主を恐れるとは?


ベック兄

(レトロテープ聞き取り)

引用聖句:詩篇128篇1節、4節
1幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。
4見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

一昨日の晩、夜遅かったんですけど、一つの地方の集会から電話があったんです。一人の姉妹はこう言われました。
「主人は、全然主を恐れていません。家へ帰ると大きな声を出したりして、子供はみな泣いています。恐ろしくて、誰が何と言っても聞く耳がない。」
姉妹は正しい結論を出したのです、祈りしかないね。ご主人は疑いもなくイエス様を信じてますし、しかし自分にとって主は本当の意味での主ではありません。自分の自我が主です。すなわち自分の考えてること、自分の思ってることは、正しいと思い込んでしまってるからです。
主を恐れないと祝福がないし、家族はバラバラになるし、平安も、真の喜びもあり得ません。

今読みました個所は本当に大切な素晴らしい個所です。
パウロは当時のキリスト者に次のように書いたことがあります。私たち全てのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子と一緒に全てのものを私たちに恵んでくださらないことがことがありましょう。イエス様と一緒に本当に全てが与えられてる。
礼拝の時、私たちはもちろん主のなさった御救いについて考え、主を賛美せざるを得なくなります。結局イエス様は私たちの代わりに死なれたことは考えられない、ピンとこない事実です。そのために私たちは永遠に渡って主を礼拝せざるを得なくなります。

昔、創世記のヤコブは次のように祈ったことがあります。御心に適う祈りでした。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ、」このヤコブとは確かに大嘘つきで、詐欺師で、財産、富を得ることによって幸せになると思い込んでしまったんです。
ある意味で彼は成功しました。けども彼は壁にぶつかって、今のように降参してしまったんです。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」
この世で求める人とは、確かに頭のいい人とか、賢い人とか、優秀な人とか、魅力的な人、金を持つ人、権力を持つ人なのではないでしょうか。しかし主なる神の求めてるのは、心を砕かれ、みことばにおののき、主を恐れている人々です。

昨夜、ある兄弟は一つのポスターの宣伝文句について、ちょっと話されたんです。すなわち「人間はだまされやすい」、確かにそうなんです。私たちはひどくだまされてしまったんです。けどもだまされた結果は、いままでよりも主を恐れるようになれば、祝福に変えられるようになります。
初代教会の中でも、そういう詐欺師がいたのであり、この嘘は明らかにされた時、初代教会の人々は主を恐れるようになった。前よりもへりくだって主を恐れるようになったと書いてあります。
そして主は毎日、信ずる者に人を加えたのでありますと書いてあります。

人間はだまされやすい。主なる神はだまされません。砕かれている心を持たない人は祝福されません。みことばにおののかない人は祝福され得ません。主を恐れない人は、いくら頑張っても何にもなりません。ソロモン王は箴言に次のように書いたのです。

箴言10:22
22主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。

われわれにとって必要なのは、結局主のOK、主の祝福だけなのではないでしょうか。主の祝福を受ける人々とは詩篇128篇1節、4節によると次のような人々です。

詩篇128篇1節、4節
1幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。
4見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

とあります。本当に主を恐れることこそが、考えられないほど大切です。
もしあの兄弟は主を恐れてる、向こうの姉妹は主を恐れているということができれば、素晴らしいなのではないでしょうか。
「主を恐れることは知恵の始めである。」と詩篇111篇11節に書かれています。

主なる神を、本当の意味で恐れた人々の証とは次のようなものでしょう。
信仰の父と呼ばれ、神の友とまで呼ばれたアブラハムは「私は塵、灰にすぎません。」と告白したのです。
ヨブは「私は自ら恨み、塵、灰の中で悔います。」と叫んだのです。
アサフという詩篇の作者は「私は愚かで、悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。」と告白したのであります。
ダビデは心の底から叫んだんです。「主よ。私はあなたに対して罪を犯した。」と。
イザヤは「わざわいなるかな私は滅びるばかりだ、私は汚れた唇の者だ。」と告白したのです。
イエス様の弟子の一人でありますペテロは、「主よ。私から離れてください。私は、罪深い者であるからです。」と、主なる神の前をへりくだること、主を恐れる人はへりくだって、心砕かれた人です。そして、また主の光によって自分のみじめさ、むなしさを知るようになった人です。

主なる神はどういう人々を探し求めてるなのでありましょうか?前に話したように心を砕かれた人々です。またみことばの前に恐れおののく者です。

イザヤ書66:2
2主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

とあります。何年か前に鹿児島の姶良である姉妹と出会ったんです。そのときまだ姉妹でなかったんです。ご主人亡くされ、会社は倒産してしまって、本当に子供三人と一人ぽっちになってしまったのです。
集会終わって、どうして聞いたかわからないけど、彼女は「主を恐れることとは何ですか?」
彼女は次の日に初めて悔い改めてイエス様信ずるようになり、喜びに満たされ、「私は今日、初めて幸いの子になった。」と言うようになったのです。結局彼女はどうしてかわからないけど、やっぱり主を恐れることが大切だと感じたようです。

