引用聖句:ヨハネの福音書8章37節、44節
パウロは、コリントにいる主に出会った兄弟姉妹に次のように書いたことがあります。 コリント人への手紙第II、3:17
自由がなければもちろん喜びもないし、平安もないし、力もないし、救われるべき人々は導かれ得ないのであります。 ある神学校で学生たちは論文を書かなければならなかったんです。偉大なる神と敵対者である悪魔、そういう問題について書かなければならなかった。3時間半ぐらい時間が与えられたんです。 ひとりの学生は夢中になって、結局主の愛について、忠実さについて、恵みについて、もう書いて書いて、もう段々嬉しくなっちゃって、主はすばらしい。主はほむべきお方だと書いて書いて、そして最後のベルになったんです。 ちょっと的外れじゃないか。主についてしか書かなかった。最後の文章で、悪魔のために暇がないと書いて出したんです。 確かに主はあんまりにもすばらしいから、悪魔についてそんなに考えなくてもいい。 最近多くの教会は、やっぱり悪魔のこと非常に大切にするんです。どなたか風邪を引くと、「いやー、あなたは悪霊につかれてる。悪霊を出さないとダメだ。」と。とんでもない話です。 悪魔は長い目で見ると、主のご目的が達せられるためのしもべに過ぎない。もちろんわれわれの目から見ると、悪魔は大変な力をもつ者です。 今の目に見える世界の神とは悪魔だ。全部一時的に悪魔に任せられてると聖書ははっきり言ってるのです。ですから使徒たちはやっぱり真剣になって次のように書いたのです。 ペテロの手紙第I、5:8
今日もそうなんです。だから、 ペテロの手紙第I、5:9
エペソ人への手紙6:11
と書き記されています。 悪魔の目的とは、あらゆる方法を通して信ずる者をイエス様から引き離すことです。 ひとりぼっちになると、もうおしまい。けど私たちは意識してイエス様に拠り頼み、みことばに頼れば、悪魔と言えどもわれわれに対してどうすることもできません。 ですから私たちが自分の思いや力で歩もうとしたり、結局イエス様にだけ頼らなければ、自分勝手に何とかなると思えば、もちろん悪魔の勝利になります。 そのようにしてみことばを疎かにする者は本当の喜び、また平安、証しをする勇気をもちろん失ってしまいます。 毎日、「主よ。どうかお教えになってください。導いてください。あなたをよりよく知ることができるように恵みを与えてください。」と切に祈り続けるべきなのではないでしょうか。ダビデは、 詩篇139:23-24
このダビデとは、決して完全ではなかったけど、みこころにかなう人と呼ばれるようになったのです。 どうしてであるかと言いますと、結局、「知ってください。教えてください。導いてください。」と絶えず祈り続けたからです。 前に話したように、エレミヤはみことばによって元気になったのです。 エレミヤ書15:16
と彼は言うことができたのです。みことばに頼ることこそがもっとも大切です。 詩篇を読むと、当時の人々がいかに生かされたのか、重荷と心配から解放されたのかよくわかります。 ひと言葉で言いますと、彼らは徹頭徹尾主にだけ頼ったのです。ダビデは、 詩篇119:72
詩篇119:97
詩篇119:140
主を愛することとは、すなわちみことばを愛することです。みことばを慕い求めることなのではないでしょうか。 前にひとつの日記、聖書(が書いたという設定)の日記を紹介したことがあるんですけど、ちょっと読みましょうか。 1月15日。 静かな一週間を過ごした。 新年の数日間の私の持ち主は、私を規則正しく読んだ。しかし今は私を忘れてるらしい。 2月2日。 今日、整頓された。 ほかのものと一緒に埃を掃われた。そして元の場所に戻された。 2月8日。 持ち主が朝のお祈り終わってから少しの間用いられた。 持ち主は二、三ヶ所読んで、持ち主と一緒に教会に行った。 3月7日。 整頓され、埃を掃われ、元の場所へ置かれた。 教会に行ってから、玄関に置きっ放しになっていたから。 4月2日。 今日は忙しかった。持ち主が司会をやったので私を読まねばならなかったのである。 ちゃんとその場所になるのに、その聖句を長い間持ち主は見つけることができなかった。 