引用聖句:マルコの福音書8章22節-25節
ヨハネの福音書9:25
今、兄弟が言われたように、「私たちの主は生きておられる。」、これこそが私たちの証しであり、喜びの根拠ではないでしょうか。 主は生きておられるから、私たちはどういう状況に置かれていても喜ぶことができるのです。 イエス様の切なる願いとはいったい何なのでしょうか。 今日来られたひとりひとりは喜びに満たされて家へ帰ることができることができるのではないでしょうか。イエス様の話された目的とはいつもそれだけだったのです。 イエス様はおそらく、45分、1時間話しただけではない。おそらくもう何時間も、ときどき朝から晩まで、あるところで3日間話されたのです。 人々は3日間、結局断食をして、食べ物が無くて、けれどもやっぱりイエス様はすごい。イエス様の話を聞いて元気になる。 けれどイエス様は「分かったかい?」と一回も聞いたことがない。分かるかどうか、それは別にどうでもいいです。だからイエス様は、 ヨハネの福音書15:11
結局、喜びに満たされることこそが最も大切ではないでしょうか。 信ずる者は、主を仰ぎ見ると喜ぶことができる。そうすれば周りの人々も心を開くのです。「そんなに悩んでいるのにどうして喜ぶの?」 その意味で信ずる者はちょっとおかしいのではないか。悩んでもいるのに喜んでいる。みことばが与えられているのはそのためではないでしょうか。エレミヤの経験はそうだったのです。 エレミヤ書15:16
理解したのではない。食べてしまった。 エレミヤ書15:16
みことばに頼ると希望が湧いて来ます。前向き生活をすることができます。 バプテスマのヨハネはこの喜びを得たようです。彼の証しとはすばらしい証しです。 ヨハネの福音書3:29
彼はどうして喜びに満たされているかと言いますと、聞く耳を持っていたからです。花婿の声を聞いて私は喜びに満たされている。もちろんその秘訣とは次の節です。 ヨハネの福音書3:30
結局、自分のことを大切にするか主の声だけを聞こうという思いを持つかのどちらかです。 ある若いアイドリンゲンの姉妹会に入っている方が三十数歳で癌になって天に召されました。 多くの賜物を持つ姉妹で、色々な歌も詩も作ったのです。その中のひとつの詩をちょっと紹介したいと思います。祈りであると言ったほうがいいかもしれない。 「主イエスよ。私は心配し、問題を持ち、無力になると、あなたは私にご自分の喜びを用意している。 あなたは愛でもって私のためになされた救いを、信仰によっていただきます。 主イエスよ。あなたはあわれんでくださり、目標をもって私の一生涯を導き、あなたの愛の現われとして、いつも最善をなしていてくださいます。 したがって安心して喜ぶことができます。 あなたは決して私から離れられない。一時的な幸せよりも、まことの救いは私にとって大切です。」 これは大切な告白です。 普通の人間はみな、「一時的な問題が解決されれば...。」、とんでもない話。一時的な問題は確かに必要なのです。そうでなければ助けを求めようとしないし、だれも祈ろうとしないし、結局救われ得ない。 けれどもあの重病人になった姉妹は、「一時的な幸せよりも、まことの救いは私にとって大切です。ですからあなたの御手から今の重荷を受け取ります。あなたの導きを受け入れにくくても、私は確信しています。すなわち、すべてがあなたから来ている。」、すべてを主のせいにすれば楽になる。 「あなたの近くにいてみことばを聞くと、あなたを自分の避けどころ、また助け手としてほめたたえます。 あなたこそが私の人生を豊かなものにしてくださいました。 あなたは私のために大いなるみわざを成されました。 あなたに愛され、そしてあなたの満ち満ちた富から豊かに与えていてくださるから、私もまた愛することができます。 今からあなたの光のうちに歩みたい。 私が何をやっても、主イエスよ、どうか私を祝福してください。 喜ぶことができるために救われ、平安に満たされた者として私は心からあなたをほめたたえます。」 こういうふうに言えることとは聖書の勉強の結果ではない。やっぱりすべての背後に主は支配しておられ、最善だけしか考えられないお方である。 今、兄弟のお読みになりましたマルコの福音書8章について少しだけ考えたいと思いますけれど、題名は「主イエスとの出会いの大切さ」と付けることができるのではないかと思います。 あとで読んでもらいましたヨハネの福音書の9章のみことばも、このマルコの福音書8章に出て来る盲人と同じ告白ではないでしょうか。 ヨハネの福音書9:25
確信する。 ヨハネの福音書9:25
