引用聖句:ヨハネの福音書20章1節
ヨハネの福音書20:11-18
ヨハネの福音書20:24-29
コリント人への手紙第I、15:3-9
集会の雑誌を出す前に、どういう題名を付けるべきなのでしょうかと5、6人の兄弟たちといっしょに相談したわけです。 「主は生きておられる」というものになっちゃったんですけども、ドイツ語だったら、主は生きておられるだけではなく、われわれの主は生きておられる。 誇りをもって、確信をもって、われわれの主は生きておられると心から言うことができればすごいのではないでしょうか。 どうしてこういうことばになったかと言いますと、ある姉妹からきれいなカードをもらったんです。 表に「みことばの扉」と書かれていて、その戸を開けると、中にこのことばが書かれていたのです。「主は生きておられる。」 説明として姉妹は証ししました。私の娘は自殺した時、私はこの事実を体験した。すなわち主は生きておられる。すばらしい証しなのではないでしょうか。 ちょうど先週、世界中の考えられない多くの人々はイエス様の復活をお祝いしました。 私たちはちょっとカナダのバンクーバーにいまして、バンクーバー、アメリカの兄弟姉妹といっしょにお祝いすることができたのです。イエス様のよみがえりとは考えられないほど大切です。 パウロはローマにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。 ローマ人への手紙14:9
救い主になるためだけではなく、主となるためにイエス様は死んで復活なさいました。 またコリントにいる人々にもパウロは同じように書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:15
確かに世界中の人々は、イエス様は自分の罪のために犠牲になり、代わりに死なれたともちろん信じて疑い得ない。 けどもイエス様はどうして死なれたかと言いますと、信ずる者はもはや自分のためではなく、復活なさったイエス様のために生きるためであるとあります。 よみがえりとはいったいどうしてそんなに大切なのでしょうか。イエス様のよみがえりは、イエス様の神性を証明しているからです。 二週間前でしょうか。ひとりのお爺ちゃんはうちまでヘルパーさんに連れて来られました。 彼は、「イエス様はねぇ、処女から生まれたこととは考えられない。信じません。」 確かに考えられない。けど信ずると違うのではないでしょうか。 もちろん私たちは、イエス様を信ずるようになった人々は、イエス様は処女から生まれたからこそ、信じられるのです。 もしそうでなければ、イエス様は超人間であったとしても、すばらしいことを教えたとしても、イエス様の死とはわれわれとまったく関係のないものです。 イエス様は処女から生まれたお方だからこそ、もちろん罪を知らないお方であり、罪を知らないお方だけが救いの道を開くことができるのです。 けどももしイエス様が復活なさらなかったらば、結局全部おしまい。 ですからイエス様のよみがえりこそがイエス様の神性を証明してくれます。イエス様は始めから、始めのない終わりのない神です。 今朝、色々な人と話したんですけど、ひとりの人の名前は、「エンデ」です。ドイツ語のエンデとは終わり。 彼女のご主人は「ハジメ」、名前だけなんですけども。 イエス様は始めのない終わりのない、永遠なる神です。 イエス様は前もってはっきり当時の宗教家たちに、「わたしはよみがえりです。わたしは永遠なる神です。約束された救い主である。」と言われたのです。 そして証拠なるものは、わたしの教えでもないし、わたしのなす奇蹟でもないわたしのよみがえりです。 わたしは三日目によみがえらなければわたしは詐欺師です、大嘘つきです。そういう意味なんです。けどイエス様は復活なさいました。 また、イエス様のよみがえりはイエス様がわれわれの罪を担われた証拠でもあります。 イエス様の死という犠牲がわれわれの罪を贖うのに十分であると父なる神はお認めになったのです。 もうひとつ、イエス様のよみがえりは死に対する勝利を証明しています。イエス様は言われました。 ヨハネの福音書5:24
パウロも喜びをもって書いたのです。 ローマ人への手紙8:1
