引用聖句:エペソ人への手紙3章16節-21節
まず、ある聖書の日記を紹介いたします。あなたがたの聖書じゃないと思いますけど。聖書は話しています。 1月15日、静かな一週間を過ごした。新年の数日間の晩、私の持ち主は、私を規則正しく読んだ。しかし、今は私を忘れているらしい。 2月2日、今日、整頓された。他の物といっしょに埃を払われた。そして、元の場所に戻された。 2月4日、持ち主が、朝食が終わってから少しの間、用いられた。持ち主は、2、3箇所を読んだ。持ち主といっしょに教会へ行った。 3月7日、整頓され、埃を払われ、元の場所に置かれた。教会に行ってから玄関に置きっぱなしになっていたから。 4月2日、今日は忙しかった。持ち主は司会をやったので、私を読まなければならなかったのである。ちゃんとその場所にあるのに、その聖句を長い間、持ち主は見つけることができなかった。 5月5日、午後いっぱい、おばあちゃんの膝の上にいた。おばあちゃんは、ここを尋ねたのだ。コロサイ人への手紙2章5節から7節を読んで、おばあちゃんは涙を流した。 5月9日、今、毎日午後、おばあちゃんの膝の上にいる。私はそこを居心地良く感じる。おばあちゃんは、しばらく読み、また私に語りかけます。 5月10日、おばあちゃんは出かけた。私は元の場所に戻された。お別れの時、接吻してもらった。 6月3日、今日、誰かが私のページの間に、クローバーの葉を2、3枚はさんだ。 7月1日、着物や他の物といっしょにトランクに詰められた。休みにどこかに出かけるらしい。 7月7日、まだトランクの中にいる。 7月10日、他の物はほとんどみな取り出されたのに、私はまだトランクの中だ。 7月14日、再び家に帰った。元の場所にいる。かなり長い旅行だった。しかし、私は読まれなかったのに、なぜいっしょに行かなければならなかったか理解に苦しむ。 8月8日、ひどく息苦しく暑い。2冊の雑誌と小説が一冊、それに古い帽子が私の上にのっかっている。取り除けたらうれしいのだが。 8月9日、整頓され、埃を払われきちっと置かれた。 8月10日、今日、花子が私を少しの間使った。花子は、お兄さんを亡くした友達に手紙を書いた。それで適当な聖句を用いたのだ。 8月30日、また埃が払われた。 まあ、我々の聖書はちょっと違うものなのではないでしょうか。人間に与えられている最高の宝物は、本当に聖書です。 霊的いのちにも、食べ物が必要です。この霊的な食べ物を私たちはどこで見つけるのでしょうか。聖書すなわち主なる神のみことばの中に、見つけることができます。 聖書は、イエス様を啓示します。そして、イエス様こそが、我々の渇ける魂にとっていのちの糧です。 みことばを読んで、深く考えて心に留めましょう。イエス様を知る者として経験する、難しい問題のおそらく95%は、聖書を読まないからなのではないでしょうか。 聖書を読まない怠慢という罪を主に告白しましょう。もし、私たちが飢え渇きをもって、聖書に接しなければ、また、みことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからといって不思議はありません。 みことばを読まない罪を言いあらわすなら、主は我々にみことばに対する飢え渇きを与えてくださり、また主は、新しい御声をもって私たちに語りかけてくださいます。 申命記17:19
ヨシュア記1:8
御心にかなう人と呼ばれたダビデは告白しました。 一番長い詩篇ですから、読んだらみな途中で寝るでしょうね。2、3節だけ読みます。 詩篇119:72、97、140
今までちょっと「御心を知る道」について考えました。すなわちどうしたら、主の御心を知ることができるのかという、大切なことについて考えました。 結論とは何であるかと言いますと、主の御心は、ただ主の霊によってのみ、御霊の働きによってのみ知ることが出来るということです。 主の御心を知ろうとする者は、御霊に導かれる生活を知っていなければならない。ですから、その前にどうしたら御霊に導かれる生活を送ることができるかと知るべきです。そのために必要なのは、前に言いましたように2つです。 1つは、みことばを聞く備えです。昔のサムエルという子供だったか青年だったかわからないけれども、祈ったんです。「主よ。語ってください、しもべは聞いております。」我々は毎日、祈るべき言葉なのではないでしょうか。みことばを聞く備え。 それから、みことばに従う備えです。ダビデとは、どうして不完全であるのに、御心にかなう人と呼ばれたでしょうか。答えは、詩篇の143篇だと思います。 詩篇143:10
