笑)。 結局、愛されてる者の幸せについて、未信者が考えても全然分からない。ピンと来ない。 私たちはどうして喜ぶことができるかといいますと、主は呼びかけておられるからです。私の目にはあなたは尊い。高価である。私はあなたを愛している。 だから、愛されてるから、喜ぶことができるのです。 この間一人のちゃんとできた男は、私たちの前で話しながら急に泣くんです。声を出して泣くんです。 理由は、イエス様が私のために死なれたから嬉しい。最近救われたんじゃないよ。ずっと前なんです。 けども、やっぱりそれしかないんです。 この間東京の青梅の家庭集会に行きまして、玄関に入った時ちょうど3人の姉妹がいました。 「こんばんは」と言わないし、「どこから」と言わないし、一人は「私は喜んでる」。次の姉妹「私も」。3番目も「私も」。 初めてそれを言われた姉妹とは、脳溢血で倒れて体が不自由になった姉妹なんです。あの大学の先生、それを聞けばもっと嫌になっちゃうんじゃないかな。 初代教会の人々とは、本当の意味で喜ぶことができたのです。 今、皆47番でしたかね、歌いました。皆本当に心から歌ったかなぁ?(^^) 「私の主イエスよ。私のすべてよ。ただあなただけを慕いゆく。」 そういう気持ちがあればすごい。それだけでいいんです。 ちょうど先週の日曜日、アメリカだったんです。 日曜日の午後あるデパートまで行きまして、デパートの名前はロビンソンだったんですけども、入った時おそらく100回以上同じ看板があったんです。どういう看板かといいますと、 「Who do you love?」(あなたは誰を愛するの?) けど、Whoと書いてましたよ。これは間違ってるでしょう。Whomでなければ駄目なんです。けどもアメリカ人は、それを分かっていないようです。 前にあるアメリカ人の、東京のクリスチャンアカデミーでずっとドイツ語を教えたんです。何年間。いやあ苦労しました。 日本人に教えるのは本当にラク。文法を知っているからです。アメリカ人は文法を知らない。僕、困っちゃったんです。 向こうの先生たちに聞いたんです、いったいどういうものか。「いやー私たちはそれを習いませんから」。困っちゃった。 ですから今ね、「Who do you love?」と書いてあるんです。それは文法的に間違っています。けども、別にどうでもいいじゃないですかねー。 愛の対象が誰であるかが問題なのではないでしょうか。 愛されていなければ、悲劇的なのではないでしょうか。 ノイローゼになった人々の顔を見るともう、やっぱり悲しくなる。どうしましょう。喜ぶこととは本当に考えられないほど大切です。 どうしてあのデパートでWho?あなたは誰を愛するかということを書いたかといいますと、結局バレンタインの宣伝だけだったんです(場内笑)。 愛する人がいるだろう、だからそれを示しなさい。チョコレートを買いなさい。それだけなんです。 パウロはコリント人への手紙第Iの中で、ちょっと考えられないほど厳しい言葉を書いたのです。16章の22節。短い文章です。 コリント人への手紙第I、16:22
滅びると書いてないよ。ただのろわれる。けどのろわれる人とは祝福され得ない。用いられ得ない。 この言葉はもちろん未信者に書かれたお言葉じゃないよ。主イエス様に出会って救われた人々に書かれてるものです。 主を愛さない者は誰でものろわれよ。そして次、この後でちょっと関係ないじゃないかと思う人もいるかも知れないけども、 コリント人への手紙第I、16:22
