霊の世界-悪魔4


ベック兄

(テープ聞き取り、霊の世界シリーズ)

引用聖句:ヨハネの黙示録12章7節-12節
7さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
9こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
10そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
11兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
12それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」

今日も引き続いて、霊の世界について考えたいと思います。
目に見える世界と同じように、目に見えない世界も存在してるということは現実にほかなりません。そして主なる神の敵対者としての悪魔もこの霊の世界に属してる者です。

われわれが悪魔の秩序を信ずるか信じないかはどうでもいいことではありません。
イエス様を信じたいという気持ちと悪魔の秩序を否定する考えとは、一緒になることがまったく不可能です。
イエス様を信ずるならば、ただ単に悪魔の存在を信ずるだけでなく、その事実を考慮に入れなければならない。前に読みましたペテロの手紙第Iの5章の中で、ペテロは当時の信ずる者に次のように書いたのであります。

ペテロの手紙第I、5:8-9
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。

手紙の中で、悪魔こそが信ずる者を絶えず攻撃してると何回も何回も書きしるされています。主に従うこととは結局戦いに追い込まれることを意味する。
エペソ人への手紙6章の11節にパウロはエペソにいる兄弟姉妹にまた次のように書いたのであります。よく読まれる箇所です。

エペソ人への手紙6:11
11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

自分でいくら頑張ってももちろん無理なんです。けど主の提供されてる武具を身に着けると、もちろん立ち向かうことができるとここで書かれています。
悪魔と対抗しうるためには悪魔との戦い方を知らなければなりません。

今まで、試みる者、悪しき者、偽り者としての悪魔について学んできました。悪魔の目的は、ある方法を通してわれわれを主イエス様から引き離すことです。イエス様から離れればもうおしまいです。
しかし私たちがイエス様に拠り頼み、毎日霊の糧によって育まれ、成長する限りは、悪魔と言えどもわれわれに対してどうすることもできません。
したがって、私たちが自分の思いや自分の力で歩もうとしたり、イエス様を大事にしないで、自分勝手にやって行こうとすることこそ、悪魔の思う壺であります。

けどそのようにしてみことばを疎かにする者は本当の喜び、また平安、そして証しをする勇気を失ってしまいます。
そのために私たちは毎日毎日、「主よ。どうかもっと深くあなたさまを知ることができるように恵みを与えてください。」という切なる願い、また祈りをささげなければならないなのではないでしょうか。
みことばに頼り、絶えず主に対する飢え渇きを持ち続けなければならないなのではないでしょうか。

この間も読みました、詩篇の139篇の最後の2節はわれわれの毎日毎日の願いでありまた、祈りであるべきです。
当時の世界を治めたダビデの心からの叫びでした。

詩篇139:23-24
23神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

このようなへりくだった心構えがあると主は大いに祝福してくださいます。
現代人の多くは自分で考えて、決心して動くようになる。主は何を考えてるか、思ってるか別にどうでもいいんじゃないかと考えています。そうするともちろん祝福がないし、必ず壁にぶつかるようになる。

主に従うと、どういうことになるか確かに分からない。けどもどういうことになっても、「主よ。私は従ったから本当はあなたの責任です。どうすればいいかわからない。任せます。」、この態度取ると大いに祝福されるようになります。
ダビデは、「導いてください。私の思い煩いを知ってください。どうすればいいかわからない。」、このような態度があれば大丈夫。主が責任を取ってくださいます。

エレミヤ記の15章の16節。何回も何回も読みました箇所ですけど、ひとつの体験であります。
われわれも毎日この体験をもつと本当に祝福されます。

エレミヤ書15:16
16私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。

人間は理解しようと思えば壁にぶつかります。理解しようと思えば聖書とは決して喜びの訪れではなく、とんでもない重荷になります。
エレミヤはわからなかったでしょう。どういうもんか理解できなかったでしょうけど、彼は食べた。自分のものにした。その結果とは本当にすばらしいものです。

エレミヤ書15:16
16あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

心から喜ぶことができる人間は少ないなのでないでしょうか。みことばこそが本当の喜びの源です。
みことばに頼ると、主の約束を自分のものにすると、楽になる。重荷から解放されます。これこそがエレミヤの経験でした。

彼は普通の人間よりも苦労した人で、悩んだ人でした。彼は信ずる者によって迫害されるようになり、主に信頼したからこそ、刑務所に入れられるようになったのです。
どうしてこのような辛い経験をもつようになったかと言いますと、人間を喜ばせようとしなかったからです。「主はこう言われる。」という断固たる態度を取ったからです。