5月5日。 午後いっぱい、おばあちゃんの膝の上にいた。おばあちゃんはここをたずねたのだ。 コロサイ人への手紙2章5節から7節を読んで、おばあちゃんは涙を流した。 5月9日。 今、毎日午後、おばあちゃんの膝の上にいる。私はそこを居心地良く感ずる。 おばあちゃんはしばらく読み、また私に語りかける。 5月10日。 おばあちゃんは出かけた。私は元の場所に戻された。 お別れのとき、接吻してもらった。 6月3日。 今日だれかが私のページの間にクローバーの葉を二、三枚挟んだ。 7月1日。 着物やほかの物と一緒にトランクに詰められた。休みにどこかへ出かけるらしい。 7月7日。 まだトランクの中にいる。 7月10日。 ほかの物はほとんどみんな取り出されたのに、私はまだトランクの中だ。 7月10日。 再び家に帰って元の場所にいる。かなり長い旅行だった。 しかし私は読まれなかったのに、なぜ一緒に行かなければならなかったのか。理解に苦しむ。 8月1日。 ひどく息苦しく、暑い。 二冊の雑誌と小説が一冊。それに古い帽子が私の上に乗っかっている。取り除けたら嬉しいのだがな。 9月5日。 整頓され、埃を掃われ、きちんと置かれた。 9月10日。 今日、ハナコが私を少しの間使った。 ハナコはお兄さんを亡くした友だちに手紙を書いた。それで適当な聖句を用いたのだ。 9月30日。 また埃が掃われた。 結局そういう人々の信仰とは、もちろん単なる飾り物なのではないでしょうか。 信仰があっても、なくても別に何とかなるなのではないでしょうか。 そういう人々とはもちろん、知らないうちに用いられなくなるし、もちろん喜びもないし、自由もない。主に用いられ得ないのです。だからペテロは、 ペテロの手紙第I、5:8-9
信仰に立つこととは、みことばに頼ることです。 「書かれてるから信じます。約束されているから期待をもって待ってます。」、この態度を取り続けることこそが大切です。 われわれを攻撃する悪魔は、今まで話したように試みる者です。それから、悪しき者です。それから、偽る者です。それから、この間学んだように信ずるひとりひとりを訴える者です。 悪魔が確かにわれわれを訴える口実をもっています。けどそれよりもはるかに偉大な事実は、イエス様がこの世の支配者である悪魔に完全な勝利を成してくださったということです。 そしてこのイエス様はわれわれの弁護士として、大祭司としてとりなしていてくださるのです。 前に読まれました、ヨハネの福音書8章の37節、また44節を見ると、悪魔は人殺しと呼ばれている者です。 ヨハネの福音書8:37
頭の知識として彼らは聖書の知識をもっていました。けども聖書よりも彼らの思ってることを考えることが大切にされたからです。 創造者であり、良き羊飼いであられる主はいのちを与えるお方です。主ご自身がいのちそのものです。 イエス様は、わたしの語ったことばは霊であり、いのちです。これに対して悪魔は、狼のように人を喰ったり、人を滅ぼしたりすることだけを考えています。 ヨハネの福音書10:10
このことは聖書が始めから終わりに至るまで証明している事実です。 主はいのちを与えようと望んでおられ、悪魔は人殺しそのものです。二、三の例をちょっと取り出して考えましょうか。 創世記の4章を見るとわかりますが、アベルは義人と呼ばれていた人でした。アダムとエバの子どもだったのです。 長男であるカインは悪魔から出た者であって、結局弟であるアベルを殺してしまったのです。 アダムとエバの現在は、したがって悪魔が言ったように害のない者ではなく、兄弟を殺すという結果を引き起こしたのです。 カインがアベルをねたんで殺したときから、憎しみがあらゆる人殺しや戦争の原因となってるのです。 ヨハネは手紙の中で次のように書いたのであります。 ヨハネの手紙第I、3:12
ヨハネの手紙第I、3:15