主を愛する者は祈ります。毎日「主よ、来てください」。待ち望むことこそが、主を愛してるの証拠なのではないでしょうか。 主を愛するために、もちろん主を知らなければならない。すなわち、十字架につけられたイエス様を知らなければならない。 主を愛してる者は、主の現れを慕ってる。今日かもしれないと首を長くして待ってるのです。 そして主を愛する者は、いうまでもなくイエス様を紹介したい気持ちでいっぱいです。 主を愛する者は、聞く耳を持つ者であり、主よ導いてくださいと祈り続けます。 初代教会について、前に読んでもらいました箇所を見ると、次のように書かれています。 ペテロは・・・ご存知でしょう?イエス様と一緒に3年間生活した後で、彼は3回も私はイエス様を知らない、関係ない、何を言ってるの?と言ったのです。めっちゃくちゃな男だよ。 このペテロは捨てられなかったのです。彼はもうおしまいと確信したのです。けども彼は回復され、そしてあなたはわたしを愛するの?と聞かれた時、心から言えたのです。 主よあなたはすべてをご存知です。私はあなたを愛している、あなたをまた裏切る可能性がある。もう自信がなくなった。どうしようもない男ですけど、心から言えます、あなたを愛している。 どうしてこういうふうに言えたかといいますと、自分の罪・過ちは赦された、と確信するようになったからです。 彼は完全に空っぽになってしまったのです。降参するようになったのです。けども、この回復されたペテロは、ほかの人々を励ますことができたのですね、 ペテロの手紙第I、1:8
嬉しくて嬉しくてしょうがない、そういう気持ちがなかったよ。けどもそれと関係なし。彼らは大いに喜ぶことができたのです。 「主は生きておられる」という集会の雑誌の中で、最近またグアム島に住んでいる兄弟の証しも載っています。 今現在も、八王子の東海大学病院に入院されていて、いつまた手術されるか分からない。歳は若くて37歳。ちっちゃい子供4人。ウインドサーフィンのチャンピオンになった。世界一になった。スポーツマンそのものです。 雑誌の中で彼の傷跡も見るんですね。66針縫われるようになったのです。大体毎月診察に行くと、新しい出来物ができている。 けども彼は何を証ししたかといいますと、どうしてこの病気になったのか、ということについて一回も考えたことがない。 2番目。この病気が与えられたのは、感謝できます。 3番目。主は私を癒しても、召しても、もうゆだねたよ、と。 結局、主の与えようと望んでいる喜びとは、そういうものなんです。 確かにね、私たちいつも「喜びの集い」というでしょう?本当はちょっとおかしいじゃないの? 集まっている人、みな悩んでる人々ばっかり。どうしようもない者ばっかり。初めの愛から離れた連中たちばっかり来てはいないでしょうか(場内笑)。 困っちゃう。 けどもやっぱり、悩みながら苦しみながら喜ぶことができるのは、すごいなのではないでしょうか。結局、我々の状態はどうであれ、主は愛する、愛されるお方です。愛そのものです。 この事実について考えると、イエス様は私のために死なれた。犠牲になったと考えると、礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。 主の愛の証拠なるものは、この罪にまみれた世界に送られた、また死に渡されたイエス様です。この愛を経験した人は悩みながら、苦しみながら、喜ぶことができるのです。 ソロモンについて、前に読んでもらった箇所の中で書かれていました。 彼は決して完全ではなかったのです。普通の人間でした。けども聖書は、もちろん御霊に導かれて何と言ってるかといいますと、「ソロモンは主を愛した。」 もし私たち一人一人について、同じように言われれば、すごいなのではないでしょうか。彼は・彼女は主を愛した。 一番大切なのは、いったい何なのでしょうか。 主の愛を経験すること、主に愛されてることを証しすることなのではないでしょうか。 前に読みましたマタイの福音書の22章32節から見てみましょうか。ここでアブラハム、イサク、ヤコブ、3人の名前が出てきます。 マタイの福音書22:32
昨日記念会のあった3人の兄弟も生きている。 イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信ずる者は、死んでも生きる。」と言われたのです。 マタイの福音書22:33
ちょっと残念です。悔い改めたと書いてあればいいけど、驚くことによって誰も救われません。 マタイの福音書22:34-35
私は救われるためにどうしましょうか、ではなかった。これも残念な話です。 マタイの福音書22:36
