引用聖句:ルカの福音書3章21節-22節
エペソ人への手紙5:18
今、兄弟が言われたように、イエス様の救いとは本当にすごいものです。生きている間にはっきりピンと来ないし、理解できないし、けれども、この主イエス様の救いのために私たちは永遠にわたって礼拝せざるを得なくなります。 「イエス様から目を離さないでいなさい。」、これこそが最も大切な呼びかけの一つです。なぜならば、イエス様から目を離すと、すぐ落ち込む。すぐ悩むようになるからです。 イエス様は人間から何も要求しない。知識も、立派になることも、お金も要求されていない。主イエス様は与えるお方です。 もちろん多くの人々は、与えるものだけを考えて、求めていますけれど、ちょっと的外れです。与えられるものよりも、ずっと大切なのは、与え主を知ることではないでしょうか。 イエス様は本物を与えてくださいます。この良い牧者であるイエス様は、私たちのような者を導きたい、教えたい、守りたいと心から望んでおられます。 確かにイエス様は、「おいで、私のところに来なさい。」、けれどもイエス様は光です。光であるイエス様に近づくと、ちょっと大変なことになります。罪が明るみに出されます。ショックです。 光のうちに、「私は、もうダメ。全然ダメ。ゼロ以下。」と分かるようになれば、やっぱりショックですけれども、イエス様は罪を明るみに出すお方だけではなくて、喜んで赦してくださいます。 イエス様はいつも聞く耳を持つお方です。必ず応えてくださるお方です。このすごい主イエス様の救いとは、ただなのです。価なしに提供されます。 ほむべきなのは、もちろん父なる神です。父なる神は救いの計画をお立てになったからです。けれども、この父のお立てになった救いのご計画を実現したのは、イエス様なのです。イエス様の死こそが聖書の中心テーマです。 けれども、このイエス様のなされた救いを、人間が自分のものにならなければあまり役に立たない。そのために聖霊が与えられたのです。 イエス様は、「わたしは出て行くと、これはあなたがたのためにいい。」、弟子たちは、「何を話しているの?あのイエス様は。」と思ったに違いない。 イエス様から離れれば、もっともっと大変です。「もう行くところがない。」と彼らは思ったのですけれど、イエス様は本気になってそう思ったのです。 「わたしは今回、いないほうがいい。御霊が教えてくださる。御霊を通してわたしはあなたがたの中に住むようになる。」、今まで弟子たちはイエス様といっしょだっただけなのです。今度、イエス様は聖霊を通して弟子たちの中に住むようになる。 今度の日曜日は五旬節です。結局、五旬節とは、本当に大切なのです。そして今、兄弟のお読みになりました最後の個所は、18節の後半です。 エペソ人への手紙5:18
一つの提案ではなく、はっきりとした命令です。「聖霊に満たされなさい。」 あらゆる信ずる者にとって、最も大切なのは、それではないでしょうか。なぜならば、聖霊に満たされている人の苦しみは、静められています。 聖霊に満たされている人の問題は、解決されています。聖霊に満たされている人の欠乏は、取り除かれています。だからこそ、聖霊に満たされることこそが考えられないほど大切です。 今日、私たちはイエス様の経験についてちょっと考えたいと思います。その場合に、イエス様に用いられるために私たちは何を経験しなければならないのかについて考えたいと思います。 始めに読んでもらいました個所はルカの福音書3章でしたが、よく知られている個所です。 結局、民衆がみな、結局例外なく、みなバプテスマを受けた。ヨハネのバプテスマとは、悔い改めるしるしでした。当時、水のバプテスマを受けた人々とは、私たちは反省します。悔い改めます。赦してもらいたい。そういう気持ちの表われでした。われわれの洗礼とは、もちろん全然違う意味です。 私たちはどうして洗礼を受けるかと言いますと、もうすでに本当の洗礼を受けたからです。 イエス様を信じ、受け入れる者は聖霊によるバプテスマを受けています。本人がそれを分かっても、分からなくても、感じても、感じなくても関係ない。本当なのです。 