引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、1章1節-10節
先週に引き続いて、テサロニケ人への手紙第Iについて考えてみたいと思います。 先週は、手紙の全般的な概観についてみてみたのですが、今日は第一章をもう少し立ち入ってみたいと思います。 この第一章のテーマとは、「生きてる教会」と言えるのではないでしょうか。 ある人は、「じゃ、死んだ教会があるの?」と思うかもしれませんが、あるのです。 ヨハネの黙示録3:1
サルデスの教会は、死んだ教会でした。テサロニケの教会は生きている教会でした。 死んでいる教会は結局、イエス様のいない教会です。 命のない教会とは用いられないし、証しにもなりません。 サルデスの教会につていは異端のことは少しも触れてはいません。正しい教えを守っていたと言えます。 同時に、いかなる殉教、いかなる迫害、いかなる悪魔の攻撃のこともサルデスの教会については見ることができません。 偽教師もなかったし、狂信者もいなかったし、いかなる偽預言者もいなかったようです。それではなぜ悪魔は、このサルデスの教会を攻撃することをしなかったのでしょうか。この教会が死んだからです。 サルデスの教会が死んでいたから、そこでは偽預言者もいないし、秩序が乱されなかったし、悪魔もこの教会を攻撃することをしなかったのです。 けれども、この教会においては、すべてが見せかけであり、まことの命がなかったのです。人々のこの教会に対する判断は肯定的だったでしょう。彼らは、この教会が生きていると言ったに違いない。 この教会は、生きた教会として知られておりました。人々も、たくさん集まり、その説教の内容も、すぐれたものだったでしょう。評判は悪くなかった。けれどもその評判は偽りでした。サルデスの教会は命のない、イエス様のいない教会でした。 テサロニケの教会とは生きている教会でした。パウロの喜びの種だったに違いない。 もちろんほかの題名をつけようと思えば、「主に立ち返ることに対して、イエス様の再臨がいかなる影響を及ぼすか。」と言う問いに対して、「生き生きとした望みを与える。」と言う答えをすることもできるわけです。 テサロニケの教会は、できて存在しただけではなくて、しっかりと根を下ろし、信ずる者も成長して妥協することなく、いつもはっきりとした態度をとることができたのです。 この教会の特徴は、非常に早く成長したということです。 1章には、選ばれていること、再臨、聖化、清め、聖霊について書き記されていることから判断して、テサロニケの教会は生まれたばかりの状態に留まらないで、立派な大人の教会に成長したことがわかります。 もう一回、みましょうか。 テサロニケ人への手紙第I、1:4
テサロニケ人への手紙第I、1:10
テサロニケ人への手紙第I、4:1-3
1章にもどって、 テサロニケ人への手紙第I、1:5-6
4章にもどって、 テサロニケ人への手紙第I、4:8
テサロニケ人への手紙第I、5:19
第1章は、テサロニケの兄弟姉妹が主なる神に立ち返ったことに対するパウロの感謝の祈りで満たされています。 パウロは、テサロニケについて考えた時に、心から感謝することができました。 ちょっとだけ6つの質問について考えたいと思います。 第1の質問。このテサロニケの教会の特徴は、いったいいかなるものだったのでしょうか? 生き生きとした健全な教会、正常な教会。 この教会の秘訣は、主のみことばの上に立ち、主のみことばを第一にしたということです。主の言葉とは、彼らにとってすべてのすべてでした。 テサロニケ人への手紙第Iの1章の5、6,8節に3回も「みことば」という表現が出てきます。 この教会は、パウロにとってのみならず、主イエス様にとっても大きな喜びだったからです。みことばこそ彼らにとって、すべてでした。 テサロニケ人への手紙第I、1:5-6
テサロニケ人への手紙第I、1:8
私たちの集会は、彼らと比べれば決して模範的な集会ではない。なぜなら兄弟姉妹すべてが、みことばの上に立つことをせず、みことばに満たされていないからです。 何としばしば私たちは自分の心や、他人のいうことや、悪魔のささやきを、みことばよりも大切にするのではないでしょうか。 それらのものに耳を傾けず、ただ主のみことばだけに耳を傾ける者は、豊かに祝福されるのです。 もちろん、パウロ自身ももちろん「みことばは、何と言ってるの?」「みことばは・・・」と話したのです。 テサロニケの兄弟姉妹も同じ態度をとりました。 第2の質問は、みことばは、テサロニケの集会に対していかなる影響を及ぼしたのでしょうか? テサロニケ人への手紙第I、1:5
この説明によると、主のみことばは、テサロニケの教会で、力ある働きをなすことができた。聖霊の力によって、パウロは福音を宣べ伝えました。 テサロニケ人への手紙第I、1:6
6節を見ると、テサロニケの人々がみことばを受け入れたことがわかります。 従って、ただ単にみことばを聞いただけではなくて、それを受け入れることも明らかです。 みことばを受け入れて自分のものにしなければ、みことばの力を体験することもできません。 テサロニケ人への手紙第I、1:8
