引用聖句:使徒の働き8章26節-40節
最近の津波のことでインドネシアでたくさんの人々が結局死ななければならなかったんです。 もちろんそれも主の計画だったでしょうけども、海外のある町のイエス様を信ずる人々、400人いるんですって。彼らはやっぱりその、クリスマスをお祝いしたいと願って、けどインドネシアとはイスラム教徒の国ですが、政府の許可がなければもちろん無理なんですけど断られた。「やってはいかん。」 結局イスラム教徒はそれを聞いて導かれれば困っちゃう。「山へ行け。」、彼らは従順に従って、山へ行ってクリスマスをお祝いしたんです。400人。みんな助かった。 多くの人はやっぱり、「クリスチャンたちの神はすごい。」と認めざるを得なくなっちゃったんですけど、われわれの最近のテーマとは、私たちはただ救われるために救われてるのではない、用いられるためです。 イエス様はペテロとアンデレを呼ばれたとき、ついて来るように言われたとき、はっきり言いました。「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」 イエス様に従っている者は、それは取りも直さずイエス様から人を漁る人として召された人を意味してるのです。 この間私たちは非常に急いでいたヨナという預言者について、少し考えたんです。 結局彼の遣わされた町は滅びないで救われた。罪を悔い改めたから、恵みの神に呼ばわれたから、ニネベの12万人以上の人々は立ち返ったから、さばきに陥ることがなく恵みにあずかることができたのです。 結局主はひとりも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。ニネベは救われたのです。ヨナは用いられたということでした。 けどもこの神のしもべであるヨナの気持ちとは、まったく違うものでした。 ニネベの人々はみんな悔い改めないで、みんな例外なく滅びるようになったなら、彼は大いに喜んだ。ちょっとひどいのではないでしょうか。 ヨナ書の中で書いてるんですね。 ヨナ書3:10
そこで終わればありがたいけど、その次のことは大変です。 ヨナ書4:1-2
私はちゃーんとわかったよ。 ヨナ書4:2-3
ちょっと考えられない態度ではないでしょうか。このヨナとは結局、主とまったく違う考えをもっていたのです。イザヤ書の中で、 イザヤ書6:8
彼は遣わされるようになり、大いに用いられるようになったのです。 主に仕えようと思えば、自分自身を犠牲にしなければあり得ないのです。自己否定のない奉仕とは、自己満足であり、まったくむなしい、役に立たない努力です。 ヨナとは確かに急いだんです。走ったんです。主の御顔を避けて逃げたんです。 今いっしょに読みました使徒の働きの箇所を見ると、まったく違うこと書いてる。 主題は、「急いでいる伝道者」と言ってもいいでしょうが、言い換えれば、「善は急げ」、または今いっしょに歌いました日々の歌、「恵みのときは過ぎ去り行く。急ぎ、伝えよう。みことば。」 使徒の働き8:29-30
御霊が言われた、そこでピリポは走った。この使徒の働き8章は非常に躍動的な箇所です。いつも何かが動いています。 より正しく言いますと、この中でひとりの男が走っており、ひとりの人が全力疾走しています。 これこそ主の弟子であり伝道師であるピリポでした。この間、私たちはひとりの女性の弟子タビタについて考えたんですね。 今日はひとりの男性の弟子であるピリポについてちょっと考えたいと思います。 この使徒の働き6章8節以下と7章では、私たちはもうひとりの主の弟子であるステパノが宣べ伝えた福音について、彼が議会の前でいかに勇敢に主イエス様のがわに立ったか、そしてそのために殉教の死を遂げたかを読むことができます。 ここの8章の中ではピリポが登場し、このピリポが石で殺されたステパノの代わりに登場したという印象を私たちに与えます。 サマリヤでピリポは大ぜいの群衆に福音を宣べ伝えました。そのことによって多くの人々が導かれ、悔い改めて、救われ、生活が根本的に変わり、多くの病人がいやされました。 けどそれから珍しいことが起こりました。ピリポが主イエス様の弟子として、主の御手にある器として大いに用いられ、サマリヤのいたるところで主の働きに関する大きな喜びが支配的となり、この大いなる祝福の働きの最中、ピリポはまったく違った命令を受け取りました。 ピリポは福音をこの大群衆にではなく、ひとりの男の人に運ぶことになってしまったのです。 30節。そこでピリポが走って行きましたと記されています。主の弟子であるピリポは急いでいます。 主の霊に導かれ、主の命令に従い、彼は大体160キロ以上歩きました。ピリポは一種の秘密命令を受けていました。というのは、主がいったい何を意図しておられたか彼はそのとき知らなかったからです。 ピリポは何が起こるのかわからず、多くの心開いた人々から引き離されました。 その人たちからせっかく備えられたたましいから離れることとは人間的に考えればもったいないことでした。 けどイエス様の考えはわれわれ人間の思いとは根本的に違っています。ピリポの経験はアブラハムの経験のようなものだったのではないでしょうか。 ヘブル人への手紙11:8
