引用聖句:ヘブル人への手紙1章14節
ヨハネの黙示録22:8-9
パウロは次のように証ししたのです。「私は自分の信じてきた方をよく知っており、その方が何でもできると確信しています。」 非常にすばらしい証しです。 人間はこの確信をもつと新しい者となり、生き生きとした希望をもち、不確実な将来をも喜んで前進することができます。 「私は自分の信じてきた方をよく知っており、その方が何でもできると確信しています。」 確かに多くの人々は、イエス様について色々なことを知ってるでしょうけど、イエス様についての知識を得ることによって、だいたいの人間は傲慢になります。「わかった、わかった。」と言うようになるからです。 パウロは、私はわかったと言ったことがない。私は確信してる。確信してるけどわかっていない。したがって、説明することもできないけども、私の信じた方が何でもできると彼は動かすことのできない確信をもっていたのであります。 結局パウロは、この目に見える世界は私の心を満たさない、目に見えない主イエス様だけが私の心を満たしたお方であり、このイエス様に頼ると失望することはないと彼は確信したのです。 私たちの最近の始まったテーマは、目に見えない世界、霊の世界というテーマだったのです。 そしてこの間、聖書に出てくる天使、御使いたちについてちょっと学び始めました。この間話したように、旧約聖書の中で108回、そして新約聖書の中で165回、御使いということばがでてきます。 御使いたちとは、もちろん創造されたものです。御使いたちは神の命令によって造られたものであり、そしてこのわれわれの目に見える世界よりも創造されたものであると聖書は言ってるのです。 コロサイ人への手紙の中で、すべてが目に見える世界だけではなく、目に見えない世界も主イエス様によって創造されたと書いてますから、だからいわゆる御使いたちもイエス様によって造られたのです。 そして、イエス様のために造られたのです。 天使たちは今読まれましたように、結局仕えるものです。主のしもべたちであると言ってもいいでしょう。 そのヨハネの黙示録の中で、ヨハネは結局三年半イエス様と親しい交わりをもっていたヨハネは、御使いの足もとにひれ伏して、拝もうとしてしまったのです。 したがって、御使いとは考えられない立派なものであり、尊敬すべきものであり、力と知恵と栄光に満ちたものであると言えます。御使いは勢いにおいても力においても、われわれ人間にずっとまさってます。 聖書を見ると、神の使いの知恵が本当にすばらしいものであることもすぐわかりますし、そして御使いたちはよく、聖なるものと呼ばれています。聖なるものとは、結局まったく主に属するものである。主に仕えるものであるということです。 けども神によって創造された御使いたちは、単に力強い、賢く、神聖であるだけではなく、本当に栄光に富んだものであると聖書ははっきり言ってます。 ダニエルが御使いの出現を見たとき、力が抜け去り、まったく力がなくなったとあります。御使いのミカエルは、太陽のようなものであったと聖書に書き記されています。 将来イエス様はご自分の栄光と父と聖なる御使いとの栄光のうちに現われてくると約束されています。 御使いとは、神によって創造されたのです。そして今の読みましたヘブル人への手紙の中で、1章の14節でしたね。 ヘブル人への手紙1:14
と書かれています。御使いは救われたわれわれのために遣わされたものです。どうして遣わされたなのでしょうか。必要だからです。よく人々は、どうして、なぜかと考えます。聖書の答えは必要だからです。偶然はないからです。 人間は本当に惨めでどうしようもないものであるから、御使いたちが遣わされます。人間は自分自身を守ることができないから、御使いたちによって守る必要があると聖書は言ってます。 人間は本当にダメ。けど、御使いたちが遣わされる。反面言えることは、われわれは主にとって非常に大切なんです。 どういう人間であっても、主にとってどうでもいい存在ではない。あらゆる人間は主にとって貴いものであります。 どういう人間であってもみな例外なく、神の愛の対象です。結局聖書の呼びかけとは、あなたも愛されてるし、あなたも心配されていると。だからこそ私たちは喜ぶことができ、安心して将来に向かうことができるのです。 当時の御使いの呼びかけとは、ヨハネの黙示録22章の9節に書かれてるように、「神に拝みなさい。」 ヨハネという愚かな者は、創造されたものを拝もうとしたんです。確かに御使いは、もう考えられないすばらしいものであり、けども決して拝むべきものではない。 拝むべきお方とは、すべてを創造された造り主であり、全能者なる主だけです。 「神に拝みなさい。」、これはわれわれに対する命令でもあるなのではないでしょうか。 神を拝む者とは、もちろん主の恵みを、あわれみを体験的に知るようになった人々です。礼拝とはどうしてそんなに大切なのでありましょうか。 