「教えて。導いてください。」この心がまえがあれば、不安から心配から恐れから解放されます。このダビデの祈りは、我々の祈りとなっているのでしょうか。 私たちも、主に喜ばれる者になりたいものです。けれども、主の御心にかなう者になるには、どうしてもダビデのように「教えてください。導いてください。」と祈り続けるべきです。 「あなたのいつくしみ深い霊が、すなわち御霊が、平らな地に私を導いてくださるように。」と心から今日、新たに主の御前に祈りを捧げたいものなのではないでしょうか。 ダビデの主に対する態度は、「主よ。教えてください。導いてください。」という態度でした。このように主の御前に、教えを請うた人々は、計り知れない主の祝福にあずかるようになるに違いない。 天国に届く祈りをしたいならば、結局、御霊の導きが必要です。大切なのは祈りよりも、祈りの前に主の御心を確信することなのではないでしょうか。 聖霊はどうして与えられているかと言いますと、言うまでもなく祈りの霊として与えられています。よく知られている箇所です。ローマ人への手紙8章26節、27節、パウロも自分のことを含めて言ったんです。「私たちだって弱いよ。私たちは解からない者です。」と正直に書いたのです。 ローマ人への手紙8:26-27
御霊は、我々の祈りを導くために与えられています。ですから本当の祈りは、我々を通して祈られる御霊の祈りです。大切なのは、御霊が我々の霊にお語りになり、私たちが主の御心を知って、それを確信して立つことです。 我々を導くことのできるお方は、聖霊だけであり、また御霊と聖書のみことばは、いつも逆らうことなく、その間に一致があります。すなわち御霊は、みことばを我々のために用いて語りかけてくださいます。 私たちは、何か問題にぶつかっている時、御霊は聖書のみことばを取り上げて、それを生かし我々の心に投げ込んでくださいます。内住の御霊が、聖書のみことばを生かして語りかけてくださいます。 導きは、内に住みたもう御霊によってだけ成されることです。そしてこの内住の主の導きは、特定な主の信じる者だけじゃなくて、すべての信じる者に与えられている特権です。 御霊の導きを求める場合、何を考えるべきかと言いますと、まず、すべての物事は主の栄光のためである。ああすれば、こうすれば主は喜ぶのでしょうか。祝福することができるのでしょうかと。 コリント人への手紙第I、10:31
これも、もちろん提案ではなく命令です。 イエス様は、全く御霊に導かれたお方でした。イエス様が間断なく御霊に導かれた秘密は、詩篇に書かれています。 詩篇40:8
この主イエス様の心の持ち方こそ、常に御霊に導かれる秘訣そのものです。ですからこそイエス様は証ししました。 ヨハネの福音書8:29
イエス様は、絶えず「教えてください。導いてください。委ねます。わたしの思いではなく、御心だけが成るように。」と祈り続けたのです。我々の心の態度が、主の御栄を第一にしているならば、主は豊かに導いてくださいます。 今話したように、御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためであるということを知らなければならない。 それから、主の導きは、いつもみことばにのっとっています。これも非常に大切な真理です。御霊の導きは、いつも必ずみことばである聖書に基づいています。したがって聖書の知識は、我々にとって本当に大切なことです。言うまでもなく、救われるためではなく、成長のため、導かれるため、用いられるためです。主のみことばによって、ご自身を啓示なさいます。 イエス様は、パリサイ人に「あなた方は、聖書の中を調べているが、みことばを食べることをせず、いのちを受けようとしない。」と言われました。このことばによると、聖書を読むことと、いのちを得ることは一つのことであり、決して二つのものではありません。 どうしたら御霊の導きが解かるのでしょうか。今話したように、御霊の導きを求めるすべての物事は、主の栄光のためにあるということを知らなければならない。 それから、主の導きは、いつもみことばにのっとっています。いつもみことばに基づいています。 それから、主の導きは、もちろん我々の良心と理性も関係があることを知っておく必要があります。私たちの持っている良心は、主によって与えられているものです。もし、ある問題について、良心が「これは良くない。」と判断したら御霊の導きを待っている必要があります。 行くべき道が解からず、どちらか迷っているような場合、ある一つの道に行くのに平安がなかったら、それに導きを求める必要はない。 もう一つの大切なことは、御霊の導きと主の目的は、決して離すことのできない関係にあるということを考えるべきです。イスラエルの場合を考えると、それがよく解かる。 主なる神は、イスラエル民族をもちろん導いたのです。毎日、毎日40年間。主はこの民をエジプトの国から導いて解放してくださっただけではなく、目的地のカナンをすでにその時のために教えられました。 そして御霊は、イスラエルの民を主のめざすカナンに導かれたのです。カナンは、イエス様の富と満たしを我々に教えてくれます。私達は、御霊に導かれてこの目的地に歩んで行くべき備えられています。 もし、主のご目的が解かり、その目的が我々の生涯の目標となるならば、私達の身辺に起こるすべての物事は、その目的を得るための益となって働くことが解かります。 ローマ人への手紙8:28-29