どこ行くべきか何にもわからなかったんですけども、彼は出て行ったのです。従いました。 けどもピリポはイエス様が何を考えておられるのか少しずつわかってきました。これは突然目の前にエチオピヤ、アフリカからの馬車を見たのです。 そのとき御霊の命令が来ました。「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と。そこでピリポは命令に従いました。彼は走って行ったと聖書は言っています。160キロあとで一種のラストスパートが行なわれたのです。 ピリポは急いで行きました。いったいどうしてでしょうか。ある人の説明は次のようなものです。 もしピリポは急がないとエチオピヤ人がイザヤ書53章を読み終わって、54章に移ってしまったなのではないかと。 そして53章は54章よりもずっとはっきり、約束された救いについて詳しく記されているのです。ピリポは走りました。われわれも走るべきです。 多くのたましいを主イエス様に導きたいと思う者は、だれでも走るべきではないでしょうか。 多くの孤児たちのために働いたことで世界的に記されている兄弟がいまして、フリードリッヒ・ボーデンシューンという男です。あとでイギリスで同じような仕事をしたジョージ・ミューラーは、彼の弟子のようなものになったんですけども、このフリードリッヒ・ボーデンシューン?があるとき次のように叫んだことがあります。 「グズグズしないでください。さもないと周りにいる人々は死んでしまう。」 彼は1881年生まれです。そして1910年、ドイツのベーテルで召された兄弟なんです。結局急がないとダメだよということであります。 そこで次の問いについて少しだけ考えたいと思います。なぜピリポはそんなに走ったのでしょうか。どうしてそんなに急いだのでしょうか。 もちろんいわゆる金メダルを得るためじゃない。 第一番目、イエス様が何かをするようにピリポに命令をお与えになったから彼は走ったのです。ピリポは主の命令を果たす覚悟でした。ヨナとまったく違う。 第二番目、福音がゆだねられましたから、ピリポは走ったのです。ピリポは福音を宣べ伝える覚悟でした。 第三番目、緊急を要すること。すなわち生死に関わることが問題となっていたので、ピリポが走りました。 第四番目、救われなければならないたましいを見たので、ピリポは走りました。そしてピリポはこのたましいを主に導きたいと切に望みました。そして最後の、 第五番目、イエス様のご計画が実現されるために、あらゆる救われたたましいが一つの鎖の環と同じような働きをすることがわかったので、ピリポは走りました。 これらの五つの答えについて少しばかり考えてみたいと思います。 まず第一に、イエス様が何かをするようにピリポに命令をお与えになりましたので彼は走りました。 ピリポは主の命令を果たす覚悟だったのです。彼の覚悟は使徒の働きの8章26節、27節にはっきりと表現されています。 使徒の働き8:26-27
どうして?なぜ?と彼は考えようとしなかった。従いました。29節、30節でも私たちは同じように従順に従う彼の覚悟を見ることができます。 使徒の働き8:29-30
グズグズためらったり、尋ねたりすることをしないでピリポは従いました。すぐただちに従うことこそが、彼の特徴でした。 彼は主イエス様によって用いられることができた。いったいどうしてでしょうか。なぜなら彼は主の声に耳を傾け、すぐに従う覚悟ができたからです。 主イエス様がサマリヤにおける祝福された仕事から離れるようにとピリポに命令したとき、彼はどうなるのかわからずに従いました。 そして今や荒野の中で同じことが起こったのです。すなわちピリポは従いました。 ピリポは詩篇の作者とともに次のように言うことができたのです。詩篇の119篇の32節を読むと次のように書かれています。 詩篇119:32
ピリポの内心の態度は次のようなものでした。すなわち、「私は主のために生き、無条件に主に従うつもりです。」と。 ピリポはダビデの召し使いたちが取った態度を取りました。 サムエル記第II、15:15
