引用聖句:詩篇51篇1節-3節、17節
今読んだ箇所を見ると、ダビデがどういう男であったかを知ることができるのではないかと思います。 ダビデは、旧約聖書の中では最も出てくる名前なんです。ダビデの人生の告白とはどういうものであったかと言いますと、「主は、生きておられる。」 生きておられる主は聞く耳を持つお方であり、祈りを聞かれる方である。そして、ダビデは、主に3つのことのために祈りました。 まず第一に、へりくだった心のために、祈り願いました。 第二番目に、悔い改める、備えの心の準備のために祈りました。 それからダビデは、清い心のために祈ったのです。そういう祈りは必ず聞かれます。 車の中で話し合いました。この間、土曜、日曜に宮崎で喜びの集いがありました。ある姉妹に会いました。 彼女の実家は九州の山の中なんですが、よく集会を持ちましたし、葬儀もありました。けども、彼女はご主人に捨てられてしまったのです。 15、6年前から、彼は別の女性持ってたし、けども最近彼はなんですかね、彼女の実家へ行って謝ったらしい。 彼は14年間、別の家庭持ってるし、子供いるし、結局、「悪かったと。」、それはありがたい話しだけど、奥さんは、それならイエス様知ってもらいたい。一緒に集会行こうと誘ったのです。すると、彼は、「とんでもない。おれが、神です。」と言ったのです。 いや、いったいどういうこと。非常に、ちょっと精神的におかしくなったらしい。 けども、自分は神だと言いえば、いくら謝っても意味のないことです。結局過去はどうであれ、聖書は、今から、これから。けども、自分が神だと思えば、もうおしまい。 ダビデという男は、主とひとつになった者でした。だから、大いに用いられたのです。 歴代誌第II、16:9
中心とは、主です。天と地とを創られた方が、必死になって探し求めているのは、結局ご自分とひとつになる人々を求めておられます。 主の御心にかなったダビデという男は、主とひとつになったのです。だから、彼は大いに用いられるようになりました。 主は捜した。捜された。ダビデを見つけられた。弟子達にも、イエス様は、似てる言葉をおっしゃいました。 ヨハネの福音書15:16
結局、残る実がないと、人生は全くむなしいのではないでしょうか。 人間の考えてる成功とは、主の残る実ではない。パウロでさえも、「私は、実なし。」、失格者になる可能性は十分にあると言ったのです。 主が我々を選んだ。ただ、救われるためだけじゃなくて、残る実がなるように。そして、最も大切なのは、祈る心を持つことです。 祈る心とは、「憐れんでください。どうしたら良いかわからない。教えてください。どうしようもない者ですから、用いてください。」、このような心を持つことです。 ヨハネの手紙第I、4:10
本当の愛の現れとは、十字架につけられた主イエス様です。罪を知らない、罪を犯す可能性を持っていなかったイエス様は、十字架の上で罪のかたまりとなった。 人間的に考えれば、それはひどい。けども、このイエス様のかわりの死がなければ、私たちは、今晩ここに集まらないし、聖書を読む気持ちも起こらない。 結局、もう将来は真っ暗闇です。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛した。なぜか、誰もわからない。主の愛を受ける資格のある人間は、誰もいないからです。 そして、パウロ、イエス様のとりこになったパウロは、自分の救いの経験について説明したのです。 私は、それを人間から受けなかったし、またそれを教えられもしませんでした。ただ、イエス・キリストの啓示によって受けたのです。提供されたものを受けた。上からの啓示によって、わたしは、捕らえられた者となった。 このパウロは、イエス様によって捕らえられ、イエス様に喜んで仕える奴隷となり、そしてイエス様の愛に圧倒された者となり、もちろん、イエス様を心から愛し、もちろん当時の世界に行って、イエス様を紹介する者となったのです。 もちろんこのパウロとは、福音を聞いて、イエス様を自分の救い主として受け入れればOKと思わなかったのです。これは単なる始まりにしか過ぎない。主によって用いられなければ、中途半端ですとわかったから、彼はいろいろ手紙を書いたのです。信ずる者の成長のためです。 コロサイ人への手紙1:10
