引用聖句:ヨナ書1章1節-17節
今、いっしょに歌いました歌の中で、「見上げるお方はただイエスおひとり」、イエス様のことについて考えると、だれでもが嬉しくなる、希望を持つようになります。救いとは、結局救い主をもつことです。 そして今日、ホールの前に飾られたみことばとは、 ピリピ人への手紙3:20
それから、 ヨハネの黙示録2:10
結局、今の与えられている人生とは、永遠の世界の準備期間にすぎません。死んでから始まる。 今、100年生きていても、永遠の世界にはいればもうちっぽけなものになるに違いない。そしてそのとき、「ああ、イエス様を信じたのは良かった〜。」と言えるようになる人々こそが、幸せになるのではないでしょうか。 神は愛ですから自分のわがままを赦すであろうと考えている人々はいっぱいいます。これは間違いです。一番厳しいお方とは、天と地を創造されたお方です。一回だけ、ちょっと良くないことを考えたならばおしまい。地獄です。 一度、四つの福音書を考えながらお読みになってください。結論は、イエス様は天国についてよりも地獄について話されたのです。 地獄とは、結局光のない世界。喜び、平安、希望のない世界です。もう想像できません。ですから提供された救いを自分のものにすることこそが恵みではないでしょうか。 今日は、主の恵みによって救われた人々に与えられた使命についてちょっとだけ考えたいと思います。 今、兄弟にヨナ書1章を読んでもらったのですけれど、「大嘘つきであるヨナ」という題名をつけることができます。彼は何と言っているかと言いますと、1章の9節、「私は天の神、主を礼拝しています。」、嘘でした。 礼拝していたと言ったならば本当なのです。けれども彼は礼拝していませんでした。逃げてしまった。自分の使命を必死になって忘れようとしたのです。 結局、信ずる者の考えと主の考えとは違う。これが分かるようになればちょっと恐ろしくなるのではないでしょうか。 ですから私たちはよく考えるべきなのは、自分の心の願いはいったい何なのでしょうか。また、主イエス様の願いとはいったいどういうものなのでしょうか。自分の願いとイエス様の願いとは、はたして同じなのでしょうか。 われわれにとって一番大切なものはいったい何なのでしょうか。自分の仕事でしょうか。自分の興味でしょうか。自分の集まりでしょうか。自分の奉仕なのでしょうか。 イエス様は、私たちひとりひとりを見て、喜んでくれるのでしょうか。 主のみこころにかなった生活をして、熱心に主を喜ばせようということこそが大切です。 イエス様はいったい何を欲しておられるのでしょうか。イエス様の心からの願いはいったい何なのでしょうか。イエス様は何を望んでいるのでしょうか。 福音書を見るとはっきり言えます。イエス様は、ひとりも滅びることがないように願っておられるということです。ペテロは、ペテロの手紙第IIの3章9節に次のように書いたのです。 ペテロの手紙第II、3:9
ですから主の願いは、人間が救われること。幸せになることです。 主は、人間を救うためにご自分のもっとも愛するもの、すなわち主イエス様をお与えになったのです。簡単に言いますけれど、それは何を意味しているのか。おそらく、永遠の世界にはいってから初めて、本当の意味で知るようになるのではないでしょうか。 結局、イエス様が与えられた者となり、呪われた者となり、罪の塊とされてしまったのです。私たちの心の願いは、やはり人を救うことなのでしょうか。もしこの目標を頭にいれていない者は、ちょっとかわいそう。救われていても用いられません。 イエス様は私たちが信ずれば信ずるほど多くのことを成してくださいます。私たちが主にいくら信頼しても、し過ぎるということはあり得ません。もし信ずれば神の栄光を見ると約束されています。 一つのことがはっきりしています。われわれの不信仰のために、イエス様は今までにあまり多くのことを成すことができなかったということです。 信ずる者はだいたい言い訳として、「見向きもしない、聞く耳がない。心を頑なにしている。」と言います。もしかすると主の目から見ると違うかもしれない。信ずる者の不信仰のゆえに主は働くことができないという可能性が多いのではないでしょうか。 われわれの心からの願いはいったい何なのでしょうか。イエス様をよりよく知りたいのでしょうか。本当の祈る人になりたいのでしょうか。そのための道は私たちが人のたましいを獲得するために出かけるところにあるのです。 私たちがそれをすると、もちろん自分の無力さを感じますし、祈らざるを得なくなります。