とあります。ピリポのような人々は今日も必要なのではないでしょうか。 イエス様がお用いになることのできる人たちが必要です。今日必要とされてるのはイエス様のがわに立つ兄弟姉妹です。 今日必要なのは多くを尋ねることなく、すぐに従う兄弟姉妹です。今日必要なのは主の御声を聞いて、主によって導いてもらいたいと思う兄弟姉妹です。 今日必要とされてるのは次のような確信をもってる兄弟姉妹です。すなわちイエス様はご自分のなさるすべてのことをご存知でいらっしゃるという確信。 そしてイエス様はご自分の赦し給もうすべてのことをもご存知であるという確信。 さらにイエス様はご自分の意図し、追及なさることをご存知でいらっしゃるという確信。 これです。主イエス様は人間を用いたいと願って思っておられます。 それは多くの人に福音を宣べ伝えることであり、ひとりの人と語ることであり、日曜学校で教えることであり、ひとりの病人を見舞うことであり、イエス様によって用いられるもっとも大切な前提は、喜んで主にだけ従うという心構えです。 私たちの心のもっとも深い態度は、詩篇の作者と同じ態度と同じものであるべきです。 詩篇40:8
ピリポは喜んで主の御声に聞き従う覚悟でした。ですから彼は走ったのです。 彼は主イエス様に従いたかったから急いだのです。イエス様が何かをするようにピリポに命令をお与えになりましたから彼は走ったのです。彼は主の命令を果たす覚悟でした。 第二番目、福音がゆだねられましたのでピリポは走りました。 ピリポは福音を宣べ伝える覚悟でした。この出来事から20年経って、ピリポは伝道者として描かれるようになりました。 使徒の働きの21章の8節を見ると次のような箇所があります。結局彼は主を大事にしたから、彼だけではなく家族もやっぱり祝福された家族でした。 使徒の働き21:8-9
預言するとは結局主を宣べ伝えることです。 イエス様を紹介する四人の娘さんたちがいたのです。伝道者とは、ほかの人にイエス様を宣べ伝えるように召されている者です。 父親であるピリポだけではなく、娘さんたちも同じ願いをもつようになったのです。 ピリポはわれわれに、私に福音を宣べ伝えられただけではなく、私はそれを通して信仰に導かれた。 しかし私は救われることだけでは十分ではない。大切なのではない。福音がさらに宣べ伝えられるために私に福音がゆだねられたということを彼も家族の人々もみんな知っていたのです。 実際このことは、ピリポにおいては単なる頭の知識ではありませんでした。彼はそれを実際に行なったのです。 ピリポは主イエス様についての喜びの訪れをさらに宣べ伝えました。けど私たちは、私たちもまたピリポとまったく同じように救い主イエス様についての知らせをさらに宣べ伝えるように召されているということを忘れてはなりません。 私たちは救い、逃れ道、望みが存在するということを失われたたましいに告げ知らされるように召されています。 パウロはテサロニケにいる人々に書いたのです。ひと文章だけです。 テサロニケ人への手紙第I、2:4
私たちは福音をゆだねられた者です。生きるまことの神は私たちにすばらしい賜物、すなわち主イエス様をゆだねてくださいました。 福音とはひとつの教えではない。イエス様です。そしてイエス様といっしょにもちろんすべてが与えられている。 ローマ人への手紙8章の32節。よく知られてる箇所なんですけども、次のように書かれています。 ローマ人への手紙8:32
私たちにひとつの教えよりはむしろ、ひとりの人格者、すなわち主イエス様がゆだねられているのです。 けど私たちに次のことが明言されています。ほかの人たちもまた、主の豊かさにあずかることができるように、一生懸命になりなさい。 ほかの人々がイエス様の中に本当の満足を見いだすすべてのことを行ないなさい。また、ほかの人たちが罪の奴隷から、また時間の束縛から解放されるように励みなさい。 マルコの福音書16:15
イエス様を紹介しなさい。福音は決して単なる教えではなく、主イエス様ご自身です。イエス様を宣べ伝えなさい。 イエス様こそあらゆる問題に対する解決そのものです。私たちは福音を宣べ伝えてるのでしょうか。 あるいは自分が救われていることに満足しているのでしょうか。罪から救ってくださる主イエス様の福音を宣べ伝えない者はわざわいです。 ピリポは非常に急いでいました。どうしてでしょうか。ピリポは喜びの訪れを宣べ伝えることを急いだのです。 ピリポはそれを宣べ伝えないで、自分だけの物とすることができなかったし、また、そうしたいとは思わなかったのです。 マタイの福音書の28章を見るとまた次のように書かれています。走ってる女性たちについての箇所です。 マタイの福音書28:5-7