われわれを攻撃する悪魔は、ただ単に試みる者、悪しき者、偽り者であるだけではない。われわれを攻撃する悪魔はわれわれを訴える者です。
もちろん人間の前にじゃなくて神の前に悪魔はわれわれを訴えてると聖書ははっきり言ってるのです。
ヨハネは上からの啓示によって悪魔に対する最後の勝利がいかなるものであるかを預言したのであります。前に読みましたヨハネの黙示録12章の中でこの最後的な勝利について書き記されています。

ヨハネの黙示録12:10
10そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

と書かれています。
われらの兄弟らを訴える者。夜、昼われらの神の御前で彼らを訴える者は投げ落とされたあります。悪魔はわれわれをいかに訴えるなのでしょうか。

第一に、主なる神の御座の前で。
第二に、良心の呵責に対して。
第三に、ほかの人を通して、悪魔はわれわれを訴えるのです。

悪魔が私たちをまず主なる神の御座の前で訴えることについてちょっと考えたいと思います。聖書の中にいくつかの例を見ることができますから。
悪魔はあたかも自分が神の律法を守る者であるかのように振る舞います。

ゼカリヤ書3:1-7
1主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。
2主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」
3ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。
4御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」
5私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。
6主の使いはヨシュアをさとして言った。
7「万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。

律法によると、大祭司はきよい衣を着ていたことがわかります。また、きよい帽子をもかぶるべきであったと出エジプト記の28章に書かれています。

出エジプト記28:36-38
36また、純金の札を作り、その上に印を彫るように、『主への聖なるもの』と彫り、
37これを青ひもにつけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。
38これがアロンの額の上にあるなら、アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。これは、それらの物が主の前に受け入れられるために、絶えずアロンの額の上になければならない。

出エジプト記29:6
6彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に、聖別の記章を掛ける。

とあります。大祭司は結局きよい衣を着て、きよい帽子をかぶらなければならなかったとあります。
けども前に読みましたゼカリヤ書を見るとヨシュアは、きよい衣じゃなくて、けがれた衣を着ていた。そこで悪魔がそのことを訴えたのです。確かにそのとき悪魔は訴える口実をもっていたことはもっていたんです。

けどもそのとき主はサタンに言われた。「サタンよ。主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか。」とあります。
すなわち主なる神は決して律法に基づいてことを行なわれるのではなく、ご自分で選び、すなわち恵みに基づいてすべてを行なわれるのです。

ヨシュアはさばきの火の中から取り出された燃えさしのような者でした。悪魔はけがれてる者、きよくない者、不従順な者、不信仰な者を訴える十分な口実をもっています。
律法に基づくならば私たちはすべてさばかれなければならない。そのとき主の御使いは自分の前に立っている者どもに言いました。
「彼のけがれた衣を脱がせなさい。」、またヨシュアに向かって言いました。「見よ。わたしはあなたの罪を取り除いた。」

前に私たちは旧約聖書の中に出て来る主の御使いが、主ご自身の現われであるということを学びました。
罪を赦すことができるお方は決して普通の御使いではありません。主を除いてはだれもできません。
主ご自身が結局、「見よ。わたしはあなたの罪を取り除いた。」と言われたのです。

ヨハネの手紙第Iの2章。近いうちにこのヨハネの手紙第I全部ゆっくりお読みになれば、非常にすばらしい手紙です。ことばの使い方は非常に少ない。
当時の学者のような言葉の使い方じゃなくて、あまり教育を受けていない人々の言葉遣いなんです。あんまり言葉使われていませんけども、もっとも大切な手紙の一つです。結局色々な問題がある。
そうすると大切なのは、A、B、Cとはいったい何なのでしょうか。A、B、Cとはこのヨハネの手紙第Iの中に書かれています。

聖書を見ると、戻ろうと思えばこの手紙を土台にすべきなのではないでしょうか。当時のヨハネは100歳に近かったでしょう。次のように書いたのです。

ヨハネの手紙第I、2:1
1私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。

われわれの弁護士は主イエス様ご自身です。父のみもとに義なるイエス・キリストがおられる。
罪を告白する者に対しては今日もイエス様は、「けがれた衣を脱ぎなさい。」、「あなたに礼服を着せよう。見よ。わたしはあなたの罪を取り除いた。」と呼びかけ、また約束しておられるのです。

ただイエス様お一人だけが律法を完全に成就してくださったため、われわれの罪は消えて無くなりました。
それですから私たちにとってただイエス様だけが最高の弁護者であり、そのため悪魔は黙らなければならず、かえって反対に訴えられる者とされているのです。
福音書の中で、ルカの福音書になりますけども、イエス様はペテロに次のように言ったことがあります。

ルカの福音書22:31-32
31シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
32しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

イエス様はペテロに対してと同じようにわれわれに対してもみことばをくださっておられるのです。
「サタンが、あなたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たち姉妹たちを力づけてやりなさい。」と。