そうしたらイエス様をすばらしく、よりよく知ることができるようになります。祈りの聞き手として。 イエス様との生き生きとした結びつきをもって生活しているキリスト者は、たましいの滅びゆく人々にイエス様の道を指し示す人々にほかならない。さらに私たちは、人のたましいを救うということは偉大な仕事であり、しかも主ご自身が人間にこの仕事をすることをお赦しになったということがすごいのではないでしょうか。 イエス様がペテロとアンデレについて来るように仰ったとき、彼らに言われたのです。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と。 イエス様に従っている者は、それは取りも直さずイエス様から人を漁どる人として召された人々を意味します。 私たちはこの大切な事実を確信し、自覚しているのでしょうか。聖書を見ると、驚くべきことばがよく出てきます。ひとつは、イザヤ書の55章、だいたいみな暗記していることばではないかと思いますけれど、毎日覚えるべきことばではないかと思います。 イザヤ書55:8
信ずる者 イザヤ書55:8-9
この個所は、私たちイエス様を信ずる者とイエス様の間には、何らの結び付きも存在しないということを明らかに示しております。 私たち信ずる者の思いは常に主の思いと対立している。多くの兄弟姉妹は喜んで証しをします。すなわち、「私はそむきの罪を犯す者だった。」、「私は羊のように迷った者だった。」、「私は自分勝手な道に向かう者だった。」と言いますけれど、今もそうではないでしょうか。 イザヤ書の43章の24節の後半を見ると、主は次のように言っています。 イザヤ書43:24
とあります。けれど過去だけではなく、今もそうではないでしょうか。 なおもひとつの驚くべきことばがヨハネの福音書の6章63節です。短いことばですけれど。 ヨハネの福音書6:63
肉とは人間の知恵、人間の力、人間の努力です。 この個所は原典を見ると、二重否定になっていることがわかります。この訳は、このところがあんまりよく表わされていないかもしれないけれど、原典に忠実に二重否定の表現を使うならば、「肉は決して何の益ももたらしません。」というような具合に表現できるでしょう。 全ての思いや行ないというものは全く何の価値ももっていないということです。つまりことばを変えて言うならば、「御霊の働きによらないものは全て、人間から出ているものであり。」ということです。全て人間的なものはこの世的なものであり、悪魔的であると聖書は言っているのです。 初めは御霊で始まったにも関わらず、肉によって完成されるという信者が少なくないのではないでしょうか。 イスラエルの初めての王であるサウルは、肉によって完成された信者でした。彼は初め主を第一にしたし、人間のことは別にどうでもいい。主に従いたいという気持ちでいっぱいだったけれど、あとで主よりも自分のことを考えて、彼の信ずるものの最後は悲劇的でした。自殺してしまったのです。 ガラテヤの信者たちも同じような危険に陥る可能性が非常に強かったことがわかります。ガラテヤ人への手紙の3章の3節を見ると、パウロは愛をもったけれど心配しながら彼らに次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙3:3
ですから、御霊で始まることだけが大切なのではなく、むしろ御霊によって歩むことが大切です。 ガラテヤ人への手紙5:16
ガラテヤ人への手紙5:25
私たちが主の光の中にわれわれの生活を見ることができ、自分が目くらであることに驚き、心からの悔い改めをすることによって主の豊かな祝福にあずかることができるように、心から切に乞い願い求めます。 何としばしば私たちは絶対的に悪いとは思わないけれど、主のみこころに反することをしているのではないでしょうか。 かつてイエス様は弟子たちに言いました。なかなかいいことばです。「しばらく休みなさい。ちょっとゆっくりして。」 人が休むべき時間というものは確かにある。けれどそれと同時にイエス様は同じ弟子たちにまた何と言ったかと言いますと、「まだ眠って休んでいるのか。」 「しばらく休みなさい。」、「まだ眠って休んでいるのか。」、もちろんその二番目のときは、眠ったり休んだりしているときではなく、目を覚まして祈り続けなければならないときでした。 今読みましたヨナ書を見てもわかります。ヨナ書を見ると、預言者ヨナが深く眠っていたことがわかる。けれどそのとき眠るべきではなかったのです。7章の10節。1章でしたけれども、結局彼は眠ったけれども眠るべきときではなかったのです。起きるべきでした。それから別の個所だったのですけれど、 ヨシュア記7:10