意味は、安心して死に向かうことができる。死ぬこととは、いつまでも主であり、救い主であるイエス様とひとつになるからです。 私たちにとっても大切なのは、新たにこの復活なさったイエス様との出会いなのではないでしょうか。 今、最後に読みました個所の中でパウロは、イエス様は最後に私に現われたと言って、よみがえりの主イエス様にお会いした喜びを表わしたのです。 パウロはご存知のようにもちろんイエス様のよみがえりを考えられなかったんです。けども彼はイエス様のことを世界一の紹介する者に変えられました。いったいどうしてでしょうか。 理屈で責められ、納得させられたからではない。脅かされて強制されたからでもない。 パウロは復活なさったイエス様に出会いました。彼は別にイエス様を受け入れたよりも監禁され、捕らえられてしまったのです。その後イエス様とは彼にとって、もうすべてのすべてとなりました。 確かに彼は聖書をよく勉強した人でした。けども復活なさったイエス様との出会いによって彼は何をわかったかと言いますと、自分の聖書の知識はまったく役に立たなかった。 生けるまことの神に仕えていると思いながら、悪魔の器にすぎなかったのです。 それから彼は自分の勉強したことを発表する気持ちがなく、私はあなたがたの間に宣べ伝えるのは十字架につけられたイエス様だけであると言ったのです。 この十字架につけられたイエス様とはもちろん復活なさいました。 このコリント人への手紙第Iとは、聖書の中でもっとも大切な書のひとつです。よみがえりの書と呼ばれています。 パウロはこのよみがえりの書を、コリントにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。どうしてでしょうか。 もちろん主にこういうふうに導かれたし、そしてコリントにいる人々とはどうしても復活なさったイエス様を新しく知る必要があったからです。 コリントの信者たちは、もちろんイエス様のことを信じましたし、救いの確信を得るようになったし、われわれの国籍は天国であると心から信じたのです。けども証しにならなかったのです。 ですからパウロは結局あなたがたにとって大切なのは復活なさった、今日も生きておられるイエス様と新しく出会わなければ、証しになり得ないと書いたのです。 ペテロもヤコブもパウロもその他多くのよみがえりの主イエス様に会った人々は、自分の力から解放され、用いられる器になりました。 パウロはコリントの兄弟姉妹にこのよみがえりの主と新しく出会ってもらいたいという気持ちで書いたのです。 復活なさったイエス様に出会った人々について、聖書はいっぱい言っているのです。 この15章の中でもイエス様は500人以上の兄弟たちに現われた。 今までいつも、そうしたらコリント人への手紙第Iの書かれていることによると、イエス様は少なくとも521人の人々に出会ったのです。 けどちょっと計算違うんじゃないかな。兄弟たちと書いてる。兄弟姉妹たちと書いてないよ。 ですから聖書は時々男のことだけ言ってるんです。どうしてかわからない。 イエス様は5,000人の人々を食べさせたとき、5,000人の男と書いてるんです。けどイエス様は特別に男のための集会を設けたはずはない。けども男だけ5,000人であるならば、女性たち、子どもはもっともっと多かったでしょう。 そうすれば何万人になるじゃないでしょうか。ですからイエス様は500人以上の兄弟たちに確かに出会ったけど、姉妹たちもいっぱいいたでしょう。その中の4人だけちょっと選んで考えましょう。 第一番目は、ひとりの女性なんですけど、マグダラのマリヤです。彼女はよみがえりの主にお会いすることによって、何を得たのでしょうか。いうまでもなく、新しい愛です。 彼女は墓から復活なさったイエス様に最初にお目にかかった人です。 イエス様は先に弟子たちに会おうとしなかったのです。弟子たちもそういう気持ちがなかったんです。もうみんな隠れてしまったんです。もう危ないと思ったんです。マリヤはそういう気持ちをもっていなかった。 「捕まえられても、殺されてももういいよ。イエス様なしの生活はもう考えられない。」と思ったのです。だから彼女は一番初めで復活なさったイエス様に出会いました。 結局彼女はイエス様のことを一番愛したのではないでしょうか。イエス様こそが彼女にとってすべてのすべてでした。 彼女はイエス様を一番愛しただけではなく、一番必要だったのではないでしょうか。 イエス様が亡くなられたとき、そんなにがっかりし、失望してしまったからです。マルコの福音書の16章9節に、彼女について次のように書かれてます。 マルコの福音書16:9