ですからそういう人々は、聖霊の宮、神の住まいと呼ばれています。けれども、バプテスマのヨハネの奉仕とはすごい奉仕でした。結局、悔い改めなければもうおしまい。さばきが来るぞ。そして結果としてみんなバプテスマを受けた。すごい恩恵でした。 そのときイエス様も洗礼をお受けになり、そして祈っておられると、天が開いて、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 父の声が聞こえるようになったし、イエス様はバプテスマを受けたし、それから聖霊が鳩のような形をして、イエス様の上に下ったとここで書かれています。 三位一体の働きについての個所です。イエス様の洗礼は、イエス様の公のご奉仕の出発点でした。 イエス様はご存知のように、30歳まで口を開かなかった。当時、許されていなかったからです。30歳になるまで黙って、口を開いてはいけない。公に話してはいけません。そういう決まりだったのです。ですからイエス様は30歳まで大工さんとしてお働きになったのです。 普通の大工さんたちとちょっと違ったでしょうね。普通の大工さんは目の見えないところで適当にするかもしれない。イエス様は必ずいい働きをしたに違いない。 ほかの大工さんたちが自分のことを考えて怠けたとしても、イエス様はいのちにいのちがけで働いたに違いない。体は丈夫だったはずです。 けれども30歳になってから公に話すようになり、福音を宣べ伝えるようになったのです。そして洗礼とは、結局イエス様の公のご奉仕の出発点でした。 この洗礼のとき、聖霊は、鳩のように、イエス様の上に下りました。もちろんイエス様の洗礼は、今話したように、われわれの洗礼と全く違うものです。けれどもイエス様が経験なさったことは、われわれの経験でもなければなりません。すなわち私たちは聖霊に満たされなければなりません。 私たちはイエス様について、主が聖霊によって身ごもり、お生まれになられたということを知っています。マタイの福音書1章20節。天の使いがヨセフに現われたのです。 マタイの福音書1:20
ヨセフはいったいどういうものか、もちろん分からなかったのです。いっしょにならなかったのに彼女は妊娠した。彼はそれを見たとき、「もう、十分です。」 彼女は本当に主を恐れる女性だと思ったけれど、もう、必ず別の男といっしょになったはずです。御霊はブレーキをかけたのです。説明したのです。 「ヨセフ。違います。聖霊によるものです。」、ルカの福音書1章35節。今度は御使いがマリヤに現われたのです。 ルカの福音書1:35
もちろんマリヤも、いったいどういうことかピンと来なかったでしょう。けれども主に用いられれば嬉しいと彼女は思ったのです。 イエス様は聖なる者、神の子と呼ばれるとあります。その証拠として聖書は、イエス様が完全な、聖い、罪のない人生を送られたということです。 イエス様といっしょに生活した人々とはもちろんわかったのです。ちょっとつかめない。いったいどういうことか。結局、喧嘩相手になりませんでした。 イエス様を裏切ったユダでさえも何と言ったかと言いますと、貰った金を返して、「私はとんでもない罪を犯した。罪を知らない方を裏切った。」 残念ですけれど、後悔しただけなのです。もうすでに十字架につけられたイエス様のところに飛んで行って、「私は三年半、大嘘つきでした。いつも、主よ、主よ。と言った。一回もそう思ったことがない。泥棒です。私は。」と言ったならば、イエス様は何と答えたでしょうか。 必ず、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいる。」と言ったに違いない。けれど彼は後悔しただけで、反省しただけで、それは全く意味のないのことです。けれど彼でさえも、「イエス様は罪を知らないお方です。」と認めざるを得なかったのです。 ヘブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙7:26