ひれ伏すこととは礼拝することです。主を拝むことです。ヨシュアは本当に地にひれ伏して、主を拝して、主に祈りました。けれどそのとき主に祈るべきときではなかったのです。的外れでした。罪がきよめられなければならないときでしたから。 だから主はヨシュアに「立て。」と仰せられたのです。そのときそこには不従順、盗み、隠し事があったのです。そのような場合があった場合、もはや祈ることは意味がない。 私たちの場合はいったいどうなのでしょうか。いかに多くの不従順を告白しなくてはならないことではないでしょうか。また、何と多くの盗みを犯したことでしょう。 自分の名誉を人にまさって誇りたがったり、自分が中心になりたがったり、人に良く思われたがったりすることなどは全て盗みであると聖書は言っています。なぜならば全ての誉れと栄光とは、ただ主にのみ帰せられるべきであると聖書は言っているからです。 また何と多くの隠し事、偽り、偽善などを行なっていることでしょうか。もしそうすると、敬虔な形をしていてもその実を否定する者になるのです。 また、出エジプト記の14章15節を見ると、似ている個所があります。 出エジプト記14:15
モーセは主に叫びました。そして主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。」確かに主に叫ぶべき時があるけれど、このときは叫ぶべき時ではなくして、主は全き従順を待ち望んでおられたのです。 今まで述べたことを通して、私たちは自分の思いや自分の行ないがいかに主の思いとみわざとから離れており、違っているものであるかということを知ることができるのです。 私たちは祈るべき時に眠ってしまう。罪を告白し、光の中に明らかにしなくてはならない時に私たちは祈り始める。また、主が私たちの従順を待っておられる時に私たちは主に叫んでしまう。何と愚かな目くらにされた者なのでしょうか。 これらの事実を詳らかに知ることができたならば、主がいかに忍耐を持ち、大いなるみわざによって私たちを取り扱われ、決して見捨てることをなさらないことに気が付くのです。ちょっと違う意味で主の恵みをほめたたえるようになるのではないでしょうか。 私たちが祈らなければならない時に眠ってしまったり、罪を告白して明らかにしなければならない時に祈り始めたがり、主に従順にならなければならない時に叫び出したりするならば、その時にはもはや主との交わりを持つことができないことを知らなければなりません。 これらのことがらは、私たちが主と結び付いていないことの証拠です。その時には主との生きる交わりもなく、また御霊による導きも存在していない。 私たちが罪を光の中にさらけ出し、それを主のみもとに偽らずに、ありのままに差し出すことをしなければ祈ることも主に呼ばわることも何の価値もない者です。 私たちが全く妥協せずに主に従うならば、必ず主は応えてくださいますが、そうでなければ、主は決してお応えになりません。 ちょっとヨナ書に戻りまして、ヨナ書の4章の11節を見ると次のように書かれています。 ヨナ書4:11
一昨年でしたか、その津波を通して、確かに16万人以上だったのでしょうか。死んでしまったのです。 けれども非常に不思議なのは、死んだ動物について何も聞いていない。海岸のすぐ近くに大きな動物園がありました。けれど死んだゾウも、死んだトラも、死んだ獅子もウサギもいなかったのです。みな早めに逃げたからです。死んだ魚も一匹もいなかったのです。 人間よりも動物は近づく危険を早めに分かり、逃げるのです。 ニネベにいる家畜は主にとってどうでもよかったのではなかったようです。ましてや主の愛の対象である人間の死、また滅びを望む神は存在していません。 主はニネベに住む人たちに対して無関心ではなかったのです。だから預言者ヨナは遣わされました。 このヨナとは預言者と呼ばれ、主のしもべと呼ばれたのです。「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」、すなわち、しもべは従うつもりです。あなたのみこころだけを行ないたいのです。この心構えこそがいわゆる預言者たちの態度でした。 預言者たちは自分で色々なことを考えたり、勉強したり、そして結果として全てをまとめて話したのではない。預言者たちは主の口として用いられた器にすぎなかったのです。 主はこういうふうに語られ、これを宣べ伝えと命令なさったから、彼らは命令どおりに行なった。主からのことばを宣べ伝えただけでした。 預言者であるしもべたちにとって大切であったのは、自分で考えることではなく、従順に従うことでした。確かに預言者たちはみなイスラエルのために遣わされた者でした。けれど例外があったのです。ヨナという預言者は異邦人に、ユダヤ人でない人々に遣わされたのです。ヨナ書1章の1節からもう一回読みます。 ヨナ書1:1-3
