引用聖句:ヘブル人への手紙1章14節
今まで、あの世の世界の現実と意味について一緒に考えてまいりました。そこでは死と死者について、特に聖書から考えてきたわけです。そして特に次の三つのことについて今まで考えてきました。 第一番目は、死とは何か。 第二番目、死者はどこにいるのか。そして 第三番目、死者は、死んだ人は何をするなのか。 今日は、いわゆる霊の世界なるものについて学びを進めて行きたいと思います。 昨日、ひとりの方とちょっと話したんですけど、霊の世界がないと言われたんです。けどもそう言いながらやっぱりもう諦めちゃったとちょっと聞こえたんです。霊の世界がないと言いながら、真理を知りたいとも言われたんです。 けどもあとでまたちょっと話し合ったとき、結局彼女は、「実はすべては虚しい。私は寂しくて寂しくてしょうがない。」と言われたんです。 もちろん人間はみなそうなんです。結局霊の世界がなければ、すべて虚しいなのは決まりなのではないでしょうか。 彼女は一度祈って、「私のわがままを赦してください。すべてをゆだねる。」と言われたのです。 そのあとで集会終わって、ひとりの若い男だったんですけど、三十五歳の人と話したんです。 彼はもう正反対だったんです。本当にもう素直な方で、どうしてであるかと言いますと、癌にかかってしまったからです。 胃は全部取られるようになり、もちろん今からどういうふうになるか分からない状況に置かれたのです。そのときもやっぱり病気とはなかなかいいもんだと、新しく思うようになったのです。 彼のお兄さんも二、三年前に同じ病気で亡くなったし、人間的に考えれば確かに悲劇的なんですけど、結局彼はやっぱり霊の世界があるとはっきり分かったんです。だから開かれた心を持っていたのです。 ここで霊の世界と呼ばれるものについては、次のような三つのものを考えることができると思うんです。 第一番目は、天使たちです。 第二番目は、悪魔です。 第三番目は、悪霊です。 まず第一に、天使について一緒に考えたいと思いますけど、今日もちろん全部できないけど、次のような十一の項目に分けて考えることができます。 第一番目は、天使とは何か。 第二番目は、天使の本質とはどういうものなのでしょうか。 第三番目は、いわゆる天使たちの使命とはいったい何なのでしょうか。 第四番目は、天使の数について。 第五番目は、天使には男とか女なのかという区別はあるなのでしょうかについて。 第六番目は、天使の住まいについて。 第七番目は、天使の表われについて。 第八番目は、聖書の中に主の使いということばが出て来る場合には、いったい何が言われてるなのでしょうか。 それから天使の知恵について、また傍観者としての天使について。それから天使の尊敬について。 この十一の項目についてちょっと考えたいと思うんですね。 まず、天使とはいったい何なのでしょうか。天使ということばは、旧約聖書の中で108回出て来ます。 新約聖書の中でもっと出て来ます。165回なんです。合わせて273回、聖書の中で天使ということばが出て来ます。 ですから、天使が存在してることは疑いありません。 目に見える世界とは、この世の肉的なもの。例えば、植物、動物、人間などですが、まったく同様に存在する見えない世界とは、天的な霊の世界であります。 このこと、天使について今読まれました箇所の中で、ヘブル人への手紙の1章の14節ですね、次のように書かれてます。 ヘブル人への手紙1:14
すなわち天使たちは ヘブル人への手紙1:14
とヘブル人への手紙の著者は書いたのであります。 天使は、御使いは、「遣わされた者」という意味をもってます。天使のことばの意味とは、遣わされた者です。 天使はもともと神の命令によって造られたものです。創造されたものであり、被造物です。 詩篇の作者は、148篇になりますけれども、次のように天使について書き記したのであります。 詩篇148:2-5
主が命じて、御使いたちも造られたのです。御使いは、この世が造られたときにすでに存在していたと聖書を通して知ることができます。 詩篇の作者はまた次のように言ったのであります。 詩篇104:4