私たちの、結婚の指輪に書き込まれている箇所の言葉なんです。 主にかなった歩み。パウロの生活とは、確かに祝福された生活でした。実を結ぶ生活でした。どうしてかというと、彼は主に喜ばれたいと望んだからです。 「主よ、私はあなたを愛している。主よ、あなたを喜ばせるためには、どうしたら良いの?教えて。」、という態度を取ったのです。 そして、同じことがダビデについても、言えるのではないでしょうか。 聖書の中で、このダビデこそが、御心にかなう者であったと書かれています。結局ダビデとは、私は主をより良く知りたい。そういう切なる願いを持っていました。 それは、私たちが今晩のように集まる時、ひとつの願いを持つべきです。すなわち、私たちは、主のみもとに行って、主との交わりを得よう。 そういう願いを持つべきなのではないでしょうか。すなわち、今晩の集いを通しても、イエス様をよりよく知りたい。 私そのものはダメなんです。でも、イエス様をよりよく知りたい。飢え渇きがあれば、やっぱり主は喜んでおられます。 さきほど読んだ歴代誌のように、主の側から、我々を求めておられるのです。「主の目は、あまねく全地を見渡している」そして、分裂していない心。主に向かって、一本の心を持つ者を主は探し求めておられるのです。 人間は、だいたい祈ると、自分のお願いになるように、主は何を考えてるか全部忘れて、「ああしてください。」「こうして、ください。」、もちろん、何について祈ってもかまわないけど、最後に、 「わたしの祈りは、もしかすると、めっちゃくちゃの祈りでした。的はずれのものだったかもしれない。私の考えは、正しくないか全くわからない。 けど、もう、どうでも良いよ。あなたの御心だけが、なるように。」 この態度をとると、主は導くことができるのです。 主はわれわれの分かれていない単純な心、主に向かって、単一な心を求めておられます。 人間は、よく表面的な事柄、生まれがちの能力を見がちですが、主はそうではない。主は心を見られます。 サムエルは、はじめての預言者、母親(ハンナ)の祈りの結果として生まれたのですけれど、彼に与えられたひとつの使命がありました。 サウルという男は、傲慢で正直じゃないし、主のことよりも、自分のことを考えているから用いられない。だから、サウル王の代わりに、ダビデに王となってもらいたい。 サムエルは、それを初めはわからなかったのです。エッサイ(ダビデの父)の子のうち、その中の息子のひとりであることだけは、わかったのです。 12人の兄弟がいました。普通だったら、やっぱり誰でも、長男のことを考えるのではないでしょうか。長男は立派な容貌をしていました。「彼こそ王となるのでは。」と、サムエルは思ったのですが、主の御心は、そうではなかったのです。彼は選ばれなかったのです。 結局主は、サムエルの思いに反して、もっとも小さな、子羊のようなダビデを選ばれたのです。主はダビデの分裂していない心を見たからです。結局、彼は透き通っていたのです。裏表がなかったのです。ダビデのような心の持ち主であれば、本当に幸せです。 詩篇23篇を読むと、ダビデの心の様がよくわかり、その生涯の秘密がよくわかる気がします。 ダビデは、主は、私の羊飼いです。結局、主は私のものです。財産家なのではないでしょうか。主はわたしのもの。こう言える人は幸せです。 この言葉を逆に申し上げますと、何を意味しているかといいますと、私そのものは、愚かな弱い何も知らない、何もできない子羊に過ぎない。でも、大切なのは、私ではなく主。いくら弱くても、みじめであっても、関係ない。 ダビデのように、「主は私の羊飼いである。私の助け手であり、導き手であり守り手であられる。」と言う人は、本当に幸せです。 ご存知のように、羊とは、確かにかわいい動物ですけど、外敵から自分で自分を守ることができない、方向感覚がない。身の危険をも感じられない。何を教えても忘れる動物です。 ダビデは、わたしは一匹の弱い、愚かな羊のようなものです。だから、私には教え導いてくれる羊飼いが、いないと終わり。 ダビデは、よく、主よ私を守ってくださいと叫んだのです。結局、安全じゃないよ。