この個所を見ると、ヨナが非常に急いだのです。どうしてでしょうか。主の宮に行くために、祈るために急いだのでしょうか。王に呼び出され急いだのでしょうか。あるいは何か特別な使命を帯びていたために急いだのでしょうか。決してそうではない。 ここで何を書いているかと言いますと、ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとしたと書いてあります。いったいなぜヨナは逃げようとしたのでしょうか。なぜ主なる神のしもべであるヨナは、主の顔を避けようとしたのでしょうか。 主の使命がヨナにとっては重すぎ、また大きすぎ、また嫌ったためにそれに耐えることが出来なかったからでしょうか。主のしもべであるヨナは、主とは違った考えを持っていたのでしょうか。預言者は、主が何を望み、何を成そうとしているかを思い計ることができなかったのでしょうか。 ヨナ書1:1
ヨナに主のみことばが与えられたことがわかります。主のみことばは一つの事実であり、行ないであり、また出来事です。 主のみことばが望んでおられることはヨナに対して行なうこと、ヨナとともに行なうこと。ヨナを通して行なうことでした。 ヨナ書1:2
と主はヨナに命じておられました。 大きな町であるニネベはわざわいでした。主はヨナを立たせて、その町に向かうことを望んだのです。主の怒りが、主のさばきが近づいている。ヨナはそのことを計画し、説教するように急ぐべきでした。 主はニネベを戒めたく思われ、また注意することをも望んでおられました。主は大きな町であるニネベに対して、あわれみを持っておられたのです。 そのときヨナの態度はどうだったでしょうか。近づいて来る神の怒りと滅びゆくニネベの町に対してヨナは全く無関心でした。 主はヨナに「行け。」と命令なさったとき、彼は「はい。行きます。」と答えようとしなかったのです。 彼のはっきりとした態度は、「主よ。嫌です。行きたくない。イスラエルの民のためだったら何でもやる。けれど異邦人のためだったら嫌です。」 主はご自分のしもべを用いたく思われたけれど、そのしもべはそのことが嫌でした。好まなかったのです。「嫌です。」これこそが神のしもべであるヨナの態度でした。 その叫びと招きはわれわれにも向けられています。救いと赦しを与えようと望んでおられる主は招いておられます。 「わたしのために行きなさい。あなたは福音をまだだれも伝えなかった人々に宣べ伝えることを勇気を出してあえて行なうべきです。急げ。警告せよ。叫べ。そして主の御名によってゆけ。主はあなたを用いようと望んでおられます。」と。 けれどヨナは主の御顔を避けて、タルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。 主の御顔を避けて逃げることは危険です。聖書の中で実例があります。アダムとエバの間に初めて生まれた長男、カインという男は全く同じことをやりました。 創世記4:16
とあります。 悪魔について同じようなことが書かれています。ヨブ記の1章12節を見ると次のように書かれています。 ヨブ記1:12
とあります。カインは主の前から去って行きました。悪魔は主の前から出て行った。神のしもべであるヨナも同じことをしてしまったのです。 彼は、タルシシュ行きの船を見つけた。それはヨナにとって、願ったり叶ったりでした。これは主の導きではないでしょうか。主はヨナの逃避を本当に好都合にしておられるのでしょうか。主はご自分のしもべの不従順に対してそれでいいと仰るのでしょうか。 彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、ただではありませんでした。船賃を払ったと書いてあります。この船賃はもちろん高いものだったに違いない。タルシシュまでの距離はニネベまでの距離よりも三倍も遠くでしたから。だから船賃もニネベに行くよりは三倍も高かったに違いない。 このように主の顔を避けると、多くの費用を費やさなければならない。この高い費用を払うということは、決して金銭的な意味だけでなく、安らぎ、平安、喜びなど多くのものをも犠牲にしなければならないほどです。 