引用聖句:ヨハネの黙示録12章7節-12節
今日も引き続いて、霊の世界について考えたいと思います。 目に見える世界と同じように、目に見えない世界も存在してるということは現実にほかなりません。そして主なる神の敵対者としての悪魔もこの霊の世界に属してる者です。 われわれが悪魔の秩序を信ずるか信じないかはどうでもいいことではありません。 イエス様を信じたいという気持ちと悪魔の秩序を否定する考えとは、一緒になることがまったく不可能です。 イエス様を信ずるならば、ただ単に悪魔の存在を信ずるだけでなく、その事実を考慮に入れなければならない。前に読みましたペテロの手紙第Iの5章の中で、ペテロは当時の信ずる者に次のように書いたのであります。 ペテロの手紙第I、5:8-9
手紙の中で、悪魔こそが信ずる者を絶えず攻撃してると何回も何回も書きしるされています。主に従うこととは結局戦いに追い込まれることを意味する。 エペソ人への手紙6章の11節にパウロはエペソにいる兄弟姉妹にまた次のように書いたのであります。よく読まれる箇所です。 エペソ人への手紙6:11
自分でいくら頑張ってももちろん無理なんです。けど主の提供されてる武具を身に着けると、もちろん立ち向かうことができるとここで書かれています。 悪魔と対抗しうるためには悪魔との戦い方を知らなければなりません。 今まで、試みる者、悪しき者、偽り者としての悪魔について学んできました。悪魔の目的は、ある方法を通してわれわれを主イエス様から引き離すことです。イエス様から離れればもうおしまいです。 しかし私たちがイエス様に拠り頼み、毎日霊の糧によって育まれ、成長する限りは、悪魔と言えどもわれわれに対してどうすることもできません。 したがって、私たちが自分の思いや自分の力で歩もうとしたり、イエス様を大事にしないで、自分勝手にやって行こうとすることこそ、悪魔の思う壺であります。 けどそのようにしてみことばを疎かにする者は本当の喜び、また平安、そして証しをする勇気を失ってしまいます。 そのために私たちは毎日毎日、「主よ。どうかもっと深くあなたさまを知ることができるように恵みを与えてください。」という切なる願い、また祈りをささげなければならないなのではないでしょうか。 みことばに頼り、絶えず主に対する飢え渇きを持ち続けなければならないなのではないでしょうか。 この間も読みました、詩篇の139篇の最後の2節はわれわれの毎日毎日の願いでありまた、祈りであるべきです。 当時の世界を治めたダビデの心からの叫びでした。 詩篇139:23-24
このようなへりくだった心構えがあると主は大いに祝福してくださいます。 現代人の多くは自分で考えて、決心して動くようになる。主は何を考えてるか、思ってるか別にどうでもいいんじゃないかと考えています。そうするともちろん祝福がないし、必ず壁にぶつかるようになる。 主に従うと、どういうことになるか確かに分からない。けどもどういうことになっても、「主よ。私は従ったから本当はあなたの責任です。どうすればいいかわからない。任せます。」、この態度取ると大いに祝福されるようになります。 ダビデは、「導いてください。私の思い煩いを知ってください。どうすればいいかわからない。」、このような態度があれば大丈夫。主が責任を取ってくださいます。 エレミヤ記の15章の16節。何回も何回も読みました箇所ですけど、ひとつの体験であります。 われわれも毎日この体験をもつと本当に祝福されます。 エレミヤ書15:16
人間は理解しようと思えば壁にぶつかります。理解しようと思えば聖書とは決して喜びの訪れではなく、とんでもない重荷になります。 エレミヤはわからなかったでしょう。どういうもんか理解できなかったでしょうけど、彼は食べた。自分のものにした。その結果とは本当にすばらしいものです。 エレミヤ書15:16
心から喜ぶことができる人間は少ないなのでないでしょうか。みことばこそが本当の喜びの源です。 みことばに頼ると、主の約束を自分のものにすると、楽になる。重荷から解放されます。これこそがエレミヤの経験でした。 彼は普通の人間よりも苦労した人で、悩んだ人でした。彼は信ずる者によって迫害されるようになり、主に信頼したからこそ、刑務所に入れられるようになったのです。 どうしてこのような辛い経験をもつようになったかと言いますと、人間を喜ばせようとしなかったからです。「主はこう言われる。」という断固たる態度を取ったからです。 われわれを攻撃する悪魔は、ただ単に試みる者、悪しき者、偽り者であるだけではない。われわれを攻撃する悪魔はわれわれを訴える者です。 もちろん人間の前にじゃなくて神の前に悪魔はわれわれを訴えてると聖書ははっきり言ってるのです。 ヨハネは上からの啓示によって悪魔に対する最後の勝利がいかなるものであるかを預言したのであります。前に読みましたヨハネの黙示録12章の中でこの最後的な勝利について書き記されています。 ヨハネの黙示録12:10
