引用聖句:ルカの福音書2章10-11節
クリスマスのとき、多くの人々は贈る物について色々と語り合い、話し合うものです。大人だけではなく子どもも。金持ちだけではなく貧乏人も買物について色々なこと考えます。 もちろん主なる神も、人間に贈り物をしようとしておられるお方です。そして主なる神は、コセコセしたことや、ケチケチしたことを知らない方です。 主なる神は、自分の最愛なる御ひとり子であるイエス様を与えられたのです。ヨハネの福音書3章の16節に、「神は、そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信ずる者が、ひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」 これこそ最高の贈り物ではないでしょうか。滅びないで、永遠のいのちを得ること。ですから今読んでいただいたように、クリスマスの晩、御使いは次のように宣言したのです。 ルカの福音書2:10-11
「すばらしい喜びをあなたに。」、これこそがクリスマスのメッセージそのものです。 「見よ。大きな喜び。」・・・主なるキリストでもいいでしょう。この喜びの根拠なるものは、もちろんイエス様ご自身であり、イエス様はこの世に来られただけではなく、イエス様は犠牲になり、救いの代価を払ってくださり、そしてイエス様はあらゆる人間に罪の赦し、永遠のいのちを提供していてくださる方です。 この10節、11節を見ると言えることは、本当のクリスマスは大きな喜びと結び付いています。そして人間は大きな喜びの必要性を感じてるのではないでしょうか。 喜びがなければ、人生はまったく重苦しいものになってしまいます。喜びがなければ人生は退屈なものになってしまいます。 「すばらしい喜びをあなたに。」、これこそが天の使いの宣べ伝えたメッセージだったのであります。そしてイエス様はこの世に来られたとき次のように言われたのです。 ヨハネの福音書15:11
イエス様は、どうして色々なことを話されたかと言いますと、一つの教えを与えるためではなかったのです。われわれは頭の知識を持つためではなかったのです。 私たちがイエス様ご自身の喜びをもつためであると聖書は言っています。考えられないことですけど事実です。 問題は、いかにして私たちはこのすばらしい喜びを、自分のものにすることができるかということではないかと思います。三つのこと言います。 ・第一番目は、もちろん主との出会いによって主を体験的に知ることによってです。 ・第二番目は、心のふるさとに帰ることによってです。そして、 ・第三番目は、イエス様に信頼することによってです。 まず第一番目に、私たちはいかにして、提供されてるすばらしい喜びを自分のものにすることができるかと言いますと、主との出会いによって、主を知ることによってです。 主との出会いが、本当の喜びをもたらしてくれます。ヨハネの福音書の3章の中で、このすばらしい喜びを体験的に知るようになった人の証しが書き記されています。 日曜日も、ちょっとバプテスマのヨハネについて話し合ったんですけれども、ヨハネはイエス様に出会ったんですし、そしてイエス様との出会いによってイエス様を知るようになったのです。 彼の告白とは、「もちろんイエス様は力あるお方です。イエス・キリストは普通の人間と比べられない方です。キリストは罪を赦すことができる方であり、救いの神そのもの」と彼は告白したのです。 ヨハネの福音書3:27-30
バプテスマのヨハネという人は、イエス様に出会ったのです。イエス様を体験的に知る者となったのです。彼は次のように叫んだのです。 「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」、すなわちヨハネも、「イエス・キリストは私の罪を取り除かれた、救いの神である。」と体験的に知るようになり、告白するようになったのです。 結果は、私は大いに喜びます、私の喜びは満たされている、この喜びは満ち足りていると彼は言うことができたのです。ヨハネは余すところなく喜びに満ち足りて、本当の幸せを得ることができたのです。 すなわちイエス様は単なる飾りではなく、まことにすべてのすべてだったのです。ですから彼は30節に、あの方は盛んになり私は衰えなければならない。私は全然大切ではありません。私は殺されたとしても構わない。イエス様が盛んになれば、イエス様が中心になれば、イエス様はすべての栄光と誉れを受けるようになれば、私は嬉しくて嬉しくてしょうがない。 これこそが、このヨハネの証しだったのです。 そしてご存知のように、彼はそう思っただけではなく、喜びをもって、殉教の死を遂げるようになったのです。彼はイエス様を大事にすることによって憎まれるようになり、殺されるようになったのです。 しかし彼は本当の喜びを持つ者だったのです。なぜならば、主と出会ったからです。 福音書の中でイエス様に出会った人々の実例はいっぱい出てきますけれども、ちょっと思い出したのは、マルコの福音書に出て来る、ペテロの義理のお母さんです。 マルコの福音書1:30-31