悪魔は本当に信ずる者を攻撃します。夜、昼。けども大切なのはイエス様なんです。「しかしわたし」、それがなければもう本当におしまいです。
けど悪魔はただ単に主の御座の前で訴えるだけでなく、われわれの良心の呵責にも訴えているのです。
そこで悪魔が訴えることは残念ながら正しいことを認めざるを得ません。それによって悪魔は救いなどというものがわれわれにはあり得ず、ただ絶望だけが待ってるというふうにそそのかすのです。

悪魔は私たちが罪を犯す前にはその罪がちっぽけなものであり、大したことではないと囁きながら一旦罪を犯すとそれが・・・

(テープ一時中断)

・・・ないほど大きなものであると責め続けるのです。
そのことによって多くの信ずる者は罪の赦しなどあり得ないというふうに思い込んでしまいます。けど実際は主の前で心から罪を悔い改めた者はもはや悲しまなくてもよいのです。

そのこと・・・

(テープ A面 → B面)

・・・に対して書き送っていたのです。

コリント人への手紙第II、2:6-11
6その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
7あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
8そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。
9私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。
10もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
11これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

とあります。同じく、

コリント人への手紙第II、7:10
10神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

とあります。罪を告白する者はあわれみを受ける。
イエス様の流された血潮はあらゆる罪を取り除く力をもつものです。ヨハネの手紙第Iの1章の7節に、ヨハネは当時の信ずる者に次のように書いたのです。よく知られてる箇所です。

ヨハネの手紙第I、1:7
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

御子主イエスの血はすべての罪からきよめると約束されています。
流された血の大切さについておもにヘブル人への手紙の中で書き記されていますが、9章の14節、一節だけちょっとお読みいたします。

ヘブル人への手紙9:14
14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

キリストの流された血の力とは考えられないすばらしい力です。

悪魔は人間を訴える者として夜、昼人間を攻撃します。訴えます。まず主の御座の前で、それから良心の呵責に対して、最後にほかの人を通して悪魔はわれわれを訴えます。
このようなわけで、悪魔がわれわれを訴える口実をまったく何一つもっていないということこそ大切なことです。

その意味でパウロは、われわれの日常生活におけるきよめの必要性を手紙の中に書いているのです。
テモテへの手紙第Iの5章の中で、パウロは愛弟子であるテモテに次のように書き記したのであります。

テモテへの手紙第I、5:14-15
14ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないことです。
15というのは、すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。

と書いたのです。それから、テトスへの手紙の2章1節から。

テトスへの手紙2:1-10
1しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。
2老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。
3同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。
4そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、
5慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。
6同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。
7また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、
8非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。
9奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、
10盗みをせず、努めて真実を表わすように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。

8節に、「非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。」
そうすれば、敵対する者も、結局反対者も、結局悪魔のことです、悪魔も私たちについて何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょうとパウロは書いたのです。

ダビデという王さまは殺人と姦淫を行ないました。そのとき悪魔はダビデに向かって罪を責め立て、ダビデにはもはや救いがないことをしきりに語りかけ、ダビデの信仰をダメにしようと激しく攻撃したことに違いない。
けどダビデはそのような悪魔のいざないの声や、人間の声や、自分の良心の呵責に負けることなく、ただあなたの罪は赦されたというみことばだけを信頼したのです。

私たちもダビデと同じように主のみことばだけに信頼しないならば、主の御名を汚すことになります。
そのように主を第一とし、主のみことばを100%信ずる者には、悪魔の勝利をもたらす余地がないのです。
訴える者に対する最後の武器はイエス様の流された血潮です。私たちは常にみことばに基づき、主をほめたたえるべきです。イエス様の血はただ罪を赦す力だけではなく、われわれを守り、導く力をもつものであります。

今までのところからわかるように、われわれを訴える者は、われわれに敵する者です。
パウロはローマ人への手紙8章の中で次のように書いたのであります。だれがわれわれに敵し得ようか。だれが神の選ばれた者たちを訴えるなのでしょうかと。
本当にすばらしいまことの喜びの根拠なることばなのではないでしょうか。

ローマ人への手紙8:31-34
31では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
33神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

弁護してくださるのです。

ローマ人への手紙8:35-39
35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

神は義とされると33節に書かれています。結局、信ずる者の喜びのもっとも深いものとはそれでしょう。

なぜ主なる神は罪にまみれた私たちを義とされるなのでありましょうか。
キリストは死んで、今よみがえって、父なる紙の右に座し、またわれわれのためにとりなしていてくださるからですと。

先ほど言いましたように、悪魔がわれわれを訴える口実をもっているということは、動かすことのできない事実です。
けどそれよりもはるかに偉大な事実は、イエス様がこの世の支配者である悪魔に完全な勝利を成してくださったということ。
そしてわれわれのためにとりなしてくださっているという事実です。




戻る