主よ、お語りください


ベック兄

(ドイツ喜びの集い、2010/10/14)

引用聖句:サムエル記第I、3章1節-10節
1少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
2その日、エリは自分の所で寝ていた。――彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。――
3神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。
4そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、
5エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。
6主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。
7サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。
8主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。
9それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。
10そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

このサムエルとは、イスラエルの民の初めての預言者と呼ばれるようになりました。彼の母親は非常に悩んだんです。子供がなかったから。もう恥ずかしくてどうしようもない。けれども、彼女は泣きながら主に祈りました。
「御心であれば、子供を与えて下さい。自分のためには、別にいいんです。欲しくありません。けれども、あなたに捧げますから。」
結局このサムエルは、生まれてから、何歳の時か解からないけど、母親から離れて、当時の大祭司エリの所で育てられるようになりました。

そして主は、3回も呼んだんですけども、彼は主の声をまだ知らなかったから、人間の声、エリの声だと思ちゃったんですけど、すぐ起きて「ここにおります。」、すごい態度ですけど、けど4回目彼は、結局エリの言われた通りのことをしたので、10節ですね。

サムエル記第I、3:10
10そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

確かに、人間はみな耳を持っています。けれども、もし聞く耳を持っていなければ、それこそ悲劇的です。
私たちは過去を振り返ってみると、楽しかったこともあったでしょうし、悲しかったこともあったでしょう。けれども、一番すばらしかったこととは、疑いもなく、みことばを通して主の声を聞いた時ではないかと思います。
もう忘れられない経験でした。そして、我々の心の奥底にある、強い要求は、主の声を聞いて、イエス様との交わりを持ちたいと言う要求ではないでしょうか。そして、どうしても必要なのは、主の御声を聞くことであり、その他のことは大したことではない。

主の声を聞く時に、誰でもが満たされます。質問は、主の声とはいったいどういう声なのでしょうか。
聖書は、7つの答えを出しています。
第1に、主の声は力強い声であると聖書は言っています。

ヨハネの黙示録1:15、17-18
15その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
17それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
18生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

ヨハネは、この大水の音のような声を聞いた時、主の足元に倒れて、死人のようになっちゃった。周りの人は死んだと思ったでしょう。主の声とは本当に力強い声です。けれども、他の声も強いんじゃないかな。
たとえば、人間の声も力を持つものではないでしょうか。ある教育者は、一人の学生に「あなたの人生はダメになる」と言って、自殺未遂になってしまったんです。人間の声も、やっぱり力を持つのではないでしょうか。大きな影響力を持っています。
もちろん人間の声だけではなく、自分の心の中からの声も、力を持つのではないでしょうか。

主の判断ですけど、

創世記8:21
21人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。

だから自分の心の声に耳を貸すと、ちょっと大変じゃないの。

エレミヤ書17:9
9人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

これは主の判断です。人間の思いは、主の思いとは違った方向に向いているのです。
したがって、自分自身の心の声を大切にする者は、知らないうちに、悪魔の罠に陥ってしまうのです。
イエス様は、かつて弟子たちに、自分がやがて十字架につけられることを公にされた時、ペテロは反発しました。止めようとしました。

マタイの福音書16:15-16
15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16シモン・ペテロが答えて言った。

もちろんイエス様は、弟子みんなに聞いたんです。「あなたがた」となっている。けど、しゃべったのはペテロだけ

マタイの福音書16:16-17
16「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
17するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

結局、上からの光によって、彼は心の目で、イエス様こそが約束された救い主であることを知り、告白しました。
それで終わればありがたいけど、残念です。ちがう。21節から見るとがっかりです。

マタイの福音書16:21-22
21その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
22すると

同じペテロだよ、

マタイの福音書16:22-23
22ペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
23しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロは呼ばれた時、全部捨てたんです。
職業を捨てて、家族を捨てて、イエス様に従ったんです。この犠牲をはらった男に、イエス様は、何と言ったかといいますと、「下がれ。サタン。」大変だよ。
結局、ペテロは自分の心の声に負けちゃった。だからイエス様は、仕方がなくて、「サタンよ。下がれ。お前は神のことを思わずに、人のことを思っている。」と言わざるをえなかったのです。

自分の心の声や、他人の声だけじゃなくて、もちろん悪魔の声も、我々の働きを妨げようとするのです。
悪魔の目的は、私たちがいつも自分のことばっかり考え、自己決定や自己支配に陥ることにほかならない。
悪魔が、この目的を達成すると、もはやイエス様の声を聞くことができなくなる。したがって、自分の心の声を否定し、他人の声にも動かされることなく、また悪魔の声に対しても耳をふさぐ者だけが、主の御声の偉大さ、すばらしさを経験することができるのです。