と書かれています。 われらの兄弟らを訴える者。夜、昼われらの神の御前で彼らを訴える者は投げ落とされたあります。悪魔はわれわれをいかに訴えるなのでしょうか。 第一に、主なる神の御座の前で。 第二に、良心の呵責に対して。 第三に、ほかの人を通して、悪魔はわれわれを訴えるのです。 悪魔が私たちをまず主なる神の御座の前で訴えることについてちょっと考えたいと思います。聖書の中にいくつかの例を見ることができますから。 悪魔はあたかも自分が神の律法を守る者であるかのように振る舞います。 ゼカリヤ書3:1-7
律法によると、大祭司はきよい衣を着ていたことがわかります。また、きよい帽子をもかぶるべきであったと出エジプト記の28章に書かれています。 出エジプト記28:36-38
出エジプト記29:6
とあります。大祭司は結局きよい衣を着て、きよい帽子をかぶらなければならなかったとあります。 けども前に読みましたゼカリヤ書を見るとヨシュアは、きよい衣じゃなくて、けがれた衣を着ていた。そこで悪魔がそのことを訴えたのです。確かにそのとき悪魔は訴える口実をもっていたことはもっていたんです。 けどもそのとき主はサタンに言われた。「サタンよ。主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか。」とあります。 すなわち主なる神は決して律法に基づいてことを行なわれるのではなく、ご自分で選び、すなわち恵みに基づいてすべてを行なわれるのです。 ヨシュアはさばきの火の中から取り出された燃えさしのような者でした。悪魔はけがれてる者、きよくない者、不従順な者、不信仰な者を訴える十分な口実をもっています。 律法に基づくならば私たちはすべてさばかれなければならない。そのとき主の御使いは自分の前に立っている者どもに言いました。 「彼のけがれた衣を脱がせなさい。」、またヨシュアに向かって言いました。「見よ。わたしはあなたの罪を取り除いた。」 前に私たちは旧約聖書の中に出て来る主の御使いが、主ご自身の現われであるということを学びました。 罪を赦すことができるお方は決して普通の御使いではありません。主を除いてはだれもできません。 主ご自身が結局、「見よ。わたしはあなたの罪を取り除いた。」と言われたのです。 ヨハネの手紙第Iの2章。近いうちにこのヨハネの手紙第I全部ゆっくりお読みになれば、非常にすばらしい手紙です。ことばの使い方は非常に少ない。 当時の学者のような言葉の使い方じゃなくて、あまり教育を受けていない人々の言葉遣いなんです。あんまり言葉使われていませんけども、もっとも大切な手紙の一つです。結局色々な問題がある。 そうすると大切なのは、A、B、Cとはいったい何なのでしょうか。A、B、Cとはこのヨハネの手紙第Iの中に書かれています。 聖書を見ると、戻ろうと思えばこの手紙を土台にすべきなのではないでしょうか。当時のヨハネは100歳に近かったでしょう。次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、2:1
われわれの弁護士は主イエス様ご自身です。父のみもとに義なるイエス・キリストがおられる。 罪を告白する者に対しては今日もイエス様は、「けがれた衣を脱ぎなさい。」、「あなたに礼服を着せよう。見よ。わたしはあなたの罪を取り除いた。」と呼びかけ、また約束しておられるのです。 ただイエス様お一人だけが律法を完全に成就してくださったため、われわれの罪は消えて無くなりました。 それですから私たちにとってただイエス様だけが最高の弁護者であり、そのため悪魔は黙らなければならず、かえって反対に訴えられる者とされているのです。 福音書の中で、ルカの福音書になりますけども、イエス様はペテロに次のように言ったことがあります。 ルカの福音書22:31-32