多くの人々にとっての礼拝とは、義務的なことです。もちろん色々な事情があるらしいけど、ある人々は礼拝終わってから帰っちゃうんです。 日曜日、どうしてかわからない。ぼく滅多にいないし、一番サボってるのは私です。 この一年間、ここにいたのは三回しかないんです。けどもね、多くの教会行く人々は、礼拝だけ出ればそれでいいじゃないか。続く福音集会も同じように大切でしょう。 結局主が呼びかけてくださらなければ、みことばによって新しく生かされなければ、本当の意味での礼拝をささげられないなのではないでしょうか。 主はどうして礼拝されるべきかと言いますと、主は中心になり、礼拝されれば人間は解放されます。本当の意味で喜ぶことができるようになります。 ですから人間は中心になりたい、認めてもらいたいという気持ちとは、結局私は大切にされてもらいたいから、主は別にどうでもいいということになるんです。 結果として満たされ得ませんし、孤独になります。ですから、「神に拝みなさい。」という呼びかけとは非常に大切です。 御使いたちの使命とは、いったいどういうものなのでありましょうか。御使いたちの使命とは、主なる神に仕えることです。 御使いは今ここでヘブル人への手紙に書かれてるように、 ヘブル人への手紙1:14
御使いたちはもちろん信ずる者に仕えるべきものであるだけではなく、まず主に仕えるべきものです。 御使いは絶えず主なる神の周りにいて、主のみこころを行なおうとしています。もちろん御使いは罪を知らないし、わがままじゃないし、御使いたちの切なる願いとは、主のみこころだけがなるようにと望んでいます。 主がこの世を造られたとき、御使いたちはもうすでに存在したのであり、喜んでいたとヨブ記に書かれています。 ヨブ記の38章を見ると次のように書かれてます。 ヨブ記38:4-7
とあります。 そのときもちろん人間はいなかったから、神の子たちとは御使いたちのことを意味してるのであります。 御使いたちはシナイ山でモーセに律法を授けたのであるとあります。ステパノは使徒の働きの7章53節に、この事実について次のように書いたのであります。 使徒の働き7:53
ここで御使いたちの大切さ、役目についても書き記されています。 御使いは主なる神が命じられたとおり、救いとさばきとを行なうものである。聖書ははっきり言ってます。一ヶ所ちょっと見てみましょうか。 創世記19:15-22
とあります。 御使いたちは結局、主の救いにあずかったロトを守ろう、救い出そうと望んだのであり、そして助け手となったのであります。 サムエル記第IIの24章にも御使いの役目について次のように書かれてます。 サムエル記第II、24:16-17
とあります。ここでさばきを行なったのは御使いでありました。もちろん御使いは主の赦しなしに何もすることができません。 ダビデはそのとき結局国民ではない。国民とは羊の群れにすぎない。 罪を犯したのはこの私ですと彼は自分の罪を公にしたことによって、彼は回復され、また喜ぶ者となり、また国民も守られたのであります。 ヨハネの黙示録の7章、また8章にも御使いこそがさばきを行なうものであるとあります。 ヨハネの黙示録7:2
とあります。それから同じく、 ヨハネの黙示録8:6-12
こういう箇所を見ると、御使いこそが救いを行なうものであり、さばきを行なうものであると知ることができます。 御使いの使命は、主の命令を忠実に行なうことです。 御使いはこの世の国民とも関わり合いをもち、例えばイスラエル、メディヤ、ペルシヤ、ギリシヤなどの諸民族を助けるものであるとダニエル書を通して知ることができます。 ダニエル書12:1
この大いなる君、ミカエルとは、御使いたちのかしらであります。そしてこの大いなる君であるミカエルがおもにイスラエルの民を守るものであります。 ダニエル書10:13
とあります。 このペルシヤの国の君とは、堕落してしまった御使い、すなわち悪霊になってしまったものだったのであります。 だからダニエルは必死になって祈っても、なかなか答えが目に見える形でなかったんです。けどもそのとき、第一の君のひとり、ミカエルが助けたとあります。 ダニエル書10:20
結局、ペルシヤの君も、ギリシヤの君も結局悪霊だったのであります。 目に見える戦いとは、いわゆる誤解とか憎しみとか戦争とか、確かに大変なんですけど、見えない世界の戦いのひとつの表われにすぎないなのではないでしょうか。 ダニエル書11:1
とあります。ずっとヨハネの黙示録を読んでみるとわかります。 すなわち、目に見えない世界の戦いは非常に激しい戦いであります。将来のひとつの戦いについてヨハネの黙示録の12章に書かれています。 ヨハネの黙示録12:7-9