主の顔を避けるときには、多くの費用を払わなければならないことに注意しなければならない。 ひとつのドイツの歌の内容は次のようなものです。 「主は今日も招いておられます。 心の備えをしなさい。 主の招きを避けようとするのか。 主の顔を避けようとするのか。 失われた者たちのために犠牲を払おうとはしないのか。 もはや本当の喜びを持ちたいとは思わないのでしょうか。 主に対して常に拒み続けるのでしょうか。 主は今日も招いておられます。 心の備えをしなさい。 主はここにおられる。 主に対して従順に『はい。』と言いなさい。 主に自分のわがままの意思を明け渡しなさい。 そうすれば主はあなたの心を静め、主ご自身の平安で満たされるのです。 自分の意思を行なう者は決して神のみこころに安んじることはない。 主はここにおられ、あなたの心からの返事を待っておられる。」 そういう歌なのです。 ヨナは主の御顔を避けて、タルシシュへのがれようとして、立って、ヨッパに下ったと書いてあります。 ヨナ書1章に戻りまして、ここでヨナは船底に降りて行ったとあります。ヨナはヨッパに下り、船底に降りて行った。それゆえ、ヨナがいつも下へ、下へと向かっていることがわかります。 われわれの心の奥底をもっとも揺り動かすものはいったい何なのでしょうか。切に主を第一とし、主にだけ従って行く心構えの出来ていない者は、たちどころに主から引き離され、下へ、下へと落ちて行くのです。 ヨナ書1:4-5
とあります。突然、嵐がやって来た。激しい暴風が起こりました。 この暴風は主によって遣わされたものであり、逃げようとする神のしもべであるヨナを捕えるために成されたものです。水夫たちは非常に驚き、恐れました。大声で叫び、多くの者はひざまずきました。そして彼らは船の積荷を海に投げ捨てた。 人間的に考えるならば、ちょっともったいないのではないでしょうか。けれど、どうせダメだから、と彼らは思ったに違いない。どうして私たちは滅ばなくてはならないのでしょうか。いったいこの原因はどこにあるのでしょうかと、主を知らない異邦人たちは尋ねました。 「これははたして偶然に起こったものなのか。はたして運が悪かったのでしょうか。不幸な出来事にすぎないのでしょうか。いったいだれのせいなのでしょう。私のせいなのでしょうか。」と彼らは口々に叫びましたけれど、ヨナはそのように問いませんでした。 私たちは、困難や病気、その他理解しがたいことが起こった場合には、「いったいなぜか?」、と問うことをするのでしょうか。 あの見知らぬ者はいったいどこにいるのかと彼らはヨナを捜しました。そのときヨナは船底で横になって、ぐっすり寝込んでいました。神のしもべで、預言者であるヨナはぐっすり寝込んでいたのです。 ヨナは使命をもっていたにも関わらず、寝込んでしまいました。多くの人々が危険な状態にあるときにも、神のしもべは眠った。 上では台風が荒れ狂っているときに、ヨナは船底でぐっすり寝込んでいました。 それから6節です。 ヨナ書1:6
ヨナは気が付かず、何にも知らなかったのです。 眠っている者は、聞くことが出来ません。 眠っている者は、見ることも出来ません。 眠っている者は、知りたいと思いません。 ヨナは主の御声を聞こうとはしなかったのです。また、悩み苦しんでいる人々に目を留めようともしなかったのです。なぜなら、彼は主の御顔を避けて、逃げたからです。 私たちはいったいどうなのでしょうか。私たちも主から逃避しているのではないでしょうか。私たちはヨナと同じように眠っているのではないでしょうか。私たちは苦しみ、悩み、困っている状態の中で主の声を聞きたいと思わないのでしょうか。 この船長とはもちろん異邦人でした。まことの神を知らなかったのです。けれど彼が近づいて来て彼に言った。 ヨナ書1:6-7
全てはヨナのせいでした。 水夫たちには何の責任も無かったのでしょうか。水夫たちも同じく罪人ではなかったのでしょうか。水夫たちはヨナよりも罪が軽かったのでしょうか。 もちろん、決してそうではない。けれど、ヨナは預言者であり、主のしもべでした。けれどそれにも関わらず、ヨナは主の御顔を避けて逃げました。それだから、ここに不幸が起こったのです。 水夫たちは、告白せよ。言いなさい。いったいどういうことか、などと口々にヨナに言いました。 これは逃避の最後でした。主から遣わされた嵐は、ヨナをつかまえました。異邦人たちはヨナの告白を迫りました。ヨナはそれ以上、逃げることは出来なくなってしまったのです。逃避は、けれど主の御手の中で終わりました。これこそ恵みではないでしょうか。 いかなる者も主から逃げ切ることは出来ません。