主を恐れることとは、いったい何なのでしょうか?大切な質問です。3つのこと言えると思うんです。

第一番目は、主を個人的に知ることです。
第二番目は、主を喜ばせたいと願うことです。
第三番目は、全てを主に捧げることです。

結局主を知るようになった人は、主を喜ばせたいと思うようになり、主を喜ばせたいと思う人は喜んで全てを捧げるようになります。
まず主を知るための必要条件とは、いったい何なのでありましょうか?自分がいのちの泉であられる神、喜びの泉であられる神から離れてる者である、わがままである、罪の中に失われていることを認めることです。
主の判断は、全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている。義人はいない一人もいない。善を行なう人はいません、一人もいない。
それから、自分は自分で自分を救うことができないことを認めなければならない。いわゆるよい生活をすることによっては決して救われ得ません。主を知ることができません。ただ一人のお方が救うことができる。すなわち人間の代わりに救いの代価を支払われた主イエス様です。

ペテロはペテロの手紙第Iの3章18節に次のように書いたのです。ちょっと開いちゃいましょうか。イエス様の死なれた目的について、かつての魚を獲る漁師ペテロは次のように書いたのです。

ペテロの手紙第I、3:18
18キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

イエス様の代わりの死とは、私たちを神のみもとに導くための手段だったのです。神のみもとに導かれた人々こそが主を知り、救いに預かった者です。そういう人々だけが、主を恐れることができ、それによって人間を恐れる恐れから解放され、死を恐れる不安から解放され、あらゆる重荷から解放されます。主を知ることとは罪より救われ、地獄より救われ、天国が保証されてることを意味します。
イエス様の呼び掛けとは、「誰でも重荷を負っている者は、私のもとに来なさい。私はあなたがたを休ませてあげます。」この主の呼び掛けに応じて、主のみもとに行く人は、もちろん主を知るようになり、そして自分のわがままは赦されてると確信するようになります。私は霊的な死から永遠のいのちに移されてると確信するようになります。
初代教会の人々は確かに多くの聖書の知識を持っていなかったでしょうけど、彼らは私たちの罪は赦されている、われわれの国籍は天国であると喜びをもって証をすることができたのです。主を知ることこそが大切です。

次に主を喜ばせたいと切に望むことも要求されてます。過ぎ去った木曜日だったんですけども、伊那で昨年天に召された兄弟の記念会がありまして、家族、親戚、近所の人々、大勢集まって本当に祝福された集いだったのです。
あの家族は結局みんな次々と導かれ、イエス様知るようになったのです。そのきっかけになったのは一番上の娘である姉妹だったんです。32歳で天に召された姉妹です。本当に集会の宝物だったと言ってもいいでしょう。
この間、武蔵野市民会館で喜びのコンサートの時、その姉妹の証しを、みんなにテープを通して聞かせたんです。本読むと素晴らしいとみんな思うんですけど、彼女のこと知っていた人々は生の声聞くことによって、やっぱり主は素晴らしいとしか言えません。
けどもあの姉妹は証しした後で、裏の方に出て、ちょうど偶然であったかわかんないけど姉妹であったんです。彼女はいつも喜びに満たされた姉妹だったんです。けどもそのとき、全然喜びの顔がなかったんです。心配そうに聞いたんです。「どう今の証し、イエス様は喜んでたでしょうか?」、それだけ彼女の心配の種だったんです。
結局もう長くない、何ヶ月以内、必ず天に召されるとわかったんです。けれども彼女の心配は残されなければならない家族ではない、イエス様は喜んでたでしょうか?私は信ずる、けどもイエス様喜ばせたくないという人の信仰はもちろんおかしい。

今朝洗礼を受けた姉妹、10歳なんですけど、彼女はイエス様について話すといつも言うんです。「私はイエス様のこと大好き。」心からそう言ってるんですね。目を見るとわかる。結局そういう人々は大切なんです。
ふむ、私も信ずる、それは無意味だよ。やっぱりイエス様のことを本当に慕うことこそが大切です。主に喜ばせたいという願いがなければ、われわれの信仰は根本的に間違ってるんです。
おそらく単なる頭の知識なのではないでしょうか。イエス様を信ずるようになったとしても、主を喜ばせようとする自分の努力は、すべて敗北から敗北へと至る結果だけです。主が喜んでくださるのは、ただイエス様だけです。大切なことは、ただイエス様と結びついてることです。結びついていればすべては変ります。実を結ぶことが見られます。

自分の努力ではなく、うちにあられるイエス様こそ、祝福のみなもとであり、実を結ぶ秘訣です。
確かにいろいろな生き方があるでしょう。たとえば自分自身を喜ばせる生き方があります。あるいは人間だけを喜ばせる生き方もあるでしょう。それから主を喜ばせる生き方です。
多くの人々の特徴は、自分、自分、自分だけのことを考えることです。だからうまくいくはずはない。イエス様は自分自身を喜ばせるようとはなさらなかったと聖書は言ってます。結局、自分自身を喜ばせることとは単なる自己満足にすぎません。自分の喜ばせている何かの役割を演じたいと思うこと、自分自身に同情することとは、不幸せの原因なのではないでしょうか。