悪魔の使いどもとは、いわゆる悪霊であります。この戦いとはもちろん将来起こる戦いであり、天に戦いが起こるのとはちょっと考えられないことなんです。 けども聖書ははっきりそう言っています。なぜならば悪魔はもちろん今日も主なる神に近づくことができる。結局天国にはいることができるということです。 悪魔はもちろん一秒も寝る必要はないでしょうし、一秒、一秒信ずる者・・・ (テープ A面 → B面) ・・・じゃないか。 今、この罪犯してるでしょ?今、このようなこと考えてるでしょ?こういうふうに悪魔は信ずる者を訴えるのです。 ヨブ記を読むとわかります。悪魔は必死になってヨブを訴えたんです。けど、ヨブとは当時のもっとも立派な人格者であり、主によって義と認められた者だったのであります。 どうして将来新しい天が必要かと言いますと、結局悪魔はやっぱり今も主に近づくことができるからなのではないでしょうか。 天の戦いが起こると、ミカエルが戦うようになり、勝利を得る。イエス様は別に必要ない。 悪魔はもうすでにイエス様によって滅ぼされたと聖書ははっきり言ってるのです。けどもこのような箇所を見てもわかります。御使いたちの使命とは、本当に大切な使命であります。使命は主の命令を行なうことです。 そしてヨハネの黙示録の20章を見るとわかりますけれども。20章。御使いは悪魔を捕えてつないでおき、底知れぬ所に投げ込むとあります。 ヨハネの黙示録20:1-3
云々とあります。ここで御使いの力を知ることができます。御使いの力とはもちろん悪魔の力よりもずっと大きなものであります。 そして御使いは主の前でひれ伏して、ほめたたえ、絶えず賛美し続けるものでもあるとあります。 ヨハネの黙示録5:11-12
このほふられたお方とはわれわれのわがまま、過ち、罪のために十字架の上で犠牲になり、救いの道を開いてくださった主イエス様です。主イエス様こそが御使いたちの礼拝の中心です。 イエス様のこの地上での人生について考えるとわかります。すなわち御使いは初めから終わりまでイエス様の生涯を見守られたということです。 ルカの福音書を見るとわかりますけども、御使いは、すなわちガブリエルだったんです。 ガブリエルも御使いのかしらのひとりです。この御使いガブリエルは、マリヤにイエス様の誕生を告げ知らせたのです。 マリヤはもちろん何にもわからなかった。ガブリエルはわかったとあります。またガブリエルはバプテスマのヨハネの場合も同じようにその誕生を告げ知らせたとあります。 ルカの福音書1:11-17
とあります。この御使いの役目は非常に大切な役目でした。続いて、 ルカの福音書1:18
結局素直に信じようとしなかった。理性でもってつかめなかったからです。 ルカの福音書1:18-20
ルカの福音書1:26-28
同じ御使いのかしらであるガブリエルは、バプテスマのヨハネの誕生、また主イエス様の誕生を告げ知らせたのであります。 この知らせとは、ここで書かれてるように、間違いなく喜びのおとずれでした。 主は本当は人間別に必要ないでしょう。喜びのおとずれを伝えられるのは天使たちは十分できるのです。私たちはイエス様のこと紹介できるのはすばらしい特権なのではないでしょうか。 この28節のことばは、もちろんわれわれにも当てはまることばでしょう。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 主は、わたしはあなたがたを見捨てはしない。何回も何回も、わたしはあなたとともにいると主は言われたのです。だからわれわれは大いに喜ぶべきなのではないでしょうか。 もちろん御使いは、ザカリヤだけではなく、マリヤだけではなく、ヨセフに対しても同じようにイエス様の誕生を知らせました。 御使いの奉仕がなかったならば、全部絶望的になったでしょう。ひとつの悲劇になってしまったなのではないでしょうか。 ヨセフは結局、マリヤと縁を切ることを決めたんです。もう関係をもちたくない。嫌です。結婚することだって笑い話じゃないか。御使いたちによって彼は正しい道に導かれるようになったのです。 また御使いたちはイエス様の誕生の夜、羊飼いたちにも現われ、そして天の軍勢も主をほめたたえた。 喜びのおとずれを宣べ伝えたのです。「あなたがたのために救い主がお生まれになったのです。」と。 イエス様が、もちろん殺されそうになったのです。 悪魔はもちろん何があっても、この子はやっぱり死ななければならないと努力して当時の王さまを結局道具として用いようと望んだのです。 マタイの福音書の2章を見るとすぐわかりますが、 マタイの福音書2:13
マタイの福音書2:19-20
御使いの奉仕とは本当に大切なものでした。イエス様が悪魔の試みに打ち勝ったときも御使いたちが絶えずいたのであり、助けたのであります。 マタイの福音書4:11
とあります。またイエス様がゲッセマネの園で最後に祈られたときも、御使いたちがともにおり、イエス様を力づけたとルカの福音書の22章に書き記されています。 ルカの福音書22:43