主が私を守ってくれなければ、おしまい。 彼は、はっきり言ったのです。弱い羊であるから、偉大な牧者、主が必要であると、ダビデはわかったのです。結局、ダビデは、謙虚で柔和でした。私は弱い小さな羊です。私はどうしても主の守りを、主の導きを必要とします。 ダビデは御心にかなうものでした。どうして?主に頼ったからです。 彼は、決して決して、完全ではなかったのです。もし聖書が、人間によって主の導きなしに書かれたものでなかったら、たとえばダビデの失敗、アブラハムの失敗、エリヤの失敗は書いていないはずです。適当に隠して、良い面だけ書くのではないでしょうか。、 サムエル記第I、27:1
結局、自分の身に危険を感じたとき、彼は主にゆだねないで、主に頼らないで自分で考えたのです。 もちろん非常に現実的でしたよ。もう逃げ道がない。そうすれば、ペリシテ人の所に行けば安全だ。けどもペリシテ人は、イスラエルの最大の敵だったんんですよ。ゴリアテもペリシテ人だったんです。 それで彼は、敵国へ逃げてしまったのです、もう、恥ずかしい。 今まで、ずっと何があっても主にだけ頼ったダビデが、ちょっと考えられない。素晴らしい経験を与えられた後、このように自分勝手な言葉を口にして、また、それを行ったのです。逃げた方が良いと思っただけじゃなくて、逃げたのです。敵の力を借りようとしたのです。 後で彼は、イスラエルへの攻撃にも参加しようと決めたのです。主が中にはいって、そこまでは行かなかったのです。人間とは、いつでもそういうものなのです。羊飼いに導かれなければ、結局ダメ。 やがて王となることを、うそを知らない主が約束したのです。でもダビデは、今は主はそうすることができない。もう無理。遅すぎる。王となることは全く望みがないと、間違って判断したのです。 それまでの長い間、主は長いことご自分の計画をあまさず、必ず成就されることを知っていたし、確信していたのです。けど今、急に全部、おかしくなったのです。 確かに、周りの情勢が困難に見えます。人間的に考えれば絶望的に見えたのです。そして、ダビデは、もうすべてがダメであると思い、望みを捨てちゃったのです。 もちろん、聖書を続いて読むとわかります。この時、ダビデの敵であるサウロ王の死は迫り、ダビデが王となる日は目前でした。サウロは敵に殺されたのではなく、結局自分で自殺したのです。考えられない。 ダビデは王となるのですけど、ちょうどその寸前、悪魔が働き、闇の時であり、絶望に引き込もうとしたのです。現実を見たから、絶望したのです。 けど、詩篇。詩篇とは、大部分がダビデの書いた歌であり賛美であり祈りです。 このダビデの書いた詩篇を読んでみると、ダビデは最も深くどん底の苦しみにあっても、非常な絶望に陥っても、確かに逃れ道が見える。前途が真っ暗でも、ダビデは、まだ、叫び祈ったのです。 それだけじゃなくて、何も理解できなくても、御心こそが最善であり、だからよく礼拝したのです。 結局、いくら私が弱くても、あたかも一匹の弱い羊であっても、主はわたしの羊飼いである。だから、もう心配する必要はないよと告白するようになったのです。 彼は、どうして失敗したのか。主がそれを許したから。主のせいだった。 けども、この失敗とは、後になって、彼の守りとなったのではないでしょうか。傲慢にならなかったのです。過去の失敗を忘れられなかった。 彼が失敗した時、悪魔はうれしくなったでしょう。「もう、あいつ(ダビデ)はダメよ。」 でも逆でした。わたしは本当に弱い、悩む者です。貧しい者です。 詩篇の中でダビデは、何回も告白したのです。だからダビデは、主を必要であり、主を選んだのです。だからこそ逆に、主はダビデを選んだのです。 もしダビデが、「主よだいじょうぶ。私は、やればなんとかなるよ。」、もしそういう気持ちがあれば、主は彼を絶対に選ばなかったのです。 主はダビデを選び、油を注がれたように、我々を選び油を注ぐのです。 油とは、旧約聖書でいつも御霊を象徴していることです。御霊に満たされることこそが、もっとも大切であり、実を結ぶ秘訣そのものです。 ダビデは、どうして選ばれたかというとへりくだっていたからです。 (この後、2分ほど、A面、B面の返しで、テープがとぎれています) そして、耐えざる喜びに満たされました。 