云々とあります。 イエス様はご自分の意思で罪人を救うという目標をもって、この世に来てくださいました。けれどイエス様が公のご奉仕を始める前に、聖霊が鳩のように、イエス様の上に下ったのです。 あとになってイエス様は、この経験について次のように、自分を育てたナザレの会堂で次のように話されたのです。 ルカの福音書4:18
御霊を ルカの福音書4:18-19
ペテロはあとになって、そのことについて次のように報告したのです。それはナザレのイエスのことです。神はその方に聖霊と力を注がれたと使徒の働き10章38節に書かれています。 神の御子である主イエス様にとって、上からの力を着せられることは、イエス様の三年半に及ぶご奉仕を特徴付けた経験でした。聖霊はイエス様の上にとどまり、イエス様は絶えず聖霊に満たされていたのです。 イエス様の弟子たちは、バプテスマのヨハネがすでに言っていたと似たような経験をしたのです。 ルカの福音書3:16
イエス様はまた、弟子たちにそのような経験を約束してくださいました。 ルカの福音書24:49
力を得るまで待ちなさい。聖霊はこの力を受けるようになりました。使徒の働き、よく知られている使徒の働きの1章8節。 使徒の働き1:8
「初めにエルサレムにとどまりなさい。あとで地の果てまで行きなさい。聖霊を受けた者として。」、イエス様の約束なさったことは、すぐに成就されました。 使徒の働き2:1
使徒の働き2:4
とあります。けれど、私たちをも同じ聖霊に満たされてくださりたいと願っておられ、私たちの人生が変えられ、イエス様が栄光をお受けになる、多くの人が真理を知るに至るようにと願っておられます。 疑いもなく、聖霊に満たされることほど、信ずる者にとって大切なことはありません。イエス様は、聖く、罪なく、汚れもなく、罪人から離れていました。それにも関わらず、なぜイエス様は聖霊に満たされることを必要となさったのか。 私たちには分かりません。それは奥義です。 弟子たちの場合は違っています。その点については、私たちもはっきりしていて、疑問の余地はありません。聖霊に満たされることなしには、イエス様の福音は宣べ伝えられなかったに違いない。 弟子たちが聖霊に満たされたとき、彼らの人生そのものは、いっぺんに変わりました。 私たちは主に喜ばれる人生を送りたいと思うならば、そしてまた、主が私たちを主の奉仕に用いたいと思うになるなら、私たちもまた聖霊に満たされなければならない。 ひとつの質問について、ちょっと考えたいと思います。 聖霊はなぜ、鳩のような形をして、イエス様の上に下ったのか。聖書は、鳩について四つの特徴を挙げています。 第一番目。純粋さ。 第二番目。美しさ。 第三番目。謙遜。そして 第四番目。喜んでする覚悟。これです。 まず、鳩の純粋さについて考えてみると、雅歌の6章9節に次のように書かれています。 雅歌6:9
これは花嫁についての花婿の判断でした。鳩は純粋なものであり、汚れのないものです。 次に、鳩の美しさについて考えると、例えば詩篇の作者は68篇の13節に次のように書き記したのです。 詩篇68:13
とあります。すなわち鳩は、非常に美しいものであると聖書は言っています。 それから、鳩の謙虚さについて考えると、すぐ覚えられることばとは、おそらくマタイの福音書10章16節でしょう。 マタイの福音書10:16
鳩のようにすなおでありなさい。 もう一つ、鳩の喜んでする覚悟について考えると、詩篇の作者は55篇の6節に次のように書き記したのです。 詩篇55:6
鳩の特徴は、何かあればすぐに飛んで行くということです。 聖霊は鳩のように、主イエス様の上に下りました。なぜなら、イエス様はすでに鳩の特徴、すなわち、完全な純粋さ、美しさ、謙虚さ、喜んでする覚悟を身につけておられたからです。 父なる神はこのことを次のようなことばではっきり証明してくださったのです。「あなたはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と。 私たちの場合は、非常に異なります。私たちは聖霊に満たされることを必要とします。なぜならば、私たちはこれらの鳩の特徴を少しも持っていないからです。 