今、最後に読まれました箇所は本当にすばらしい約束です。 詩篇91:11
守られることこそがもっとも大切なのではないでしょうか。だからよく「安全は第一」と言われています。 主はどういう人々を守ってくださるなのでありましょうか。祈る人々なのではないかと思います。 人間のできることは祈ることです。祈ることをおろそかにすこととは、とんでもない罪であると聖書は言ってます。 なぜならば主は助けたい、導きたい、守ろうとしておられる。けども人間が祈ろうとしなければ主は何もしようとしません。 昨日集会がありまして、そのとき初めて来られた婦人は、「祈れば変えられる。」と喜んだ顔で証ししてくださったのです。 「絶えず祈れ」という本を読んで、結局心の目が開かれたようです。 そして体験として、祈ると主は奇蹟をなしてくださり、恵んでくださると知るようになったのです。 今日も霊の世界なるものについて学びを進めたいと思いますけど、最近、いわゆる天使、御使いについて考えてまいりました。 旧約聖書108回、新約聖書165回、天使の大切さについて、天使の働きについて、天使の使命について書かれてます。 今まで、天使とは何かという質問について考えてまいりました。答えは、天使は主によって造られたものです。 もちろんこのわれわれの目に見える世界よりもずっと前に存在してるものです。 天使たちはイエス様によって造られ、イエス様のために造られたのです。 次に、御使いの本質とはいったいどういうものなのでありましょうか。答えは、天使は勢いにおいても、力においてもわれわれ人間に勝っているということです。 天使の知恵は本当にすばらしいものです。天使は栄光に富んでるものであり、そして天使の特徴は従順に従うことです。 そして主の望んでおられる謙遜さです。 次に、御使いの使命についてこの間考えてまいりました。天使は主に仕えるものです。絶えず主の周りにいて、主のみこころを行なおうと切に望んでるものです。 天使は主なる神が命じられたとおり、救いとさばきを行なうものです。御使いの使命は、主の命令に忠実に従うことです。 それから、天使はイエス様に仕えるものであると聖書を通してもはっきり知ることができます。 天使はいつもイエス様とともにおり、イエス様とともに働いてることを聖書から読み取ることができます。 御使いはイエス様とともにいるため、イエス様によってイエス様のために造られた。御使いの願いは、イエス様を崇め、礼拝することです。 天使のもうひとつの大切な使命は、今読みましたように、われわれを守るため、私たちに仕えるためでもあるとあります。 何回も読みましたヘブル人への手紙の1章の14節に、 ヘブル人への手紙1:14
と書き記されてます。また同じく、 ヘブル人への手紙1:4
主イエス様は、 ヘブル人への手紙1:4
ヘブル人への手紙1:6
結局、イエス様こそが礼拝の中心であるべきです。 この箇所を見てもわかります。イエス様の名は、御使いの名よりもはるかに高く上げられているものですと。 今日、天に帰られたイエス様は多くの御使いを従えているとペテロは証ししたのであります。 ペテロの手紙第I、3:22
エペソ人への手紙の1章の21節にもパウロは同じ事実について次のように書いたのであります。 エペソ人への手紙1:21
イエス様とは本当にすべての上に置かれたお方です。 けども御使いたちは、父に仕えるしもべたちだけではなく、イエス様に仕えるものたちだけではなく、信ずるものにも仕えるものであると、前に読みましたヘブル人への手紙1章14節に書かれてます。 御使いは造られたものであり、救いの相続者となる人たちのために仕えるために遣わされたものです。 すなわち、信ずるものに奉仕するために天使たちは遣わされるとあります。 旧約聖書の中に前に話したように、108回、天使の働きについて、務めについて、召しについて書かれてます。 創世記28:12