偽善的な態度じゃないですかね。先生というと、教えてください・導いて下さい、そういう態度がなければやっぱり嘘なんです。彼は偽善者そのもので、嘘つきでした。 結局聞く耳がなかったんです。「先生教えてください」じゃないんです。イエス様を試そう、駄目にしようと思ったから聞いただけなんです。 そしてイエス様は、もちろん自分で考えて答えたなのではない。イエス様はそういうお方ではなかったのです。私たちと全然違うよ。 私たちは何か聞くと、尋ねられると、自分で考えるでしょ。まず。 壁にぶつかってから初めて、やっぱり祈ったほうが良かった、と思うようになります。イエス様は自分で考えようとしなかった。1秒も。 「お父さま・・・どうしましょうか」。祈ってから初めて行動なさったのです。イエス様は「お父さま、どうしましょうか?」そして必ず旧約聖書の箇所を教えられたのです。ですからイエス様の話された言葉とは、旧約聖書の引用された箇所だけなんです。 マタイの福音書22:37-40
結局それだけなんです。主を愛すればOK。主を愛すればもちろん、まわりの人々も愛するようになる。それが証拠なんです。 私は主を愛するけど、あの兄弟とはあんまり会いたくない、という気持ちがあれば嘘です。つながってるんです。 当時の群衆は、イエス様の話を聞いて驚いた、と書いてあります。けどもイエス様は何かを教えようとしなかったんです。 イエス様は道しるべじゃない。道です。イエス様は真理を述べ伝えるお方よりも、真理そのものです。 イエス様はいろいろなことを話された時、自分自身を明らかにするためだけなんです。そして心の目でイエス様を見えるようになれば、解放されます。喜ぶようになります。 イエス様が教えたことは、決してひとつの教えではない。いつもひとつの呼びかけだったんです。「おいで、待ってるよ。」 全て重荷を負って苦労してる者は、キリスト教に入れじゃないでしょう。教会に行けじゃないでしょう。「わたしのところに来なさい。待ってるよ。」 イエス様のところに行くと何を経験するかといいますと、すなわち前に話したように、「愛されている。」 イエス様のところに行かなければ、イエス様の愛を決して味わい知ることができません。 当時の聖書学者はもちろん、もしかすると我々よりも聖書を勉強したかも知れません。聖書の内容を信じたのです。疑おうとしなかった。けども聖書の中心である、約束された救い主をまったく知らなかったのです。 ですからあの律法の専門家は、イエス様のところに行って教えてもらいたい、真理を明らかにしてもらいたいという気持ちではなく、イエス様を駄目にしようと来ただけなんです。 確かに聖書の言ってることは、理性でもってつかむもんじゃないし、理解できませんし、天と地を無から創造されたお方が、どうしようもない人間と交わりしたいということについて考えてみれば、どういうことか、どうしてか、さっぱり分からない。 結局主はどうしようもない人間と愛の関係を持つことを望んでおられます。 たとえば、主に仕える天使たちから、主は愛を別に要求しない。従順だけ。けども駄目になった人間から、主は愛を要求するのです。ですから、 マタイの福音書22:37
と書いてあるのです。これは最大の、一番大切な戒めです。 主はどうしようもない人間の、二心なき愛を求めておられます。真心からの愛を望んでおられるのです。 主は、私たちが愛しても愛さなくてもどうでもいい、構わないと思っていない。愛することが提案されてる、じゃない命令されています。 どうしてでしょうかねぇ。人間の愛がなければ、主は寂しくなるかな。孤独になるかな。決してそうじゃない。人間だっていてもいなくても、主にとってどうでもいいことです。 そしたら、どうして主は人間の愛を望んでおられるかといいますと、人間はその時のみ満たされるからです。心の喜び、心の平安を持つようになるのです。 主は愛のかたまりです。主なき本当の愛は存在していない。真の愛と主は不可分のものです。結局主は愛そのものです。 ヨハネ手紙第Iの3章を見ると、次のように書かれています。 ヨハネ手紙第I、3:16