けれど、聖霊に満たされることによって、これらの特徴は、御霊の実としてわれわれの生活の中に啓示されるべきです。 イエス様の人生は全く聖く、美しい人生でした。イエス様は謙遜で、いつも喜んで覚悟を持っておられ、父なる神のみこころを喜んで行なう覚悟を持っていました。 私たちは本質的に正反対なのではないでしょうか。純粋というものを考えることが出来ず、私たちはみな、汚れている者です。 美しさというものをも考えられません。主の前に私たちは忌むべき者です。謙遜さということも考えられません。私たちはみな、誇り高く、傲慢です。喜んでする覚悟ということも考えられません。 私たちはみな、自己追求的、自己中心的であり、自分の意思を通そうとします。私たちはみな、生まれたときからそういう者であり、死ぬまでそういう者にとどまるのです。もしも聖霊に満たされなければ。 聖霊は鳩のように、イエス様の上に下りました。なぜなら、イエス様こそ、鳩の特徴、すなわち、全き純粋さ、美しさ、謙虚さ、そして喜ぶ覚悟を持っている、ただ一人のお方だからです。 実際、聖霊に満たされる人の人生には、イエスの純粋さ、美しさ、謙虚さ、喜ぶ覚悟のうちの何かが明らかに表われるのです。 われわれのように蛇のような性格の持ち主は、聖霊に満たされることによって鳩のような性格の持ち主になるべきです。聖霊に満たされるとはいったい何を意味しているのでしょうか。御霊の満たしは次のようなことを意味します。 第一番目。イエス様の純粋さを知ることです。 第二番目。イエス様の美しさを反映することです。 第三番目。イエス様の謙虚さにあずかることです。 第四番目。イエス様の喜ぶ覚悟を経験することです。 第一番目。聖霊に満たされている人は、主の純粋さを知っています。 聖霊は聖い御霊です。すなわちイエス様は、私たちの人生をきよめてくださるのです。聖霊に満たされる前、弟子たちは肉的であり、彼らの人生は絶えず上がったり下がったりしていました。 イエス様の弟子たちは誇りに満ち、ねたみ深く、党派精神に満ち、復讐深く、批判精神に満ちていたのは、イエス様の弟子たちでした。けれど彼らは、聖霊に満たされたときもはや誇りねたみ、党派精神、復讐心、批判などの余地が無いほど満たされたのです。 彼らは内面的に聖められ、純化されることを経験しました。そしてまさに、このことは私たちもまた、必要としているのではないでしょうか。すなわち、あらゆる汚れからのきよめです。 主の霊がわれわれを満たすことができるならば、私たちはイエス様の聖さを知ると同時に、私たちの不純さと汚れ、汚さを知ります。 けれどまさに私たちは、そういうありのままの状態で、つまり、汚れた者として主のみもとに行くことが赦されており、主の前で罪を告白することができます。そうすると主はあらゆる罪と汚れから聖めてくださいます。 力を持つために聖霊に満たされたいと思っている人々がいますけれど、私たちがすべてのものにまさって必要としているものは力ではない。内面的に聖くされることです。 そのときに初めて、主は私たちを主の器としてお用いになることができるのです。 第二番目。聖霊に満たされている人は、主の美しさを反映するようになります。 化粧品のためにたくさんのお金を使う人がいます。けれど本当の美しさは、聖霊がわれわれを満たしてくださることがお出来になることによって得られるのではないでしょうか。 使徒の働きの中で、ひとりの美しい人について書いてあります。初代教会の初めての殉教者であるステパノです。彼は大胆に主を証ししました。イエス様の御手のうちにある用いられた器でした。彼は攻撃されて、議会に引き渡されて、弁明せざるを得ませんでした。この出来事について手短に次のように記されています。 使徒の働き6:15
御使いの顔は疑いもなく綺麗なものです。ステパノは美しかったに違いない。どうしてでしょう。それは、生まれつきの自然の美しさではなかったのです。ステパノは聖霊に満たされていたからです。 使徒の働き7:55