イエス様はペテロに対してと同じようにわれわれに対してもみことばをくださっておられるのです。 「サタンが、あなたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たち姉妹たちを力づけてやりなさい。」と。 悪魔は本当に信ずる者を攻撃します。夜、昼。けども大切なのはイエス様なんです。「しかしわたし」、それがなければもう本当におしまいです。 けど悪魔はただ単に主の御座の前で訴えるだけでなく、われわれの良心の呵責にも訴えているのです。 そこで悪魔が訴えることは残念ながら正しいことを認めざるを得ません。それによって悪魔は救いなどというものがわれわれにはあり得ず、ただ絶望だけが待ってるというふうにそそのかすのです。 悪魔は私たちが罪を犯す前にはその罪がちっぽけなものであり、大したことではないと囁きながら一旦罪を犯すとそれが・・・ (テープ一時中断) ・・・ないほど大きなものであると責め続けるのです。 そのことによって多くの信ずる者は罪の赦しなどあり得ないというふうに思い込んでしまいます。けど実際は主の前で心から罪を悔い改めた者はもはや悲しまなくてもよいのです。 そのこと・・・ (テープ A面 → B面) ・・・に対して書き送っていたのです。 コリント人への手紙第II、2:6-11
とあります。同じく、 コリント人への手紙第II、7:10
とあります。罪を告白する者はあわれみを受ける。 イエス様の流された血潮はあらゆる罪を取り除く力をもつものです。ヨハネの手紙第Iの1章の7節に、ヨハネは当時の信ずる者に次のように書いたのです。よく知られてる箇所です。 ヨハネの手紙第I、1:7
御子主イエスの血はすべての罪からきよめると約束されています。 流された血の大切さについておもにヘブル人への手紙の中で書き記されていますが、9章の14節、一節だけちょっとお読みいたします。 ヘブル人への手紙9:14
キリストの流された血の力とは考えられないすばらしい力です。 悪魔は人間を訴える者として夜、昼人間を攻撃します。訴えます。まず主の御座の前で、それから良心の呵責に対して、最後にほかの人を通して悪魔はわれわれを訴えます。 このようなわけで、悪魔がわれわれを訴える口実をまったく何一つもっていないということこそ大切なことです。 その意味でパウロは、われわれの日常生活におけるきよめの必要性を手紙の中に書いているのです。 テモテへの手紙第Iの5章の中で、パウロは愛弟子であるテモテに次のように書き記したのであります。 テモテへの手紙第I、5:14-15
と書いたのです。それから、テトスへの手紙の2章1節から。 テトスへの手紙2:1-10
8節に、「非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。」 そうすれば、敵対する者も、結局反対者も、結局悪魔のことです、悪魔も私たちについて何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょうとパウロは書いたのです。 ダビデという王さまは殺人と姦淫を行ないました。そのとき悪魔はダビデに向かって罪を責め立て、ダビデにはもはや救いがないことをしきりに語りかけ、ダビデの信仰をダメにしようと激しく攻撃したことに違いない。 けどダビデはそのような悪魔のいざないの声や、人間の声や、自分の良心の呵責に負けることなく、ただあなたの罪は赦されたというみことばだけを信頼したのです。 私たちもダビデと同じように主のみことばだけに信頼しないならば、主の御名を汚すことになります。 そのように主を第一とし、主のみことばを100%信ずる者には、悪魔の勝利をもたらす余地がないのです。 訴える者に対する最後の武器はイエス様の流された血潮です。私たちは常にみことばに基づき、主をほめたたえるべきです。イエス様の血はただ罪を赦す力だけではなく、われわれを守り、導く力をもつものであります。 今までのところからわかるように、われわれを訴える者は、われわれに敵する者です。 パウロはローマ人への手紙8章の中で次のように書いたのであります。だれがわれわれに敵し得ようか。だれが神の選ばれた者たちを訴えるなのでしょうかと。 本当にすばらしいまことの喜びの根拠なることばなのではないでしょうか。 ローマ人への手紙8:31-34
弁護してくださるのです。 ローマ人への手紙8:35-39
神は義とされると33節に書かれています。結局、信ずる者の喜びのもっとも深いものとはそれでしょう。 なぜ主なる神は罪にまみれた私たちを義とされるなのでありましょうか。 キリストは死んで、今よみがえって、父なる紙の右に座し、またわれわれのためにとりなしていてくださるからですと。 先ほど言いましたように、悪魔がわれわれを訴える口実をもっているということは、動かすことのできない事実です。 けどそれよりもはるかに偉大な事実は、イエス様がこの世の支配者である悪魔に完全な勝利を成してくださったということ。 そしてわれわれのためにとりなしてくださっているという事実です。 |