と書いてあります。ここで書いてませんけど、彼女の気持ちはどういう気持ちであったかと言いますと、私は死の病である熱病に取りつかれて、苦しんでいた。しかしイエスが近寄り、その手を取って起こされると、熱がひいた。大いなる喜びは、そのとき私の心にいっぱいになったということです。 彼女の病気は、ちょっとだけの風邪ではなかったでしょう。なぜならば周りの人々はみな、イエス様のところに飛んでいって、イエス様来るように頼んだからです。 おそらく、もう駄目じゃないかと心配したのではないかと思うんです。けどもイエス様との出会いによって、彼女は瞬間的にいやされただけではなく、間違いなく喜びに満たされたのです。 イエス様は非常にあわれな彼女の姿を見たとき、心からあわれみの気持ちを抱かれたのであります。そのためイエス様は彼女の心を喜びで満たしてくださったのです。 この世の中では、人間的に見ると非常に不幸な人々が大勢います。そして彼らは口をそろえて言います。「私ほど不幸な者はない。」「誰も私を愛してくれない。」「私は孤独です。」と。 けど、本当はこのようなことを言ってはならないのであり、また、言う必要はないなのです。なぜならば、そのような人たちのためにイエス様がこの世に来られたからです。 イエス様を知ると、今まで知らなかった世界を知るようになり、まことの喜びをもつことができるようになります。 もちろん聖書を通して提供されてる喜びとは、普通の喜びとまったく違うものなんです。聖書を通して提供されてる喜びとは、苦しみながら、泣きながら、重荷を感じながら喜ぶことができる喜びです。 だから何があってもイエス様を仰ぎ見ることができ、感謝することができるのです。 「すばらしい喜びをあなたに。」、いかにしてこの喜びを自分のものにすることができるかと言いますと、イエス様との出会いによって、イエス様を知ることによってです。 第二番目は、心のふるさとに帰ることによってです。 前にも何回も言いましたように、「不幸」というドイツ語の言葉の意味は、「心のふるさとに帰るための道しるべ」という意味なんです。非常にいい言葉じゃないかと思うんですね。 不幸とは、幸せになるための手段であるべきです。不幸を知らない人は気の毒。なぜならば本当の意味で絶対に幸せにならないからです。 心のふるさとに帰ることによって、本当の喜びが与えられます。 マルコの福音書1:23-26
と書いてあります。 この汚れた霊につかれた人は、完全に悪魔のとりこになっていたのです。悪魔の手の中にあったのです。すなわちこの人は、初めから人殺しと呼ばれた悪魔のとりこになってしまったから、本当に不幸な者だったのです。 すなわち彼は盲目になり、とりこになり、そのため絶えず何かに怯え、恐れ、おののいていたのです。 悪魔の奴隷となっていたこの人は、心のふるさとに帰ることによって、初めて本当の喜びをもつことができたのはもちろん当然です。 イエス様はこの人をあらゆる束縛から完全に解放してくださったのです。このことはその人にとって、いかなることを意味したのでありましょうか。いかなる喜びがその人の心にいっぱいになったのでありましょうか。 汚れた霊につかれた者は完全に自由になり、イエス様に仕えることができるようになったのです。イエス様を知ることは彼にとって心のふるさとに帰ることだったのであります。 イエス様を知ることによって彼の人生そのものはもちろん変えられたのです。イエス様によって与えられた新しいいのちを、主なるイエス様にささげたいという喜びも湧いてきたことでありましょう。それから、 マルコの福音書1:40-42