のんびりしてはいかん。急いで行って、 マタイの福音書28:7-8
よみがえられたので彼女たちは急いだのです。 彼女たちは主イエス様の死体が墓の中にあると思っていました。けど御使いは、イエス様がよみがえられたことを彼女たちに告げ知らせました。 この福音を彼女たちは、術もなく絶望的な状態に置かれている弟子たちに早く伝えたいと思いました。 確かに私たちもみな同じことをしたことでしょう。イエス様がよみがえらされたという喜びは、われわれを急ぐように駆り立てたに違いない。 しかし今日私たちは何をしてるのでしょうか。ローマ人への手紙の1章、ちょっと見てみましょうか。 ローマ人への手紙1:14-15
主イエス様を ローマ人への手紙1:15
あらゆる信者は負債を負ってる債務者です。すなわち信ずる者はだれでもイエス様の福音を宣べ伝える義務をもっています。 いわゆるキリスト教の宣伝をするのではなく、イエス様を証しすることです。 なぜピリポは急いだのでしょうか。今話したように、イエス様が何かをするようにピリポに命令をお与えになりましたから、彼は走ったのです。 福音がゆだねられましたから彼は走ったのです。彼は福音を宣べ伝える覚悟でした。 それから第三番目。緊急を要すること。すなわち生死に関わることが問題となっていたから、彼が走ったのです。 イエス様がピリポを女王の財産全部を管理していた宦官とともに出会わせたことは容易なことです。しかも一方の者が他方の者にとって助けとなり得た瞬間に、ふたりを結び付けられたのです。ピリポが即座に従わなかったならば、この出会いは実現しなかったでしょう。 イエス様は心の備えのできた財産管理者が、イエス様の福音を知らされるようになることをお望みになったのです。 そしてピリポは同じ思いに満たされました。ですから彼は急いだのです。 私たちは次のことを忘れてはなりません。イエス様の福音を宣べ伝えることほど、緊急を要するものは何一つないということです。 失われたたましいをイエス様と出会うようにさせるために、いかなる時間も失われることは許されません。 イエス様をもっていない多くの人たち、したがって救いもなく、平安もなく、望みもなく、罪の赦しもない多くの人々は私たちからあらゆる安けさを奪い取ってしまう。動揺させるはずです。 イエス様の態度はわれわれの態度でもあるべきです。ヨハネの福音書9章4節を見るとイエス様は次のように言われました。 ヨハネの福音書9:4
そしてまたパウロの証しが私たちの証しでもあるべきです。 コリント人への手紙第I、9:16
今の時代は恵みの時です。すなわちだれに対しても成就された救いの知らせが提供されなければなりません。 しかしこの恵みの時は大変な勢いで終末に向かっています。やがて最後の審判の時が始まります。ですから急がなければならないのです。 サムエル記第I、21:8
すなわち、王の王である主イエス様のことがらは緊急を要するのです。 私たちの周囲の人々は永遠の滅びに向かっています。彼らは神なく、望みなく死んで行くのです。 使徒パウロの心からの叫びは、「小羊なるイエス様のために多くのたましいを獲得すること。」でした。自身によって買い取られたたましいは主イエス様と接触すべきです。 使徒パウロはエペソの長老たちを呼んだんですけども、その長老たちに次のように告白したのです。 使徒の働き20:20-21
パウロと同じようにピリポもまた喜びの訪れを宣べ伝えること、彼の責任を果たすことを急ぎました。 ピリポは黙っていることができなかったのです。ピリポは自分が経験した主イエス様の恵みと愛について宣べ伝えざるを得なかったのです。 ピリポは急ぎました。というのは、不滅の人間のたましいが永遠に救われるか滅びるかという大きな問題がかかっていたからです。 私はその人を通して多くの人々がイエス様に導かれた、ひとりの伝道者のことについて読んだことがあります。 ある晩、彼は何千人もの人々に向かって話し、イエス様のことを紹介したのです。そして多くの人々はその晩、決心をしました。 その晩遅く彼はタクシーで帰宅しましたが、家に着く前にタクシーの運転手は、イエスを信ずる信仰に導かれたのです。 この兄弟のおもな特徴は、彼が使命の緊急性を確信し、イエス様について宣べ伝える機会を何一つ過ぎ去らせなかったということでした。 なぜピリポはそんなに急いだのでしょうか。救われなければならないたましいを見たので、彼は走りました。 