イエス様の信じる者に対するご計画は、信者一人ひとりが、御子の形に変えられて行くことです。これは実に驚くべきすばらしい計画です。 主の御旨は、コロサイ人への手紙にまとめて現されています。 コロサイ人への手紙1:19
コロサイ人への手紙3:11
さらに進んで大切なことは、御霊の導きは、教会すなわちイエス様に属する信じる者の群れと深い関係があるということです。教会により主なる目的が現され、達成されて行くからです。 旧約時代のイスラエルの民に対して、主の導きは幕屋に現されました。エジプトを出てより、モーセは40日かかって、主より幕屋の構造を詳しく教えられ、御霊に満ちた人々の手によって、主の指図通りに幕屋が出来上がりました。 この時、主は目に見える幕屋の上に霊的な意味を持たせ、それを私達に教えようとなさったのです。この目に見える幕屋に謎られる霊的な幕屋とは、もちろんイエス様とご自分のからだである教会のことです。 イスラエルの民の場合、幕屋と主の導きは深い関係がありました。御霊を象徴する雲の柱、火の柱が上にあがると民は出発し、雲の柱が下るとそこに留まり、導きのままにイスラエルの民は歩んだのです。幕屋の上、雲の柱、火の柱が下りたったように、主イエス様のからだなる教会の上に御霊がお下りになりました。 私達が、主の御心にかなった教会であるならば、主は我々を思いのままに導くことができるのです。 もし、雲の柱によって導かれたあの幕屋がなかったなら、イスラエルの民は約束のカナンの地に入ることができなかったでしょう。これと同じように、私達も教会なしに、主の満たしに至ることができません。他の兄弟姉妹と共に生活しないで、霊の満たしに達することができません。 私達に対して、主の個人的な導きは多かれ少なかれ、いつも主の目的とからだなる教会の関係があります。もし、主の目的であり、御子の内に満ち満ちた徳を宿らせるという事実に、心の目が開かれ、またこの目的を達成するために、教会が道具として存在しているのだということを知ることができるのです。 ちょっと難しくなったかもしれないけれども、解かりやすく言っている言葉をいくつか読んでみます。 コロサイ人への手紙1:9
コロサイ人への手紙2:9-10
コロサイ人への手紙3:11
もう一箇所、エペソ人への手紙。 エペソ人への手紙の内容とは、主にとって教会は何を意味しているのか、主はからだなる教会をいかに大切に望むか、用いようと望むのかについての手紙です。 エペソ人への手紙1:22-23
エペソ人への手紙4:13
このような箇所を見ると、主の御心とは何であるか解かります。 いかなる御霊の導きも、この主の目的に深いつながりがあります。今日の主の関心は、全部この目的の実現にかかっているのであり、我々の病や問題がたちどころに解決されるでしょう。解決されるよりも、その環境を通して、主の御心が我々の内に成されて行くことを願っておられます。 もう一回、ローマ人への手紙8章を見てみましょうか。 ローマ人への手紙8:26-29
最後にもう一つの大切なことをちょっと考えたいと思います。すなわち、心の静けさを持つことの大切さ。 何年か前に、いわゆるリーダースダイジェストの中に、挿絵が出ていました。どういう絵かと言いますと、ライオンが檻の中であばれるように、一人の主を信じる者が、自分の部屋の中を行ったり来たり、忙しそうにしている絵で、そのそばに説明が書いてありました。 誰かが、その信じる者に「どうしてそんなに忙しくしているの?」と尋ねますと、「私は、どうしても解決しなければならない問題があるので、一生懸命だ。しかし、神は暇であんまりのんびりして、急がないらしい。」と言ったと書いてありました。 もし、主の導きがはっきり解からなかったら、主の前に静まり、「我が目を留めて、汝を諭さん。」と言われる主のことばを信じて、待ち望むことです。主から受けて、主に全部まかせることです。悪魔は、いつも急かせます。 主は、いつも余裕を持っておられます。主の前に、すべてありのまま問題を広げてお見せし、静かに主の御声を待ち望むことが大切です。 問題がある時、私達は問題だけを考えて、いろいろと思い煩う時、主の御手が働くゆとりがない。私達は、問題を全部、主におゆだねし、解決を求める時、主は豊かにお応えになるのです。 共に御霊は、我々の霊に確信を与え、「これがあなたの行くべき道である。」と教えてくださるはずです。 主の御前に静まることは大切です。