主のみことばが、テサロニケから出て響き渡ったと書いてあります。ここで、みことばが広められたことがわかります。 これは本来、健全な教会が成長している過程を表しています。すなわち、まず力を持って福音が宣べ伝えられ、そのみことばが受け入れられ、さらに広められる。これこそ、生き生きとした教会の特徴です。 もちろん、みことばは単なる普通の言葉や教えではなくて、イエス様ご自身です。みことば、すなわちイエス様です。ヨハネの福音書ではこの真理がはっきり記されています。もう皆さん、何度も読まれた箇所ですが、もう一回読みましょうか。 ヨハネの福音書1:1-4
ヨハネの福音書1:14
従ってここでも同じようにことばの代わりに、主イエスと置き換えられます。「主イエス様が力強く宣べ伝えられ、イエス様が受け入れられ、イエス様が広められた。」と表現すれば、意味もはっきりします。 本当の宣べ伝えは、その内容の中心がイエス様ご自身です。 パウロは、いわゆるよみがえりの書であるコリント人への手紙第I、15章3節、4節で次のように書いています。 コリント人への手紙第I、15:3-4
パウロにとって大切であったのは、「聖書はなんと言っていますか?」それだけです。 第3の質問です。いかにしてテサロニケで、みことばが宣べ伝えられたのでしょうか? 前に読みましたテサロニケ人への手紙第Iの1章の5節 テサロニケ人への手紙第I、1:5
この節を見てもわかります。「力と聖霊と強い確信」によって、みことばが宣べ伝えられたことです。 ここで明らかなことは、聖霊とパウロとが一つのなって働いたということです。これこそ祝福の秘訣です。 パウロは、いつも聖霊に聞き従いたいと言う飢え渇きを持っていたから聖霊が臨んで働いてくださったのです。聖霊は忠実に従う者にのみ、臨んで働くことができるのです。 使徒の働きは初代教会の歴史の本ですけれども、5章を見ると次のように書かれています。聖霊が従う者に与えられる。 使徒の働き5:30-32
聖霊の働きは、教会の成長にとってどうしても必要です。 聖霊が共に働くことができれば、今日でもテサロニケに見られたと同じことが実現されるのです。 第4の問いとは、みことばを受け入れることについて、なんと書いているでしょう。 もう一回、読みましょう。 テサロニケ人への手紙第I、1:5-6
パウロはここではっきり告白しています。彼らは、聖霊によってみことばを宣べ伝えただけではなくて、みことばを受け入れたこともわかります。聖霊による喜びをもって、みことばを受け入れたと記されています。 聖霊は、みことばを宣べ伝える時も、みことばを受け入れる時も積極的に働くと言っています。 そしてみことばを受けいれたことは、イエス様を受け入れることであり、イエス様を受け入れることこそ本当の信仰です。 みことばは、理解するものではなくて、受け入れるものです。 みことばは、読むべきものではなくて食べるべきものであると、有名な哲学者のヒルティーも言っています。 ヒルティーは、「読んだことは忘れやすいけども、食べたものは力となる。」、そう言っています。 私たちが、みことばを読むだけに留まるか、それとも、食べて消化するかということは、私たちの人生に非常に大きな結果をもたらすことになるのです。 ただ単に、みことばを読むに留まった者は、やがて失われてしまいますが、本当に食べて、十分にみことばを味わい消化した者は、大いに祝福されます。 結婚もふたつのものが一つになるという意味において、非常に重大な結果をもたらしますが、主イエス様を受けいれるか否かという問題は、もっと重要な結果をもたらすのです。受け入れるのは、意志の行為です。 ヨハネの福音書1:12
この箇所によると、信じることとは受け入れることです。ですから信仰とは、その人の意志の問題です。 信仰とは、知らないうちに心の中に入り込んでくる心の感情、あるいは漠然となってる気持ちではなくて、ひとりひとりが決断しなければならない意志の問題です。 したがって順番としては、まず決心して、それから行うことです。 ルカの福音書15章の中で、有名な放蕩息子の話しが出てきますけど、放蕩息子はブタと一緒になるほど落ちぶれた時に、良い気持ちになることを待つことはしなかったのです。彼は父のみもとに帰ることを決心したのです。 信仰とは自分自身のみじめな状態と罪の苦しみを素直に認め、主が提供してくださっている贈り物を素直に受け入れることを決心する決断にほかならない。 主の言葉は今日も力強いものです。みことばは生きているものです。 ヘブル人への手紙の著者は、このみことばの働きについて、次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙4:12
みことばは生きているものです。命を与えるものです。力強く生きているみことばですから、それを受け入れた者には、大きな影響を及ぼすのです。 テサロニケの兄弟姉妹は、みことばを受け入れたことによって、新しく生まれ変わったのです。 このようにして、受け入れられたみことばは、新しく生まれ変わるための種であり、決して感情や気分や、人間の理解力によるものではありません。 新しく生まれ変わることは次のように実現します。まず第一に、主に対する信仰。テサロニケ人への手紙第I、1章の8節に書かれています。 第二に9節には、立ち返ることと偶像を捨てること。 第三に聖霊を受け入れることです。 テサロニケ人への手紙第I、4:8