パウロは、すべてのものがイエス様によって、またイエス様のために創造されたと書き記したのです。したがって御使いもイエス様によって造られ、イエス様のために造られたものです。 「イエス・キリストは神ではない。ひとりの創造された御使いに過ぎなかった。」と言う人たちもいます。もちろんとんでもない話です。 コロサイ人への手紙1章の16節に、イエス様の偉大さについて次のように書き記されてます。 コロサイ人への手紙1:16
御使いたちももちろん含まれています。 コロサイ人への手紙1:16
天使たちはイエス様によって創造され、そしてイエス様のために造られたのです。結局用いられるために、主の栄光をほめたたえるために創造されたのであります。 ヨブ記の中で、比較的に天使についてたくさん書かれてますが、一ヶ所だけちょっと見てみましょう。 ヨブ記4:18-19
云々とあります。 ここで、泥の家に住む者と書かれてます。これはもちろん人間を指す表現です。 人間は泥の家に住む者ですが、御使いたちは、天使たちは決して泥の家には住みません。もちろんここで泥の家とは、土から作られた人間のからだであり、人間の肉体のことを意味してるのです。 したがって天使は肉体をもっておらず、霊であることが分かります。 肉体をもってるように見えるのですけれども、からだをもっていません。要するに、御使いはイエス様によって、イエス様のために造られ、しかも主なる神の遣わされたものです。 したがって御使いは、主なる神に仕えるために創造された霊的な存在です。 第二番目の質問は、御使いの本質はいったいどういうものなのでしょうか。 御使いは勢いにおいても、力においても人間にまさっていると聖書ははっきり言ってるのです。例えばペテロの手紙第IIの2章に次のように書かれてます。 ペテロの手紙第II、2:11
と書かれています。 御使いは人間よりもずっと力あるものです。人間にまさっているものであるとこの箇所を通しても知ることができます。 ダビデは詩篇の103篇の中で御使いたちについて次のように書いたのであります。この103篇は主をほめたたえるすばらしい詩であります。 詩篇103:20
ここでダビデは3,000年前に、「御使いたちとは力ある勇士たちであります。」とはっきり確信したのです。 パウロも力ある御使いという表現を使ったことがあります。 テサロニケ人への手紙第II、1:7
イエス様は力ある御使いとともに再臨されると聖書は言ってます。 聖書を通して、御使いたちとは間違いなく力に満ちたものであるということを知ることができます。 けども御使いたちは、力あるものだけではなく、御使いたちの知恵もすばらしいものであるとサムエル記第IIの14章に書き記されています。 サムエル記第II、14:20
とあります。ここで神の使いの知恵という表現が出て来ます。主の御使いの知恵がすばらしいものであることも分かります。 しかしながらそのように賢い御使いと言えども、聖書によると決して主なる神のようにすべてを知ってるものでないことがはっきり分かります。 例えば御使いは、イエス様がいつ再臨されるのかもちろん知らないと、イエス様はマルコの福音書の13章にはっきり言われたのです。 マルコの福音書13:32
もちろんイエス様はそのとき知る必要はなかったのです。 今、もちろん分かったのです。主なる神の右に座しておられたときから、もちろんイエス様はすべてを知るようになっただけではなく、すべての力と権威がイエス様にゆだねられるようになったのです。 「天の御使いは知りません。」とここではっきり書かれています。 エペソ人への手紙の3章10節を見ると、天上にある諸々の支配や権威がイエス様のからだなる教会を通して神の知恵、達したような知恵をよりよく知るに至ることが記されていますが、ここで天上にある諸々の支配や権威ということばには、御使いたちも含まれてることに注意したいと思います。 エペソ人への手紙3:10-11
からだなる教会、すなわちイエス様に属する兄弟姉妹を通して、神の豊かなる知恵が明らかにされるべきです。天にある支配と権威とに対して。 御使いの前に教会を通して、主は自分の知恵を明らかにしようと望んでおられるのです。 ペテロはその第一の手紙の中で、また御使いについて次のように書いたのであります。 ペテロの手紙第I、1:10-12