と書いてあります。 このらい病人も、イエス様を知ることによって、イエス様との出会いによって、心のふるさとに帰るようになったとはっきり言えるのです。 その当時、らい病ほど恐ろしい病気はなかったようです。らい病人ほど悲惨な人間はいなかったのです。らい病人たちはすべてのものから隔離されて生活しなければなりませんでした。 今までいっしょに生活した家族や友人、その他あらゆる者から隔離されなければならなかったのです。 イエス様と出会ったらい病人は、イエス様を見たときに非常に大きな印象を受けたでしょう。彼はイエス様が何でもできるということ、たとえ彼のらい病であっても、それをいやすことができることを知っていました。 イエス様にとって不可能なことはないという事実を知ることは、本当にすばらしいことです。 そのらい病人は、イエス様がらい病をいやしてくださる意思をもっておられるかどうか心配だったので、恐る恐るイエス様に尋ねたのです。「御心でしたらきよめていただけるのですが、いかがでしょうか。」 そのときイエス様は、彼を深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわられたのです。 モーセの律法によると、いかなる人間もらい病人にさわることは許されていなかったんです。けども聖なる神の御子であられるイエス様はそれにも関わらず、汚れたらい病人にさわられたのです。 そしてイエス様は「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われたのです。このイエス様のことばを聞いたときに、らい病人は今まで心の中にあった不安の雲がすっかり取り払われて、光が差し込んでくるのを感じました。 自分は救われた。という確信と喜びがいっぱいになったからです。そのらい病人はこの決定的な瞬間を、生涯忘れることができなかったことでしょう。 もちろん彼は肉体的にいやされただけではなく、霊的に生かされることによって、新しく造り変えられることによって、今まで知らなかった喜び、心のよりどころ、人生の目的をもつようになったのです。 それまでは人間の社会から閉め出されて、淋しく、望みなく、生きていかなければならなかった彼は、生きる屍も同然だったんです。彼はこの世において生きる目的も、喜びも希望も、何にもなかったんです。 けど、イエス様との出会いによって、心のふるさとに帰ることによって、彼は今まで経験したことのない新しい喜び、生きる望みと目的をもつことができるようになったのです。 イエス様こそが、軽蔑された、のけ者にされた人々のために生きておられ、絶えず救いの御手を差し伸べておられる方です。 いかにして私たちはクリスマスを通して提供されてるすばらしい喜びを自分のものにすることができるなのでありましょうか。主との出会いによってです。心のふるさとに帰ることによってです。 三番目は、イエス様に信頼することによってです。 マルコの福音書1:16-20
と書いてあります。 四人の弟子たち、四人の漁師たちは、イエス様に信頼することによって絶えざる喜び、すばらしい喜びをもつことができたとはっきり言えます。 この二、三節を読むと分かります。最初の光景は、イエス様がシモンとアンデレに語りかけておられる光景です。第二の光景は、イエス様がヤコブとヨハネとに語りかけておられる光景です。 イエス様ご自身が、大工として三十歳まで働かれたように、これら四人の男たちも漁師として、真っ黒に日焼けして逞しい体をしていたでしょう。彼らはしっかりと大地に足を下ろして生活をしていたのです。 彼らはイエス様との出会いによって完全に変えられたのです。彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。彼らは父ゼベダイを舟に置いて、イエスのあとについて行ったとあります。 イエス様が彼らを呼んだとき彼らは、四人とも仕事を止め、特に二人は父親をあとにしてイエス様に従って行ったんです。 このことを思うときに、イエス様の影響がどれほど大きなものであったかを知ることができます。イエス様が彼らの名前を呼ばれたとき、彼らはすぐにイエス様に従ったんです。どうして従ったかと言いますと、もちろん信頼したからです。従順は信頼の結果だったのであります。 今日でも、今まで働いていた職業を辞めて、別の職業にうつる人もあるかもしれません。けどもどうしてであるかと言いますと、失敗したのか、あるいは人間関係がうまくいかなかったのかのどちらかでありましょう。給料は倍になるともちろん、別の仕事するようになるかもしれません。 けどもイエス様の弟子たちの場合は、そのようなこの世的なものによって仕事を辞めたのではなく、イエス様の人格に惹かれて、そうせざるを得なかったのです。 