とあります。 悪魔はいつか将来、女から出た者によって自分のかしらを砕かれることを、すなわち完全に敗北を体験しなければならないということをもちろん知っていたのです。 創世記の中ではっきりそういうふうに書かれてるからです。だから悪魔は自分の敗北を恐れて、女から生まれ、しかも生けるまことの神を恐れ、真心から信じ、正しいアベルを殺したのです。結局、救い主が来ないように。 それからさらにエジプトの王であるパロも同じように悪魔の道具となり、すべての男の子を殺すように、ユダヤ人の男の子を殺すようにと命令するようになったのです。 救い主はユダで生まれるようになると書かれています。 出エジプト記1:16
出エジプト記1:22
とあります。悪魔はパロを用いて神の民をダメにしようとしたのです。 悪魔は選ばれた民であるイスラエルがダメになると、本当の救いをもたらす救い主が来ないということを知り、男の子をみな殺してしまったのです。 列王記第IIの11章を見ても同じく人殺しである悪魔の働きを見ることができます。 列王記第II、11:1
と書かれています。 悪魔のようなイゼベルの娘であるアタルヤは、王さまの一族をことごとく滅ぼそうとしたのです。 悪魔はダビデの子孫から救い主が出ることを知っていたので、ダビデ王の一族を全部滅ぼせば安全だ、救い主が来られないと思ったのです。 そのときに助け出されたただひとりの者はヨアシュという子でした。そのように主なる神は悪魔に対して最後の勝利を勝ち取るために子どもであるヨアシュをお守りになったのです。 エステルの時代にもまったく同じひどいことが起こりそうになったのです。エステル記の3章の13節になりますが、 エステル記3:13
とあります。 ハマンという男はただ単に王の一族のみならず、イスラエルの人々みんな例外なく滅ぼすことを考え、しかもそれがただ一日でできると確信したのです。 けど主は女王であるエステルを通してハマンの計画をダメにしてしまったのです。殺されたのはユダヤ人ではなく、本人ハマンだったのです。 彼は当時、社会的には一番高い地位にあり、人々から尊敬されていましたが、彼の計画は悪魔から出たものでした。 ヨブ記を読むと、悪魔はいかにして攻撃することができる者であるかを知ることができます。 前に読んだことがありますけれども、ヨブ記の1章を見てもわかりますが、ヨブ記の1章の中で色々なことが書きしるされています。 本当はヨブ記1章を全部読めば一番いいんですけど、結局ヨブは悪魔の攻撃の結果として考えられないほど悩んだのです。 ヨブ記1:13-19
考えられない辛い経験でした。 結局ヨブの信仰をダメにするために悪魔は、しもべたちを殺したり、天から火を下して、羊やしもべを焼き滅ぼしたり、剣をもってしもべたちを再び打つ殺すだけではなく、大風を吹かせて、ヨブの子ども十人を殺してしまったのです。 全部悪魔のわざだったとヨブ記を読むとわかります。 もちろんよくご存知のように、ヨブはこれを許した神と関係をもちたくない、もう十分ですという態度を取らなかったのです。 ヨブ記1:20
礼拝することとは主をほめたたえることです。主のみが栄光と誉れを受けるべきであるという心構えの現われです。 ヨブ記1:21-22
とあります。 やがて本当の救い主、主イエス様がこの世にお生まれになったとき、悪魔はただちに当時の王であるヘロデを用いてイエス様を殺そうとしたのです。 ヘロデは本当は2歳以下の子どもをみな殺さなくてもよかったんです。 (テープ A面 → B面) そのような方法を取らざるを得なかったのです。 マタイの福音書2:16
とあります。 イエス様が30歳になられて伝道を始めようとされたとき、ナザレ、自分で定められた町の人々はイエス様を結局がけから突き落とそうとしたのであるとルカの福音書4章に書かれています。 ルカの福音書4:29
結局ナザレの人々は急にイエス様を殺そうと計画したのであります。 そしてイエス様がご自分を約束された救い主であり、神の子であると言われたために、多くのユダヤ人たちは何回も何回もイエス様を殺そうと計画したのであります。 ヨハネの福音書の中でこういうことについて一番細かく書き記されています。なぜならばヨハネの福音書を通してこそ、イエス様ご自身が約束された救い主であり、永遠の神であると証しされてるからです。例えば、 ヨハネの福音書5:18
同じく、 ヨハネの福音書8:59
ヨハネの福音書10:31