確信するようになった、経験したといってもいいなのではないか。理性でもって分かるもんじゃないから。だから説明することができない。 「主は、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。」 多くの宗教が存在するけども、誰も喜びを持って、誇りを持って、「釈迦は私の代わりに死なれた。」「マホメットは私のために犠牲になった。」「日蓮は私を愛したから、すべてを捨てた。」と、誰も言えないでしょう? 「キリストは私のために死なれた。自分のいのちを捨ててくださった。」と告白できる人は本当に幸せです。 ガラテヤ人への手紙2章20節の後半ですけども、サウロ、後のパウロの救われた原因について書き記されてます。 ガラテヤ人への手紙2:20
キリスト、というようになったのです。 けどもこのサウロとは、キリストと関係を持ちたくなかったし、イエス様が殺された時彼は必ず「よかったよかった。お祝いしましょう。」そういう気持ちだったに違いない。 結局お邪魔虫だったんです、イエス様は。イエス様が現れると、中心になると、宗教は駄目になるからです。 このサウロとは当時のもっとも優れた聖書学者のもとで学んだんです。頑張り屋。彼は非常に尊敬され愛された愛弟子となり、もしかすると将来、イスラエルの聖書学者としてのナンバー・ワンになったかも分からない。 彼は聖書の内容をよく勉強しまして、疑わずに聖書の神に従いたいと思ったのです。 ある時ちょっとショックを受けたことがあるかも知れない。初代教会の初めての殉教者の死を、彼は見てたんです。 その時彼も賛成して、ステパノという男は石で殺されてしまったのです。 ステパノは急に何と言ったかといいますと、学者たちはみな彼の話を初めて聞いた時喜んでたはずです。「その通り。その通り。その通り。」 主なる神はいかにしてイスラエルの民を選んだのか、導いたのか、守ったのか、自分のご臨在を現してくださったのかについて聞いたとき、みな嬉しくなった。 けど急に、いわゆる喜びは、憎しみに変わったのです。 「あなた方のわがままのために、イエス様は十字架につけられた。このイエス・キリストとは、約束された救い主だった。」 そして上を仰ぎ見て、「私は信じる。右に立っておられるイエス様が見える」と言った時、彼は殺されたのです。 けども死ぬ前に彼は祈ったのです。「主よ彼らの罪を赦してください。」自分を殺す人々のために祈ることって、いったいどういうこと? 自分の力でもちろんできるもんじゃない。 当時のサウロはそれを聞いた時、何を考えたか分からない。けども必ず十字架につけられたあのキリストも同じこと言ったんじゃないか・・・。 自分を殺す人々のためにもイエス様は祈られたのです。「主よ彼らの罪をお許しください。彼らは何をしているのか、まったく分からない。」 結局サウロは、自分は正しい、自分の考えてることは間違っていないと思い込んでしまったのです。けども彼は変えられました。どうして? 私を愛し、私のためにご自身を捨てたイエス様をこの目で見、主イエス様の声をこの耳で聞くことができたからです。 彼はイエス様を信ずる者を迫害する途中で、急に光に照らされて声を聞いたのです。彼は「主よ、あなたはどなたですか?」と聞いたと時、考えられない答えがあったのです。 「あなたの迫害しているイエスです。」 パウロのショックとは想像できない。彼は瞬間的に分かった。まことの神に仕えたつもりだったけど、知らないうちに悪魔の器でした。 イエス・キリストの名を消そうと思ったんですけど、このキリストが生きておられれば、もうどうしたらいいか分からなくなっちゃった。それですぐ頼んだんです。 「主よ私はどうしたらいいの?これから。もう終わり。」 彼はその時大切なことを学んだのです。すなわち、イエス様を信ずることとは、自分を信じないことです。 自分の考えてることを大切にする人は可哀想。知らないうちに悪魔に用いられるようになります。ですから自分の考えてること、思ってることは別にどうでもいい。 