とあります。天使たちはある意味で、信ずるものの祈りを運ぶものであると聖書を通して読み取ることができるのです。 むかしの人々はよく、夢を通してみこころを知るようになったのです。今の時代とはちょっと違う。当時の人々は聖書をまだ持っていなかったのです。 アダムとエバは直接主と語り合うことができたのであり、そしてその経験についてもちろん子どもにも、孫にも、ひ孫にも、ひひ孫にも、ひひひ孫にも伝えられたのです。 930歳になっちゃったから、もちろん、いや、ひひひひお祖父ちゃま、ちゃんとそう言ってるよ。間違いなくそうだと。 けども書かれたみことばがなかったんです。だから主はむかし、夢を通して、幻を通して自分自身を明らかにしてくださり、みこころを示していてくださったのです。 確かに現代人の多くは、いや、私は夢を通してこれとこれとこれを教えられた。幻を見た。主なる神、直接私にああいう風に言った。こういう風に言ったと言ってるんですけど、もちろん全然必要ない。 聖書が与えられてるからです。自分に現われた神とは、神であるかどうかだれも証明できないし、もし神がほえたけるししのように現われて来ると、「危ない。大変だ。」と思うでしょうし。 けども悪魔はそういうバカじゃない。光の天使として現われて来る。光の天使来るとやっぱり人間はちいちゃくなり、拝もうとするなのではないでしょうか。 ですから何か特別な経験をもつ必要はないと聖書は強調しています。みことばは十分です。 もし人間は、これとこれとこれ経験したからと言うと、非常に危ない。 信仰の土台なるものはいつもみことばだけでなければならない。けども当時、主は夢を通して語られたのであり、そのときの夢の中で結局神の使いたちが、天に上ったり下りしたのであるとあります。 結局ヤコブはひとつのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使いたちが、それを上り下りしてる夢を見たのです。 これは御使いが絶えず疲れも見えず、信ずるものに奉仕するために活動してることを象徴しているのであります。 私たちはこのようなことを聖書の中から数多く読み取ることができます。 例えば御使いは、われわれの肉体的な必要をも満たしてくれると知ることができます。 例えばハガル。アブラハムといっしょになったエジプトの女奴隷もそれを経験しましたし、エリヤもそれを体験的に知るようになったのです。ハガルについて、創世記の21章に次のように書かれています。 創世記21:15-19
云々とあります。 「私は子どもの死ぬのを見たくない。」、結局見られない。苦しくて、苦しくてしょうがない。 多くの現代人は、自分、自分、自分のことしか考えられない。ハガルはそういう女性ではなかったんです。 私は子どもの死ぬのを見たくない。見られない。救いたいけど何もできません。 こういう心構えがあれば、むかしの如く必ず御使いが遣わされるようになります。御使いは福音を宣べ伝えるものですね。 恐れてはいけない。心配する必要はない。主はちゃんと少年の声を聞かれたよと、あなたよりも主ご自身が心配してくださるからです。そして主が彼女の目を開かれた。 新しい井戸を作る必要はなかったんです。ちゃんとあったんです。彼女は見えなかったことだけなんです。 主が目を開くと、人間は見えるようになり、助けを見いだすようになります。 御使いは結局当時、肉体的な必要を満たしてくれたと知ることができます。エリヤの経験も同じような経験でした。 列王記第I、19:5
天から遣わされた御使い 列王記第I、19:5-7
御使いによってエリヤの肉体の必要が与えられたとここで書かれてます。 御使いはイエス様に仕えたと書いてありますけども、御使いはハガルにも仕えたのであり、エリヤにも仕えたものでありました。そのときエリヤはノイローゼになってしまったのです。「死にたい。」と思い込んでしまったのです。 どうして彼は死にたかったと言いますと、病気になったからではない。友だちを失ってしまったのでもない。経済的に苦しくなったのでもない。 彼はどうして死にたかったと言いますと、「私はダメだ。」とわかったからだけなんです。 そのために主はずっと待ち望んでたのです。結局人間は本当の意味で主に拠り頼む者となるために、やっぱり時間が必要。人間はどん底まで落ちなければ絶対にそこまでいかないからです。 エリヤは、「死にたい、死にたい。私のいのちを取って。」と祈ったんです。けども使いが遣わされるようになったのです。 彼はまた元気になったのです。元気になっただけではなく、彼は死を見ないで、あとで生きたままで天に引き上げられるようになったのです。 御使いは肉体の必要も知ってるのであり、満たすことができるものです。また御使いは危険な状態をも守ってくれます。結局守り手にもなられるということです。もう一回創世記に戻りまして、 創世記19:15