ですから、天とは遠く離れてるところじゃない。 普通の人はやっぱりね、もう雲のずっと向こうだと考えてるんですけど、聖書によるとありえない。 結局、信ずることとイエス様とともになることとはひとつなんです。 ある人は、天国は二階だと言ったんです。結局遠く離れていない。目に見えない世界だけなんです。 つかめないことだけです。想像することができない。理解できない。結局必要なとき、天がちゃんといたのです。 御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけたとあります。そしてイエス様が復活なさったとき、御使いが天から下って来て、墓石を取り除いたとあります。 マタイの福音書28:2
もちろん偶然に起こったのではない。 マタイの福音書28:2
とあります。そしてルカの福音書の24章。そこに来た婦人たちに向かって、御使いは喜びのおとずれを伝えたのであります。 ルカの福音書24:4-7
こういうふうに御使いは、喜びのおとずれを悩んでる人々に伝えたのであります。 イエス様が復活して昇天されたとき、御使いは昇天のときと同じようにイエス様が将来再びこの地上に来られることをはっきり伝えたのであります。 使徒の働き1:11
結局十字架につけられたイエス様、釘痕をもつイエス様がまたおいでになります。 十字架につけられたキリストだけが、再び来られます。 十字架につけられたキリストは男と女の間にできた人間ではなかったのです。 お父さんとお母さんをもつ人間はみな例外なくわがままです。罪にまみれた存在です。自分の力でなんにもすることができません。 ですからね、「おれは再臨されたキリストだ。」と言う人がいるとすれば、ちょっとだけ頼めば?「あなたの手をちょっと見せて。あっ、釘痕ないでしょ?嘘つき!」としか言えない。 聖書を使いながら、まったく非聖書的なこと言うなのは本当に悪魔的です。 聖書の中心テーマは、イエス様は私たちのために死なれた事実です。だから私たちは喜ぶことができる。われわれは自分の罪の問題を解決することができない。罪滅ぼしのために何をやってもダメ。 だからイエス様は意識して死ぬためだけに生まれたんです。 イエス様はそれ、永遠のむかしからわかった。聖書ははっきりそう言ってるんです。 イエス様は永遠のむかし、ほふられる小羊となるとわかったのであり、決めたのです。イエス様は死ぬためにだけ来られたのです。 同じイエス様がまた来られるようになります。イエス様が来られると、この世界はいっぺんに変わります。今まで作った武器はもう使えません。だれも使おうとしません。 もちろん戦争もないし、食べ物がなくて餓死する人もいないし、全部いっぺんに変わる。 ですから、私は再臨されたキリストと言いながら、今の世界を見るとわかるでしょう?ちょうど1960年からこの世界は前よりもずっとめっちゃくちゃになってしまったことは事実です。 われわれの代わりに死なれたイエス様ご自身が必ずまたおいでになります。 イエス様は置かれると、やっぱりひとりぼっちじゃないらしい。天使たちと一緒なんですね。 テサロニケ人への手紙第I、4:16
イエス様は御使いたちを遣わして、四方からその選民を呼び集めるようになるとマタイの福音書の24章に書き記されています。 もちろんこのマタイの福音書の24章を読むと覚えるべきこととは、このマタイの福音書24章に言われてることとは、おもにイスラエルために、いわゆるユダヤ人のために書かれたものです。 マタイの福音書24:31
と書かれてます。主イエス様は救いにあずかりたくない人々、結局頭を下げたくない人々をさばくため、力を、天使たちを率いて現われるとテサロニケ人への手紙第IIに書かれています。 テサロニケ人への手紙第II、1:7
とあります。ここで力ある御使いたちを従えて、主イエス様が天から現われると書き記されています。 イエス様が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座に着くようになります。 マタイの福音書25:31
と書き記されています。 最後の審判でイエス様がさばくとき、御使いたちもともにいると福音書を通して知ることができます。 ルカの福音書12:9
ここでも、神の御使いたちという表現が出てきます。また同じく、 ルカの福音書9:26
とあります。救われたくない人々は、聖なる御使いたちと主イエス様の前で火と硫黄とで苦しめられるとヨハネの黙示録の14章に10節に書き記されています。 ヨハネの黙示録14:10
と将来のさばきについて書き記されてます。 私たちは御使いが常にイエス様とともにおり、イエス様とともに働いてることを聖書からはっきり読み取ることができるのです。 御使いたちはイエス様とともにいるため、イエス様によって、イエス様のために創されたものです。 そしてこの御使いたちの願いは、主イエス様を崇め、礼拝することです。 「主を拝みなさい。」これこそが御使いたちの切なる願いなのであります。 |