ここでペテロも御使いたちについて書いたのです。 御使いたちも預言者たちによって言われたことを伺い見たいと願ってるとあります。したがって御使いは、人間よりも強く、賢いものですけど、決して全知全能のものではないことが明らかになります。 天使たちは強いものです。賢いものです。けどもそれだけではなく、天使たちは聖なるものであると言われています。 使徒の働き10:22
ここで、聖なる御使いという表現が出て来ます。 御使いは聖なるものであります。聖なるものとはまったく徹頭徹尾、主なる神に属するものです。主にだけ仕えるものであるということです。 (テープ一時中断) 使いのことについて次のように書かれてます。 マタイの福音書28:2-3
とあります。御使いが着た衣は雪の真っ白であったと書かれています。この白い衣は、聖なるものを象徴することばにほかならない。 御使いは単に力強い、賢い、神聖であるだけでなく、栄光に富み給もうものであると聖書を通してもはっきり知ることができます。 ダニエル書の中でよく御使いたちが出て来ますけれども、一ヶ所ちょっと見てみましょう。 ダニエル書10:6-10
とあります。ダニエルが御使いの出現を見たことがこういうふうに書かれてます。 この幻を見たとき、すべてのものが大きいにおののいて、逃げ隠れたとあります。それでダニエルひとり残って、この大いなる幻を見たときに、力が抜け去り、まったく力がなくなったんです。 ヨハネの黙示録の中で御使いの顔について次のように書かれてます。 ヨハネの黙示録10:1
とあります。御使いの顔は太陽のようであったとここで書き記されています。 またルカの福音書の9章の中で、イエス様もご自分の栄光と・・・ (テープ A面 → B面) ・・・に現われてくるとあります。 ルカの福音書9:26
ここで、聖なる御使いという表現も出て来ます。御使いの栄光について書き記されています。 もう一つは、聖書全体は御使いの謙遜さについても色々なことを言ってます。例えばイザヤ書の中で、御使いはおのおの六つの翼を持ち、その二つで顔をおおい、他の二つで足をおおい、残りの二つで飛びかけていったとあります。 イザヤ書6:2
とあります。意味は、御使いたちは主の前に謙遜であることです。 御使いは人間が自分を拝もうとしたときに、それを強く拒むものです。御使いは決して中心になりたくない。御使いのひとつの特徴とは謙遜そのものです。 ヨハネの黙示録の一番最後の22章にこの事実について次のように書かれています。 ヨハネの黙示録22:8-9
「自分を拝んではいかん。自分の前にひれ伏してはいかん。」ということです。これは主の前に謙遜であることを言い表わしています。 御使いは人間が自分を拝もうとしたとき、このような断固たる態度を取ったのであります。けどそれに対して悪魔と悪魔の御使いたちは自分たちが崇拝され、自分たちが尊敬されることを誇りに思い、傲慢にも自らが主の座に着こうとしているのであります。 よく引用されるイザヤ書の14章の中で、結局いわゆる悪魔の堕落の原因について次のように書かれています。 イザヤ書14:12-14
この気持ちとは神の臨在から追放される原因になったのです。 御使いのもうひとつの特徴は従順です。主に対する従順です。詩篇の103篇の20節です。 詩篇103:20
とあります。主の御使いたちは主のみことばを聞いて、これを行なうことに忠実なしもべたちです。 イエス様は主のみこころが天に行なうのと同様に、この地上にも行なわれますようにと祈られましたが、御使いが天において常にみこころに従順であるようにという意味をもってるのです。 聖書はまた、天における色々な階級についても語ってます。例えば、コロサイ人への手紙1章16節ですが、次のように書かれてます。 コロサイ人への手紙1:16
と書いてあります。この16節を見ると、位とか主権とか、あるいは支配とか、権威というようなことばが使われていますけど、これは決して同じようなものを言ってるのではない。異なった階級があることを意味しております。 ローマ人への手紙の8章にも同じことが書き記されていますから、知ることができます。 ローマ人への手紙8:38-39