主は彼だけじゃなくて、妻も娘たちも救おうと思ったのであります。助けようと思ったのです。 主にとって家族こそが非常に大切です。だから、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる。」と約束されています。 このロトという男は確かにわがままで、自分のことしか考えられない男だったんです。主を信じながら。 ですからよい地を、ソドムとゴモラの地を選んだのであり、結局妥協してしまったのです。だから主は、もう彼と関係を持ちたくないと思われただけではなく、彼の救いのために御使いが遣わされたのです。 創世記19:15-16
結局天の使いたちは、 創世記19:16
結局彼らはソドムとゴモラと一緒に滅ぼされなかったのです。危険な状態から守られたのです。 ロトがソドムから脱出するときに、御使いが守られたのであります。 ダニエルについても同じことが言えます。ダニエル書の6章を見るとわかりますけれども、そのとき、「主に向かって祈ってはいかん。」という命令が出されたのです。 この考え方は決して新しいものではない。当時もそうだったんです。 結局、当時の王は騙されてしまって、とんでもない命令を出したのです。「神に向かって祈ってはいかん。何かをしたければおれのところに来てもらいたい。」 結局、おれは神だということだったんです。けどもダニエルは何があっても従おうとしなかったのです。 「私は祈らなければ、結局主から離れてしまいますとおしまいです。喜びもなくなる。平安もなくなる。真っ暗やみになる。」、だから彼は祈り続けたのです。 祈ったから守られたのではない。長い目で見るともちろん守られたんです。けれども彼は王の命令に従おうとしなかったから、獅子の穴に投げ込まれてしまったのです。 ダニエル書6章の22節、23節に次のように書かれてます。獅子の穴の中からのダニエルの証しです。 ダニエル書6:22
ここもまた御使い、出てくるね。 ダニエル書6:22-23
信頼すると必ず守られます。獅子の穴に投げ込まれたとき、どうして主はそれを赦すなのかと彼はもちろんわからなかったでしょう。 わからなかったんですけど、信頼し続けたのです。御使いが送られ、彼は守られるようになりました。 彼の友だちも彼に倣って、結局同じように主にだけ頼ったのです。ダニエル書の3章の24節、25節も本当にすばらしい証しです。 結局そのとき、みなネブカデネザルの作った像の前にちょっとだけ頭を下げればよかったんです。頭を下げることとは、礼拝することであり、主に臨まないことであるから、ダニエルの友だちは断固として礼拝しようとしなかった。 礼拝すべきお方なのは、天と地を創造された造り主です。結果として彼らは火に燃える炉に投げ込まれたのです。 けど御使いが、ここで御使いと言ってもいいかどうか、ちょっとわからない。主の御使いと言ったほうがいいでしょうし、そして聖書の中に出てくる主の御使いとは、いつもイエス様なんです。 そのときもそうだったでしょう。 ダニエル書3:24-25
結局、彼は妥協しなかったから豊かに守られたのです。もちろん守られただけではなく、彼らのあとの人生とはまったく違うものになったんです。 「信頼したのは良かった。主は嘘つきではない。主は自分の約束をちゃんと守るお方である。」と彼らは前から、もちろん信じたんです。 けどこういうふうに経験することによって、もう何があってもやっぱり信頼し続けると彼らは間違いなく決心したのであります。 もちろん新約聖書の中でも似てる実例はいっぱいあります。実は旧約聖書よりも、新約聖書の中で御使いの働きについてたくさん書かれています。例えば、 使徒の働き12:7