主よ教えてください。どうしたらいいか分からない。この態度を取る人は、ほんとに用いられるようになるんです。 結局パウロはその時、瞬間的に何を分かったかといいますと、この十字架につけられたイエス・キリストは今まで思ったものではない。 犯罪人ではないし、嘘つきでもない。約束された救い主です。 十字架とはいったい何を語ってるなのでしょうか。結局人間は駄目である。使い物にならない。 パウロもそれを分かったんです。 「私はキリストとともに十字架につけられた。私はもうどうでもいい。私の考えてることは大切じゃなくて、主よ語ってください。」 イエス様を愛することこそが大切です。パウロはイエス様を信ずるようになっただけじゃないよ。イエス様を心から愛するようになったのです。 「あなたを愛しています。どういうふうにこの愛を話したらいいの?お教えになってください。」 結局イエス様の愛こそが、パウロを圧倒してしまったのです。彼の人生を根底から変えたのです。 「イエス様のために生きたい。」これこそが彼の切なる願いだったのです。 彼はどうしてイエス様を愛するようになったなのでしょうか。結局自分のあやまち・わがままは赦されていると確信できたからです。 イエス様は、別のたとえなんですけども、次のように言われたのです。 「多く赦されれば、多く愛する。」 聖書の呼びかけとは、勉強しなさい、知識を持ちなさいよりも、「主の愛を受けなさい。主の与えたいと思っておられるものを、すなわち罪の赦しを、本当の心の平安を、変わらない喜びを、生き生きとした希望を受けなさい」ということです。 イエス様は言われました。 マタイの福音書22:37-38
みなさん分かるでしょう。「はい分かりました、そうします。」と思っても無理だよ。主を愛する証拠とは、まわりの人々も愛することです。 ときどき聞きます。おもに姉妹たちは、本当にね、主人を愛すべきです。愛しましょうと決心しても、顔を見るといっぺんに駄目。けども、もちろん聖書をそういうことを教えてないよ。自分の愛でもって愛せよと書いてないよ。 主の愛でもって愛しなさい。ね、 ローマ人への手紙5:5
神の愛だったらできる。自分のみじめな愛だったらいくら頑張っても、努力しても、何にもならない。愛されれば誰でも愛しますよ。けど捨てられればちょっと違う話になるのではないでしょうか。 結局正直になると、主よこのあなたの思いをもう分かっちゃったよ。守りたい。心から。けど無理です。できません。あなたが助けてくださらなければ、不可能です。 「私のうちには、何ひとつ良いものがない。」 今朝、ある兄弟は祈りの中でそう祈られたのです。 やっぱり駄目。人間はその通りなんです。自分の力によっては、まったく自己中心的な生活を送ることしかできない。 けども降参すると、私はもう無理あわれんで・・・という態度をとると、必ず主は働いてくださるのです。 確かに聖書の中によく書かれています。すなわち人間は駄目。まったく堕落している者。自分のことしか考えられないなのは、人間です。 したがって自分の力で主を愛することはできません。 けども正直になり、敗北者として、無力者として、何にもできない者として主の助けを求めると、主は必ずあわれんでくださるのです。 イエス様はご自身のみもとに来る者を決して捨てません。受け入れてくださいます。イエス様は告白した罪・債務を必ず赦してくださるだけではなく、忘れてくださるのです。イエス様は内側から新しくしてくださるのです。 ですから、今引用したローマ人への手紙5章の5節は、非常に秘訣そのものであります。 ローマ人への手紙5:5
ま、主ご自身の愛は、信ずる者に与えられている。だから、できる。 ダビデはみなさんご存知でしょう?とんでもない罪を犯しましたけど、だからこそ彼は主を心から愛するようになったのです。愛せざるを得なくなったのです。 詩篇の18篇を見ると次のように書かれています。 詩篇18:1