イエス様に出会った人々とは、みんな似ていることを言えるのではないでしょうか。 私はどうしようもない者で、迷える羊で、わがままだっただけではなくて今もそうですし、将来もそうでしょうけれど、知っているのは、イエス様は私の代わりに犠牲になり、良い牧者として導いてくださる。私たちは結局、そういう確信を持つ必要がある。 もちろん確信があっても相変わらずピンと来ない。分からない。説明できない。けれどもみことばを通して私たちは動かされない確信を持つことができる。 この盲人は、結局はっきり分かった。私は盲目であったけれど、今イエス様のおかげで見えるようになりました。 盲人とは本当に気の毒で何にも見えない。イエス様は全部見える。目に見えるものだけではなくて、人間には見えないものをもイエス様が見てくださるのです。 ある意味で、だからイエス様の人生は苦しい人生でした。 前に話したことがあるのですけれど、イエス様の絵を描く人はいっぱいいます。けれど笑っているイエス様の絵を見たことはない。当たり前かもしれない。当然ではないでしょうか。 旧約聖書の中でイエス様は、「悲しみの人」と呼ばれていたのです。けれどイエス様は必ず子どもと一緒に遊んだとき、もう嬉しくて、嬉しくてしょうがなかった。大きな声で一緒に笑ったりしたに違いない。 けれど大人といっしょになったとき、もう悲しくて、悲しくてしょうがない。大人は正直ではない。素直ではない。透き通っていないとイエス様はわかった。 イエス様は人間の外側よりも、やっぱり中のものを見たのです。どういう気持ちを持っているか。いかに疑問しているのか。どういう動機を持っているのか、イエス様は全部見たのです。 このマルコの福音書2章8節で書かれています。イエス様は心の奥底にある思いや感情を見抜かれた。尋ねられなくてもイエス様はよく答えたのです。人間の思っていることをわかったから。 イエス様にとって本当につらかった。けれども盲人は何一つ見ることができない。そのため、もちろん周囲の世界から分けられ、人々と親しく交わることもできないし、まったく孤独な状態に置かれていたのです。 この盲人と主イエス様とは、そのような事情からして、相容れないことは明らかです。 イエス様はいつ、いかなる場合にも決して望みなき状態に陥ることはない。けれどそれに対してこの盲人は光なく、望みのない状態だけしか知らなかったのです。 この両者はお互いに相容れない、正反対の関係にあるにも関わらず、両者はひとつにならなければならない。もしもそうでなければ盲人の人生はまさに悲劇そのものに終わってしまうのです。このようにして主イエス様が盲人に触ること。イエス様と盲人との出会いが大切な問題になってくるわけです。 イエス様は言われました、「わたしは失われた人を捜して救うために来た。」、「わたしは人を納得させるために。」とイエス様は言われなかったのです。 医者を必要とする者は病人です。わたしのことが必要なのは結局困っている人々です。盲人たちです。もう自分の力でどうしようもない者であります。 イエス様の呼びかけとは、いつもすばらしい呼びかけでした。すなわち、「キリスト教に入れ。」ではない。「教会に行け。」ではない。 「わたしのところに来なさい。」、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はおいで。わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 このマルコの福音書8章22節を見ると書かれています。 マルコの福音書8:22
あの人々とはやっぱり良かったのではないでしょうか。彼らは自分のことばっかり考えたのではない。 結局あの盲人はちょっとかわいそう。自分たちで何もできないから、やっぱりイエス様のところに連れて来ただけではなくて、イエスに願った。 おそらく親戚ではなかったかもしれない。他人だったかもしれない。けれども彼らはあの盲人のために祈った。 救われる人々とはみんな、どうして救われたかと言いますと、結局無関心から解放され、自分のために祈った人々の結果ではないでしょうか。結局私たちは人を納得させようと思っても何にもならない。けれど祈ると主は必ず働いてくださいます。 この22節によると、イエス様はベツサイダに来られたことがわかるけれど、イエス様はそのときベツサイダの人たちに食べ物や住まいのことについて用意されることはなさいませんでした。実際、彼らはイエス様に対して全く無関心でした。 30節。あとで見ると、この盲人はもちろんいやされるようになりました。 イエス様がベツサイダに着いたとき、それを歓迎する人はいなかった。だれもイエス様をもてなそうとする者もいなかった。群衆は自分自身の問題や苦しみだけに心を奪われていたのです。 彼らはやろうと思えば出来たことをしなかったのです。彼らはイエス様を喜ばせ、もてなし、心から受け入れることをしなかったのです。