イエス様の声の代わりに、人間の声を大切にすることの結果は、決して良いものではない。イエス様の霊によってではなく、自分の心の声によって動かされる者は、本当に哀れな者です。
みことばの上に立たず、悪魔のささやきに耳を貸しそれに従う者は、道をあやまり、騙されてしまいます。イエス様の声を他の声よりも大切にする者は、本当に幸せです。その時のみ、我々は奇跡を経験することができます。
イエス様の声とは、いったいどういうもの。今話したように、主の声は力強いものです。

2番目の答えは、イエス様の声は、人を納得させる力を持つものです。これこそが、使徒たちを迫害したサウロ、後のパウロの経験でした。
使徒の働きの中で、彼は3回証ししたのです。こまかく、どういうふうにイエス様に出会ったかと書いたのです。
一番有名な箇所は、たぶん使徒の働き9章なのではないかと思います。

使徒の働き9:1-5
1さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
5彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

このサウロ、後のパウロは、主なる神に仕えたいと切なる願いを持っていました。そのため、当時の聖書学者たちと同じように、厳しい神のいわゆる戒め、律法を大切にしました。
彼は、「イエス様が殺されたのは良かった。詐欺師だったから、大嘘つきだったから。」と、思い込んでしまったのです。
もちろん、もうすでに殺されたイエスを迫害することができない。けども、あいかわらずイエス様を信じる者たちを迫害しなくちゃならないのは、自分が主から与えられた使命であると、彼は思い込んでしまったのです。

けれども、「主よ。あなたはどなたですか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」ということば一言葉を通して、彼はいっぺんに変えられた。
彼の受けたショックとは、どういうものであるのか。もう想像できません。やっぱり私の聖書の知識は、役に立たないものだった。心から主なる神に従うと思ったけど、知らないうちに、悪魔の道具になってしまったと、彼は認めざるをえなかったのです。
結局イエス様の声によって、一瞬にして彼は納得させられたのです。その時から、彼は毎日、2、3回だけじゃない。数えられないほど、「主よ。私は何をしたらよいのでしょうか」と祈るようになりました。

彼は、後でローマ帝国の皇帝であるネロに捕らえられた時でさえも、決して失望、落胆せず、むしろ反対にイエス様のしもべ、イエス様の奴隷とされていることを喜び、そのために絶えず活躍していました。
主の声を聞くことによって、パウロの人生は180度の展開をしました。
そして、そのことが絶えず喜び、感謝することの秘訣だったのです。

パウロと同じように「主よ。私は何をしたらよいのでしょうか。どうか、御心を明らかにし、しもべに語ってください」と祈ることの出来る人は、本当に幸せです。
主の声を聞くこととは大切です。主の声とはどういう声かと言いますと、今話したように、主の声は大水の音のように力強いものであり、それからイエス様の声とは、人を納得させる力を持つものです。
3番目の答えは、主の声とはどういうものかと言いますと、いのちを与えるものです。有名なヨハネの福音書11章43節

ヨハネの福音書11:43
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」

このヨハネの福音書11章は、私にとって聖書の中で最も好きな箇所の一つです。ずっと読むと解かります。
ラザロという男は、ベタニアという小さな町に住んでいました。一人ではなく、おそらくマルタはお姉さんだったでしょう。マリヤは、妹だったじゃないかと思います。
そしてイエス様は、しばしば彼らの所に立ち寄られました。彼らにとっても、考えられない体験だったに違いない。

イエス様が来ると、イエス様の声を聞くと嬉しくなる。他のことはどうでもいいことになります。イエス様の声を聞くことは、彼らにとって最大の喜びでした。
けど、このヨハネの福音書11章を見ると、彼らは、最大の悲しみに見舞われたのです。ラザロは病気になっただけじゃなく、死んだんです。けどイエス様は、死人に叫び「出てきなさい」と呼ばわれたのです。
だから、死人はイエス様の声を聞くことができるのです。そして、イエス様の御声を聞くことによって、死人は生きかえるのであります。

たとえば、義務的に聖書を読んだり、集会に行ったりするようなことは、まさに命のない者、死んだ者に他ならないんじゃないでしょうか。
イエス様の声を聞くことは、どうしても必要です。なぜならば、イエス様の御声は、いのちを与える力を持つものであるからです。
死が支配していた所、イエス様の御声を聞くことによって、いのちが生まれた。イエス様の声とは、どういう声でしょうかね。