みことばを受け入れる者は、主を信じることができるようになり、その結果、偶像を捨てて主に立ち返り聖霊を受け入れるようになるのです。 第5番目の質問として、テサロニケにおいて、いかなる命の現れが見られたのでしょう? みことばによって、テサロニケの教会が新しい命を持っていたことがわかります。前に読みました1章の2節と3節に、この新しい命のことについて、次のように書かれています。 テサロニケ人への手紙第I、1:2-3
ここで3つの事柄について、書き記されています。 第1:信仰の働き 第2:愛の労苦 第3:望みの忍耐 信仰の働きと書き記されていますが、本当の信仰はおのずからその結果として、豊かな実を結ぶようになるのです。 信仰とは新しい生涯を送るための力です。従ってテサロニケの信者たちは、ただ単にテサロニケの信者だけではなくて、その信仰が行動の形で、行いとして現れて来ました。 実際には、偶像から離れてまことの神に仕えるようになったのです。 次に愛の労苦という表現についても考えると言えます。すなわち信仰が新しい生涯の力であるとするならば、愛は、新しい生涯のための暖かさを意味しています。 テサロニケの兄弟姉妹は、イエス様を愛したのみならず主なる神を愛するが故に、主のために苦しんだのです。 実際に、生けるまことの神に仕えると言う形で現れたのです。 3番目に望みの忍耐と書かれています。信仰が新しい生涯のための力であり、愛が新しい生涯のための暖かさであるとするならば、望みは新しい生涯の光であると言うことができます。 テサロニケの兄弟姉妹の特徴は、試された信仰、偽らざる愛、生き生きとした望みでした。あらゆる信者の生涯は、これと同じように救われてまことの神に仕え、イエス様を待ち望む心構えであるべきです。 私たちは、ただ単に救われるために救われたのではなくて、まことの神に仕え、心から主イエス様を待ち望むために救われたということをテサロニケの兄弟姉妹はわかったのです。 このようなテサロニケの兄弟姉妹は、隠れている状態に留まることはできなかったのです。光は輝かなければならない。まことの命は成長し広く大きくなっていかなければならない。 テサロニケの兄弟姉妹は模範的な生涯を送ったために、その周囲の証しとなったのです。 新しく生まれ変わった人生の実は信仰と愛と希望です。新しく生まれ変わった人生の特徴は、まことの神に立ち返り、忠実に仕え、主を待ち望むことです。 けれどもこのことは、テサロニケの兄弟姉妹の人間的な力によるのではなくて、主によって選ばれ、御霊の働きを妨げなかったからです。 けれども今日、多くの信者が、私がイエス様を信じていると言いながら実際生活の中で、豊かな実を結ぶことがなく、実信者とほとんど変わらない生活をしていることは、まことに悲しむべき事実なのではないでしょうか。 試された信仰、偽りのない愛、生き生きとした望みが少しも見られない場合には、その人が本当にイエス様と結びつき、イエス様の交わりを持っているかどうか疑わしいものです。 最後に第6番目、結論としての質問は、テサロニケの教会はどれほど広がる力を持っていたのでしょうか? テサロニケ人への手紙第I、1:7
テサロニケの兄弟姉妹が、その地方全体の模範となったことがわかります。 彼らは、人間として立派だったのではなくて、イエス様が彼らの中に大きな位置を占め、十分に働くことができたのです。 テサロニケ人への手紙第I、1:8
主のみことばは、テサロニケの兄弟姉妹から出てその地方一帯に響き渡ったことがわかります。 主イエス様についての喜びの訪れは、テサロニケの兄弟姉妹を通して広く告げ知らされました。 そのために、マケドニヤやアカヤの人々も、イエス様のことを知るようになったのです。 みことばを受け入れること、それを広めることはお互いにひとつの関連性を持っています。心の中に深く入れば入るほど、外に広まる力も大きくなります。 生きている教会とは、絶えずイエス様を宣べ伝えている群れです。私たちが、みことばを受け入れそれに従う程度に応じて、多くの人が私たちを通して導かれ、救われるようになります。 「あなたがたは、わたしの証しであるべきだ。」と言うみことばは、イエス様の願っておられることです。生き生きとした証しをしない教会は、もはや教会としての権利を持っていません。 イエス様はテサロニケの教会をご覧になった時に、本当に心から喜ぶことができたのです。 けど、主はエペソの教会を見た時に、あまり喜ぶことができなかったのです。いったいどうしてでしょうか。 ヨハネの黙示録2:3-5
燭台を取りのけるとは証しがなくなることであり、やがてはその教会がだめになることを意味しています。 エペソの教会はその時、悔い改めることをしなかったために、とうとう教会として存在することができなくなってしまいました。 私たちの集会も悔い改めなければ、だめになってしまうことは明らかです。それですから、私たちは主の御声に耳を傾け、それに従わなければならない。それによってのみあらゆる束縛から解放され、豊かに用いられるようになるのです。 |