引用聖句:詩篇81篇1節-16節
聖書とは、人間に与えられている最高の宝物です。どうしてであるかと言いますと、主のことばだからです。 確かに主は、人間を用いたのです。どういう人々が用いられたかと言いますと、聞く耳を持つ人々でしょう。「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」、聞いているだけではなく、従いたい。みことばですから受け入れます。また、宣べ伝えます。 だいたい40人の人々が、この態度をとったから聖書が出来たのです。そして今の読んでもらいました箇所も、確かに人間の書いたものですけど、主の呼びかけです。 10節「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」、主は満たしたいと望んでおられます。けれど、そのために必要なのは、開いた心を持つことなのではないでしょうか。 私たちが、何によって満たされているのでしょうか。我々を動かす力とはいったいどういうものなのでしょうか。私たちの支配者が、誰なのでしょうか。 いわゆるヒューマニズムの立場に立つ人々の考えは、決して聖書的ではない。なぜならば、彼らは人間の心の中に、なかなか良いものがあるという考えが基礎となっているからです。これらの人たちは、人間の環境が改善され、そして人間が自分で努力をするならば、必ずうまく行く。より良いものになることができるという考え方です。 けれども神のみことばである聖書は、全く違うことを言っているのです。すなわち、人間の心は、はなはだしく悪に染まっている。その中に何一つ良いものはないと聖書は言っています。 もうすでに、一番始めての書である創世記の中で、8章21節「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」、人間が罪を犯すから罪人になるのではない。罪人として生まれてくると聖書は言っています。 エレミヤも同じことを書いたのです。 エレミヤ書17:9
すなわち、心はよろずのものよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっていると神のことばは言っているのです。 もちろん聖書だけではなく、イエス様の口から同じ真理が語られました。 マルコの福音書7:21-23
聖書は、内側からと言っているのです。外からではない。そして、人ということばの代わりに人間と言ってもいいじゃないでしょうか。全人類と言ってもいいのではないでしょうか。未信者だけではなくと聖書は言っているのです。これこそが、人間が誰でも心の中に抱いている思いです。 私たちを取り囲んでいる世のもの、つまり週間雑誌やテレビの番組や人々の愛のない結婚生活や、異常な経済的な状況、また未来の低下している政治の時代などを考え合わせてみると、誰でも認めざるを得ない。 すなわち、聖書の指摘している事柄が本当なのです。真実であることを認めざるを得ない。 伝道者の書9:3
エゼキエルという預言者も同じようなことを書いたのであります。 エゼキエル書9:9
これらのことばは、まさに現在の状態に対して語られているのではないでしょうか。 人間の心がいかに悪に染まっているかということを、ちょっと新約聖書から3つの例を引いて考えてみたいと思います。 使徒の働き13章をみると、一人の魔術者がいました。エルマという名を持つ男でした。パウロは、彼について言った んです。 使徒の働き13:10
厳しいことばです。どうして、そう言ったかといいますと、彼は意識して真理に敵対した男でした。真理のみことばの特徴は、ありのままであること、また素直であることです。けど、このエルマという男は、これとちょうど反対に偽りのもの、またよこしまのものと言われています。 2番目の例は、当時ナザレという町に住んでいた人々です。ルカの福音書4章から見てみると解かります。イエス様が、ナザレ、自分の故郷の人々に、もちろん福音を宣べ伝えました。そして、彼らが始めて示した反応は、イエス様を褒め称え、その口から出て来る恵みのことばに驚きましたと書いてあります。 しかし、イエス様が、彼ら自身について、すなわち彼らの悪に満ちた心について、真実をありのままで語られた時から、彼らの反応はいっぺんに変わってしまいました。 ルカの福音書4:22、28-29
ナザレの人々は、ひどく怒り、つまり怒りに満たされ、イエス様を追い出して、それだけではなく殺そうと思ったのです。彼らは、自分自身では敬虔な者であると思い込んでしまいました。安息日ごとに必ず会堂に集い、神のみことばを聞きましたけど、自分自身の心を真っ直ぐに見つめて悔い改めようとする気持ちが、全くなかったのです。 悔い改めたくなければ、いくら信じると言っても嘘です。悔い改めのない信仰は、全く役に立たないものです。その結果、彼らの心を満たしていたものは、主にある喜びではなく、怒りでした。 3番目の例は、使徒の働き5章に出て来る夫婦なんです。アナニヤとサッピラという夫婦であります。 使徒の働き5:3