とあります。この個所を見ると、彼女はかつてイエス様に7つの悪霊を追い出していただいたことが書かれています。 マリヤは悪霊につかれて、結果として恐ろしい生活をしていたに違いない。 ですからイエス様に悪霊を追い出していただいたとき、彼女が体験した解放もすばらしいものだったに違いない。もうイエス様から離れられない。離れたくないと思ったでしょう。 イエス様に彼女がもってる愛のすべてをささげ尽くしたのは無理もない。イエス様はマリヤのすべてのすべてでした。 イエス様が十字架で亡くなられたときの彼女の悲しみはどんなだったでしょう。もしイエス様がよみがえられなかったら、彼女のイエス様に対する愛はなおさら彼女を絶望に追いやり、悲しみに落とし込んだに違いない。 確かに彼女の愛の対象は決して間違っていなかったのです。神の御子、主イエス様を心から愛し抜いていたからです。けどその愛がもちろん人間の愛でした。人間的な愛から絶望に終わってしまったのです。 現われたイエス様を見たとき、マリヤは喜びのあまりイエス様に抱きつこうとしました。 聖書を読むと、そのときイエス様は彼女に、「わたしに触ってはいかん。」と御声をかけられたことが書かれています。 イエス様はどうしてそのようなことを言われたのでしょうか。マリヤのご自分に対する聖くはあるが、人間の愛を霊の愛に変えなければならないことを教えたかったのです。 のちにイエス様は昇天され、マリヤは霊によってイエス様を愛するようになる備えをなさしめたのです。 もしわれわれの主イエス様に対する愛、また献身がよみがえりの土台の上に立っていなければ、やがてそれらは崩れて、絶望に終わるでしょう。 よみがえりはイエス様に対する新しい愛を与えてくれます。 マリヤの愛は本当にきれいな、聖い愛でしたが、人間の愛です。マリヤのこの愛を少し考えてみると、もちろんすぐわかります。 まず彼女の愛は、イエス様が自分になしてくださった恵みのみわざに応える愛です。感謝の気持ちの表われです。 マリヤは7つの悪霊を追い出していただいたので、感謝の思いからイエス様を愛しました。 二番目に、マリヤが愛した主イエス様は肉体をとっておられたので、目に見えるお方としてのイエス様を愛していたわけです。結局マリヤは、目に見えるイエス様を愛したのです。 最後にこのマリヤの愛は人間的だったから、それゆえに絶望に終わってしまいました。これに対して、彼女は復活なさったイエス様との出会いによって、まったく新しい愛をもつようになりました。 イエス様がなしてくださったわざのために、イエス様を愛したよりも、イエス様ご自身を愛するようになりました。 それから彼女は信仰によって歩むようになりました。 コリント人への手紙第IIの4章を見ると、初代教会の人々の証しが載ってます。 コリント人への手紙第II、4:16-18
最後にこのまったく新しい愛は、たとえ訳がわからないことがあっても、理解に苦しむようなところに置かれても、愛して愛し抜く愛です。 このまったく新しい愛についてパウロは告白したのです。よく知られている個所です。 ローマ人への手紙8:35-38
ただ望んでるんじゃない。確信しています。 ローマ人への手紙8:38-39
主なる神の愛はすべてのものに勝ち得て余りある愛です。 パウロはこの愛について、そのよみがえりの書の前の前の書、コリント人への手紙第Iの13章に書いたのです。 まことの愛とは何でしょうか。コリント人への手紙第Iの13章の4節から。みなさんご存知な個所です。 コリント人への手紙第I、13:4-7
いうまでもなく、この愛の代わりに主イエスといれるべきなのではないでしょうか。人間だってそういう愛を知らないし、もたない。 イエス様が支配権をもつと、もちろんこの愛は働くことができるのです。 マグダラのマリヤは、結局この愛を得るようになりました。 確かに多くの救われた兄弟姉妹は罪の赦しを確信し、主なる神との平和をいただいています。 そして人間的な愛でイエス様を愛しています。生まれながらの賜物と力をもってイエス様に仕えようとしています。 けど信仰生活は止めどもなく上がったり下がったりします。 必要なのは新たにこの・・・ (テープ A面 → B面) イエス様との出会いなのではないでしょうか。 自分の愛する愛はあわれっぽい愛です。傷つきやすい愛です。主の愛は傷ちつきにくいものです。しるしを求めません。 主の愛は信仰によって目に見えないものを望み見て歩みます。