「あなたの存在を信ずる」じゃないよ。「あなたを知るようになった」だけではない。「私はあなたを慕います」。結局「あなたこそが私にとって、すべてのすべてです。」 みじめさから脱出する道は、ただひとつしかない。 箴言28:13
いくら隠しても意味のないことです。明るみに出されれば主は赦してくださる。それも理性でもってつかめませんけども、明るみに出された罪は光なんですって。罪じゃない。 もし聖書がそう言ってなければ、もう信じられない。考えられないからです。けども主は、赦してくだされば徹底的に赦す。もうあなたの罪を二度と思い出さない。決して心にとめない。 それを考えるともう、心から喜ぶだけでなくて、やっぱり主を愛せざるを得なくなるのではないでしょうか。 聖書の中で必死になって隠した男について、いろいろなこと書いてます。今引用したダビデなんです。 ダビデはほんとはね、民とともに戦争に行くべきだったんです。その時までいつも中心になって「主に頼りながら戦いましょう!」と言って、けど今回の敵は大したものではなかったから、自分で行かなくても何とかなるだろうと思って、そのとき彼は別の人と、結婚した女性と一緒になって・・・妊娠したと聞いたとき、困っちゃった。 すぐ悔い改めたならばちょっと楽になったでしょう。けども彼は悪魔の声に耳を貸した。 「いやぁ大変だよもう。それ皆わかれば、もうあなたはおしまいです。隠さないと駄目よ。どうして隠したらよいか。彼女の主人を戦死させたらいいじゃないか。あなたは王であるから、簡単にできるでしょう?」 彼はそれを信じ込んでしまった。あの女性の主人は殺されてしまった。もう誰も分からないでしょう。誰の子どもかは。結局隠せば上手くいくと彼は思ったんです。結果は大変なものでした。 詩篇32:3
王様としてあんまり働かなかったと思うよ。人間的に疲れていなかったと思う。けど彼はもう疲れた。 詩篇32:4
昼だけだったらまあまあ。けど夜も。結局寝られなくなっちゃった。 詩篇32:4-5
結局もうみんな分かってもいい。もう耐えられません。結果として彼は解放された。また喜ぶようになった。過ぎ去ったことはもう終わった。今から。これから。 詩篇32:1-2
ダビデのように主をほめたたえた人はあんまりいない。大部分の詩篇は彼によって書かれた祈りであり、ほめ歌です。 「主はすごい。完璧です。私はどうして捨てられなかったのか、ちょっと分からない。全部主のおかげである」と彼は言えたのです。 イザヤ書の57章15節を見ると、これも良く知られている箇所です。ときどきね、聖書の言ってることとはいったい何?とよく聞かれます。この1節だけ引用すれば、それでいいよ。主の呼びかけですね。 イザヤ書57:15
ダビデもパウロも、この事実を経験したのです。へりくだれば喜ぶようになる。「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子!」と。 「キリストの愛が私を取り囲んでいる。」ローマの牢獄の中で、彼は書いたのです。 ピリピ人への手紙3章、パウロは次のように言ったのです。結局主の愛によって取り囲まれてしまったパウロは、主の愛によって圧倒されてしまったパウロは、次のように言ったのです。 ピリピ人への手紙3:7-8
ちりあくたとは役に立たないものです。捨てるべき物です。邪魔物です。パウロにとって、全てはもうどうでもいいことになっちゃったのです。 私の主であるイエス・キリストという表現について考えると分かるでしょう?考えられない変化です。 パウロは何を言いたかったといいますと、「私は、自分のために死なれたイエス様を真心から愛している。イエス様を喜ばせたい。」 彼にとって非常に大切であったのは、おそらく自分の聖書の知識じゃないかな。何年間たくわえられた聖書の知識は、彼は誇ったものになったでしょう。 けども彼は聖書の知識によって救われなかったよ。結局救いのために役に立たないものだった。なぜならば、もう分かったと思ったからです。そこまで行くともうおしまいです。 パウロは「私は、今までたくわえた知識をもう捨てます。ちりあくた。十字架につけられたイエス様だけを宣べ伝える」と決心したのです。 これこそがイエス様に対する愛の、ひとつの現れなのではないでしょうか。 ヨハネの黙示録の2章4節。非常に厳しい言葉です。 ヨハネの黙示録2:4