奇蹟的に。 使徒の働き12:8-9
夢じゃないか。 使徒の働き12:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。 (テープ切れ、B面に) ・・・本当だとわかるようになったのです。ここでも主の御使い、御使いということばも何回も何回も出てきます。 ペテロの前にヤコブが捕まえられるようになり、そして殺されてしまったんです。そのあとでペテロは捕まえられ、もちろん殺されそうになったのです。 次の日、実は彼は殺される、死刑にされるべきだったのです。けども御使いは、こういうふうに現われて彼を守ったのです。ペテロを牢屋から連れ出し、解放したのであります。 同じく使徒の働き8章にも主の使いについて次のように書かれてます。 使徒の働き8:26
荒野だったんです。そのときまでピリポはサマリヤで福音を宣べ伝えて、多くの人々は導かれ救われたんです。そしてある日、結局主の使いが、 「もう、サマリヤの伝道、今ちょっとやめてもらいたい。荒野を行きなさい。」 彼は、「イエス様。もったいないじゃないか。折角みな聞く耳を持ってるから、荒野行ってもだれもいないだろう。」と思わないで、従順に従ったんです。 結果として、ひとりのアフリカから来られた人と会うようになったのです。 この宦官は導かれたのであっただけではなく、必ずアフリカでイエス様のことを宣べ伝えた初めての証し人だったのであります。 教会の歴史を見ればわかりますけども、北アフリカでイエス様を信じ、受け入れた人々は数えられないほど多かったんです。間違いなくこの宦官の証しの結果だったのです。 ピリポはそれをもちろん考えられなかったし、ひとりの人のために全部やめて、荒野まで行くのはちょっと時間的にももったいないなのではないかと考えられたかもしれないけど、主は命令したから従うと必ず祝福があると彼は確信していたのです。 御使いの奉仕とは非常に大切なものであると、この箇所を通しても知ることができるのです。 御使いは肉体的な必要を満たすものであり、御使いは危険な状態をも守るものであると知ることができます。 また御使いは主のご計画を明らかにするものであると聖書を通してはっきり知ることができます。 例えばダニエル書の9章。ダニエルは主は御使いを用いてくださり、ご計画を明らかにするお方であることを知るようになったのです。 ダニエル書9:21-23
このことばはわれわれも自分のものにすることができる。「あなたは、神に愛されている。主に心配されてる。主はあなたをのけ者にするお方ではない。主のご計画とは希望と将来を与えるものである。あなたは、神に愛されている人だからだ。」 ダニエル書9:23-27
云々と書かれてます。結局御使いの働きを通して、ダニエルは主のご計画を知るようになったのです。 この預言は今日までまだ実現されていません。将来起こる出来事についてのものであります。 使徒の働きの10章に出て来るコルネリオという兵隊は、御使いを見たと書かれています。 使徒の働き10:3-6
云々とあります。ここで主の御使いが現われたのです。 そのときの御使いもおそらくイエス様であったかもしれない。なぜならば、コルネリオは御使いに向かって、「主よ。」と言ったとき、彼は、「いや、わたしは主じゃないよ。主のしもべにすぎない。」と言わなかったんです。 結局われわれの主はちっぽけな人間の祈りを聞いてくださり、まことの救いを提供しておられるお方です。結局御使いは主のご計画を明らかにされるものです。 ヨハネの黙示録を書いたヨハネの経験もそういうものだったのです。ですからヨハネの黙示録の1章1節に、 ヨハネの黙示録1:1
イエス・キリストの啓示。現われ。 ヨハネの黙示録1:1
とあります。結局、御使いたちは主のご計画を明らかにするために遣わされるものであるとこの箇所を通してもはっきり知ることができます。御使いは、例えばバプテスマのヨハネの誕生もちゃんとわかっただけではなく、この喜ばしい出来事を伝えたのであります。 ルカの福音書1:11-18