ここで、「サタンに心を奪われたか」と書かれていますが、原語によれば、ここは「サタンに心を満たされたのか」という意味になっています。アナニヤとサッピラは、初代教会に属する者であり、自分の財産の大部分を捨てて、主に仕えようという気持ちを持っていました。 彼らは、うわべでは自分の持っているものを全部を捧げて、主に仕えてるいるのだという態度を取りました。事実はそうではなかったんです。それゆえ、彼らの心には、サタンがつけこむすきがあったんです。 彼らの心を満たしていたものは、イエス様の真実ではなく、悪魔の偽善でした。それゆえ主なる神の裁きが、直ちに彼らの上に下されました。 私たちもまた、主のことばによって、常に吟味されていなければなりません。我々の言葉と行ないとの間に隔たりがあるのでしょうか。私たちはいったい何によって満たされているのでしょうか。 聖書を読むと、単なる習慣か義務的な気持ちから読むのか、あるいはサムエルのような態度を取るか、すなわちサムエルは、「しもべは聞いております。」、聞く耳がある、「主よ。お語りください。」こういう態度をとって読むと、大いに祝福されます。 主の御前にへりくだり、自分自身は、粉々に砕かれてもかまわないという心の用意があるのでしょうか。 これまで私たちは、主なる神が人間に対して、どのような判断を持っているかについて、ちょっと見てきました。 この事柄を要約することばは、ローマ人への手紙なのではないかと思います。全部、詩篇から取ったことばなんですけど、パウロは集めて次のように書いたのです。 ローマ人への手紙3:10-18
私たちは、本当の意味で主を恐れているのでしょうか。主を恐れないと、祝福がないし、家族、知り合いの人々は導かれない。主の祝福がなければ、平安もないし、喜びもあり得ません。 主に恐れを持つ必要性について、聖書はたくさん言っているのです。一つの有名な箇所は、詩篇111篇10節です。 詩篇111:10
今の世界で求められているのは、頭の良い人たちでしょうね。優秀な人々です。能力のある人々です。金を持つ人々です。 主なる神の求めているのは、全く違う種類の人々です。すなわち、心砕かれ、みことばにおののき、主を恐れている人々です。 主を恐れなければ、もうおしまい。祝福はない。砕かれている心を持たない人は、祝福されない。みことばにおののかない人は、決して祝福されない。主を恐れない人は、何があっても祝福され得ないのです。 主を恐れたアブラハムという男は、告白しました。すばらしい証しです。すごい告白です。短いけど意味のあるものです。「私は、ちり、灰にすぎません。」、ちり、灰を集めても金持ちにならないよ。捨てるべきです。全く役に立たないものです。 アブラハムは、それを言っただけじゃなくて、心からそう思ったんです。捨てられても当然です。けども、この態度をとる者は、決して捨てられません。ちりと灰は、全く価値のないものであり、本当に捨てられるべきものです。捨てられてもいいものですという態度をとる人は、必ず祝福されます。 アサフという詩篇の作者も同じようなことを言ったのです。 詩篇73:22
と彼は告白したのであります。結局、私はどうしようもない者です。主を恐れる兄弟姉妹は、へりくだって、心砕かれた人々です。そしてまた、主の光によって、自分のみじめさと空しさを知るようになった兄弟姉妹です。 今日主は、いったいどういう人々を、必死になって探し求めておられるのでしょうか。イザヤは応えたのです。主の御告げを宣べ伝えたのです。 イザヤ書66:2
主の救いにあずかるようになった人々に、パウロは書いたのです。 ガラテヤ人への手紙5:19-21
とパウロは書いたのです。いうまでもなく、信じる者に書いたことばです。なぜ、まだ滅びに向かう多くの人々が、一度もイエス様のことを聞かないまま歩み続けているのでしょうか。これはみな、我々信じるものの罪のゆえです。私たちが、自分のことを大切にするからなのではないでしょうか。 なぜ、イエス様のからだである我々の兄弟姉妹は、弱く力なく、悪の霊に戦うのに弱いのでしょうか。それも私たちが、自分のことを大切にするからなのではないでしょうか。 なぜ、多くの人は生ぬるく、不熱心で自己満足しているのでしょうか。それもやっぱり、自分のことばかりを求めているのではないでしょうか。 私たちは、主の器となるために、主に仕えるために、主に救われたのではない。したがって、しばしば、我々の内の古き人が、我々を支配し、指導してきたのではないでしょうか。 我々の心の中に浮かぶ願いは、イエス様の目的にかなっているのでしょうか。私たちは、主を見上げ、イエス様にご自分の形を内に形造っていただく我々の思いは、清められているのでしょうか。 パウロは、御霊によって私たちが神と共に働く者であるということが出来たのですが、けど私たちは本当に御用にかなう者なのでしょうか。 イエス様が、ご自分の思うとおりに我々を用いることができるのでしょうか。 それとも我々は、自分の思うことばかりをやっているのでしょうか。コリント人への手紙第Iは、パウロのコリントにいる兄弟姉妹に書いたことばですけども、大切なことばです。 コリント人への手紙第I、6:19-20
とあります。イエス様が我々を値を払って買い取ってくださいました。 ヤコブは、救われた主の恵みを受けた人々に、大変なことばを書いたのです。パウロはだいたい「愛する兄弟」ということばを使ったんです。ヤコブは大変なことばを使った。「貞操のない人たち」 彼らはもちろんイエス様を信じ、イエス様のために生きたいと思った人々ですけども、現実は違いました。 ヤコブの手紙4:4
知らないうちに、神の敵になる可能性が充分あるということです。 主の祝福を得る道とは、いったいどういうものでしょうかね。初めに自分の汚れた様を見て、自らの物足りない様を知り、飢え乾くことが必要です。 何と多くの人々は、自分にではなく、他の人々に不満を投げかけています。批判したり、裁いたりします。他の兄弟姉妹にどんなに不満を持っても、喜んでいるのは悪魔だけです。他の兄弟姉妹を不満に思うのではなく、まず自分自身を物足りなく思わなければならないのではないでしょうか。 我々信じる者として与えられている使命とは、いったい何でしょうか。神の宮であることです。私たちは、自分のものではなく主のものです。 ヨハネは、ヨハネの黙示録の中で、次のように書いたのです。これを読んで終わります。 ヨハネの黙示録2:4
これは一番立派な教会だったんです。エペソにある兄弟姉妹です。 ヨハネの黙示録2:4-5
滅ぶようになるのではないけど、用いられなくなるということです。 |