これはちょっと弱い表現です。ドイツ語の聖書を見ると、「わたしはあなたに敵する。わたしはあなたの敵になった。あなたをもう祝福することができない。」 ヨハネの黙示録2:4
前に話したように、いやあ私たちこの大分に集まった人々とは、初めの愛から離れていないと言えない。けど問題は今から。 ヨハネの黙示録2:5
非常に困ったのは、エペソの兄弟姉妹は悔い改めなかったのです。燭台そのものは取り外されてしまったのです。エペソとは今のトルコにある町なんです。 トルコは本当の意味の、主を宣べ伝える光そのものだった。けどもぜんぶ駄目になった。100%イスラム教徒のものになってしまったのです。悲劇的です。 結局主は自分の約束を守った。「あなたの燭台を取り外します。悔い改めなかったから。」 初めの愛とは何でしょうかねえ?イエス様との交わりです。 「もう駄目なんです。あわれんでください。導いてください。あやまちを犯すことしかできない者です。」 結局イエス様なしに何ごとも欲せず、何ごともなし得ないのが初めの愛であります。もし聖書が毎日、我々のなぐさめとなり、喜びとなれば違う。ね。 習慣的にみことばを読んでも、あんまり意味のないことです。けども飢え渇きをもって「イエス様、知識べつにいいよ。もう。けどあなたをよく知りたいからお願いします。あわれんでください。」という態度を取れたら、すごい。 確かにゆっくり聖書を読む兄弟たちは少ないかも知れない、けど姉妹たちはもっと暇があるでしょう?けど兄弟たちはみことばを宣べ伝えなくちゃいけないから、ちょっと可哀想じゃないか。 祈られてる姉妹たちがいれば大丈夫ですけど。けども「日々の光」ね、それならみな読めるでしょ?そんなに時間かからないし・・・。もちろん聖書のみことばだけなんですけども、飢え渇きをもって日々の光を読むと非常に良い。すばらしい。 近いうちに、新しい信仰の歌が出るんですけど、題は「信仰の歌」じゃないよ。今日々の光をみんな読んでるから、今度の聖歌の名前とは「日々の歌」。日々の光とともに、日々の歌をうたいましょう。 やっぱりね、日々の歌とは与えられた祝福に対する感謝なのではないでしょうか。主をほめたたえる歌なのではないでしょうか。 エペソの兄弟姉妹の心は、主との親しい交わりの中にはなかったのです。ですからイエス様は、「もはや、わたしは、あなたがたとともにいることができない。あなたたちに対して対立しなくちゃいけない。用いられない。祝福できない」と言わざるを得なかったのです。 もちろん外面的にみるとエペソの群れは、まぁ上手くいったんです。けどもイエス様は満足しなかった。熱心さがあったでしょうし、困難に対する忍耐もあったでしょうし、けどこのようなものも「初めの愛」、イエス様に対する献身の代わりになるものではない。 イエス様はまず何よりも、我々の心からの愛を望んでおられるのです。 前に話したように、イエス様はペテロに、3回もイエス様を否んだペテロに、「あなたはわたしを愛するの?」と訊かれたのです。 ペテロはそれしか言えなかった、すなわち「主よ、あなたは全部知ってるお方です。私はあなたを愛している。もうイエス様から離れられない。イエス様こそが、私にとってすべてのすべてである」とペテロは心から言うことができたのです。 ですから私たちも毎日、主に尋ねるべきなのではないでしょうか。「イエス様、私に対して何か対立すべきものがあるなのでしょうか。教えてください。」 初めの愛の特徴とは、こういう心構えを持つことです。主の前に静まることです。すべてを主から受け取ることです。またすべてを主に明け渡すことであります。 そうすれば、主は大いに喜んでくださるのです。 初代教会の人々とは確かに用いられたのです。どうして?彼らは次のように祈りました。 コリント人への手紙第II、5:9
主を信ずることだけじゃないよ。「主に喜ばれることです。」 |