信じられなかったから、単純に信じようとしなかったということです。 ルカの福音書1:18-19
ガブリエルとは、天使たちのかしらです。 ルカの福音書1:19-20
彼は今までみことばを宣べ伝えた者だったんですけど、幼子のように信じようとしなかったから、おしになってしまったのです。 ガブリエルの宣べ伝えたのは、喜びのおとずれでした。けども彼は考えられなかったから、信じようとしなかったし、期待をもって待ち望もうとしなかったし、結果としてこのような態度を取る人は用いられないから、おしになってしまったのです。 いうまでもなく彼はそのあとで主の恵みをまったく違う形でほめたたえる者になったのであります。 ルカの福音書2章の中で、また同じように今度はヨハネの誕生だけじゃなくて、イエス様の誕生についても伝えたのでありますね。 ルカの福音書2:10
御使いはやっぱり一致して、「心配する必要はない。恐れてはいかん。」とよく伝えた者でありました。 天国行くと、私たちは多くのことを知るようになります。ひとつは、生きてる間に心配したのはおかしかった。必要はなかったと必ずわかる。 なんという愚かな者だったと認めざるを得ないことは決まってる。心配する必要はない。ですから御使いはいつも、「恐れてはいかん。」と言ったのであります。 ルカの福音書2:10-11
ひとつの新しい宗教の創設者ではない。世界中の立派な教師でもない。救い主なんです。救いの問題を解決する方がお生まれになりました。 ルカの福音書2:11-12
結局ほかに生まれる場所がなかったのです。 イエス様は初めから、結局受け入れられなかったお方であり、異分子であり、イエス様のふるさとは決してこの目に見える世界ではなかったのです。こういう箇所を見るとわかります。 すなわち御使いの使命は、御使いの働きとは非常に大切なんです。パウロもそれを体験的に知るようになったのであります。 使徒の働きの27章です。彼は何回も何回も喜びのおとずれを宣べ伝えたから、捕まえられるようになったのです。イエス様を紹介したから何回も刑務所に入れられるようになったのです。 あるとき、また捕まえられたとき、「私はローマまで行きたい。カイザルの前に証ししたい。」と言ったから、結局そういうふうになってしまったのです。 けども途中でとんでもない嵐があったのであり、一緒に乗った人々は、276人だったと思うんですけども、みんなもう不安でいっぱいで、もうおしまいだと諦めたようです。 もちろんパウロとは船長さんではなかったんです。捕われの身となった者であり・・けども彼は船長さんよりも力をもつ者となったのです。 いったいどうしてでしょうか。やっぱり神の御使いによって、彼は色々なことを知らせられるようになったのです。 使徒の働き27:23-24
そういうふうに見えていなかったのです。けどパウロは確信をもってそういうふうに証ししたのです。 前に読みましたそのルカの福音書16章のラザロのことについて聖書は次のように言ってます。 ルカの福音書16:22
ラザロは死んで、 ルカの福音書16:22
とあります。結局死んでしまったラザロの霊とたましいは、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれたと書かれてます。 やっぱり御使いたちは色々な使命をもつものであるとはっきり知ることができます。 そしてイエス様が再臨されるときも、信ずる者を呼び集めるものは、御使いであるとマタイの福音書24章に書き記されています。 マタイの福音書24:31
今までちょっとだけ学んできたことをまとめると、御使いが絶えず夜、昼、信ずる者を守ってることを確証できるのです。 最初に引用した聖句、詩篇91篇11節をもう一回読みます。 詩篇91:11
これはひとつのすばらしい約束です。もう一ヶ所読んで終わりましょう。 詩篇34:7
主を恐れることとは守りを意味する。なぜならば、主の使いこそが本当の意味で主を恐れる者を助け出すのであるからです。 ヘブル人への手紙1:14
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