ステパノのように主を見る者は、神の栄光をも見るようになります。 彼はイエス様を見るようになり、イエス様の美しさが彼の顔に反映するようになったのです。 その前の4章を見ると、ペテロとヨハネについて色々なことが書いてありますけれども、ペテロとヨハネとは、同じように聖霊に満たされた人々でした。彼らについて次のように報告されています。 使徒の働き4:13
とあります。御霊に満たされることによって、弟子たちはイエス様に似た者となりました。彼らはイエス様の美しさを反映したのです。 綺麗になるための最良の手段と方法は、次のようなものでしょう。美しくなりたいと思うと、聖霊によって聖められ、満たされていただくことです。そうすると、ほかの人々を惹き付けるようになります。 但し、あなたにではなく、イエス様に惹き付けられるようになります。周りの人々は、この主を知りたいと思うようになります。なぜならば、主は人生を変えることがお出来になるお方であるからです。 第三番目。聖霊に満たされている人は、イエス様の謙虚さにあずかるようになります。 聖書全体の言わんとしていることは、ヤコブの言ったことです。 ヤコブの手紙4:6
最も重い罪とは、謙遜の足りなさではないでしょうか。自分は無力で、自分の思っていることは、もしかすると間違っていると絶えず覚えるべきではないでしょうか。 イエス様しか言えなかったのは、「わたしは心優しく、心へりくだっている者です。」と。 鳩の特徴は、胆のうを持っていない。胆のうを持っていない動物はほかにいない。鳩だけ。みなご存知でしょう。 胆汁は苦いものです。苦さと争いと誇りとは、われわれ人間の性質の特徴です。 鳩は柔和、謙虚さ、温和によって特徴付けられています。何と多くの人生は誇りの胆汁によって破壊されたことでしょう。 鳩の謙虚さはいかに表われるのでしょうか。あなたは間違ったことをした、と気が付いたならば、そのことを正直に告白しなさい。すなわち、「私が最近言ったことを赦してください。言わなかったほうがよかった。」と。 あるいは、「私はあなたに対して、批判的な態度を取ってしまい、深く考えもせず、あなたのことについて話してしまった。ごめんなさい。」と。 これこそが謙虚さです。けれど、ある人があなたから謝罪を要求すると言うならば、これは誇り、辛らつ、喧嘩好きのしるしです。イエス様は次のように言われました。 マタイの福音書11:29
そのとき初めて マタイの福音書11:29
私たちの主イエス様は、心の優しい方でしたが、決して弱い方ではなかったのです。 それまでのいわゆる弟子たちは、本当の弟子になってもらいたいということがイエス様の関心事でした。それまでのいわゆる弟子たちとは、本当の弟子になってもらいたいということがイエス様の心からの切なる願いでした。 イエス様は御足跡に踏み従って来る人たちをほしかったのです。これはいかに可能だったのでしょうか。聖霊に満たされたとき、彼らは傲慢さ、自己追求や闘争心から解放されたのです。 聖霊に満たされた人たちとともに生活することは、本当に楽しみです。喜びです。 人の心はいかにして変えられるのでしょうか。聖霊に満たされることによって、初めて変えられるようになります。 最後に第四番目。聖霊に満たされている人は、イエス様の喜んでする覚悟を経験します。別のことばで表現するならば、あらゆる主の願いを喜んで満たすことは、聖霊によって満たされている人の特徴です。 主にだけ仕えることを喜んでする覚悟。主の合図に応じて即座に行なう従順。主がなさりたいと思っていることを行ないたいという切なる願い。これはわれわれの生活の特徴でもなければなりません。 詩篇の作者の預言は、次のような主の告白です。詩篇の40篇の7節、8節をお読みいたします。 詩篇40:7-8
これは、私たちの告白でもあるのでしょうか。これは、私たちの心からの叫びなのでしょうか。 私たちは、心から喜んで、みこころだけを行ないたいのでしょうか。けれどこのことはいったいどうしたら可能なのでしょうか。 聖霊が私たちを満たす時、私たちは何があっても、みこころだけがなされるようにという、切なる願いによって満たされるようになります。「私たちは主に次のように叫ぶようになります。主よ。たとえどんなことがあろうとも、みこころが私の人生において成就されますように。」 使徒の働きの8章。ひとつの実例が出てきます。ピリポという男なのですけれども。 主は彼に命令なさいました。 使徒の働き8:26