とあります。 イエス様はヨハネの福音書11章に書かれてるように、ラザロが死んだときに、「わたしはいのちであり、いのちである。わたしを信ずる者は死んでも生きる。」と言われたのです。 イエス様はそういうふうに言われただけではなく、それを証明してくださいました。 「ラザロよ。出て来なさい。」と言われたとき、ラザロは命令されたとおりに生き返って、墓から出て来たと。 悪魔の影響によって、ユダヤ人たちはイエス様だけじゃなくてラザロも殺そうと計画するようになったのです。 ヨハネの福音書11:53
ヨハネの福音書12:10
とあります。しかしながらなかなか目的を達成できなかった悪魔は、ユダヤ人とローマの軍隊とがいっしょになってイエス様を十字架につけたとき、初めて最後の目的を達したのです。 ヨハネの福音書19:15-16
とあります。 イエス様が言われたこと、すなわち悪魔は初めから人殺しであるという事実が証明されたのです。 悪魔が人殺しであるということは、過去の歴史的な事実であるのみならず、現在も将来も人殺しを行ない続けるのです。 悪魔から出た宗教も同じように人殺しを行ないます。宗教は全部悪魔の発明したものです。ヨハネの福音書16章2節を見るとわかります。 ヨハネの福音書16:2
本当の主とつながってる者を殺すことが、神に対する奉仕であると間違って思い込んでる人々が、もちろん過去においてもたくさんいましたし、将来もたくさん出て来るでしょう。 パウロでさえもこういうふうに悪魔に目くらにされ、悪魔の虜だったのです。 イエス様の思い出を消すことこそが、イエス様を信ずる人々を迫害したり、殺したりすることこそが、神に対する奉仕だと彼は確信したのです。 ステパノ、使徒の働きに書かれてるステパノやヤコブが殺された場合もそうでした。このようなことが特に中世においてカトリックの教会がやったことでありました。 「聖書を読んではいかん。」、「聖書を持つ人、聖書を読む人は殺されるべきである。」とカトリック教会は何百年間考えただけではなく、数えられないほど多くの人々は殺されてしまったのです。 過去においてわれわれは間違っていたと言えばいいんですけど、今日までカトリック教会はそれを認めようとしない。 認めたら、すなわちむかしの方は間違っていたと認めたら、今の方も間違ってるかもしれないということになります。ローマ教会の方は決して救われたキリスト者ではない。頭のいい政治家に過ぎません。非常に悲しい事実です。 多くの人々は真面目に求めています。けど大部分は福音を聞いたことがない。いっぱい。一回も。 ですから、そういう人々のために本当に祈ることとは、非常に大切なのではないでしょうか。 悪魔によって自殺が起こり、戦争が引き起こされるのです。しかし将来、過去の人殺しとは過去にならないほどはるかに多くの人殺しが行なわれるでしょう。 将来に起こる大戦争を通して人類の三分の一、いっぺんに殺されると聖書は言ってます。 おそらくある国々はいっぺんに消えてしまうのです。生きる残る人は一人もいないでしょう。これこそがもちろん人間のわがままの結果であり、その背後に人殺しである悪魔のわざです。 この世の君、試みる者、悪しき者、偽る者、訴える者、人殺しである悪魔は、この世界が悪魔の思い通りに悪くなっていくことを見て、得意になってることでしょう。 ヨハネは、 ヨハネの手紙第I、5:19
全世界は悪魔の支配下にあることを初代教会の人々は知っていたのです。 コリント人への手紙第IIの2章11節に、パウロは次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、2:11
と書いたのです。 悪魔は知恵と力において人間をはるかに上回っている者です。だから私たちは絶えず目をさまして、抵抗しなければ悪魔に負けてしまいます。 自分勝手な道を行かないようにという心配。毎日、毎日みことばを通してイエス様をよりよく知りたいという願い。意識して主を拠り頼む態度などがわれわれの信仰生活の特徴とならなければならない。 われわれがそのような状態にあるとき、悪魔はわれわれに対してどうすることもできないからです。 |