詩篇の中でダビデは、「私の杯は溢れています。」と、言うようになったのです。意味は、私は変わらない喜びを得た。喜びに満たされているというように、なったのです。 ある人は、「主よ、お願い。私を聖霊に満たしてください。祝福してください。」そう祈り、断食し、夜通し祈ります。結果は何にも起こらない。 結局、そういう人の心の状態が間違っているからです。 けど主は、砕かれた謙遜な、柔和な心の持ち主を求めておられます。ダビデは、主の心にかなう人でした。どうして?謙遜な柔和な心を持っていたからです。 最初に読んでもらった詩篇51篇を読むと、心を全うした人は、決して完全なものではない。罪を犯さない人でもないことがわかります。 でもダビデは、へりくだった心を持っていたのです。彼は正直でした。またダビデは、悔い改める備えのできる心を持っていたのです。 ダビデの前のサウロ王は、ダビデのようにひどい罪でなかったかもしれない。けども、彼は、罪を犯した時に、彼は、その罪を隠そうと努力したのです。 その罪が、露わにされたときも、サウロは、その罪を全部言い表そうとはしなかったのです。サムエルの前に逃げられなかったからですけど、民にわからないように隠して欲しいと思ったのです。 「ふーん、これは本当の悔い改めじゃないよ。」、サウロはそうした。全部言い表すことを欲しなかったのです。 結局どうしてかというと、傲慢で、心が高ぶっていたからです。国民がわかればたいへんだ。そう彼は、思ったのです。 でもダビデは、それとは違い、常に悔い改める準備ができていたのです。 ナタンという預言者が遣わされました。ダビデの所に行ったのです。「お前は、罪を犯した。」「お前が、その男だ。」そう言った時にダビデは、すぐ「その通りです。私は、この罪を犯した男です。」と言ったのです。 サウロも選ばれた者で信者で救われた者だった。でも、実を結ばなかった。 ダビデの子供は、父親のことをよく観察したと思います。子供は敏感です。息子のソロモンは、たくさんの箴言を残しました。 箴言28:13
ときどき、聖書の内容はどういうものかと聞かれます。この1節で十分です。 結局ダビデは、息子にこの事実について、息子に言い聞かせたはずです。わたしは、ある時、悪魔の声に耳を貸した。結婚してる女性と一緒になっちゃった。とんでもない罪を犯した。相手の女性の主人が、殺されるように命令して、彼は戦死した。それで、私は、だいじょうぶと思ったけど、逆でした。 もう夜も昼も、寝られなくなった。食べたくない、全部面白くない。平安もない、喜びもない。もうぺっちゃんこ。 最後的に、もう耐えられなくなっちゃった。やっぱり、隠す者は成功しない。全部告白した。国民、みんなわかるようになる。 聞いてください。お願い。何があっても隠さないで。そのダビデ王の話しを聞いて、息子のソロモンは、この箴言を残したのです。 背きの罪を隠す。ひょっとしたら、死ぬまで、うまく行くかもしれないよ。死んでから、たいへん。裁かれます。 人間は、おごり高ぶり、己に満足していおるか。あるいはダビデのように、私はどうしたら良いの?あなたを喜ばせたいけど、何もわからないという態度をとるか、どちらかです。 「主よ憐れんでください。私の自己中心的な所を赦してください。」と、願うべきなのではないでしょうか。 ダビデは、柔和にして謙遜な心の持ち主でした。だから主は、彼を選び、彼を王としてくださったのです。そしてダビデは、私は喜びに満たされると告白しました。 ダビデの祈りは次のようなものでした。「あなたを必要としています。どうか教えて、導いてください。私は、弱いどうしようもない者だからです。」 ダビデは、へりくだった心を持っていたし、悔い改める心も持っていたのです。 もうひとつ彼は、清い心のために祈ったから与えられたのです。 詩篇51:10
結局彼(ダビデ)は、どうしてこう祈ったかというと、清い心を持っていなかったからです。だから、彼はそのために祈りました。 正しい心を持ちたいと願う心がダビデの心でした。 詩篇51:17