主は、引かれたくじによって、ヨナを明るみに出された。 主は、かつて女中の指差しによって、ペテロを明るみに出されました。 主は、預言者であるナアタンを通して、ダビデを明るみに出されました。 主は、天の光を通して、ダマスコに向かうサウロを明るみに出されました。私たちももうすでに明るみに出されたのでしょうか。今日、明るみに出されることを望んでいるのでしょうか。私たちは主によって見つけ出され、明るみに出されることを望むのでしょうか。隠さず告白しようではないでしょうか。 いったいヨナは何を告白したのでしょう。 私は主なる神によって、特別に選ばれた民に属する者です。イスラエル人です。私は全てを造られた栄光の主に出会いました。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝している。礼拝したと言ったほうが正しかったでしょう。 私は滅びゆく人々に対して、さばきが臨む前に警告せよと召された者です。けれど、私たちは神に対して不従順であり、主の御顔を避けて、のがれようとした。これはヨナの正直な告白でした。 ヨナは自分を言い繕うことはせず、全てが自分のせいであることを率直に認めました。 ヨナは主に対して、人間に対して債務を負っていることを認めました。ヨナは、自分が死に値する者であり、死の判決を受け、海の中に投げ込まれることを、よしとしました。 罪の支払う報酬は死です。けれど主は言っておられます。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。彼がその態度を悔い改めて生きることを喜ばないだろうか。」 ヨナはいかに悔い改め、生きるべきだったのでしょうか。 ヨナがいかに悔い改めるかについては、2章を見るとわかります。ちょっと二、三節読みます。 ヨナ書2:1-10
とあります。 ヨナはいったい何を経験したのでしょうか。ヨナは死の谷を通って行きました。主は彼から多くのものを奪い、また多くのものを与えてくださったのです。 いったい何を奪われたのでしょうか。ヨナのわがままの意思、逆らい、目くらであること、自分の力と自信を奪われました。 では、彼から何を奪われなかったかと言いますと、彼の証明と使命こそがそれにほかならない。 では、いったい何が与えられたのでしょうか。彼は主の光によって自分の本当の姿を見ることができ、完全な赦しと恵みにあずかることができたのです。 主に、どうしても従いたい、という意思が与えられ、そのために使命を果たす力を得ることができたのです。ヨナは船から海へ投げ込んでもらい、それによって多くのものを得ることができた。 私たちもヨナと同じように、自分のわがままな意思、逆らい、目くらであること、自分の力と自信を投げ込もうではないでしょうか。 新しく変えられたヨナは、陸地に上がることが赦されました。全く変えられたヨナは、主のみことばをまた聞いたのです。 ヨナ書3:1-2
主のみことばは、今度はヨナによって応えられました。ヨナは主に従い、ニネベに行ったのです。 ニネベは非常に大きな町でした。そこには12万人以上の人々が住んでおりました。「もう四十日すると、全員滅ぼされる。」とヨナは叫びました。主はニネベに対して、無関心ではいませんでした。主はニネベの住民を憐れまれました。 ニネベは取りも直さず、この世の象徴です。この世は非常に大きなものです。何と多くの人々は救われていないし、自分勝手な生活をしてしまっているのでしょうか。けれども主は、このどうしようもない世を愛しておられるお方です。よく知られているヨハネの福音書3章16節に、 ヨハネの福音書3:16
永遠のいのちか、永遠の滅びかのどちらかです。主はそのために、イエス様を死に渡されました。イエス様は、あらゆる人間の罪の報いを受けてくださったのです。 パウロは、テモテへの手紙第IIの1章10節に次のように書いたのです。 テモテへの手紙第II、1:10
と。また、 ローマ人への手紙6:23