私たちが差し迫って必要としている愛は、この新しい主の愛なのではないでしょうか。 復活なさったイエス様との出会いによってマグダラのマリヤはいっぺんに変えられました。 天国行ってから、彼女の生涯はそのあとでどういうものになったか知るようになります。 彼女は必ず死ぬまで、もしかすると殉教の死を遂げたかもしれない。「イエス様は生きておられる!」と宣べ伝えたに違いない。 二番目。よみがえりの主に出会ったペテロについてちょっと考えたいと思います。 ペテロはよみがえりの主との出会いによって何か得たのでしょうか。いうまでもなく、新しい信頼です。 復活なさったイエス様は、結局ペテロのすべてになりました。 もしイエス様がよみがえられなかったら、ペテロはどうなっていたかわからない。おそらく自殺して死んでしまったのではないでしょうか。自分のやったことを絶対に赦され得ないと思ったに違いない。 ご存知のように、このペテロは特にイエス様の近くを歩み、三年半、イエス様に愛されるという特権にあずかり、色々な忠告をイエス様の口から聞くことができたにも関わらず、しかも、私は決してイエスを捨てないと誓ったにも関わらず、ペテロはイエス様を否んでしまいました。 地上でペテロを助ける者はひとりもいない。よみがえりの主イエス様だけがペテロを助けることができたのです。そしてペテロは回復されました。 マルコの福音書16:6-7
とあります。よみがえられた主イエス様は使いに送り、ご自分のよみがえりを弟子たちに告げましたが、特にペテロの名前を挙げて、「イエスはよみがえった。今から弟子たちとペテロとのところへ行って、こう伝えなさい。」と言ってます。 ペテロは主を否んだままイエス様に死なれたので、まったく打ちのめされていました。 もし弟子たちとペテロとペテロの名前を特別に付けて名指しで呼ばれなければ、ペテロは立ち上がれなかったでしょう。 ほかの弟子たちはたぶん、ペテロは主を裏切ったから、もうわれわれの群れには縁のない者だと、ペテロを軽蔑していたかもしれない。 ペテロがイエス様を否んだから、ほかの弟子たちはペテロを指導者として仰ぐことをやめていたかもしれない。 ペテロは間違いなく信頼を失ってしまったのです。もう信頼できない男です。大嘘つきです。このペテロに対する疑いを解くためには、弟子たちとペテロとペテロの名前を特に主は付け加えられていたに違いない。 私たちはペテロのような者なのではないでしょうか。 ペテロはわれわれの間で例外ではなく、当たり前のことのようになっていないのではないでしょうか。 もし私たちがよみがえりの前の土台に立っているなら、何か大きな試みがやって来ると、簡単にイエス様を否んでしまわなければならない。私たちは偽りやすい。自らを信頼することは絶対にできません。 前に決心し、誓っても、自分の決心はいつしか崩れ、裏切るといった結果になってしまいます。 ペテロは指導者となるべき主イエス様から召しを受けました。けど今ペテロはイエス様を否み、イエス様の弟子であるかどうかさえ疑われています。 イエス様のよみがえりはペテロをどん底から救い出しました。ペテロは結局変わった。 ほかの仲間の目にもペテロは見事に立ち直りを見せたのです。 結局彼は主を否むという悲しむべき出来事を通して、自らの真相を知ることができた。主を否んだから、イエス様がよみがえられるまでの三日間は、もう暗やみそのものでした。 パウロも同じようなこと経験したのです。復活なさったイエス様に出会ったパウロは、三日間目くらになったんです。結局、暗やみになってしまったのです。 私たちもイエス様に用いられるためには、ペテロのような体験をしなければならないのではないでしょうか。 私たちは自我に満ちた生活を辞め、主に生きるよみがえりの土台に立たされることができたら本当に幸いです。 よみがえりの主はペテロに現われ、二人で何をお話しになったかもちろんわかりません。天国行ってからその会話を見ることが、聞くことができるのは本当に楽しみです。 言えることは、彼らはその瞬間から変わった。ルカの福音書の24章34節にひと文章だけ書いてあります。 ルカの福音書24:34