使徒の働き8:27
これは、まことにすばやい従順です。29節も見るとわかります。 使徒の働き8:29
そこでピリポは走って行った。これは、ひとりの人間に明らかにされたもので、父なる神のみこころに応じるイエス様の覚悟です。 その前の使徒の働き6章3節、5節によるとピリポは、聖霊に満たされていたと記されています。これはピリポの用いられた秘訣です。それですからピリポは、すぐに立ち上がって出かける備えが出来ていたのです。それですからピリポは、人間的に見るならば愚かと思われることを喜んで従順に行なったのです。 すなわち、どこへ行くのかわからずに、行動したのです。それですからピリポは、主がなさりたいことだけを行ないたいという切なる願いを持っていたのです。 終わりに次のような問いが登場してきます。「私たちは聖霊に満たされるために何をしなくてはならないのでしょうか。」 パウロは証しすることができました。 コリント人への手紙第I、2:4
と。 御霊に満たされる生活の秘訣は何なのでしょうか。 第一番目。イエス様は父のみこころに完全に従いました。「私たちの思いではなく、あなたのみこころだけがなるように。」 イエス様は父の御手にある従順な器でした。その態度は常に次のようなものでした。「お父さま。わたしはここにいます。どうか、あなたのご自由になさってください。わたしはこの地上で、ただあなたのみこころだけが行なわれますように何でもいたします。」 イエス様はこの態度をお取りになられたので、聖霊は高いところからの力としてイエス様のうちに宿るようになりました。 第二番目。前に読みました個所なのですけれど、ルカの福音書3章21節によるとイエス様が祈っておられると、聖霊がイエスの上に下ったと記されています。祈りこそ、聖霊に満たされるための前提です。 五旬節のとき、120人の兄弟姉妹が祈っている間、聖霊に満たされました。その少しあとで、祈りの答えとして弟子たちが新しく聖霊に満たされたと使徒の働き4章31節に書かれています。 それから、使徒の働き9章11節、17節、18節においては、サウロ、あとのパウロについて次のようなことが記されています。「見よ。彼は祈っています。」、すぐそのあとで彼は聖霊に満たされました。 私たちが聖霊に満たされたいと願うならば、私たちの人生をすべて主に明け渡さなければなりません。 また、主のみこころだけを行なうということが、われわれの願いとならなければなりません。 そしてまた、私たちの祈りは、主よ、私はただあなたの名誉だけを望みます。というものでなければならない。 主がヨルダン川の中に立ったとき、主の切なる願い、イエス様の祈り、主の心からの叫びは、次のようなものだったでしょう。「見よ。わたしはここにいます。あなたのみこころだけが、わたしを通して行なわれますように。」 聖霊は、与えられた使命を果たすために、主が必要とした高いところからの力としてイエス様の上に下りました。 今日、イエス様は私たちに次のように言っておられます。「父がわたしを遣わしたように、わたしはあなたがたを遣わします。」と。 「父はわたしを遣わしました。しかし、父はわたしをひとりにさせず、聖霊がわたしの上に下り、わたしの中にとどまりました。 わたしを通して、父が聖霊の力によって贖いのみわざを成就してくださった。そして今、わたしはあなたがたを遣わします。 あなたがたを通して、だれでも罪の赦し、神との平和、永遠のいのちをただでいただくことができる。」ということが宣べ伝えられるべきです。 「しかし、わたしはあなたがたをひとりでは行かせません。わたしにあなたがたの人生の全支配権を与えなさい。そうすれば、わたしはあなたがたを用いることができるようになります。わたしの霊はあなたがたを満たし、器として用いるようになります。」 聖霊に満たされること、また、イエス様の御手にある器となるにまさる大いなるものは、ひとつもありません。 |