とあります。ヨナは、滅びゆくたましいに対する主の大いなる愛を知り、一日中歩き回って、恐れることなく、主のことばを宣べ伝えました。ヨナは町中を歩き回って、大いなる悪がはびこっているのを見、主のさばきのことばを宣べ伝えました。 なぜヨナは恐れなかったのでしょうか。ヨナは死の谷を通って来たからです。自分自身を捨てたからです。全く妥協せず、主に従ったからです。 そのようなしもべを主は、用いたく思っておられます。そのようなしもべを主は、求めておられるのです。そのようなしもべを主は、多くの訓練を通して教育されるのです。死の谷を通って来た者、また自分自身を捨てた者を今日主は、必要としておられるのです。 ヨナはさばきと恵みを宣べ伝えました。「もう四十日すると、滅ぼされる。」とヨナは宣べ伝えたのです。 このみことばのうち、滅ぼされるということは、確かにさばきを意味しています。けれど、「もう四十日すると、」ということばは、恵みを意味しているのではないでしょうか。なぜならば、四十日間の間に罪を悔い改めることができるからです。 今日も恵みの時です。救われようと思う人はみな簡単に救われます。主は罪の赦しを提供しておられるのです。今日、自分の罪を明るみに出し、赦しを受ける者は、もちろん救われます。けれど、恵みの時は限られています。「恵みを受けなさい。」、これこそが喜びの訪れ、すなわち、福音そのものです。 ニネベには何が起こったのでしょうか。ヨナはあざ笑われ、嘲られ、追い出され、殺されたのでしょうか。 3章5節を見ると次のように書かれています。 ヨナ書3:5-9
ニネベには何が起こったのでしょうか。ニネベは罪を悔い改めました。恵みの神に呼ばわれました。ニネベは立ち返りました。さばきに陥ることなく、恵みにあずかることができたのです。 主は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。もちろん、悔い改めの無い信仰は救いに至らない。悔い改めることこそが救われる条件そのものです。 パウロはテモテへの手紙第Iの2章に次のように書いたのです。 テモテへの手紙第I、2:4-6
とあります。私たちは、本当に主が願っておられることを、望んでおられることを理解しているのでしょうか。主は愛と救いを提供したく思っておられます。主は、自分自身を捨て、主の愛によって救いを得させるしもべを求めておられます。 ニネベは、私たちひとりひとりを必要としています。この世は滅びに向かって進んでおります。ニネベは、例えば、ある場合には、あなたの家庭であり、また、ある場合には、あなたの職場であるかもしれない。 主についてのはっきりとした証しを公にすることを恥じてはなりません。 ローマ人への手紙1:16
これは初代教会の兄弟姉妹の告白でした。福音とはもちろん、ひとつの教えではなく、イエス様ご自身です。 ヨナの最後を読むと、ちょっと悲しくなるに違いない。人間とは全く自分勝手な者であることも、よくヨナを通して知ることができます。 ヨナは仕方がなくて主に従うようになりました。そして奇蹟が起こったのです。けれどそれこそがヨナは欲しくなかったのです。ニネベの人々はみな悔い改めないで、みな例外なく滅びるようになったならば、ヨナはかえって喜んだのです。ちょっと・・・ ヨナ書3:10
とあります。 ヨナ書4:1-2
ちゃんと分かりました。 ヨナ書4:3-11
人間とは結局そういう者です。もう、人間のやっていることは、全部的外れです。信ずる者はみな、ある聖書の個所を引用しているのです。よく勉強しているし、考えている。ヨハネの福音書の15章5節です。 けれども、一番信じられないことばとはそれなのです。イエス様は何を言ったかと言いますと、「あなたがた信ずる者は、わたしから離れたら何も出来ません。」 「何も。」、それを本当の意味で信ずる人は、あんまりいないのではないでしょうか。ですから信ずる者のやっていることも、もう的外れです。 ローマ人への手紙13章を通して、パウロは当時の兄弟姉妹を励ますために自分の命令、与えられた使命について考えるために次のように書いたでしょう。 ローマ人への手紙13:11
救い主、再び来られるイエス様が ローマ人への手紙13:11-14
主は、用いられる器を捜しておられます。 イザヤ書6:8
とあります。 主に仕えようと思えば、自分自身を犠牲にしなければあり得ないのです。自己否定のない奉仕とは、自己満足であり、全くむなしい、役に立たない努力です。 確かに多くの人は、主に仕えたいと言いますが、けれど、従おうとしない。結局、自分自身を大切にします。自分の思いを捨てたくない。自分の思っていることは正しいと信じているからです。 自分の思いこそがみこころだと主張する人もいます。だれも反対することが出来ないために、「みことばが与えられた。」と言います。 けれど前に言いましたように、みこころだけを行なおうという意思、また、切なる願いが無ければ、いくらみことばが与えられたと言っても、何もならない。 みこころを行なおうと思えば、わかるようになる。すなわち、その人は導かれるようになり、用いられるようになるに違いない。 |