そしてピリポはこのたましいを主に導きたいと切に望んでいたのであるから、走ったのであります。イエス様は財産管理者が救われるという恵みを与えてくださったのです。 ピリポはいかに導かれたのでしょうか。導いたのでしょうか。非常に急いでよく考え、勇気を出して、断固たる態度で行動しました。 なぜピリポは求道者の財産管理者を主イエス様のみもとに導くことができたのでしょうか。 なぜならば、彼自身イエス様を体験したからです。なぜなら彼は主のみことばが救うことがおできになることを確信したからです。 なぜならピリポはただ単に宦官が求めており、主イエス様を必要としてるということを知っていただけではなく、イエス様ご自身が宦官を捜し求めておられるお方であるということを知っていたからです。 もちろん宦官に近づくことが簡単なことではなかったかもしれない。そのためにはやっぱり勇気が必要だったでしょう。 というのは、宦官はただ一人で車にいるということは絶対なかったのです。そのような有名人は疑いもなく、大ぜいの部下を連れていたはずです。 急いでいるピリポはあらゆる人間のたましいのために主イエス様が死んでくださったのですから、どうしても救われなければならないということをよく知っていました。 多くの人々が私たちを通してイエス様のみもとに導かれ、それを通して贖いを見いだすということは、われわれの関心でもあるのでしょうか。 電話がかかって来ると。私たちはさまざまな仕方で対応できるでしょう。何ということか。また電話か。 人は中断され、仕事を続けることができない。あるいは次のような態度を取ることもできるでしょう。 おそらく私がイエス様について語ることのできるたましいが緊急を要してるのでしょうかと、ピリポは荒野でこれらのあと、走っていたとき、次のように言うこともできたはずです。 「この忌々しい車め。こんなにひどい埃を巻き上げて。埃がひどくて何も見られない。目や鼻や口に埃が入ってひどいもんだ。願わくば早く埃が消えて無くなりますように。」 ピリポは口や目や耳や鼻に入ってる埃には無頓着でした。馬車の中にいるこの人は大切な人間であるに違いないと彼は独り言に言いました。 私はどうしても彼にこの地上に来られた救い主のことについて宣べ伝えなければならない。 私たちが出会う人、そして私たちが知ってる人々はだれでもイエス様がご自身のいのちをささげてくださる、それゆえに救われなければならないたましいです。 そして生きるまことの神は、このご奉仕のために私たちひとりひとりを用いたいと願っておられます。 福音はあらゆる人間のもっとも深い苦悩を静めてくださる唯一の喜びの訪れです。 なぜピリポは急いだのでしょうか。なぜならばキリストの愛が迫ったからです。 コリント人への手紙第II、5:14
とあります。ピリポはこの人をイエス様のみもとに導こうと急いでいました。そしてこの努力はいかに報われたことでしょうか。 ピリポはたったひとりの、ひとつのたましいのために一生懸命努力しました。 ひとつのたましい、どれでもがイエス様にとっては全世界の富よりも価値のあるものです。 主なる神はいかなるたましいに対しても決して無関心ではありません。 エチオピアの財務長官は、見知らぬピリポに車の中にすわるように頼みました。それは彼の霊的飢え渇き、満たされない状態、救いに対する熱望の現われでした。 財務長官がちょうど読んでいた聖書の箇所はイザヤ書53章でした。 私たちはこの箇所が、預言された救い主がいかにして身代わりの苦しみを通してご自分を無になさるか、また救いの代価としてご自分のいのちを捨ててくださるかについて、もっともよく書き記されているところであることを私たちはみな知っています。 イエス様を救い主として受け入れようとしないユダヤ人たちは、このイザヤ書53章を絶対に読みません。 もしこれ本当だったら自分たちは間違っていたことになるからです。 使徒の働き8:32-35
ピリポは彼にユダヤ教について語ったり、初代教会について語ったり、信者について語ったりすることには何の関心も持っていなかった。 ピリポは財務長官にイエスの福音を宣べ伝えたのです。そして福音として主イエス様ご自身のことを宣べ伝えたのです。 大切なのは主イエス様であり、しかもただイエス様おひとりであるということを決して忘れてはなりません。 そして本当にイエス様だけを大切にする人は主によって用いられます。なぜならその人はいかなる自己名誉をも追求しないからです。 確かにピリポは財務長官をイエス様のみもとに導いたあとで、主をあかしする大切さを指摘したはずです。 なぜならば自分が救われることだけが大切なのではなく、主イエス様があらゆる信者をご自分の代わりに人として用いたいと願っておられるからです。 イエス様の中に救いを見いだした人は、このことを水のバプテスマによって証しする特権を持っている。 財務長官が途中で水のある所を見ると、洗礼を受けるのに何かさしつかえがあるのでしょうかと聞いたのです。36節を見るとわかりますね。 使徒の働き8:36-39