何が一番大切であるかと、ダビデはわかったのです。彼は、砕かれた心を持って、おのれの罪を告白したのです。 悔い、砕かれた魂を、主は喜んでくださいます。ですから、いつも覚えるべきことは、私たちの願いや、私たちの平安が、私たちの満足が問題なのではなくて、私たちが、主の御心のまん中を歩んでるかどうかが問題です。 ダビデは、主の御心にかなった者でした。だから、ダビデは喜びに満たされ、用いられるようになったのです。 詩篇51:11
罪を犯すことによって、主のご臨在はダビデを去ってしまった。主は、私と共にいることができない。主は、私を守ることができない。私を用いられない。 自分勝手な道を行く前のダビデは、親しく主の御声を聞き、主の導きを得たのです。けども、急にだめになった。その結果とは、12節でしょうね。 詩篇51:12
救いの喜びがなくしてしまったのです。結局、主の臨在を失っただけではなくて、もう一つの大切なものを失ったのです。 救いの喜びがなければ、もう用いられません。救いの喜びがなくなると、もう平安がなく全部おかしくなります。 人間は喜ぶと、周りの人々も必ず導かれます。そんなつらい経験を持っていたのに、どうして喜んでるの?周りの人々は、必ず思うようになります。 私には、主の喜びが必要です。それが、ダビデの心の状態でした。 イエス様は、ご存じのように、多くのことを話されました。けども、知識を与えても、喜びがなければ、証しになり得ないのです。 いろいろなことがあろうとも、私の喜びが、あなたがたの喜びになるためです。 ダビデは、自分の心の状態だけを気にして主に祈り求めました。主の御心にかなったダビデ王は、自分の賜もの、証し、歌について、何も語っていません。 もし心の状態が悪いなら、それらはなんの役にも立たないことをよく知っていました。 またダビデは、知っていました。もし、自分と主が正しい関係にあるなら、周りの人々も心を開かれるのです。何か起こるのです。 詩篇51:13
結局、周りの人々が、導かれる。 もし私たちが柔和で心低い者でないなら、周りの人々に罪を指摘することも、イエス様を心から紹介することもできません。だから大切なのは、私たちが、立派になることではなく、主をよりよく知ることです。主に頼ることです。 ダビデは、主の救いに預かり、主にあって大いに喜ぶことができた者でした。そして、その信仰生活のはじめの半分を、主の導きのままに過ごしてまいりましたけど、彼の生活には破綻がやってきました。 前に見たように姦淫の罪を犯してしまいました。そして、殺人の罪までも犯してしまったのです。 もし、私たちが自分の心をよく知っていなければ、いったいどういうものか。素晴らしい信者でさえ、あのような罪を犯すのだろうかと疑問に思いますけど、あらゆる人間は、信者としても、もっともひどい罪を犯す可能性を持っています。 我々の性質とは、人間の性質でしょう。人間の性質とは罪を犯すことです。ですからパウロも、私の肉のうちに良いものが住んでいない。一つも。だから、主に頼らなければ、おしまい。主が守ってくださらなければ、導いてくださらなければ、教えてくださらなければ、もう終わり。 詩篇51:3
詩篇51:12
これは、ダビデ王の心の底からの叫びでした。後に主の大いなる恵みと愛によって変えられた。 詩篇を見るとわかります。そして主ご自身が、このダビデについて何と言ったかというと、エッサイの子、ダビデは、私の心にかなった人だと、語ったのです。 人を称えるのに、これより素晴らしい言葉があるでしょうか。 前に言いましたように、ダビデは心から主を礼拝するようになったのです。 大部分の詩篇は、主に対する礼拝そのものです。礼拝とは、すべてを主の御手から受け取ることです。すべてを主にゆだねることです。 私たちは、ときどき思います。「イエス様、このようにしてください。この重荷から私を解放してください。環境を変えてください。」・・・と祈ります。 祈ることとは大切でしょうけど。祈ることとは、なんでしょうか?自分の願いの言い表しに過ぎない。 でも礼拝とは、おのれのすべてを、何もかもを主にゆだねることです。私の思いではなく、御心だけがなるように。これが礼拝です。 もちろん主の思いは、いつも我々の思いと同じではないかもしれない。 ダビデはそれを経験しました。ある時、主は、ダビデになんと言ったかというと、「あなたの生まれる子供は必ず死ぬ。」