そのことはイエス様にとって何という悲しみだったでしょうか。 彼らは自分たちではどうすることもできないものを、全く絶望的に思われるもの、すなわち一人の盲人をイエス様のみもとに連れて来たのです。 彼らはイエス様にとって不可能なことはないということを知っていました。イエス様だったら出来る。病人もイエス様との出会いを経験すれば、いやされると当時の人々はみんな知っていました。 このマルコの福音書を見ると色々な個所があります。 例えば、1章の31節を見ると、イエス様がペテロの姑に触られたとき、熱病はいやされ、熱がひいたと記されています。 1章の41節を見ると、らい病に触られると、らい病は直ちに去って、その人が聖められたと記されています。 5章41節を見ると、もうすでに死んだ12歳のヤイロの娘に触られると、その少女はすぐに起き上がって、歩き出したと記されています。 7章32節を見ると、イエス様が、耳が聞こえず、口のきけない人の耳と舌に触られたとき、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれも解けて、はっきりと話すようになったことが記されています。 9章27節を見ると、悪霊にとりつかれた人の手を取ると、その人は正気に戻ったと書かれています。 このようにイエス様が病人に触られると、病気はすぐに退散してしまうのです。ここでイエス様はこの盲人の手を取りました。 マルコの福音書8:23
お互いに手を取り合うということは、友情の表われであり、手助けをすることの印です。 例えば旧約聖書の列王記第IIを見ると次のように書かれています。10章の15節。 列王記第II、10:15
云々とあります。イエス様はこの盲人の手を取って外に連れ出し、彼を導いて行かれたのです。 詩篇の作者であるアサフは詩篇の73篇に次のように告白したのです。すばらしい証しです。 詩篇73:23-24
このみことばを盲人はイエス様を通して経験しました。 イエス様は、望みなく全く孤独な盲人の手を取って導かれたのです。イエス様は少しも恥じることなく、大胆にそれをなさいました。そのことにとって盲人はイエス様のなさることに全てをゆだねることができたのです。 私たち自身も、そのように全てを主の御手にゆだね、自分勝手なことをすることは赦されません。 イエス様はこの盲人をベツサイダの村の外に連れ出し、群衆から離れたところで二人だけになられました。 なぜならば群衆は彼らのためにイエス様を利用し、イエス様を心の底から受け入れようとはしなかったために、イエス様はこのようにせざるを得なかったのです。 病人だけが医者を必要とするのです。イエス様は病人とだけ、ともにいることを望んでおられました。もちろん、あなただけともいっしょになることを主は心から望んでおられます。 私たちは、愛する者が死んだり、友だちから捨てられたり、病気になったりして、一人寂しくなることがあるけれど、病気その他の問題だけを見て、その背後にイエス様のみこころ、すなわち、イエス様と二人だけになることができる幸いを見失ってはなりません。 イエス様は盲人に触り、尋ねられたりして、誠心誠意、盲人のために愛の限りを尽くされたのです。その結果はどうだったのでしょうか。 初めは何も見えなかった盲人は、イエス様との出会いによって次第に見えるようになり、やがてすべてがはっきりと見えるようになりました。 この盲人は、「イエス様が私をいやしてくださった。イエス様との出会いによって私は根本から新しくされた。」と証ししたのです。イエス様との出会いによってすべてが変わったのです。この人は本当に新しく生まれ変わったのです。 以前はイエス様に対して、全く無関心で、目くらであった者が、今やイエス様こそが生涯の全てとなりました。 今日もなお、イエス様はいやす力を持っておられるお方です。 イエス様の望んでおられるのは、結局私たちがまことの喜び、平安、希望に満たされることです。そのために必要なのは、もちろん心の目が開かれることです。 肉体の目が不自由でなくても、悩みや苦しみによって生きる屍となっている人々がどうして幸せになり得ましょうか。 もし肉体の目が見えなくても、心の目がイエス様に対して開かれている者のほうがどれほど幸せであるかわかりません。 マタイの福音書13章の13節をちょっと見てみましょうか。 マタイの福音書13:13-16
とあります。本当に見ることができる目をもっている人は、罪を悔い改めて新しく変わって、イエス様を信じた人です。心の目が開くということこそ、主の目的です。 イエス様に出会ったパウロの与えられた使命もそういうものでした。使徒の働きの26章18節を見ると次のように書かれています。 使徒の働き26:18