と書いてあります。この個所によると言えることは、イエス様はシモン・ペテロと親しくお話しになったことだけはよくわかります。 イエス様とペテロは何を話したか、確かに知ることはないけど、ペテロはそのときから完全に変えられたのです。 復活なさったイエス様こそが彼の喜びの源になりました。彼は火を通されたあと、実に揺るがない者になったのです。多くの人々の信頼を受けるに足る信者になったのです。 彼の書いた手紙、ペテロの手紙第Iとペテロの手紙第IIを読むと、「いやー、イエス様はすごい。」としか言えないのではないでしょうか。 よみがえりの主イエス様はペテロを新しくし、ペテロはイエス様に対する新しい信頼をもち、また多くの人々に信頼される人と造り変えられたのです。 今、私たちが差し迫って必要としてるもののひとつは、その主に対する新しい拠り頼みではないでしょうか。 よみがえりの主に出会った、それによって変えられたトマスについて、もうちょっと考えたいと思います。 トマスというイエス様の弟子は何を言ったかと言いますと、新しい信仰を与えられました。 彼はもともと、確かに疑問に満ちた疑い深い性質の持ち主でした。ヨハネの福音書の20章を見ると、次のように書かれています。 ヨハネの福音書20:24-25
ほかの弟子たちはイエス様のよみがえりを知って、喜び、これを仲間であるトマスに伝えましたけど、彼は頑として信じようとしなかった。このような個人的な疑いは、イエス様に親しくお目にかかるまで解けない。 聖書を読んでいきますと、よみがえりの主は疑い深いトマスのためにわざわざもう一度現われました。 なんという恵み深いお方でしょう。われわれの主イエス様は。 「自分のこの指をイエス様の手と足とわき腹の傷に差してみないうちは、イエス様のよみがえりを信じることができない。」と言っていたトマスは、目の前に現われたイエス様の御姿を拝したとき、指を傷に当てるどころか、ただその場にひれ伏して、イエス様を拝したと聖書は言っているのです。 結局弟子たちとはみんな、なんと言ってもダメでした。 疑い深いトマスがこんなに変えられたのは、驚くべきことです。彼はまことの礼拝者となった。彼の告白はすごいでしょ。「私の主、私の神です。」 トマスはちょっと悪かったでしょう。なぜならば、ほかの弟子たちといっしょにいなかったからです。 ほかの兄弟、弟子たちといっしょにいなかったから、彼は悩み続けました。もしトマスが兄弟たちのところに帰って来ないで、そのまま自分の道を歩んだなら、イエス様に会うことができなかったばかりか、悲しい結果になったかもしれない。 イエス様は確かに、救われた人々のひとりひとりのかしらであると聖書は言ってるんですけど、それだけではない。 イエス様はおもに信ずる者の群れ、すなわちご自分のからだなる教会のかしらであると書いてあります。 ですからイエス様は、兄弟姉妹がともに集まり、御名を賛美してるところにご自分を現わされる場合が多いです。もちろん疑いはそんなにひどく悪いことではないでしょう。 トマスは正直な人間でした。彼はイエス様のよみがえりを考えられなかったし、信ずることができなかったから、自分を偽らずにはっきり、「私は信じません。」とはっきり言ったのです。 多くの人は、信じられないのに、あたかも信じたかのように自分を偽って進みます。トマスはこれらの人たちよりマシだと思います。 私たちはそれぞれ問題をもっています。また、これからもつでしょう。 その中にはよみがえりの主が現われてくださらなければ、どうしても解決できない問題にぶつかることが必ずあります。 そのようなときは、トマスのように心から新しい光を求めましょう。そうすると必ずよみがえりの主が問題を解決してくださいます。 トマスは新しい光を求めて、それを受ける備えをしていました。トマスは主を信ずる仲間にはいって、いっしょに先へ進むことを拒みませんでした。トマスは疑いながらも、交わりに加わっていました。 そしてイエス様がトマスに現れたとき、トマスは主イエス様の御前にひざまずきました。「私の主、また、私の神です。」と。 私たちが一番必要としているもののひとつは、よみがえりの主に新しくお会いし、新しい信仰をいただくことではないでしょうか。 最後に四番目の主に出会った人であるヤコブについてちょっとだけ考えたいと思います。 このヤコブとは、イエス様との出会いによって何を得たかと言いますと、新しい義です。コリント人への手紙第Iの15章の7節。前に読みました箇所なんですけども、次のように書いてあります。 コリント人への手紙第I、15:7