第4番目の答えは、イエス様の声は、招きの声です。
有名なマタイの福音書11章28節

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、

もちろん精神的に疲れた人、

マタイの福音書11:28
28重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

キリスト教にはいるんじゃない、教会に行けじゃない。ただ、わたしのところに来なさい。

マタイの福音書11:28
28わたしがあなたがたを休ませてあげます。

結局、苦労している者は解放されるべきであり、重荷を負っている者は休むべきです。
今日、想像することもできないほど、重荷となっている者はいっぱいいます。多くの信じる者でさえも、もはや、本当の喜びを見出すことが難しくなっている。
多くの信者は、聖霊の導きに対して心をかたくなにしてしまうのです。イエス様に従うこと以外に、他のものを求めようとしている。

けどもイエス様とは、「おいで。わたしの所に来なさい。休ませてあげます。」イエス様を通して、本当に重荷から解放され、大いに喜ぶことが出来るようになります。
イエス様の声とは、いったいどういうものかと言いますと、今話したように、主の声は大水の音のように力強い。
2番目、人を納得させる力を持つものであり、3番目、主の御声は、いのちを与えるものであり、そして、第4番目は、イエス様の御声は、招きの声です。何があっても、「おいで。わたしの所に、待ってるよ。」

第5番目の答えは、イエス様の御声は、慰めを与えてくださいます。
もう1回、ヨハネの福音書11章に戻りましょうか。

ヨハネの福音書11:23、25-26、40、43-45
23イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
25イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
40イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
45そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

この時マルタとマリヤとは、兄弟ラザロの死を非常に悲しんでいました。その状態は全く望みのないものでした。もっとも絶望的な状態だった。どうしてと言いますと、ラザロの死体は死んでから4日もたっていたため、すでに腐っていたからです。
けど、このような全く絶望的な状態の中に、イエス様の声が入ってきました。「わたしは、よみがえりです。」
人間の目には絶望的に見え、どうすることもできないような状態においても、主の御声は、逃れ道を与えてくださいます。

私たちが、いかなる者であるかが大切なのではない。イエス様が、いかなるお方であるかということ、すなわちイエス様がよみがえりであられることが、一番大切なことです。
自分自身が、ダメな者であること知り、沈んでしまう人も決して少なくないでしょう。すなわち、そのような人達は、自分の無力さ、自分のみじめさを知って、絶望的になってしまうのです。
そのような失望落胆した者、絶望した者にとって、ただ一つの逃れ道は、主の御声を聞くことです。

「わたしは、よみがえりです。あなたのいのちです。」という主のみことばは、何という慰めを与えてくれるのでしょうか。イエス様の声とは、いったいどういう声なのでしょうか。
第6番目の答えは、イエス様の声は、導き伴いゆく声です。
ヨハネの福音書10章を見ると、イエス様は次のように約束してくださいました。

ヨハネの福音書10:27-29
27わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
29わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

イエス様の声を聞き、それに従う者は、結局永遠の安全を持っています。今読みました箇所の中で、2,3回「決して」ということばが出てきます。決してない、もう安全です。
イエス様の願いは、我々を導き、伴いゆくことです。イエス様は、決して我々を奴隷のような、束縛することを望まず、我々の本当の幸せを思っておられるのです。
イエス様は、当時の大群衆を見た時、やっぱり悩みました。

マタイの福音書9:36
36また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

飼う者のない羊は、何という姿でしょう。飼う者のない羊とは、羊飼いのない羊です。そうするとおしまい。羊は、一人ぼっちになると終わり。必ず死ぬんです。他の動物と全く違います。
羊にとって大切なのは、羊飼いの近くにいることです。そうすると安心です。羊飼いなる主の声に聞き従うということは、全く明らかな導きを意味します。
したがって、イエス様の声に聞き従う者は、弱り果てて散らばっている、導き手のないさまよう羊のようじゃなくて、はっきりとした安全な導きを持っているのです。

彼らは、私の手から奪い去るものはないと、嘘を知らないイエス様は約束しておられました。我々が、イエス様の御声に聞き従う時、初めて本当の満足が与えられます。
主の声とはどういう声なのでしょうか。もう1回、言いましょう。主の声は、大水の音のように力強いものであり、人を納得させる力を持つものであり、いのちを与えるものであり、招きの声であり、我々に慰めを与えてくれるものです。
そして、イエス様の御声は、導き、伴い行く声です。