もちろんイエス様は別に何かを約束しなかったのです。ついて来ると月給を二倍にすると言わなかったのです。イエス様は人を招かれたときその前にいつも変なことを言われたのです。 「鳥は寝る巣がある。わたしは寝るところがない。布団、一枚もない。」、イエス様はこじきのこじきだったんですね。こじきに従うことだって・・・ちょっとおかしいことじゃないでしょうか?弟子たちはそうしたんです。 すべてを捨てて、イエス様に従うようになったんです。これは危険ではないでしょうか。冒険ではないでしょうか。 30節によると、ペテロはイエス様に出会ったときもうすでに、結婚していたんですね。しゅうとめがいたからです。 だから彼は自分の家族を養わなければならない責任ですか、義務をもちろんもっていたんです。そのような男が仕事を辞めるということは、決して簡単なことではありませんでした。 彼らはどうしてイエス様に従ったのかと言いますと、イエスに信頼すると、絶対に失望させられません、必ずうまくいく、どういうふうになるかさっぱり分からんけど、われわれはイエス様を知ってるから信頼できるという態度を取ったんです。 もちろん彼はイエス様に従ったあとで後悔したのではなかったのです。イエス様との交わりをもつことこそ、彼らにとって最大の喜びだったんです。最大の幸せだったのです。 四人ともは、死ぬまで喜んでイエス様の偉大さを宣べ伝える者となったのです。 イエス様が取り去られたあとも、もちろん死ぬまで喜びをもって、彼らはイエス様を証ししたのです。四人ともは殉教の死を遂げるようになったのです。けど、イエス様のために死ぬことだって最高の特権だと、彼らは確信したんです。彼らはどうして従ったかと言いますと、主に信頼したからです。 いかにして私たちはすばらしい喜びを自分のものにすることができるなのでありましょうか。 まずイエス様との出会いによって、イエス様を知ることです。 心のふるさとに帰ることによって、本当の心のよりどころをもつことによってです。 (テープ A面 → B面) この世でもっとも悲しむべき人間とは、一体どういうものなのでありましょうか。人生の目的をもたないで生きてる人々ではないかと思います。 多くの学生はどうして勉強しなくちゃならないなのか分かっていませんし、多くの社会人もどうして働いているかとはっきり分かりません。どうして生まれたのか、人生の目的はどういうものであるべきか、さっぱり分からない人は多いのではないでしょうか。 イエス様はどうして来られたかと言いますと、はっきりとした人生の目的、内容を与えるためです。大きな喜び、真の喜びを与えるためです。 聖書全体の言わんとしてることは、主なる神の目的とは、私たちひとりひとりが永遠のいのちをもつことです。 永遠のいのちとはもちろん、永遠に存在することを意味してるのではない。まったく違う種類のいのちを得ることです。神のいのちを得ることです。イエス様を受け入れ、信ずることによってです。 この新しいいのち、永遠のいのちの交わりは、本当のクリスマスを体験すること、すなわちイエス様に出会い、イエス様を体験的に知ることにほかなりません。 本当にイエス様を知り、生き生きとした交わりをもつことによって、あらゆる人間的な思い、例えば、孤独、傲慢、自分中心の利己主義、悲哀感、絶望などあらゆる悩みが解消してしまいます。 そして他方においては、本当の喜び、平安、満足が与えられます。 イエス様は全人類に知られるために、また救いを与えるためにこの世にお生まれになられたのです。イエス様を体験的に知るということは、永遠のいのちをもつことにほかならない。 イエス様との生き生きとした交わりの中にこそ、本当の喜び、絶えざる喜びの源があります。すなわちイエス様こそいのち、喜びの泉そのものです。 イエス様に会った人々はみな、次のように証しできます。すなわちイエスさまによってすべての悲しみは喜びに変わった。 イエス様によって、疲れ果てた者が新しい力を与えられる。イエス様によって、あらゆる人間的な努力の虚しさや焦りが全き平安と安らぎに変わるのです。 本当の喜びの泉とは、すなわち主イエス様です。ですから、御使いが最初のクリスマスに次のように言われたのですね。 ルカの福音書2:10-11
何百、何千年前に約束された救い主がお生まれになったのです。だから、恐れる必要はない。この方を信じ、受け入れることによってすばらしい喜びを得るようになる。 これこそが最初のクリスマスのメッセージであり、聖書全体の喜びのおとずれです。 |