人間を喜ばせようとする人は、間違いなく知らないうちに人間の奴隷になります。内面的に不自由になり、神経を使ったりします。それによって不幸になり失望します。
主を恐れたことのない人は、はっきりした心の支えをもちろん持っていませんし、自分のことばかり考える者であり、そして他の人のために本当の意味で心配することができません。
「主よ。あなたに喜んでいただけることこそ、私にとって全ての全てである。」この態度があれば大いに祝福されます。それによって、人間の判断から解放されますし、隣人に対する行動は正しい者となりますし、自分自身のために生きるのではなく、他の人のために生きたいと思うようになります。
主を恐れることとは、いったい何なのでしょう?今話したように、第1番目は主を個人的に知ることです。第2番目は、主に喜ばせたいと切に願うことです。

最後に第3番目は、主に全てを捧げることです。創世記の22章、アブラハムの経験についての大切な個所です。
アブラハムとは前に話したように信仰の父と呼ばれた方であり、主の友だちと呼ばれた者である。どうしてでしょうか?彼は主を恐れたからです。

創世記22:2
2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

結局イサクを殺せと言うことです。

創世記22:5
5それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、

子どもを殺すのではない、礼拝をして

創世記22:5
5あなたがたのところに戻って来る。」と言った。

創世記22:12
12今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

とあります。主なる神はアブラハムにあなたの愛されてるひとり子であるイサクを、いけにえとして捧げなさいと言われた時、アブラハムは「主よ。どういうこと、どうして、なぜ息子を殺さなければならないのか?もし、息子が死んだならば、あなたの約束は反古になり、何の価値もなくなるのではないか。」と言ったのではない。つぶやいたのではない。
どうしてでしょうか?彼は、一番大切なことわかったからです。主なる神は本当の礼拝を求めておられる。礼拝することとは、捧げることです。捧げることとは主を恐れる結果であると。
主の祝福を受ける人々とは主を恐れる人々です。ですから作者は、「幸いなことよ。すべて主を恐れる者は、」もう一つ書かれていますね。「幸いなことよ。主の道を歩む者は、」生れつき主の道を、もちろん歩む者はいないでしょう。

生れつきの人間について、エペソ人への手紙2章にまとめて次のように書かれています。

エペソ人への手紙2:1-5
1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

主の道を歩むとはいったい何なんでしょうか?3つのこと言えます。

第1番目は、光の中を歩むことです。隠すものは成功しません。主は人間の心を見てくださり、動機を大切にするお方です。ヨハネの手紙第I、1章に次のように書かれています。

ヨハネの手紙第I、1:7
7もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

主の道を歩むこことは光の中を歩むことです。聖書の約束とは非常に素晴らしい約束です。けど考えられない恐ろしい約束もあります。自分の罪を隠すものは成功しないとは一つなんです。
頭下げたくない人は、正直になりたくない人は大変です。恐ろしくて光の中を歩むことが秘訣です。

第2番目は、真理に歩むことも要求されています。

ヨハネの手紙第III、1:4
4私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。

そうでなければ、もう悲しくて、悲しくてしょうがない。

第3番目は、主の道を歩むこととは信仰によって歩むことです。この目に見える現実に支配・・・

(テープ A面 → B面)

・・・章8節に次のように書かれてます。今の時代のためにもっとも大切な言葉でしょう。

コリント人への手紙第II、5:7
7確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

この態度とると祝福されます。見えるところによってではなく、信仰によって歩むことこそが大切です。主の道を歩むことこそが幸せの秘訣です。

自分勝手な道歩む者は束縛され不自由になり、間違いなく不幸になります。しかし主の道を歩む人は、必ず祝福されるから幸せです。ですから光の中を歩みましょう。真理に歩みましょう。信仰によって歩みましょう。決して後悔しないからです。
人間は確かにだまされやすいけど、主はだまされません。主を恐れると、主の道歩むと大いに祝福されます。結局われわれにとって必要なのは主の祝福だけなんです。私たちは主の祝福受ける時全てのものを持つようになるからです。すなわち心は満たされ、喜びをもって、平安をもって、生き生きとした希望を持って、毎日過ごすことができるようになるからです。

昨日、一昨日、ひと夫婦が見えたんです。一昨日でしたかね。土浦に住んでる夫婦なんですけども。今まで全部スムーズにいったし、別に問題なにもなかったんですけど、今47歳なんですけども、リンパ線のガンが発見されるようになり、それから彼は心開くようになったのです。
奥様は今回初めて見えましたし、彼は素直にイエス様の御名を呼び求めるようになったのです。帰る時挨拶をして、彼は私に何て言ったかといいますと、「病気になったのはよかった。」、結局それを通して彼もやっぱり主を恐れるようになり、そしてイエス様こそが、本当の平安、本当の満足を与えるお方であることを体験的に知るようになったのです。
主の求めておられるのは、心を砕かれた人々であり、主のみことばの前におののく兄弟姉妹であり、本当に主を恐れる人々です。




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