心の目を開かせるということは、イエス様だけがお出来になり、そのことを詩篇の作者も次のように言い表わしています。 一番長い詩篇ですけれども、119篇の18節。 詩篇119:18
彼は別に盲人ではなかった。結局、心の目が開かれなければ悲劇的です。 私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてくださいと、作者は祈ったのです。 ふたりの弟子たちが復活の明日、エマオという所に行く途中でイエス様が彼らの心の目を開いてくださったのです。 ルカの福音書24:16
多くの人々は病気になると病気だと思ってるけど、ちょっと違う、イエスだと思うべきです。 いわゆる不幸とは、偶然に起こるものではない。「イエスだ。イエスのせいだ。」と考えると全然違います。 ルカの福音書24:31
イエスだとわかった時、彼らの人生は変わりました。絶望から喜びに移されたのです。 イエス様とともにいることによって私たちの心の目は開かれます。ほかの弟子たちもこのことを体験しました。 ヨハネはおそらくもう100歳になったとき、ヨハネの手紙第Iの中で次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、1:1-2
それはもちろん主に出会った人々はみな経験しました。 パウロは使徒の働きの中で3回も、詳しくイエス様との出会いについて話したのです。一番有名な個所は9章でしょう。 使徒の働き9:18-20
とあります。 シメオンという老人は救い主が生まれたとき、幼子を胸に抱き、神をほめたたえて言いました。「私の目は今あなたの救いを見たのです。」 信ずる者はだれでも次のように証しをすることができます。「イエス様は私の心の目を開いてくださいました。私はイエス様によって罪を赦され、救いの体験を持たせていただいた。私は考えられなかったほどすばらしい救いを体験した。」と。 パウロはもちろんイエス様を紹介しました。未信者がイエス様を頼ってもらいたい気持ちは強かったでしょう。 けれどもそれだけではない。パウロは未信者を導くために、そんなに力が必要ではなかったのではないでしょうか。イエス様に出会って、せっかく救われた人々はなかなか成長しなかったから、パウロはもう悲しくなった。 よく、「私は困っている。」、「私は悩んでいる。」、「私は苦しんでいる。」と何回も手紙の中で書いたのです。ですからパウロは、おもに救われた人々のために祈ったと言えるのではないでしょうか。 彼のひとつの祈りはエペソ人への手紙1章に書き記されています。 エペソ人への手紙1:18-19
結局、あなたがたの心の目がはっきり見えることができるように、そのためにパウロは日夜祈り続けたのです。もちろんこれはパウロの信ずる者のためにささげられた祈りです。 私たちは救われることとはすごい恵みです。けれども救われるだけでは十分ではない。救われることだけが問題なのではなく、さらにそこから出発して霊的に成長し、主の栄光をよりよく見ることができることが必要です。 どれだけ多くの人々が救われたかということが喜ばしいことはいうまでもないけれど、さらに大切なことは、私たちが主にふさわしく歩むこと、主に用いられることではないでしょうか。すなわちイエス様の花嫁として歩むことです。 初めに引用したバプテスマのヨハネの言ったことばとは、結局彼は、「花婿」「花嫁」ということばを使ったのです。 ヨハネの福音書3:29
またパウロはコリント人への手紙第IIの11章の2節を見ると次のように書いたのです。 彼のおもな目的とは人々の救いだけではなく、救われた人々とは本当に主の花嫁としてふさわしく歩んでもらいたいということでした。 コリント人への手紙第II、11:2
いったいイエス様の花嫁としてふさわしく歩む人とはどういう人々なのでしょうか。 かつて罪の泥沼から救い上げられたという事実を忘れない人。 イエス様の尊い血潮によって罪は洗い清められ、永遠の栄光のために召し出されていることを知っている人。 天におられる花婿であるイエス様の愛を絶対に疑わない人。 いかなるときでもイエス様が私を愛して、決して忘れたり、捨てたりすることがないことを確信している人。 イエス様のために喜んで重荷を負い、迫害されることも恐れない人。 むしろイエス様のための苦しみを受けることが自分の喜びであり、特権であり、賜物であり、誉れであると信ずる人。 イエス様だけを喜ばせ、イエス様に栄光を帰することを心から望んでいる人。 イエス様に対する礼拝のまことなる思いで、常に満たされている人。 すべてのことにおいて、だたイエス様だけにより頼み、絶対的な信頼を持っている人。 また、イエス様無しにイエス様から離れて話したり、考えたり、願ったり、行なったりすることのない人。 