と、言いました。ちょっと、考えられない。 ダビデとはもちろん子供を愛したし、死なないように一生懸命祈ったのです。断食もしました。そして、もうひたすら祈り求めたのです。1週間。おそらく寝なかったでしょう。何も食べなかったでしょう。この子が死んだら、いったいどうしたら良いのか。 けど、この子供が死んだと聖書は言っています。多くの人は、「どうして?どうして、主は彼の熱心な祈りを聞き届けなかった?」と聞くでしょう。 周りの人々は、子供が死んだ時ダビデに言えなかったのです。もう何も食べないし。もし、子供が死んだことを聞いたら、どういうことになるか。もう、ノイローゼになるんじゃないか。 でも、ダビデは子供の死を知りました。聖書は何と言っているかというと、ダビデは着物を着替えて主のところに行き、礼拝した。 「礼拝した。」 礼拝は、主に全く心からなる賛美をすることです。すべてを主の御心にゆだねることです。 ダビデは、主を礼拝した。主は、その御目を持って全地をあまねく見渡し、その思いが自分とひとつになってる人を捜し求めておられます。これこそが、ダビデの経験でした。 主は、当時必死になって捜したけど、その主は今日も一生懸命捜しているのではないでしょうか。 なぜなら、主は奇跡を行う力を表したいからなのであります。主に向かって、心をまっとうしている人がなければ、主はご自分の力を表すことができない。主は、その時無力です。 「いや、主は何でもできる。」ときどき言います。でもこの箇所見ると違います。主は、うそつくことができないでしょう。騙すことができないでしょう。違うよ。結局、用いられる器がないと、主は働くことができない。 ちっぽけな人間を用いようと、望んでおられる。わたしたち、ダメな人間を使わないで、天から天使を遣わしたほうが早いのに。 けども、主はダメな人間を用いようとされる。本当にすごい。 ダビデは、用いられる器になったのです。 詩篇18篇を見ると、やっぱり彼は、主を大いに喜んでいたのです。そして、彼の用いられた人生の秘訣とはなんであるか、この節でわかります。 詩篇18:1
結局、私はあなたを愛します。 前に話したことあるんです。ある知恵遅れの子供は、普通の学校に行ったのですが、同級生にいじめられました。大いに悩んだのです。 「あの子は、全然ダメよ。何もできない。」役に立たない者だと同級生は思ったのです。知恵遅れだから、話し相手にならず、完全に無視されたのです。悩みます。 けどある時、自分の考えを発表する時間があったのです。だいたいの子供は気持ちよく、いろいろなこと話したのです。 知恵遅れの子の番になった時、みんな言ったのです。「ダメだよ、先生!の子は無理だよ。」「あの子は、何もできないよ。」 先生は、「ちょっと静かに、もしかすると、一言葉言うかもしれない。。」、もちろんみんな静かになったのです。もちろん、聞こうとしない。無理よと思った。 知恵遅れの子はなかなか話せないけど、一文を5分で話したのです。5分間で、ワンセンテンス。 「わたしは、イエス様を大好き、イエス様も私のこと大好き。」 結局、今までのいじめらえたことについて、何も話そうとしなかったし、こういう一文章だったのです。 でも、同級生たちは、それを聞いて衝撃を受けてびっくりしたのです。悪かった、ごめんさいとしか言えなかったのです。 ダビデの気持ちも、この知恵遅れの子と同じです。ダビデは、わたしはイエス様大好きと言わなかったでしょう。 「主よ。わたしは、あなたを慕います。」、意味としては全く同じ。結局、大切なのはそれだけなのではないでしょうか。 多くの人は、イエス様を信じますと言います。けども、イエス様を愛する人は少ないのではないでしょうか。 ですから、ヨハネの黙示録の中で、主がわたしはあなたに敵対している。はじめの愛から離れたから。はじめの愛から離れると、主は私と共にいることができない。 悲劇的なことです。そうすれば、いくら人々が集まっても、用いられる器になり得ません。 わたしたちは、何ができるか。すべきなのは、頭を下げることです。憐れんでください。赦してくださいとしか言えないのではないでしょうか。 ダビデはそういう心を持っていたから、やっぱり御心にかなう人となったのです。 |