二人は水の中へ降りて行ったのですから、これは全身が水の中に潜る浸礼であったことがわかります。 疑いもなくピリポは中佐たち全員に対して彼らが今自分の目で見ることが何であるか、なぜ財務長官が洗礼を受けるのか、それはどのような理由からなされるのかを説明したはずです。 このようにして、すべての人は福音として主イエス様の成し遂げられた救いのみわざを聞きました。 私たちはさらに財務長官が喜んで進んで行ったことを読むことができます。私たちは彼がなぜ喜ぶことができたかをもちろん知っています。すなわち彼は救い主に出会ったのです。 彼は罪の債務が消し去られたことを確信したからです。また彼は洗礼によって自分が救われていることを公に証しすることができたからです。 なぜこういうことが起こったのでしょうか。なぜならばピリポが急いで彼をイエス様のみもとに導いたからです。なぜピリポはそんなに急いだのでしょうか。 最後に第五番目になりますけども、イエス様のご計画が実現されるためにあらゆる救われたたましいがひとつの鎖の環と同じような働きをすることがわかったから、ピリポは走ったのです。 ここの個所はひとつのたましいがいかにして主のみもとに来て、救われたかということだけがわれわれに報告されています。けど、このただひとりの人が重要人物でした。 現代であれば、そのようなことが起これば、早速「財務長官がエルサレムからの帰途、キリスト者になった。」という見出しで新聞、ラジオ、テレビで報道されたことでしょう。 実はこの人を通して初めて福音がアフリカに伝えられたということです。ここでもまた私たちは、主イエス様にとってはこのひとりの人の救いだけではなく、彼によって影響され、福音を聞くであろう多くの人々が大切であったということを知ることができます。 財務長官は鎖の中でひとつの大切な環だったのです。彼はアフリカが主イエス様の福音を聞くようになる、救い主の器となる特権が与えられました。私たちは主に忠実でなければならない。 大変な緊急性をもって福音は宣べ伝えられなければならない。私たちは、私たちを通して救われる人々をイエス様があとでいかにお用いになるかを知ることができません。 日曜学校の青年、私たちが電車の中で会った人、私たちがもう何年もの間会っていない同級生たち、その人たちが救われ、聖霊に満たされるならば、その人たちを主がどのようにお用いになり、祝福されるか、だれが知っているのでしょうか。 注目に値することは、最後までピリポが相変わらず急いでいるということです。急いでいるだけではなく、彼は急に見えなくなってしまったのです。 使徒の働き8:39
ピリポはいつも急いで福音を宣べ伝えました。ピリポは確かに急いでいる伝道者だったのです。ピリポはイエス様が用いることのおできになった人でした。なぜならば走ったからです。 使徒の働きの6章3節によると、ピリポは御霊に満ちた人だったと書いてあります。すなわちピリポは御霊に満たされていました。 御霊に満たされている人は、急いで福音を宣べ伝えざるを得ない。御霊に満たされている人にとって大切なのは、イエス様だけであり、主イエス様お一人だけです。それですから御霊はピリポをも連れ去られました。 御霊に満たされた人は、「視界から消えて見えなくなりたい。目立ちたくない。」という切なる願いをもっています。 ピリポはすべての名誉と誉れが、ただイエス様お一人だけに与えられることを願っていました。 主イエス様だけが盛んになり、私は衰えなければならないと、心から言うことができれば幸いです。大切なのは何なのでしょうか。 もう一回まとめましょうか。 主の命令と命令を果たす覚悟。与えられた福音と宣べ伝える覚悟。生死に関わる問題と警告を与える覚悟。それから、救いを得る必要性と導く覚悟。また、主のご計画の実現と衰える覚悟です。 ヨハネの福音書3:36
と書かれています。御子を信ずる者は永遠のいのちを持つ。けどもあとで、御子を信じない者はと書いていないんです。 従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ですから大切なのは、聞く耳を持つこと。また、従う覚悟を持つことなのではないでしょうか。 |