ここも同じように色々な表現が使われています。 またエペソ人への手紙1章の21節を見ても、同じようなことばが並んで使われています。 エペソ人への手紙1:21
と書かれています。神がイエス様をすべての支配、権威、権力、権勢の上に置かれたとありますが、これらのことばの違いに注意すべきなのではないでしょうか。 コロサイ人への手紙2章の15節にも、同じようなことばが出てきます。 コロサイ人への手紙2:15
とあります。 諸々の支配と権威との武装を解除した。主なる神はキリストにあって凱旋したと記されていますが、パウロはここで、悪魔の支配と悪魔の権威について語ってるわけです。 エペソ人への手紙6章12節を見ても同じことが明らかになります。 エペソ人への手紙6:12
人間に対するものではなく、 エペソ人への手紙6:12
と書き記されています。ここを見ると、諸々の支配と権威という同じことばが使われていますが、すぐあとでやみの世の主権者、天上にいる悪の霊ということばが出てくることからも分かるように、常に悪魔の支配と権威について語られてるわけです。 このように、見えない世界にはいくつかの階級があることが分かります。 例えば、いわゆるミカエルは普通の御使いではなく、御使いのかしらであると聖書ははっきり言ってるのです。 ヨハネの黙示録の前にちいちゃい手紙ですけど、ユダの手紙の9節の中でこのミカエルについて次のように書かれてます。 ユダの手紙1:9
ダニエル書の10章の中で、ミカエルについてたくさん書き記されています。 ミカエルとは、御使いのかしらであり、聖書から見るとたぶん言えることは、このミカエルこそがイスラエルの民を守る天使であると。 ダニエル書10:13
云々とあります。それから、同じくダニエル書の12章の1節に次のように書かれています。 ダニエル書12:1
ミカエルとはイスラエルの民を守る御使いのかしらであると、ダニエル書を通して知ることができるのです。 また将来、悪魔と戦うミカエルについて、聖書の一番最後のヨハネの黙示録の12章に次のように書かれています。 ヨハネの黙示録12:7
竜とは悪魔のことを意味してるのです。 ヨハネの黙示録12:7-9
と書き記されています。 聖書全体を見ると、天上には非常に多くの御使いたちがいることが分かります。 ヘブル人への手紙の12章22節に、無数の天使という表現が出てきます。 ヘブル人への手紙12:22
と書かれています。無数の御使いたちがいると、この箇所を通しても知ることができます。 また、マタイの福音書の26章の53節に、イエス様は次のように言われました。 マタイの福音書26:53
天使たちの数は数えられないでしょう。 ルカの福音書の2章の13節に、イエス様が誕生なさったときも、多くの御使いが現われたのであります。 ルカの福音書2:13
とあります。列王記第Iの22章にも天の万軍という表現が使われています。 列王記第I、22:19
とあります。このような箇所から分かることは、天上に多くの御使いたちがいるということです。 ほかにも例えば、ケルビムとかセラフィムという御使いが記されていますが、これらの御使いも特別の使命をもってることが聖書からはっきり分かることができます。 みことばによると、御使いの中でもっとも大切な知恵を占めていたのは、ミカエル、ガブリエル、そして堕落してしまったサタンであることは疑いありません。 これら三人の御使いを見ると、それぞれ特定の人格をもったものであることが分かります。 このように御使いの力、御使いの知恵、神聖さ、栄光、謙遜、従順、階級、人格について聖書から色々なことを知ることができますけれども、要約して御使いの本質は、どのようなものであるかがだいたい分かることができるなのではないでしょうか。 御使いたちはすべて仕える霊であり、救いを受け継ぐ人々に奉仕するために、仕えるために遣わされたものであると聖書ははっきり言ってます。 来週、御使いの使命について少し考えたいと思います。 |