そして、主の御前に静まることは、それがどんな人ごみの中であっても、混んでいる電車の中であっても出来ることです。静まることは、自分の持っている問題を、全部主に明け渡すために必要です。その時、大切なのは私達が、幼子のようになることです。 素直に主にゆだね、主の答えを矯正しないということです。私達は、主のしもべとして、主の御声を聞くことができる特権を持っているのです。一番低い立場である人のしもべでさえ、主人の言いつけを聞く権利を持っていることを考えれば、当然のことです。待ち望みの時にも、もちろん与えられた勤めを、忠実に全うする必要があります。 また主は、いままでの導きに従順に従わなければ、さらにまさる導きに我々を導くことができません。 主の御心を知る方法は、いちがいにこれであるということはできません。 ある時は、周囲に目に見える環境によって導かれます。急に環境が変わり、行くべき道を見失ってしまい、思いがけない所に道が開かれる場合があります。パウロがそうだったんです。 彼は、小アジアに伝道を禁じられ、今度はヨーロッパに遣わされました。 使徒の働き16:6-10
ある時には、友の便りにより、またある時には本により御霊が働いて、私達を導いてくださる場合もあるでしょう。またある場合には、一つのみことばを御霊が取り上げ、これこそ主の御栄を現す道であり、この道を行くべきだと示してくださる場合もあるでしょう。 いかなる方法にしろ、御霊は我々に遂に確信を与えてくださいます。その時、主ご自身の平安が我々の魂を支配し、不安と恐れはすっかり消えてなくなります。 聖書の中で、「キリストの平和」について語ります。有名なコロサイ人への手紙3章15節 コロサイ人への手紙3:15
結局、主イエス様ご自身の平和が、 コロサイ人への手紙3:15
ここでただ一つ言えることは、導きの方法が何であれ、御霊だけが我々を導くことがお出来になるのです。 もし、主の御心を知ることができたら、私たちは、確信を持ってその御心を成すことができます。私たちはこれから、勝利を得るために努める必要はありません。もうすでに主にあって勝利を得ている者ですから、勝利を伝えていきたいものです。 アブラハムは、そのようにしたのです。非常によくまとめている箇所は、ローマ人への手紙4章でしょう。このアブラハムの取った態度について、すばらしいことが書いてあります。 ローマ人への手紙4:18-21
また、イエス様は言われました。 マタイの福音書17:20
最後に、主の導きに対する従順と従順の結果について、ちょっとだけ一言つけ加えて止めます。御霊は、ただ一つの目的をもって我々を導いてくださいます。その目的は、我々にとってイエス様がすべてのすべてとなり、そして私たちがこの主の御姿に変えられて行くことです。 御霊は、限られた視野を持った我々と違って、すべてを見極めて我々を導いてくださいます。霊的な成長は、御霊の導きに従順に従うことによってのみできるのです。従順に従って行く時、さらに豊かに御霊に満たされていきます。 従順に従うことの結果は、我々に特別な賜物を与え、いわゆる幸福の生涯に我々を導くとは限りません。従順に従う者は、御霊が与えられると約束されていますが、聖い御霊の存在は、古き人にとっては、我々の生まれつきの性質にとっては、決してありがたくないのです。 ヨハネは告白しました。「彼は必ず栄え、私は衰える。」古い性質が消え、己を召し謙遜な谷に下ることは、決して楽なことではありません。 御霊に導かれるということは、我々の本来の性質に反することです。本当はあんまりおもしろくない。けれども、御霊に導かれて行く時、自分を義とすること、悪に悟ること、赦しがたい心、人目につきたいこと、これらの醜い性質があらわにされてくることを意味します。 イエス様が、父に従順に従った結果は、孤独になり、誤解され、ついに十字架にかけられるということでした。もし私たちが、御霊に導かれるままに従順に歩むならば、イエス様がまた使徒たちが、また多くの聖徒たちと同じように苦しみに会うことでしょう。 イエス様は、十字架の前に祈りました。イエス様の最も有名な祈りは、ヨハネの福音書17章に書かれています。 ヨハネの福音書17:14
ヨハネの福音書17:24
また昇天された後、イエス様は天より御声をかけて、次のように言われました。 ヨハネの黙示録3:21
もし御霊が我々を導いて、私たちがパウロと同じように「私たちは、キリストの思いを持っている。」と心から言えるようになったら本当に幸いと思います。 パウロは、コリントの人々に書いたのです。「いったい誰が主の御心を知り、主を導くことができたか。ところが、私たちにはキリストの心があるのです。」このように言えるようになったら、もちろん御霊は、さらに我々を導いて、御座にいますイエス様の元に導いてくださるに違いない。 コリント人への手紙第I、2:16
|