常にただイエス様との交わりだけに本当の喜びを持っている人。そのしるしは謙遜。心の純粋さ。自分を考えない愛。喜んでする従順な奉仕などの形で現われてきます。 その人にとってイエス様がすべてを意味している人。 すべて主イエスにあって行ない、主イエスとともに生きる人。 御霊を悲しませることを恐れている人。 もはや自分だけの利益を考えようとしない人。 すべてのもの、すなわち賜物や才能や財産などを主イエス様のためにささげることができる人。 何とかしてイエス様をよりよく知りたいと願う目標を目指して走り抜くことができる人であります。 そのような人をイエス様は許婚とされたのです。私たちの場合はどうなのでしょうか。 私たちはいったいイエス様とどのような関係にあるのでしょうか。イエス様が私たちをご覧になられたとき喜ぶでしょうか。悲しむのでしょうか。 私たちは本当にイエス様と一つになることだけを望んでいるのでしょうか。 最後に、その当時、周囲の状態がいかなるものであったかをちょっと考えてみたいと思います。 なぜイエス様はその盲人をベツサイダから外へ連れ出したのでしょうか。イエス様は宗教的な指導者たちについて、パリサイ人のパンだねを警戒せよ。十分気を付けなさいとマルコの福音書8章の15節に言われたのです。 イエス様は弟子たちがまだ霊的な理解力がなく、心が鈍いことを厳しく咎めました。 マルコの福音書8:17-18
とイエス様は弟子たちに言われたのです。 なぜイエス様はベツサイダをあとにしたのでしょうか。なぜいやしの奇蹟がベツサイダの中で行なわれなかったのでしょうか。 まず第一に、イエス様は先導的なことをすることを嫌われたからです。私たちは聖書によって大いなるみわざが公にではなく、隠れたところで行なわれたことを知っています。 例えば旧約時代の最も偉大なる預言者エリヤは、ひとりのやもめの息子をだれもいないところで生き返らせたとあります。列王記第Iの17章を見ると次のように書かれています。 列王記第I、17:19-22
とあります。 このエリヤの跡継ぎであるエリシャも似ていることを経験しました。エリシャはシュネムの女の子どもをだれもいない部屋で生き返らせたのです。 列王記第II、4:33-35
だれもいないところで主は奇蹟を成してくださった。イエス様は12歳の女の子、ヤイロの娘を少ない人数だけがいる部屋で生き返らせたのです。 マルコの福音書5:40-42
とあります。イエス様の弟子のひとりペテロもヨッパのタビタをだれもいない所で生き返らせたとあります。 イエス様はなぜベツサイダの外へ行かれたのでしょうか。第二の答えとして考えられることは、イエス様は悪や不信仰や悔い改めたくない、頑なな心が支配しているところから身を退かされたからです。 マタイの福音書の11章を見ると次のように書かれています。 マタイの福音書11:20-24
ベツサイダは悔い改めることをしなかった町であり、イエス様を受け入れず拒み続けた町でした。そのためにイエス様はベツサイダに次のように言われました。「わざわいだ。ベツサイダよ。」 ヨハネの黙示録の3章20節に次のように書かれています。 ヨハネの黙示録3:20
ともに食事をすることとは、ただ一緒に食べることよりも親しい交わりを持つことです。 イエス様はラオデキヤの教会、また心の戸の外に立ってたたいておられたのです。自分で出たか、追い出されたかわからない。けれどイエス様は主となることができなければ悲劇的です。あのラオデキヤの教会はイエスのない教会でした。 イエス様が外で戸をたたき続けているにも関わらず中へ招き入れようともせず、無関心でいるならば、そのような人を口から吐き出されると16節に書いてあります。 ヨハネの黙示録3:16
イエス様が盲人をベツサイダの村から外へ連れ出されたとき、盲人は不信仰の村から出ることによって主イエス様により聖められ、いやされ、喜びに満たされた者となったのです。 今日も恵みの時であり、少なからず人が不信仰の時代から外へ出て、イエス様と出会うことにより、すばらしい救いの奇蹟を体験しているのです。 私たちが主イエス様の御手によって触られたとき、霊的な心の目が開き、イエス様を心の目で見ることができるようになり、まったく新しい世界にはいることができるのです。 この盲人がいやされて初めて見たものは何なのでしょうか。イエス様の愛のまなざしです。 彼は今や、イエス様だけが主の主となられたためその結果、その他のことは第二次的なことになってしまったに違いない。 私たちはいったい何を見ているのでしょうか。私たち自身のうちにある悩みや苦しみ、色々な問題ばかりを見て、全く絶望してしまっているのでしょうか、あるいは、イエス様だけを見上げて、感謝の喜びで満たされているのでしょうか。 |