復活なさったイエス様はヤコブに現われたとあります。このヤコブは肉体的にイエス様の弟でした。 後にこのヤコブは義人ヤコブと言われるようになり、エルサレムの教会のひとりの責任者になったんです。 ヤコブの手紙を読むと、彼は正しさ、義を強く主張したのです。 このヤコブは長い間心にもっていた悩みは、本当の義を自分はもっていないで、自分のもってる義は掟の義、自分の義だけだということでした。 彼は生まれ落ちるなり、神の御子である主イエス様を兄としていっしょに暮らしていながら、イエス様を批判し、最後には拒んだのです。 たぶん彼はイエス様が罪人たちといっしょに食事をし、人間によって作られた掟を守らず、安息日を守らないでいたところから、当時のパリサイ人たち、聖書学者たちと同じようにイエス様を拒んだのではないでしょうか。 ヨハネの福音書7:5
と書いてあります。イエス様の前に頭を下げようとしなかった。悔い改めようとしなかった。 「自分は正しい。イエスは間違ってる。」と彼らは思ったのです。 けどもこのイエス様を受け入れなかったヤコブはついにイエス様を受け入れるときがやって来ます。 イエス様は今、十字架の上で苦しんでおられます。苦しみの中からイエス様はひとりの弟子、ヨハネに向かって、「ヨハネよ。見よ。これはあなたの母である。」と言って、ご自分の肉体の母マリヤを弟子に託されました。 続いてお母さんのマリヤに向かって、「女よ。これは汝の子です。」と言って、ヨハネに生涯の面倒を見てもらうように話されました。 イエス様はどうしてご自分の母を、実の弟であるヤコブに託さないで、ヨハネに託したのでしょうか。 たぶんヤコブは初めからイエス様を信じていたお母さんのマリヤと仲が合わず、離れていたからでしょう。 自分を生んでくれた実の母を自分に任せられず、他人の手にゆだねなければならないとは、なんというひどい、悲しいことでしょう。これはおのれを正しいとする罪の結果です。 自分を義とする結果は、いつも悲劇そのものです。当たり前のこの世の人でさえ、信仰のゆえに自分の母を見捨てるなどということはしないでしょう。 けど、自分を義としたヤコブは母を見捨てました。ヤコブはこのようにおのれを正しいとする人間でした。 パウロは、このコリント人への手紙第Iの15章に、よみがえりの主イエス様が、だれとだれとだれに現われたか、順序を追って書いていますが、ヤコブの名前はあとのほうに書かれています。 イエス様は、おのれを正しいとするヤコブより先に、罪人や取税人たちに現われたのです。 けどヤコブの身に、ついに奇蹟が起こりました。ヤコブは、自分を正しいとすることはなんの役にも立たない、むしろ妨げとなることを悟り、イエス様の前に砕かれ、新しい義をいただいたのです。 多くの人々は、おのれを義とし、目くらになり、かつてのヤコブのように悲惨な状態に陥ってます。 よみがえりの主イエス様だけが、自分を義とするところからヤコブを解放することができたのです。 最後にパウロはイエス様が自分にも現われたと言ってるのです。コリント人への手紙第Iの15章の8節。 コリント人への手紙第I、15:8
パウロはよみがえりの主イエス様にお会いして、新しい愛、新しい信頼、新しい信仰、新しい義を受けたのです。 私たちもパウロのように、「そして、最後に、よみがえりの主は私に現われたのです。」と喜びをもって言えるようになったら幸いです。 よみがえりの主イエス様にお会いしたら、私たちの生活は根底から変わります。 イエス様は私たちによみがえりのいのち、またよみがえりの力を与えるために、死からよみがえられたのです。 私たちはコリントの兄弟姉妹がそうであったように、デドモではなく、実際にイエス様の御前にひざまずき、砕かれ、主の備えられたよみがえりの力を受け取りたいものです。 イエス様がもし実際によみがえったなら、イエス様のよみがえりのいのち、またイエス様のよみがえりの力は、われわれのために備えられているのです。 このよみがえりのいのちは、私たちの生まれながらのいのちとまったく性質を異にするものです。 このいのちは、マリヤの内に、またペテロ、トマス、ヤコブ、パウロの内に宿ったいのちであるばかりだけではなく、われわれの内にも宿っておられる主イエス様のよみがえりのいのちです。 イエス様がわれわれにも、マリヤのように新しい愛、ペテロのように新しい信頼、トマスのように新しい信仰、ヤコブのように新しい義とを授けられ、私たちが心からパウロのように、よみがえりの主イエス様は最後に、この私に現われたと喜ぶことができたら本当に幸いと思います。 |