最後にもう一つ、イエス様の声とはいったいどういう声であるかと言いますと、願っている声です。
ヨハネの黙示録3章20節、このことばも、もちろん主から遠く離れている人々に書かれているものではなく、一度、主を信じるようになった人々に、書かれたことばです。

ヨハネの黙示録3:20
20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

今話したように、このみことばは、未信者に書かれたものだったら、なるほどと誰も思うでしょう。
主の声を聞いて戸を開けること、そして、その中に入ることを願っておられるのは、イエス様ですけれども、イエス様はただ救われていない人々の心の戸をたたいて、その人が主の声を聞いてもらいたいだけじゃなくて、信じる者に対しても、その心の戸をたたいておられるのです。
結局、イエス様を主として、支配なさるお方として、主にすべての支配権をゆだねる用意のできている信者は、要求されています。それこそ、信者がイエス様との生き生きとした交わりを持っていないことの、原因なのではないでしょうか。

イエス様と食事を共にすることとは、もちろんだだ一緒に食べることじゃないんです。イエス様との交わりを持つことを意味します。そして、我々と交わりを持つことこそ、イエス様ご自信の切なる願いです。
主は、我々の心の戸を、外に立って扉をたたき、我々を呼んでおられるのです。結局、イエス様は、我々と一つになることを望んでおられます。
イエス様は、友と語りあうように、我々と語ることを望んでおられます。これは、経験したのは、この間いっしょに考えたバプテスマのヨハネなんです。彼は、次のように告白します。

ヨハネの福音書3:29
29花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

秘訣とは何であるかと言いますと、次の節でしょうね。

ヨハネの福音書3:30
30あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

イエス様の友であるバプテスマのヨハネは、イエス様の声を聞いて、喜びに満たされたのです。だからこの本当に満ち足りて、喜びたいと思う者は、このバプテスマのヨハネと同じように、主の御声を聞くべきです。
イエス様だけが栄えることを切に望み、そのためにはいかなる犠牲をも払う覚悟を持って、そのために自分が衰えることもいとわないという者こそ、満足を得ることができるのです。
信じられない、考えられない、想像できないけど、聖書の言っていることは、本当なんです。すなわち、この偉大なるイエス様は、我々と最も親密な、深い交わりを持ちたいと願っておられます。

それは私たちが主の前を光の中に歩む時、すなわち、隠された罪がなくなった時に、初めて与えられるものです。
イエス様との交わりは、我々が100%イエス様により頼み、すべてを主に委ね、明け渡した時に成就されます。
イエス様との交わりは、本当にイエス様と一体になることに他ならない。それこそ、イエス様が切に望んでおられることですが、我々の求めているものは、一体何なんでしょうか。もう1回、まとめましょうか。

イエス様の声は、あんまりにも力強かったので、ヨハネはそれを聞いた時、死んだようになって、倒れてしまった。
イエス様の声は、あんまりにも説得的であったため、たけり狂った迫害者サウロは、本当に燃えた証し人に生まれ変わったのです。
またイエス様の声は、いのちを与える力を持っておられたので、死んだラザロをすぐに、生きかえらせることができたのです。
またイエス様の声は、招きの声であったために、何千万という苦しんでいる人々が、イエス様の御許に来て、憩うことができたのです。
またイエス様の声は、慰めを与える声でもあったため、自殺をしかけた人々が、イエス様の御声によって、生きる望みを与えられたのです。
またイエス様の声は、導く声でもあったので、さまよう人々が、イエス様の御声によって、立ち返ることができ、本当の満足を見出すことができたのです。
それから、イエス様の声は、願っておられる声でもあったため、あらゆる国民の多くの者は、イエス様を単に救い主としてだけではなく、主をして支配なさるお方として、受け入れ本当の満足を与えられたのです。

イエス様は、いつも変わることなく、以前と同じお方です。そして主の声も、もちろん昔と異なることがない。
イエス様の声を聞こうと思えば、その御声が、他のものよりも強いものであることが解かる。イエス様の声は、納得させようとしておられるのです。
命を与える、イエス様の御声は、我々の生活をも満ち足らせようと願っておられます。また、招いておられるイエス様の声が、重荷を負って苦しんでいる人々を解放し、完全な安らぎと憩いとを与えてくださるのです。

またイエス様の声とは、本当に慰めを与えるものであり、必要な勇気を与えてくださるのです。
万物をお造りになった主は、どうしようもない、ちっぽけな人間との生き生きとした交わりを望んでおられることとは、想像できない恵みなのではないでしょうか。
結局、サムエルのような態度を取ることこそがすべてです。「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」、この態度を取るものは、何があっても、安心して生涯に向かうことができるのです。




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